第92話 猫の日記念SS 猫吸い
マリアベルの愛猫メルティは、薄いオレンジがかった毛色で赤褐色の縞模様を持つ子猫だ。
フィデロ伯爵家で出会って以来、すっかりその愛らしさの虜になっているマリアベルは、今日もお手製の猫じゃらしでメルティと遊んでいた。
小さな毛玉のようなメルティが、猫じゃらしの動く方に飛びついていく姿は、何とも言えず可愛らしい。
帝国での妃教育は王国でのものより厳しくはなかったが、それでも慣れない異国での生活に気疲れしないわけではない。
もちろん婚約者であるレナートがマリアベルを気遣ってくれているが、それでも息抜きをしたい時はある。
そんな時にはメルティと遊んで気分転換をするようにしていた。
「ふふ。メルティは可愛いわね」
子猫の頃からフィデロ伯爵家の庭で走り回っていたメルティはかなり活発だ。
そのうちマリアベルが揺らす猫じゃらしでは物足りなくなったのか、窓の前でお座りを始めた。
マリアベルの部屋は一階にはないのですぐに庭に出ることはできないが、賢いメルティは、そうすればマリアベルが外の庭に連れていってくれることを良く知っているのだ。
「メルティ、外に出たいの?」
マリアベルが聞くと、その言葉を理解しているかのように、メルティが「にゃあ」と答える。
マリアベルはそばに控えている侍女のソフィアを期待に満ちた目で見る。
「ではそのように準備いたします」
有能なソフィアが指示をすると、すぐにもう一人の侍女が部屋を出ていった。
言葉にして伝えなくてもすぐに主人の意向をくんで動いてくれるソフィアに感謝の笑みを浮かべた後、マリアベルはメルティに向き直った。
「いらっしゃいメルティ」
マリアベルが腕を広げると、メルティはすぐにその腕に飛びこんだ。
そして、よく私の言いたいことが分かったわね、とでもいうように満足げに喉を鳴らす。
メルティを抱き上げたマリアベルは、猫用の庭園へ向かった。
広い皇宮の中に猫用の庭園があるのは、もちろん猫好きで知られているガレリア帝国第二皇子リナルドが作らせたからだ。
猫用の庭園というだけあって、植えられているのは低い丈の花ばかりだ。
マリアベルが猫の庭園に着くと、そこには赤や黄色のかわいらしい花に囲まれたベンチに座る黒髪の青年がいて、膝の上や肩に猫を乗せている。
この庭園を造らせた、リナルド皇子だ。
レナートと同じ黒髪のリナルドは、兄弟だけあってレナートに良く似ている。
だがマリアベルの気配に気がついて振り向いた目は、ガレリアの皇室に良く現れるレナートのような深い海の色ではなく、明るいはしばみ色だ。
だからだろうか、リナルドはレナートよりも少しだけ柔らかい印象を与える。
まして猫に囲まれてデレデレしている今の姿からは、とても剣を持ったら比類なき強さを発揮する剣豪には見えない。
「おや、義姉上」
リナルドはマリアベルより年上だが、兄であるレナートの妻であるのだからと、義姉上と呼ぶ。
自分よりも年上の男性にそう呼ばれるのには慣れなかったが、こうしてリナルドやもう一人の弟のアンジェロがマリアベルを尊重する姿勢を見せているので、表向き、帝国でマリアベルを侮るものはいない。
そのことに、マリアベルは深く感謝していた。
「リナルド殿下、ごきげんよう。私もメルティをここで遊ばせてもよろしいでしょうか」
メルティを抱いたままお辞儀をすると、リナルドの目が輝いた。
はしばみ色の瞳が、しっかりとメルティに向けられている。
「もちろんですとも。義姉上のメルティは相変わらずかわいらしいな」
マリアベルとソフィアには懐いているメルティだが、レナートたち男性陣にはあまり懐かない。
気まぐれに懐くことはあったが、基本的にはそっけない態度が多かった。
元々、メルティのようなオレンジの毛並みの猫は、警戒心が強くあまり人に懐かないので、メルティがマリアベルに懐いているのが例外なのだ。
だからリナルドがメルティを構いたくてうずうずしていても、メルティは知らん顔でそっぽを向いていた。
マリアベルはそれでもめげずにメルティを構いたそうにしているリナルドに苦笑しながらも、メルティを地面に下す。
「さあ、メルティ。あなたも遊んでいらっしゃい」
リナルドが来ているのならば、ちょうど良かった。
他の猫たちとも、思う存分遊べるだろう。
リナルドが飼っている猫たちは気性の穏やかな猫が多く、新しくやってきたメルティをすぐに受け入れてくれた。
中でもキジトラの模様の猫は、メルティを妹だと思っているのか、実によく世話をしてくれる。
今も、黄色い蝶を追いかけ始めたメルティを見守るように、そばについてくれている。
マリアベルが目を細めてその様子を見ていると、リナルドが申し訳なさそうに口を開いた。
「申し訳ない。このベンチを譲るべきだとは思うのですが、なにせ猫たちがくつろいでいて動けず……」
リナルドが目線だけで詫びるのに、マリアベルは微笑ましさしか感じない。
「当然ですわ。猫ちゃんたちもすっかり安心しておりますものね」
特にリナルドの膝の上のチャトラの猫は、ぐでんと体を伸ばしていて、膝から足が出ている。
その時、肩の上に乗っていた毛並みの長い猫が飛び降りた。
そしてマリアベルのドレスに頭をつける。
マリアベルはしゃがんでその猫の首元をなでてあげた。
指先に、ゴロゴロと喉を鳴らす振動が伝わる。
「そうだ。義姉上は世界で一番良い匂いを知っていますか?」
「まあ、何でしょう」
きっと皇宮で栽培している薔薇の香りだろうと思っていたマリアベルは、次のリナルドの発言に言葉を失った。
「猫です」
「猫……」
思わず復唱してしまったマリアベルに、リナルドは自信満々に持論を語る。
「猫吸いをご存じですか?」
「いいえ」
初めて聞いたマリアベルはゆるく首を振る。
猫は、吸える生き物だっただろうか……?
そんな疑問が頭をよぎる。
「こうして猫のお腹のあたりをかぐのです。そうするととても幸せな気持ちになりますよ。ぜひ試してみてください」
猫を吸いながらうっとりと呟くリナルドに、マリアベルはなんと答えていいのか分からなかった。
帝国の第二皇子で剣の達人で、レナートによく似た美貌を持つリナルドの妃がまだ決まっていない理由が何か分かった。
でも……、とマリアベルは心の中で呟く。
嫌なことをされたら怒って逃げる猫が、こんな風に大人しくお腹の匂いをかがせてくれるなんて、滅多にないのではないだろうか。
そこには絶対の信頼がなければ、嫌がられてしまって逃げられそうだ。
それにこんなに幸せそうなのだから、もしかしたらとても良い匂いなのかもしれない。
(いつかメルティも猫吸いをさせてくれるかしら……)
他の猫よりもハードルが高そうだが、いつかやってみたいと、マリアベルはひそかに思った。




