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アヤカシ探偵物語  作者: イサシ
第2章 夢喰い
12/32

最終話 兄妹

お疲れ様です!2話最終話です。楽しんでください!


「神島さん?」


 電話の声の主は1時間ほど前に別れた探偵、神島のものだった。だが、彼に電話番号を教えた覚えはなかった。誰から聞いたのだろうか?


「ああ、僕が君の連絡先を知っている理由は聞かないでくれ」

「・・・わかりました」


 彼はこちらの思っている事を予測したように、言ってくる。彼の職業は探偵だ。一、学生に過ぎない自分の電話番号を知ることくらい造作もないことなのだろう。


「それで、どうしたんですか?」


 一時間ほど前に別れたというのに、僕に何のようがあるというのだろう。用

があるなら、先ほど話せばよかったのに。そんな僕の疑問を彼は一言で吹き飛

ばした。


「妹さんを助ける方法が一つだけある」


「えっ!?でも、さっきは・・・」

「ああ、すまない。あれは嘘だ」淡々と彼はそう告げる。

「いや、なんで、嘘なんかついたんですか!」


 頭に血が上り、怒りに任せて怒鳴るが、近くに咲がいることを思い出して、すぐに冷静になる。


「どうしても、小林さんや岩戸くんに聞かせるわけにはいかなくてね」

「どうしてですか?」

「彼女らに危険な目にあって欲しくないんだ」


「危険な目ですか?」その言い方では僕は危険な目にあってもいいと言っているようなものではないか。彼がそんなこと言うだろうか?


「ああ、この方法は危険極まりない。だから、被害者の最も近しい者しか聞かせたくないんだよ。岩戸くんたちに聞かせたら誰彼構わず助けようとするに決まっているからね」


「なんなんですか?その方法って?」僕がそう聞くと、電話越しから、今まで以上に低い声が聴こえてくる。


「君を妹さんの深層意識に入り込ませる」


「は?」突拍子のない方法に理解が追いつかず、思わずタメ口になってしまう。「どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。札を使って君の意識を妹さんの深層意識に入りこませるんだ」


 こちらの混乱もなんのその、神島さんは当然のように言ってのける。


「いや、そんなことできるわけ・・・


 言いかけて、思いとどまる。今日見たこと、聞いたことそれは全て本当の話だった。最早、何が起こったとしても、不思議ではない。


「深層意識に潜り込めば、妹と話すことができるんですか?」


 だから、僕は彼の言葉を信じることにした。方法を聞いたって理解できるわけがない。ならば、その深層意識に入った後のことを考えるべきだ。


「可能だ。獏がいなくなった以上、夢は当人の元に戻るしかない。つまり、君の妹さんの心の中のピースは揃っているはずなんだ。ただ、組み合わせてないだけでね。だから、誰かがそれを組み合わせてあげるしかない」


「組み合わせるって、どうすればいいんですか?」

「説得するしかないよ、元に戻るようにね」彼はあっさりと言う。


 だが、それが一番の難題だった。彼女らは望んで、夢を喰われたのだ。決して、生半可な覚悟での選択ではなかったことだろう。それを説得することが僕にできるだろうか。いや、できなければならないんだ。できなければ、咲はあのままなのだから。


「一応、確認だ。君は下手を打てば、妹さんの意識に取り込まれて、二度と目が覚めない可能性もある。それでも、行くかい?」


 僕の覚悟を見越したのか、神島さんが脅すようにそんなことを聞いてくる。だが、今更、そんなリスクを気にしている僕ではなかった。自分は何も残っていない人形なのだ。ならば、先のことを考える必要などない。むしろ、自分の家族を救うために自分の命を懸けられるのだ。これから長く続く虚無のような人生に比べれば余程、マシな気がした。


「行きますよ、当然じゃないですか」

「そうか・・・」彼はどこか申し訳なさそうに僕の応えに短く返した。


 そのあと、執り行うなら、僕らが見知った場所の方がいいというので、神島さんに僕の家の住所を教えて、来てもらうことになった。ここに来るまで、30分ほどかかるというので、それまでの間、僕は咲のそばを離れず、深層意識の中で、彼女を説得するための情報を集めることにした。本人には申し訳ないが、彼女のカバンや机、スマホ(パスワードは彼女の誕生日だった)を見させてもらった結果、彼女が悩んでいた理由はすぐにわかった。


