婚約者
グレイス・バートン伯爵令嬢には婚約者がいる。
貴族社会で17才なら当然の事である。
彼女は美人で優秀で上品で少し勝ち気な、いかにも貴族令嬢らしい娘であった。
バートン家は領地が海沿いの貿易港を含む土地で領主に商才があったおかげもあり問題無く富んでいた。領主と領主夫人即ちグレイスの父母ともに見識豊かな良識人でありグレイスは愛されて育った。グレイスはおしなべて幸せである。が婚約者の存在が彼女にわずかな影を落としていた。
「お姉様、私そんなつもりなんて全く無かったのに⋯」悲壮な顔で妹が訴えて来る。「ええ、理解っていてよアリス。あなたのせいじゃないわ」グレイスは微笑んで応じた。グレイスには2つ違いの妹がいる。彼女もまた家族に愛されて育ったまともな貴族令嬢だ。
やはり問題はグレイスの婚約者にある。あろう事か彼はグレイスを差置いてアリスに御執心な様子を最近頻繁に見せ始めたのであった。
昨夜はアリスのデビュタントパーティで彼女は父に伴われて出席した。グレイスも婚約者と共に出席していたのだが。
「あの方はお父様があなたの側を離れるのを狙うかの様にあなたに⋯言い方は悪いけれど、その⋯付き纏ってらしたわ」
グレイスの婚約者ライアン・ラッセルは大伯母が皇太后なのを誇る名門侯爵家次男であり金髪碧眼の自他共に認める美青年である。だが“傲慢が服を着て歩いている”グレイスはそう思っていた。
「あんな様子、私困ります。それにお姉様と⋯御自身にだって悪評が立ってしまいかねませんわ。」眉根を寄せて話すアリスの言葉は15才にしては大人ぶって生意気だが的を射ている。
「そうね。でも彼は自身の家系が自慢でそんな程度の噂はなんとも無いと思ってらっしゃるわ。それに容姿にだって大層自信がおありだから自分の横に置いて映える相手はあなただってお思いなのよ。あなたに嫌がられているなんて微塵も御存知ないでしょうし」
アリスは本当に可愛らしい。真ん丸の若葉色の瞳にけぶる金色の巻毛。もう少し伸びるかもしれないが今は小柄で華奢、顔立ちは母に似て目や髪の色合いは父似で可愛くない筈がない恵まれ様だ。グレイスは逆で真っ直ぐな亜麻色の髪だけ母似で瞳はアリスより濃い深緑。顔立ちとわりと長身なのは父譲りだ。すべてがライアンにすれば多少威圧的に見えるのかも知れない。
「何を仰るの!?私よりもお姉様の方が余程素敵なのに!」「ありがとうアリス。でも私は自身を卑下しているのではなく⋯むしろ卑小な価値観でしかものを見られない彼の幼稚さを侮っているのよ」
バートン伯爵家の姉妹は美人と評判だ。人にはそれぞれ好みがあるだけなのだ。
「お姉様はそれでいいの?そんな方が婚約者のままで⋯」「あら?だって学園の令嬢や、ほら⋯あの面食いの従姉妹、バーバラ・ホランにだって評判は悪くありませんわよ。優良物件なんだそうよ」
「ふざけないで下さいませ。上辺しかご存知ないからですわ!」まったく真面目な妹である。
問題があるのは分かっている。グレイスのみならず両親のバートン伯爵夫妻も是正の必要を日々感じているのであった。
シリル・バートン伯爵とその夫人マーガレットはライアンの事では頭が痛い。娘の将来を憂い、折りに触れ虚しい話し合いをしていた。
縁談はラッセル侯爵家から持ち込まれた。5年程前である。次男であるしバートン伯爵家に婿入りし家督を継がせて欲しいとの申入れであった。
国の法は基本男子継承しか認めていなかったし伯爵家には男子は生まれなかった。おおらかな伯爵夫妻は長女が幸福であれば婿に家督を譲る事になんら屈託を感じてはいない。
条件は申し分ないし次男はグレイスと同年であり、マナーのしっかりした上品な美少年だった。グレイスも嫌がる様子は無く婚約は無事成立した。
そう、5年前幼いグレイスと両親はそれこそ“上辺だけしかご存知”無かったのであった。「彼はいったいどれだけ甘やかされて育ってきたんだろうね⋯」バートン伯爵は溜息まじりに言った。マーガレット夫人は苦笑いである。
ライアンの為人は時間をかけて徐々に露見していった。勿論本人に悪気など無い事は解っている。
