file2 「emergency」
『淋シイヨ……答エテ』
ダルイ。ダルイ。ダルイーっ。
頭が重くて痛くて、わずかに火花が散るような痺れが消えない。
「死にそう」
カバンを抱えて温室に向かいながら、私はひとり、うなだれてつぶやいた。
最後の授業が終わると、HRなんて待たずに教室を飛び出してきた。
あの日、三日前に体育館で声を聞いてからというもの、気が緩むと今みたいに、例の「声」が聞こえてくる。
でも、初めての時のように、扉をこじ開けようとする感覚はない。
むしろ、私の隙をみて、声をかけてくるような気がする。
相手が絶え間なく私に何かを発しているのか、それとも、私の隙を見抜くことができているのか、わからないけれど。
頭の中は緊張しっぱなしだし、相手が誰なのか、一時無くなりかけた人間不信も復活しつつある。
「もしかして、ユーレイとか?」
いや、ナイナイ。
そんなんじゃないと、自分自身に首を横に振る。
ユーレイなんかより、生きてる人間のほうが恐ろしいことを、私は知ってる。
それにしても、今は勉強に集中しなきゃいけない時なのに。
独り言の次に溜息をついて、私は足早に温室へと向かった。
温室内に逃げ込めば、どんなに頭のネジを緩めても、「声」は聞こえない。
結界、シェルター、なんでもいいけど、そんな感じ。
悲しみを帯びた哀願に背を向けることに、抵抗がないわけじゃない。
助けを求めているなら、手を差し伸べたいし、出来ることはしてあげたいと思う。
そうやって、いままで香奈や川島くんが「友達」と呼べる存在になったのだから。
でも、今回は違う。
四日前に私のこめかみを突き抜けた何かによって、脳内にできてしまった空洞。修復しきれないそこを通って、呼びかける声は響く。
私が読み取ろうとせずとも、向こうから入り込んでくる。
おそらく、意図的に。
誰が? 何のために?
「うーっ、もう、やめやめ!」
温室に入ると、入り口にカバンを置いて私専用の丸イスを持ち、この時期次から次へと花を咲かせるクリスマスローズの前に座った。
冬の日差しに溶けてしまいそうな、やさしい薄桃色の花が、はずかしそうにうつむいて花びらを広げている。
何本か切って、部室に飾ろうかな。
「今日は少し、暖かくなったね」
花びらに触れようとした時、南海先生の声がして、私は入り口のほうを向いた。
やれやれと少し疲れたように頭を抱え、溜息をつき私に向かって苦笑する。
「先生、HRは?」
「ん? きみと同じ」
「え……いいんですか?」
「あの教室が、こんなに窮屈だとは思わなかったよ」
きっちりと締めてあったネクタイを緩めると、ポケットに手を突っ込んでそばにあった丸イスに座る。
本来、それは川島くんのイスなのだけど、この三日間、こうして放課後やってくる南海先生の定位置となった。
私と先生は顔を見合わせると、思わず笑った。
「ダメな生徒と先生ですね」
「ちょい待ち、俺まだ先生じゃないし」
「じゃあ、ダメな実習生?」
「……そういうの、ヘコむからやめてくれよ」
情けない顔をする先生をちょっとだけ笑ってから、私はごめんなさいと謝っておく。
川島くんは一瞬でいいヒトなんてわかんないって言ってたけど、やっぱり南海先生はいいヒトだと思う。
いつもは担当しているクラスのHRが終わると、少しの間ここに顔を出して、私と他愛ないおしゃべりをしてくれる。
本当の先生みたいに隔たりも感じないし、かといって決して同じ高校生的視点でもなく、香奈が言っていたように、ちょっとオトナな存在なのだ。
南海先生が担任だったら、私だってもうすこし勉強も頑張れたかもしれない。
先生とふたりでいられるこの時間は、とても居心地が良い。
「可愛い花だね」
立ち上がった先生が、私の目の前にあるクリスマスローズに触れる。
「あぁ、今、切って部室に飾ろうと思ってたんです」
「切っちゃうの、可哀相だね」
「……でも、花は咲いたら切っちゃった方が、また次の花が咲くんですよ」
「ふぅん」
首をもたげた花を優しく手のひらで包む南海先生の表情が、言葉の通り悲しそうで。
私はその横顔に息を飲んだ。
優しく力の抜けた笑顔とは対極にある、悲しみの後ろに何かを隠しているような。
不意に彼の瞳がこっちを向いて、私はすぐさま目を逸らした。
「は、鋏持ってきます」
妙に早鐘を打つ心臓に手をあてて、落ち着かせようと立ち上がると、動揺したままあたりを見渡した。
最近は川島くんがあちらこちらに鋏を置いたままだから、きっとその辺に転がってるはずだけど。
「あった」
ちょうど手が届くか届かないかの距離、棚に置かれた鉢と鉢の間に、赤い持ち手の鋏が見えた。
横着な私は、もうちょっと足を進めればいいのに、ぐっと腕を伸ばした。
「あと、ちょっと……」
そう思って、爪先立ちする。
届、いた?
指先に硬い物が触れたか触れないか、その時、頭の中で黄色信号が点滅した。
マズイと思ったときには視界が揺れ、バランスを崩した身体は、重力にしたがって地面に不恰好に落下する。
「桜井さんっ!?」
鉢を道連れにしてはいけないと頭の中ではわかっていたものの、人間、いざとなると必死に何かにすがるのだ。
無様な格好で地面に横たわった私の身体には、ひっくり返してしまった鉢の土が降り注ぎ、空っぽになった鉢が、私の横に転がっている。
「大丈夫?」
「………」
い、い、痛い。
痺れるように痛む腕に、なんとか力を込めて体を起こすと、土がパラパラと地面に落ちた。
そして、目の前で南海先生が堪えきれない様子で噴出した。
「あは…ご、ごめん」
謝りながらも大爆笑してる。
そりゃあ、そうだろうけど。
恥ずかしいやら、情けないやら、制服に付いてしまった土を払いながら、私のテンションは果てしなく下降していく。
鉢の横に無残に転がっているミニバラの株を見ながら、私は溜息をついた。
「大丈夫?」
まだ笑みを含んだ声に、笑えない私は恨めしく南海先生を見た。
屈託のない無邪気な彼の笑顔が、次の瞬間、ふと大人びた微笑に変わった。
「はい……」
頷いた私の頬に、ゆっくりと南海先生の指先が伸びて、私は思わず体をこわばらせた。