 よくある理由だった。彼女はレギュラーだった。だから、試合に勝てるよう必死に頑張った。だが、待っていたのは一年はテニスはできないという大怪我だった。それでも、彼女は必死にリハビリに励んでいた。でも、数週間前の大会でた女の代わりにでた娘の活躍もあり、うちの学校は優勝を果たした。


 私の居場所はどこにもない。


 彼女のスマホに書かれた日記は最後にそう締めくくられていた。


 なんだ、これは。兄妹揃って何をやっているんだ、僕らは思わず、渇いた笑い声を漏らす。笑っている僕を不思議に思ったのか、咲がこちらを不思議そうに見ていた。


「お前もそうだったんだな」そう言って、頭を撫でてやる。咲は相変わらずの無表情だった。


「辛かったよな」


 大切なものから、突然、突き放されるあの感覚。冷たくて、鋭くて、心を突き刺すような確かな痛み。それに彼女は耐えられなかった。いや、僕だって、耐えられたわけではない。今も現在進行形でその痛みは僕を突き刺しているのだから。この痛みをいつかは忘れることはできるのだろうか。


 いや、忘れることはないのだろう。時間は痛みを忘れさせるのではなく、押しとどめるだけなのだ。何かの拍子で、痛みは許容量を超えて、僕らの心を蹂躙していくに違いない。


 なら、僕はどうすればいい?僕は野手としてなら、まだ野球を続けることができる。だが、それはあのフィールドで一番高いところから別れを告げるということだ。それを僕は耐えられるのか?


 結局、その答えはでなかった。




「やあ、一時間半ぶり」


 神島さんは約束通り30分で僕らの家へやってきた。どうやってきたんですか、と聞くと、彼はチャリできた、と冗談か本気なのかわからない表情でそう言ってのけた。両親がいないということはあらかじめ伝えておいたので、彼はそれを聞くことはなかった。


「妹さんの部屋へどこかな?」神島さんは玄関で下駄を脱ぐなり、そう聞いてきた。


「二階です」


僕は短く答えて、階段を上る。後ろから彼がついてくる音が聞こえた。


「この部屋かい?」

「ええ」


 僕が先の部屋のドアの前で立ち止まると神島さんは無表情に聞くと、懐からお札を取り出す。


「悪いが、壁に何枚か札を貼らせてもらうよ」

「いいですけど、何の意味が?」

「結界だよ。妹さんの部屋を彼女自身の深層意識に繋げるんだ」

「そんなことができるんですか?」

「できるから、やっているんだ」


 彼はそう答え、咲の部屋の周りの壁にペタペタと札を貼っていく。


「妹さんは説得できそうかい?」彼はこちらを見ず、作業に集中して聞いてくる。


「わからないです」


 彼女が悩んでいた理由はわかった。僕と彼女の悩みは似ている。だから、そこから話していけば、説得できる可能性はあるだろう。


 だが、問題はそこではない。問題は僕にあった。僕もまたその悩みに対する解答を見つけることができていなかった。そんな自分の答えもはっきりしていない人間が誰かを説得させることなんてできるのか疑問だった。僕は不安でその悩みを目の前で作業する神島さんへと打ち明けてみた。


「その答えを教えてあげることはできないな、君は君だからね。だが、ヒントくらいはあげよう。立ち止まって周りをよく見なさい。その答えを君は既に持っているんだから、それで答えが見つかるはずさ」


「あれ?」

「どうかしたかい?」


 そのアドバイスはついこの間、屋上で設楽から言われた言葉と同一のものだった。偶然もあるものだ。


「いえ、似たようなアドバイスをこの間受けたので、ビックリしただけです」


「・・・そうか、良い知り合いがいるね」


 彼は僕みたいに、と冗談めかして最後に軽く笑うと、準備完了だ、と立ち上がる。


「さあ、ここからは君の出番だ」


 彼は大仰にお辞儀をすると、ドアから離れる。


「ドアを開けたらそこは彼女の心の中だ。気をつけろよ、彼女の感情やら記憶やらがなだれ込んでくるぞ」


「はい」


 それに短く答えて、ドアノブに手をかける。だが、まだ言ってなかったことがあるのを思い出し、神島さんに向き直る。


「ありがとうございます、神島さん」

「それは終わってから言っておくれ」


 彼はぶっきらぼうにそう答えると葉巻を吸い始める。うちは禁煙なのだが、特に指摘はしなかった。


 ドアノブを開けて、部屋の中へと足を踏み入れる。


 瞬間、僕の意識はもう僕のものではなくなった。




「ハッ!?」


 意識が戻ると、そこはいつもの妹の部屋だった。ピンク調の色合いに不似合いなテニス関連の用品がとことどころに散らばる。そう、いつも通りだった光景、彼女がああなる前の光景だった。