物越しは柔らかいが何事にも我が通らなければ不機嫌になり周りが気を使う事が当然だと思っていそうだ。伯爵が肝心のバートン家の経営について学ぶ事を勧めても後で後でと話が前に進まない。
「婚約の決定前にもっとしっかりと見ておけなかった私のせいかね⋯」「シリル⋯」マーガレット夫人が眉を下げる。「あるいはもっと以前に気付いてまだ幼いうちに叱っておけば」「でも、それは多分無理でございましたわ。あのヴィクトリア夫人の理解と協力が必要な事でございましょう?」目を伏せた。
「う⋯む。まあ今となればどちらにせよ手遅れかもしれん」
何故なら2人とももう今期から4年制の学園の3年。再来年には卒業でありその後の結婚も見据える時期で今更の婚約の見直しには無理がある。
周りのめぼしい貴族家の子息子女も大概婚約を決めていてお互い次の相手を見つける事は難しい。特にグレイスは不利だ。「ライアン様は傍目には瑕疵がございませんものね⋯」マーガレット夫人は懸念している、グレイス側に嫌なレッテルを貼られかねない。もしそんな事になれば家督を継ぐに恥ずかしくない相手が見つかる可能性は無いに等しい。
では仮にグレイスを諦めてアリスに婿を見つけ家督を継がせるとしたら「アリスの年ならまだ相手はいくらでも見付かるだろうから⋯」マーガレット夫人に睨まれ伯爵は言い足した「いや無論私は娘の嫌がる相手など望んでいない⋯例え侯爵令息だろうとね」
「でもそんな事になったらグレイスが余りに可哀想ですわね」
引退した夫妻と共に別邸で暮らすか?財産分与してやってどこかで孤独に暮らす?それとも格式ある修道院に寄付金を積んで預けるか?宮廷女官⋯
「いや、無理だろう。今の王家はラッセル家の親戚筋に当たるから」駄目だ⋯どうやろうと彼女の幸福な未来など見えない
「やはりライアン様をお迎えして出来るだけグレイスに負担が掛からない様に体制を整えておくのが無難な方法なのかしら」またバートン伯爵夫妻は溜息をついたのである。
王国内にはいくつかの学校があり王都にはグレイスの通う王立学園がある。格式の高い学園で学力もだが殊更家柄が物を言う。高位貴族家の子女が大半で子爵、男爵家の者は寄子筋の高位貴族が優秀と認めた推薦書きを必要としている。
格式が高いが故に少数精鋭で規模が小さく50人前後のクラスが1学年1クラスのみである。ただ専攻する講義にそれぞれ散って行くので皆のクラスメイト意識は薄い。高等部が4年制で中等部が2年制になっている。
6月末が卒業で9月初が入学となり、グレイスは今日から3学年だ。ライアンも勿論同じクラスの在籍である。
中等部は少し離れた場所にあったので今年から高等部進学のアリスとは初めて同じ馬車での登校となる。
グレイスは高等部で起きうるあらゆる揉め事を懸念していた。
学園に通う途中、馬車の中でグレイスは向かいに座るアリスに言った「ライアン様に出会っても出来るだけ無視なさい。パーティでは失礼でも学園ではある程度許されるわ。勉学が本分と言う建前がありますもの」
「分かりましたわお姉様。でも私そんなに心配しておりません。だって女学生の皆様に大層オモテになるんでしょう?学園での承認欲求は充分満たされておいでなのじゃない?」グレイスは生意気な口をきく妹を少し睨みたしなめた「なるたけおとなしいふりをなさいませ」と。
そのライアンを取り巻く令嬢達が結構面倒くさいのだ。
不慣れなアリスを1年の教室に連れて行ったあと3年の教室に入るといつもの様に数人の令嬢に囲まれたライアンがきらびやかに座っていた。
夏休みの間パーティや両家親睦の食事会で数度、顔をあわせたが明らかに今日は数週間ぶりだ。しかしお互い挨拶はもとより目も合わない。彼とこんなに距離が出来たのは高等部に入学した頃くらいからだろうか。
ああ、幼い頃はそれなりに仲良くしていたのに⋯グレイスは心の中で溜息を吐いた。彼の気持ちがこんなに離れた原因は何?私の容姿?でも仲の良かった頃から豹変した訳じゃないし、彼だって少しは良識を持っていそうな物だし⋯まで考えてグレイスは止めた。
