第3章 Ⅲ
「―――――ああっ! もうっ!」
ユナは、床に落ちていた妹カナのお気に入りの人形の髪を引っ張った。
掌くらいの大きさで、可憐な女の子を模した人形は、ユナが怒りにまかせて床に叩きつけても、微笑を崩さなかった。
それがまたユナの鬱憤に火をつけてくれる。
「辞めたい。もう辞めたいっ!」
「今日も、辞められなかったの?」
背後でカナがおそるおそる尋ねた。
「ちょっと、間が悪くてね」
ユナは息を切らせながら、爽やかな微笑を浮かべてカナに振り返った。
世間の荒波を堂々と体感してから、十日の月日が経過している。
毎日、こんな調子で、カナに同じ言葉をぶつけている。
(ああ、こんなんじゃ、駄目だわ。……私)
姉として、幼い妹をこれ以上、不安にさせてはいけない。
「大丈夫よ。すぐに辞めてやるから。もっと、こう何かまともな職場があるはずよ」
ユナは、そそくさと、床に落ちていた前掛けをして台所に立った。
今日も、一見平和に夕飯の時刻を迎えている。
何を料理しようか考える前に、流し台の中から、鍋を探すと、玄関の扉を開けた。
「少し待っててね」
カナにそう言い置いてから、ユナは外に出た。
扉を開けて、少し山道を歩けば、小川が流れている。
自宅に水瓶もあるが、料理をする時は、なるべく新鮮な水を汲むことにしようと、ユナは心掛けていた。
澄んだ川の水を鍋に一杯張ると、自分の平凡な顔が水面に揺れていた。
川の色を橙に染める残照に目を細めながら、ユナは溜息をついた。
仕事のことを考えている。
……雇用条件は、悪くない。
陽のあるうちに、帰宅できる仕事はそんなに多くはない。
休憩時間がしっかりと取れて、残業もなく、週休二日。
贅沢な条件である。
(いや……。でも)
これは、ユナにとって、そういう次元の問題ではないのだ。
早く……。
どうにかして、あの仕事を辞めないといけない。
さすがにユナも自覚をしていた。
どうやら、自分には占いの才能はないらしい。
亡くなった両親は、ユナが占うと「よく当たる」と褒めてくれたが、エルフィスとセルジに言わせると、馬鹿がよく大口叩いて囀っているという程のものらしい。
(恥ずかしい)
素人よりも腕が劣るのに、国立の神殿で占術などやっているなんて、裸で歩いているようなものだ。誰が客になどなるものか……。
ユナを見る周囲の目は冷ややかだし、エルフィスとセルジは毎日のようにやって来るが、冷やかし半分、憂さ晴らし半分といった雰囲気で、要するに馬鹿にする相手を求めているようだ。
ユナはいつも口半分を開けて、「退職」の一言を切り出す機会をうかがっているが、なかなか好機に巡りあえない。
そんなことで、どんどん日数だけが過ぎてしまっている。
(よくも、耐えたものだわ。……私)
ユナが辞めたい理由はそれだけではなかった。
「…………エルフィス」
厄介な問題だった。
エルフィスは、確かに美しい。
男のくせに、女性のようでいて、神殿に置かれている神々の彫刻のように整った中性的な顔立ちをしている。
そして、どういうわけか、いつも傍にいると花の香りがするのだ。
さすが大神官というべきだろうか。
天才が創り上げたまさに神に近いような外見をしている。
それでいて、独身で、第二王子。
女性が放っておくはずがない。
神官だから、結婚は出来ないという話だが、そんなのは国の公約のようなもので、愛人ならば、作り放題だ。
それを、本人が承知しているのか否か、ユナの隣で毎日、延々と繰り返されるのは、道行く女性に対するエルフィスの独断と偏見の評価である。
ユナを女性として意識していないのは、重々承知している。
しかし、毎日エルフィスの好みの女性の傾向を耳元で囁かれれば、絶対的に良い気分はしない。むしろ不快だし、嫌がらせのようだ。
(嫌がらせなんでしょうけど………)
しかも、徐々に下世話な方向に進展しているようで、奥手で、あまり異性に関心もないユナは、どうしたら良いのか分からなくなっていた。
相槌を打つのにも限度がある。
「あのっ! エロフィスがっ!」
怒声と共に、ユナは立ち上がり、駆け足で家の扉を足蹴りで開いた。
「エロフィス、エロフィス!」
言いながら、火打ち石を素早く叩いて火種を作り、薪を敷き詰めた竈の中に放り投げる。
とりあえず、熱湯さえ沸かすことが出来れば、料理の幅は広がってくる。
「カナ。今日も夕飯は山菜のスープになりそうだけど、良いかしら?」
「うん。何でもいいよ」
「カナ!」
従順な妹だ。
ユナは火にかけた鍋の存在など放置して、カナを抱き締めた。
ユナよりも、少しだけくすんだ色の黄金色の髪をぐしゃぐしゃになるまで撫でる。
「可愛いわね、カナ。頼むから、エロフィスみたいな旦那様を連れてこないでね」
「エロフィス?」
苦しそうに顔を上げたカナの柔らかい頬をユナは撫でた。
「変態のことよ。貴方には一生無縁でいてもらいたいものだわ」
「う、うん?」
怪訝そうだったが、カナは純粋に頷いた。
その時……。
初めてユナは、自分の腰に当たるごわごわした感触に気がついた。
「…………カナ?」
ユナは、カナをそっと自分から放した。
「ポケットに何か入ってるの?」
「うん。宝物よ」
「宝物って……?」
カナは、青いワンピースのポケットから、光り輝く銀色の腕輪を取り出した。
「どうしたの? こんな高級なもの?」
「前にお姉ちゃんに言ったよ。貰ったって」
「聞いてないわよ」
「ううん。言ったもん」
カナが強固に言い張るのだから、きっとそうなのだろう。
ユナが聞き逃していたのだ。
(私が仕事にありつけなくて、落ち込んだ日とかに聞いてたのかしら……?)
「誰に貰ったの?」
「お姉ちゃん」
「えっ?」
「施設に来るお姉ちゃんが、くれたの」
「たまに来る、慰安の?」
カナは、昼間、施設に預けている。
ユナはどういう雇用条件であれ、日中は働かなければならないので、都の保育施設に頼み込んで特別に入れてもらっているのだ。
その施設は、カナだけではなく、いろんな境涯を抱えている子供達の支援施設でもあるので、たまに神殿の神官が慰安という名目で「施し」に現れるらしい。
カナは、その神官のことを「お姉さん」と呼んでいる。
もっとも、神官の正装は、袖口が広く、幾重にも衣を纏った女装のような格好なので、カナが勘違いするのも、無理はない。
―――腕輪は持ってきた?
エルフィスの一言がユナの胸に突き刺さった。
(もしかして、これのこと?)
でも、もう今更である。
この期に及んで、ユナが所持していたなんて、申し出るには遅すぎるだろう。
(どうせ、辞めるんだし)
「お姉ちゃん。欲しいの?」
「と、と、と、とんでもない!」
ユナは弾かれたように立ち上がると、脱兎の如く煮立ってきた鍋の前にすっ飛んでいった。




