旅立ち
空は雲1つない晴天。陽光は真上に登り切る前。遠く森から聞こえるのは魔物の声ではなく鳥の囀りが聞こえた。とても良い日であった。
「それでは今日までありがとうございました。師匠」
「今日までよく頑張ったのじゃ弟子よ」
頭をうやうやしく下げた男は老爺に礼を言った。男は老爺を見下ろすほど大きくなっていた。フードにギリギリ収まるほどの大きさのワイバーンは男の頭へとぺたりと張り付き、クリクリとした円らな瞳で老爺を見ていた。
暫くの静寂ののち男は耐え切れなくなったのか吹き出した。そしてそれにつられたように老爺も吹き出す。その光景を不思議そうに首を傾げながら見ていたワイバーンは楽しそうに鳴いた。
「ダメだな。最後はきちっと締めねぇといけねぇかなって思って呼んでみたけど、違和感がすげぇわ」
「儂も駄目じゃのう。ほれっ、見てみ。サブイボがブワッと出てきおったわ」
腕を男──グレイに見せる老爺──シルバーズは大袈裟にさすって見せた。
今日はグレイの旅立ちの日である。とはいうものの王都で1年、学院に3年間通うだけであるが、シルバーズとグレイにとっては出会ってから初めての別れであった。
2年という月日をこの狭い森の中で争いながらも暮らしてきた濃厚な思い出が頭の中を支配する。
飯で争い、走りまくり、飯を取り合い、剣を振り、飯の量を争い、魔法を覚え、魔力草を食べ。これだけ聞いていれば飯ばかりを食べているように聞こえるが、そこまで記憶に残っているのはグレイにとってもシルバーズにとっても飯時がいつでも大事な時間であったからだろう。
「それじゃあのう。忘れ物はないかい?」
もう何度目かわからない確認がされる。
「大丈夫だって、必要なものは魔法巾着の中に入ってんだろ?」
グレイはそんなシルバーズに言い聞かせるように腰につけた巾着を叩いて示した。
「そうなんじゃがのう」
それでも不安が拭いきれないのかシルバーズは確かめるように何度もグレイの格好を見た。グレイの腰にはレベンディスから貰った魔法巾着ともう一つシルバーズから貰った魔法巾着が腰に付いていた。
「心配いらねぇよ。なんかあったら戻ってくっからよ」
シルバーズの様子など気にした素振りも見せないグレイは自信満々でそう話す。
「そうじゃな。……グレイなら、なんとかなるはずじゃ」
もう心配するのを諦めたのか、それとも納得がいったのかシルバーズは自分に言い聞かせるように呟いた。
「あたりまえだろ!」
それをグレイは聞き逃すことなく、さらに増長する。
「それじゃあ、最後の確認をするぞ」
やっと最後と話したレベンディスだが、グレイはこの最後という言葉の信用性が低い事を知っているため嫌がる顔をする。シルバーズはグレイの表情を無視して話し始めた。
「王都へ着いたらまずレベンディスの家まで行くのじゃよ。そしたら儂が渡した魔法巾着の中に入っている袋を渡すのじゃ。中を見るではないぞ。そして貴族やお偉いさんと対面した時は──」
「──口調に気をつける事」
何度も聞いたシルバーズの言葉を途中からグレイが話す。
「むやみに力を誇示しない事。えーと、あとは……そうだ。命の危機を感じたら逃げ出す事だろ。流石に耳タコだぜ」
聞き飽きたと言わんばかりに重い溜息をつく。
「ちゃんと心に刻むんじゃよ」
シルバーズはそのグレイの態度がさらに心配を加速させるのか、さらに言いつのろうとした。が、
「わーってるよ。あれだろ? 要するに死ぬなって事だろ?」
それよりも先にグレイが話を乱雑にまとめた。
「はぁ、あってることにはあってるんじゃが、要約しすぎているような気がするんじゃが」
「合ってるならいいだろ!? 死んだらなんもできねぇんだからさ」
溜息を吐くシルバーズはグレイの結論にグレイらしさを感じてそれ以上言葉を重ねることをやめて、温かい眼差しを送る。その視線に気づいたグレイは話が終わってしまったことに気付いた。しばしの沈黙がやけに湿っぽくなる。
「じゃあ、俺は行くぜジジィ!! 学院から帰ってきたら直ぐに倒してやるぜ!」
そんな空気を振り切るように、いつものような大きな声を出しシルバーズに別れを告げる。
「ホッホッ、楽しみにしておるでのう」
シルバーズもいつものように笑って答えた。そう、いつものように。当たり前に。日常の一部分を切り取ったような、明日も同じやり取りが行われているのが容易く想像できるやり取りであった。
「チビ、行くぜ!」
頭の上でチビは膜を広げ、羽ばたく。チビは飛び、その足はグレイの腕を掴み。グレイの手はチビの足を掴んだ。
「キュア!」
背中の少し大きくなった羽も羽ばたかせ、グレイの足は徐々に地面から浮き出した。そして飛ぶというより滑空するしながら森の上空をなめるように通過して行った。
「帰ってきたらかのう。あんな表情をしていた少年が今は笑って過ごしておるなんて、誰も信じてはくれないじゃろうな」
シルバーズは出会った時のグレイを思い出した。薄汚れ、栄養の足りなそうなこけた頬。全てが敵だと言わんばかりの眼光。今は人が変わったかのように明るくなっていた。
そのグレイが帰ろうとしているこの場所を……
「儂は、護らなければならないのう」
シルバーズはそう心に誓った。
「ただいま、お父さん」
その言葉が聞こえたのはグレイが王都へ向かってから10日後の昼であった。