だってお互い様だもの。私の心も彼から離れて久しい。妹の指摘は正しい⋯私は本当にあの人と結婚していいのかしら?けれど、けれども⋯
当然、両親と同じ懸念をグレイスも抱いていて自身の事であるから余計行き詰まりを感じていた。
でも賢明なグレイスは世渡り上手な面があり外では屈託を口にせずライアンの傲慢も自分への上からな態度も甘んじて受け容れていた。辛くは無い、だってもう彼には興味が無いから。
「ごきげんようグレイス」同じクラスの従姉妹バーバラ・ホランが声をかけてきた。彼女は子爵家令嬢で頭が良く成績はいつも上位だ。
明るくて気さくでグレイスとは幼い頃から仲良しだった。
彼女の事はかなり気に入っているが途轍もなく面食いで顔の良い〝まぁ彼女目線だが〟男性を見つけてはキャーキャー言いながら報告に来る。のが玉に瑕だ。
だって彼女にも婚約者が居るのに⋯卒業したら少し遠方で6才程年上ではあるが歴とした伯爵の長男に嫁ぐのだ。顔はともかく、とても良い方で凄く愛しているそうだ。だからこそ嫁ぐ前に思う存分“美男めで”を楽しむらしい。いろいろと羨ましい気分でグレイスは答えた。
「ご機嫌如何?バーバラ」彼女はひまわりの様な笑顔で「ご機嫌?凄く良いわ。だって私最上級の美男をこの夏休みに見つけてしまいましたの!」なんだか得意そうだ、つられて笑ってしまう「呆れた。またですの?いい加減になさらないと婚約者の方に叱られてしまうわ」「そんなんじゃないもの!あの方は愛する人美男は鑑賞する物、美しい花や絵と同じですわ」
グレイスはまた呆れて笑った。なんだかその美男さんにも失礼な気がする。
数日後の昼休みグレイスはバーバラと学園のレストランで昼食をとっていた。
ここは学生が使うにしてはかなり値が張るが結構美味である。さすが格式高い貴族校だ。若いうちから肥えた舌を養って良品を見極める力を付けさせる目的でもあるのだろうか?
しかし美味しい物を食べると少しはうさも晴れる気がするし、壁には目を奪われる程美しい令嬢の肖像画も飾られている。
私はこの絵が大層気に入っていつも暫く見惚れてしまう。良い雰囲気だ。
気分も上り益体も無い話題でバーバラと笑い合っていると声を掛けられた。
「グレイス!」
数人の令嬢を引き連れたライアンだった。珍しい事もあるものだが楽しい気分が台無しだわ。心で嘯いてグレイスは笑った。「ご機嫌ようライアン様。何かご用でも⋯」「アリスは?」被せる様に問い掛けられた。「入学したんだろう?まだ不慣れだろうに昼食さえ一緒にとってやらないのか?君には思いやりも無いのか」グレイスにとってもアリスにとっても余計なお世話である。
「妹は妹で頑張っておりますわ。中等部からのお友達もおいでだし高等部からの新しいお友達とも新たな交流があろうかと、私がしゃしゃり出ても⋯」「アリスは気が弱くてとても繊細なんだ!」また被せてきた「気の強い君と同じに考えるのはどうかと思う。彼女は真綿に包むくらいにして庇ってやらないといけない存在じゃないか。君は姉のくせにそんな事も分からないの?」グレイスはうんざりした。「申し訳ございません。留意いたしますわ」謝るふりでこれ以上の言及はさけよう。まったく面倒くさい。
「僕も今、昼食を誘ってあげたんだが彼女は内気だから恥ずかしがって遠慮してしまうんだ。だからこれからは君も配慮を忘れないでくれ」もう既にアリスに絡んだのか?呆れ果てる。でもアリスは上手く躱したようだ「⋯はい」グレイスは短く答えた。
「いろんな事に気を配ってらして素晴らしいですわ!」「ライアン様って本当に優しくてらっしゃるわ」取り巻きの令嬢達は彼をとにかく持て囃す。彼の慢心の助長にしかならないのに。
婚約者でもないただのクラスメイトの女性に家名では無く名前呼びされる。それを許すって問題では無いの?ライアン様!?そしてついでに彼女達はそれとなくグレイスを貶す「あら、もうお話は終わりですの?滅多にお相手して頂いてらっしゃらないのに」「グレイス様お可哀そうですわ。許嫁でらっしゃるのに」
彼女達は貴族令嬢の矜持をどこかに置忘れて来たのかしら?