「お兄ちゃん、妹の私物漁るなんて、サイテー」


 目の前に立つ少女がベットに座ったまま、こちらに軽蔑するような目でこちらを見てくる。ポニーテールに、明るい笑顔、軽蔑するように目を細めているのに、それすらも可愛らしく感じてしまう、その顔立ち。紛れもなく、僕の妹、海原咲だ。


「大目に見てくれよ、それくらい」


 冗談めかして、言ってみるが、余りうまくいかない。ズキズキと頭が痛む。先ほど、意識を失ったとき、僕の頭の中に飛び込んできたのは彼女の心の声、記憶、そういったものが一度に押し寄せてきた。それは予想以上の衝撃を僕に与えていた。


 あれが咲の心の声だったのか。あいつは一人であんなものを抱え込んでいたのか。


 どうして、相談に乗ってくれなかったのか・・・


 いや、それは僕の身勝手というものだろう。彼女は僕を気遣ってくれていたんだ。怪我をして、野球を辞めた僕にこれ以上、負担を負わせたくなかったのだろう。


「お前、怪我してたんだな」

「うん」


咲は僕の言葉に素直に頷くと、突然、立ち上がると、後ろを向いた。


「足首の辺りを、ちょっとね」


「ちょっとじゃないだろ」


 思っていた以上に語気が強くなってしまい、咲はビクリ、と肩を震わせて、こちらを少しおびえた目で見てくると、申し訳なさそうに言った。


「そうだね、大分酷い怪我なんだ。ごめんね、お兄ちゃん。黙っていて」


「謝るなよ、そんなことで。僕はお前の兄貴だ。そんなこと気づいてしか

るべきだったんだ」


 なのに、僕は気がつかなかった。自分の事ばっかりで、彼女のことなんて、ちっとも、考えていなかった。・・・最低の兄貴だ。


「ごめんな、咲。お前が辛い時に俺は何もしてやれなかった」


 だから、今度は間違えない。彼女を現実に連れ戻す。それが今、僕がしてあ

げられる唯一のことだ。


「戻ろうぜ、咲。みんな、心配してる」

「嫌だよ。私は戻らない」


 僕の呼びかけに彼女は後ろを向いたままきっぱりと告げる。


「私のスマホ見たなら知っているでしょ、私がどんなにみじめで無様で、情け

ないか・・・耐えられないよ、あんなの・・・耐えたくないよ、もう」


「ああ、知っているよ。お前がみじめで無様で、どんなに情けないかということを」


 彼女はこちらを見ない。でも、後姿だけで彼女が必死に涙をこらえているのがわかった。まさか、肯定されるとは思わなかったのだろう、嗚咽すらこちらに聞こえてくる。


「そう、だよね・・・私なんかに価値なんて、ない、よね・・・」


 確かに彼女の怪我をしてもなお必死にリハビリする姿は何も知らない人から見れば、みじめで無様で、情けなく、見えるのかもしれない。


 だけど、僕は知っていた。彼女のことなら何でも知っていた。


「違う、ちゃんと話最後まで聞け。でも、それと同時に僕は知っているぞ、お前がどんなにかっこいいのかということも。どんなに必死にテニスをやってきたかということも。どんなに情けなく負けたって、次の日にはまた立ち上がれる最高の妹だということも。知ってるよ。僕はお前のことなら何でも知っている」


 怪我をした時点で野球を諦めた僕と違い、彼女は必死にもがいて、あがいて、立ち上がろうとした。それをただみじめだとか情けないと嘲笑するなんてできるわけがない。


 正真正銘、彼女は僕の自慢の妹だ。


「僕はお前を誇りに思う。お前が妹でよかったと心の底から言えるお前のしてきたことを他の誰かが馬鹿にしてきたって、僕だけは肯定する」


「お兄ちゃん」


 僕の言葉を遮るように咲がつぶやくと同時にやっとこちらを向く。顔は涙と鼻水でグチャグチャで見れたものではない。だが、目を背ける気にはならなかった。それは僕が久々に見た彼女の本当の表情だったからだ。


