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「アイツ、誰?」
温室から出るなり、川島くんが不機嫌そうに聞いた。
「あ、明日からの教育実習で来てる南海先生。そういえば、一年生を担当するって言ってたけど」
「ふーん。なんか、いけすかねぇ」
温室内で倉田先生とまだ話をしている南海先生のほうを睨んだまま、川島くんが言い捨てた。
「そんなことない。いいヒトだったよ」
「つーか、なんでそんな一瞬でいいヒトなんて判断できんだよ」
「わかんないけど、植物が好きな人に、悪いヒトはいないのっ!」
「……しおり、何ムキになってんの」
川島くんの怪訝な瞳が、160センチに満たない、同じ高さにある私を覗き込んだ。
「えっ……べ、べつに」
そう言って川島くんから目を逸らすと、そこには北原の顔があった。
相変わらず、人が思わず謝りたくなってしまうような威圧感のある冷酷な瞳だ。
付き合うようになってから、たまにその表情が緩むのを見たことはあるけど、基本、コワイ。
クールでカッコイイと周りは言ってくれるけど、整ったきれいな顔立ちは、時として能面のようで冷たさを倍増させる。
私の体が震えたのは、たぶん、外気の寒さだけじゃない。
「じゃあ、俺がいつもどーり世話やっとくからな」
川島くんも寒そうに身を縮めると、そそくさと温室へ入っていってしまう。
ここしばらくの間……私が考査で100位以内に入るまで、部の活動、つまり植物の世話は全て川島くんに任せてある。
っていうか、そうするように、副部長であるコイツ、北原が決めたのだ。
それにしても、今日は特別機嫌が悪いみたい。
「寒いから、早く部室行かない……?」
「そうだな」
返事を聞くと、私は先にログハウスの部室へ向かった。
もともと園芸部は存在しない部で、つい半年ほど前までは、理事長の趣味である園芸のお手伝いをする倉田先生と、自称園芸部員を名乗っていた私だけだった。
それがいつからか北原と川島くんが入部して、気を良くした理事長が、わざわざログハウスの部室を建ててくれたのだけど。
結局のところ部室とは名ばかりで、理事長の隠れ家的住処ともいえる。
冷暖房完備、暮していくのに最低限の電化製品にキッチン、おまけにシャワールームなんてものもついている。
その素晴らしい部室で、放課後勉強するのが、最近の私の日課だ。
「あ……」
部室に入ってから、カバンを教室に忘れてきたことに気がついた。
いつもならHR後に真っ直ぐここに来るのだけど、今日は職員室に呼ばれてたし、ショッキングな出来事の報告に保健室に行って……。
あぁ、また思い出しちゃった。
北原の不機嫌は、もしかして、私の順位を知ってるから?
恐る恐る振り返ると、目が合ってしまい、とりあえず笑った。
「なんだよ」
「えっ?」
「桜井がそんなふうに笑うのは、何かマズイことがあった時だ」
「う……や、あ、あの、カバン、教室に忘れてきちゃったから、取りに行って来るね」
「そんなことじゃないだろ」
……鋭い。
時々、人の意識を読み取れる私なんかより、ずっと、北原のほうがそういう能力があるんじゃないかと思ってしまう。
そして、私はその責めに勝てたことがない。
「あの……」
イスに座った北原の前に、私は思いきってテストの結果表を差し出した。
私が一枚板のテーブルに紙を置くと、少し驚いたようにこっちを向く。
「結果、出たのか」
その表情から、どうやら不機嫌の原因がコレじゃないとわかったけど、今更引っ込みがつかない。
北原の指先が小さな紙を拾い上げ、そこに書かれた無残な結果を見るなり。
眉間の距離が徐々に狭まり、左の口角がぴくりと動いた。
どんよりとしたオーラが北原の全身を包んで、まるで呪うような勢いで私に迫ってくる。
「カバン取りに行ってきま…す……」
小さな声でそう告げて、忍び足で北原の横を通り過ぎようとした。
今日はこのまま逃げ帰ろうか、な。
「待て」
低く、妙に落ち着いた声に、私の体は金縛りにあったように動けなくなる。
「どうせなら、もっと諦めのつくような順位のほうがマシだったな」
褒めてくれることはないと思ってたけど。
自分の目じりがつりあがっていくのを感じながら、北原に視線を送ると、案の定、身も心も凍り付いてしまいそうな鋭い瞳に跳ね返された。
「だけどっ、私だって頑張ったんだから。北原にもらった問題集ももちろんこなしたし、自分なりに勉強だってしたし、お正月の特番も見ないで我慢したし……」
前回の考査から1ヶ月で、ここまで順位を上げたのだ。
担任だって褒めてくれたし、確かに100位以内に入れなかったのは悔しいけど、自分でもすごいことだと思ってる。
まともに北原の目を見れずに、床に向かって文句を言っていると、不意に北原の手が伸びてきて、私は顔をあげた。
「わかってる。よく出来ました」
見下して馬鹿にしてる風だけど、軽くぽんぽんと頭を撫でられると、不本意ながら大人しくなってしまう私がいる。
ちょっとだけ嬉しくて、顔が熱くなる。
「本当にそう思ってる?」
「否定されたいのか」
私が首を横に振ると、もう一度頭を撫でて、ふと笑う。
「じゃ、カバン取りに行くぞ」
「え?」
「忘れたんだろ?」
「……うん」
北原は私に背を向け、ドアを開けた。
もしかして。
「一緒に、行ってくれるの?」
私たちがふたりきりでいられるのは、この放課後の時間だけだ。
いつも一緒にお弁当を食べていた香奈に彼ができてからは、お昼休み、私も北原と過ごすようになったけど、そこには川島くんも一緒で。
放課後だって、その日によって北原は授業や講習があるし、一緒に帰ったこともない。
せめて、この時間は、ふたりでいたいってこと?
そんな期待を胸に、振り返った北原の顔を覗きこむ。
「目を離せば、脱走しそうだからな」
瞳は冷静なまま、片方の口角だけ上げた、シニカルな微笑。
……そうだよ、相手は北原なのに、期待した私が馬鹿でした。
「そんなこと、しないわよっ」
「どうだか」
腕を組んで偉そうに私を見下ろす北原の前を通り、私は先に部室を出た。
甘いモノを望むのをあきらめようとしても、まわりのカップルの様子を見ていると羨ましくなる。
尖らせた唇を緩めて大きく溜息をついた時だった。
「痛っ!」
こめかみを左から右へ、一瞬にして電流が貫くような激しい痛みが襲った。
ぎゅっと目を閉じて両手で頭を抱えると、硬直した身体が小刻みに揺れる。
「どうした? 大丈夫か」
前に傾いていく身体を、北原の手が支えてくれた。
ゆっくりと両手を離し、私は思わず指先を確認する。
まるで打ち抜かれたような衝撃で、ケガでもしていないかと錯覚するほどだ。
何が……起きた?
「桜井?」
名前を呼ばれて我に返ると、心配そうな北原を安心させるために両頬を引っ張り上げた。
「平気。大丈夫、ちょっと急に頭が痛くなって……」
「歩けるか?」
「うん……」
衝撃の余波は、簡単に収束していった。
混乱しかけた脳内も、すぐに平静を取り戻してる。
何か嫌なことでも起きなきゃいいけど。
私の落ち着いた様子を見て、北原は先に階段を降りた。
後に続こうと踏み出した足が、まだ少し震えてる。