第七十一話 天道、是か非か
久秀が長慶の病を知ってからも、天下は無情に歴史を刻み続ける。
永禄五年(1562)八月、伊勢貞孝が船岡山にて挙兵に及んだ。
教興寺の戦いののち、六角氏が京から撤兵して義輝と義興が帰還すると、貞孝は自然、失脚することとなったが、長慶も義輝も、その後の具体的な措置は保留していた中での挙兵である。
処分保留の背景には、伊勢氏庶流の努力があった。
義輝が石清水八幡宮へと退いた際、庶流の伊勢貞助などは貞孝と袂を分かち、義輝とともに京を離れて忠誠を示すとともに、美濃斎藤氏らと連携して六角氏の後背を脅かすための外交を続けていた。
長慶が飯盛城で畠山氏の攻撃に耐える中、六角氏を京に縛り付けることができたのは、彼らの努力あってのものでもある。
その貞助らが貞孝の助命を願っていたのである。
政所頭人復帰は無理でも、貞孝の助命が叶う可能性は十分にあった。
しかし、貞孝はその道を自ら捨ててしまう。
挙兵した貞孝に従う大勢力は、当然無かった。
六角氏も沈黙し、畠山氏や大和の筒井氏らも、彼を助けなかった。
ここにおいて義輝と義興は談合し、その討伐を松永久秀に下命したのである。
「久秀には汚れ役ばかり任せてしまいます」
義興は珍しく、苦しげな面持ちでそう言った。
久秀への配慮というより、伊勢氏を討つことそれ自体への苦悩を抱えているようであった。
「挙兵されてしまっては、止むを得んだろう。お前が気に病むことはない」
久秀はそう言ったが、義興の苦悩はよく理解できた。
貞孝は、天文年間に義輝を見限って三好氏についたが、将軍から見ればこれが一度目の裏切りである。
その時点で、貞孝の立場は三好家と将軍家との間の政治的緊張の上に成り立つものとなっていた。両家が対立している間は貞孝の重要性が高まるが、雪解けとなればその立場は一気に危ういものとなる。
そしてその雪解けを現実のものとしたのは、義興である。貞孝を追い詰めたのは、本質的には義興なのだ。
そのことに、義興は苦しみを覚えているのであろう。
「やはり親子だ。父の優しさを、子もよく受け継いでいる」
久秀はそう独りごちた。
戦乱の中、長慶はその性質に自ら苦しんだが、天下が太平へと向かう中であれば義興のその優しさは、きっと名君の資質となる。
ほとんど願いにも近いそうした想いを抱きながら、久秀は兵を進めた。
京は北山へと押し寄せた貞孝の軍勢を、久秀の軍が難なく蹴散らしていく。
わずか半月で、貞孝の乱は鎮圧された。
もはや三好氏に対抗できる勢力は無く、応仁の乱以来続く戦乱の世は、ここに終結を見るやに思われた。
その見通しに大きな翳りがさしたのは、永禄六年(1563)、六月のことであった。
摂津芥川山城にて、三好義興が倒れたのである。
石成友通からその報せを受け取ると、久秀は激しく狼狽した。
「馬鹿な、なぜ義興が」
典医・半井驢庵の見立てによると病状は重篤で、明日をも知れぬ容態であるという。
友通の報せは危急のものであった。
久秀は大和の動揺を抑えるため、義興の危篤とその後継問題について、諸将に伝えねばならなかったが、その文面には混乱と悲憤がにじむ。
「気も心も消え入り申すように候へども、左様に取り乱し候ては無念と存じ、御跡の儀、馳走申し候へば、それ御いたわしきと存じ候(気も心も消え入るようだが、そのように取り乱しては無念と思う。後継のことをお報せしなくてはならないが、義興のことがいたわしく思われる)」
大和の柳生宗厳(石舟斎)に宛てた書状で久秀はそのように述べ、同じ書状の中には敵が出てくれば戦って討ち死にしたいとまで書いている。
長慶の跡を継ぎ、次代の天下を担うと信じてきた義興が、まさか久秀自身や長慶よりも早く喪われるなど、あってよいことではない。
久秀は取るものも取りあえず、芥川山へと向かう。
久秀が着いたときにはすでに面会も困難な病状であったが、久秀の訪問と聞くと、義興自身が会うことを希望した。
久秀が寝所に入ると、ほとんど消え入るような声で義興は言った。
「久秀、もう少し近くに」
間近に寄ると、目に明らかな黄疸が見られた。
その容態と合わせて見れば、現代医療で言うところの劇症肝炎が疑われる症状であり、救命率は極めて低い。
当時においても、その病の重いことが知れた。
久秀の顔を見つめると、義興は力なく笑う。
「ごめんなさい、こんなことになるなんて」
それはまるで、幼い頃に義興がいたずらをしたときの言い訳のようで、久秀は思わず顔を綻ばせた。
「謝るな、お前は何も心配しなくていい」
助からぬまでも、せめて安心して逝かせてやりたかった。
義興は、久秀の顔を見て安心したのか、ふと気弱な言葉を漏らす。
「これも報いでしょうか。まこと、天道おそろしきこと」
「馬鹿な、お前が何をしたというのだ」
「晴元殿のご子息を討ちました」
義興が言うのは、京での戦いの最中に矢傷を受けて死んだ、細川晴之のことであろう。晴元の次子であり、当時わずか九歳であったという。
その父、晴元も、三月前にこの世を去った。
世情、義興の病を晴元の呪いであると言う者もあった。
久秀はあえて笑う。
「おれを見ろ。お前が天罰を受けるなら、おれなんぞは八度は死んでいなくてはならん勘定だ」
つられて、義興も笑った。
「ふふ、それはそうだ」
それから義興の頬に一筋、涙が伝った。
「久秀、私は……」
言葉にならぬ義興の嘆きに、久秀は頬の涙を拭ってやることしかできなかった。
「泣いていい。そりゃあ、悔しいよなあ」
ひとしきり涙を流したあと、義興は気を失うように眠りに落ちた。
久秀は芥川山の自邸に下がる。
理玖は夫の顔を見ると、張り詰めていたものが切れるように、涙を溢れさせた。
義興が実母と離別してから、理玖は義興を自らの子と同じように、慈しみ育ててきたのである。
その悲しみの深さは、察するに余りある。
涙の中で、理玖は言った。
「代われるものなら、代わってやりたい」
「ああ……おれだってそうだ」
久秀は妻を抱きしめながら、胸の内に怒りとも呪いともつかぬ感情が渦巻くのを、どうすることもできなかった。
天道、是か非か!
そう天に向かって吠え猛りたかった。
長慶、そして義興。
なぜこのふたりなのか?
なぜ今、彼らの命が奪われなければならないのか?
それからわずかひと月あまりの後、義興は卒す。
享年二十二歳。
あまりにも早すぎる死であった。