あ、だから未だに許嫁が見つからない?いや、許嫁がいても彼を狙うのか?⋯何れにしても彼のどこに魅力を見出だしてらっしゃるのかしら?後ろ姿を見送りながらグレイスは思った。
彼が去ってからバーバラが小声で言った。「私、彼が入学した頃に高等部一の美男に認定したの。でも最近取り消したんですの。性格って徐々に顔に現れる物ですのね⋯許嫁のあなたに言うのは申し訳無いけれど」グレイスが小さく笑うともう一言付け足す。「アリスってああ見えて案外グレイスより図太い⋯ですわよ⋯ね?」本当にバーバラは頭が良い。
レストランの出来事から一月経った頃の放課後、学園の馬車止でグレイスはアリスを待っていた。迎えの馬車はもう到着していてグレイスは車中に居たがアリスはいつもよりずいぶん遅れている。
あれからアリスとは週に一度程昼食を共にしていた。ああ言った手前またライアンに何か言われるのも面倒なのでアリスに事情説明してつきあってもらっているのだ。言いたい事もあるだろうし、仲の良い友達と昼食をとりたいだろうにアリスは溜息をつきながら付き合ってくれていた。あれからライアンとの会話は無い。
けれど馬車止から近い学園の通用門近くで当のライアンを見かけてしまった。
珍しく一人だ、いや向かいに男性が居て何やら話をしている。
ライアンが正面でその男性は後ろ姿だ。話の内容が聞き取れる距離ではないが表情は見える。
何か言ってライアンが笑った。嘲るような本当に嫌な笑顔だとグレイスは感じた。
後ろ姿の男性は何も反応せず踵を返した。どうやらライアンの言葉を無視して歩き出したようだ。
グレイスの乗っている馬車に近づくにつれ表情が見えて来た。いや、表情は見えない。なぜなら彼は顔の大部分をその艶のない黒髪で覆い隠していたからだ。黒髪に、身体に合っていない窮屈そうなくたびれた感じの制服、肩幅が広く痩せて薄っぺらい。長身なのがかえってその印象を際立たせていた。
グレイスは彼を知っていた。学園の有名人だ、悪い意味で。
ルーファス・ラッセル侯爵家長男。ライアンのひとつ違いの兄で学園の4年、最終学年に在籍している。
社交界でも良い噂は聞かない。暗く陰湿で怠惰な性格で成績も弟より劣り友達すら居ない。学園の寮の門限時間近くまで毎日街に出て遊び暮しているらしい。とんだ放蕩息子である。
高等部には寮があり、各々の事情により入寮するもしないも自由だ。ラッセル侯爵家の長男は寮で暮し次男は本邸から通っている。
グレイスは何だかいろいろちぐはぐな印象だな、と思っていた。兄弟で住まいが違うのもだが、それより思うのが暗く陰湿な人が毎日街で遊び歩くものだろうか?である。社交界にも両家の交流にも彼は一切顔を出さないから真相は分からない。ただ悪い噂を耳にするだけだ。ライアンとの婚約から5年も経ち彼の兄である人と会話はおろか、禄に顔を合わせた事さえ無いのだ。
グレイスはその事情も噂だが知っていた。
ルーファスは歴とした侯爵夫妻の嫡子、戸籍の上ではそうなっている。しかし実際は亡きフレドリク・ラッセル侯爵とその妾との庶子だと言う、公然の秘密らしい。
ラッセル侯爵はかなり昔に亡くなって彼を実子として育てたのは寡婦のラッセル侯爵夫人ヴィクトリアとフレドリクの実弟パーシーだ。
パーシーは侯爵亡き後ラッセル家の後見に立っている。次男の彼は婿入りし今の身分はバレン伯爵だ。
亡きラッセル侯爵を溺愛していた夫人は生さぬ仲である庶子までも赦し真の実子ライアンと別け隔て無く慈しみ育てた。
なのにルーファスは自身の身の上や出来の悪さを嘆きライアンを嫉み勝手にいじけて手に負えなくなってしまった、と言う噂。
赤児の頃から慈しみ育ててくれた母が例え継母だったと知ったとて、子はそんなに歪むものだろうか?
グレイスには解らない。自身に置き換え考えてみる。私だったら何があろうと絶対に母を裏切らないし、その事で苦しめたり悲しませたりしない。
考えに耽っていたグレイスの耳に明るいアリスの声が飛び込んで来た。
「ごめんなさいお姉様!随分とお待たせしてしまって。お友達と話し込んでいたらつい時間を忘れて⋯お許し下さいませ!」随分と楽しかったらしい。
とりあえず我家は平和だとグレイスは思った。