「どうして、そこまで、私に優しくしてくれるの?」咲はそんなことを言った。


なんて、陳腐な質問なんだ。そんなの、答えるまでもないというのに。


「そんなの決まってるだろ。僕がお前の兄貴だからだ。さっき言ったばかりじゃないか」


 僕がそう言った瞬間、咲はキョトン、とした表情で目を開け口を半開きにした状態で数秒固まったかと思うと、クスリ、と僕に笑いかけた。


「・・・ありがとね、お兄ちゃん。でも、駄目なんだよ、私は・・・テニスをやると苦しいんだもん、痛いんだもん、でも、私やめられないんだよ?今まで、やってきたこと全て無駄になっちゃうと思うと怖くて、怖くて、どうにもならないんだもん。だったらさ、もういっそ、いなくなっちゃた方がいいじゃん」


 それが彼女の本心だった。彼女はテニスが大好きだ。それは間違いない。だが、それと同時に今まさに嫌いになりそうでもある。相反する二つの気持ちが彼女の心でせめぎ合って、精神を磨耗させているのだ。


 ビキッと空間が歪むような音がすると同時に、胸が締め付けられるような痛みが僕を襲う。おそらく、神島さんが言っていた意識に取り込まれるというやつだろう。この空間は神島さんの作り出した結界により咲の意識と直に繋がっているという。つまり、彼女の心が不安定になれば成る程、この空間も不安定なものとなり、崩壊する危険性が増加するということだ。


 もう、あまり時間は残されてない。なら、短時間でその悩みから解放するためには、僕はどうしたらいいか。


 僕は先ほどの咲の本心を聞いて、漸く自身の悩みの答えを得た。


 『立ち止まって周りをよく見なさい、君は答えを得ている』


 設楽と神島さんから貰ったアドバイスが頭をよぎる。


「全くもってその通りだよな」


 結論に行き着いてみれば、何とも単純なことで、こんなことに僕は悩んでいたのかと、思わず笑みをこぼしてしまう。突然、微笑んだ僕に対して、いぶかしむような視線を咲が向けてくるので、ああ、ごめん、と謝る。


「いや、俺たち、本当に兄妹だな、と思ってさ」

「どういう意味?」

「ああ、簡単なことだったんだよ、僕らの悩みなんて。なのに、二人でグダグダ悩んで、みんなに迷惑かけて、そんなところまで似なくていいってのにな」


「だから、どういう意味よ!!」一人で納得している風の僕に沸を切らした咲が怒鳴る。僕はそれを無視して、結論を言った。


「咲、僕は野球を続けるよ、大学生になっても、社会人になっても、一生、僕は野球をやり続ける」


「え?でも、お兄ちゃんもう野球はできないって」


 彼女は予想していなかった答えに驚いたような表情をあげる。


「ああ、もうピッチャーはできないな。でも、野手としてならできる。今まではくだらない見栄でそんなの嫌だ、と思っていたけど、そんな見栄どうでもよくなったよ」


 そう。僕は咲の思いと記憶を見た。それが僕に教えてくれたのだ。関係ないのだ、と。今までの努力が無駄になろうが、怪我をしていようが、そんなことは関係ない。ただ、彼女は必死にもがき続けた。


 その原動力は何か?


 なんで、彼女/僕はテニス/野球を始めた?


 そんなもの決まっていた。


 「僕は野球が好きだ、ピッチャーだとか、バッターだとか、関係なく、僕は野球が好きだったんだよ」


 本当になんて陳腐でありきたりな答えだろう。道徳の教科書にでも、載っていそうな模範回答である。今時、こんなの流行らない。


 でも、それでいいじゃないか、本当の事なんだから。


 僕が野球が大好きだという事実は何も変わらないのだから。


「それを気づかせてくれたのは、お前だよ、咲。お前の思いが、記憶が僕にそれを思い出させてくれたんだ。だから、お前も思い出してくれよ、なんで、お前はテニスを始めたんだ?」


「私がテニスを始めた理由?」咲は不思議そうな顔をする。


 その顔はきっと、設楽や神島さんから見たつい、数時間前の僕の顔と同じものなのだろう。周りの人はわかっているのに、自分だけはわからないで、困惑するような顔。


 僕はどうすれば彼女を説得できる?その問いの答えを僕はようやく手に入れることができた。


「お前はもうそれを知っているんだよ。ただ、気付いてないだけで、

それはお前の周りにあるんだ。立ち止まって、見渡すんだ。そうすれば、きっと、見つかる」


 僕は座り込んでしまった咲に手を差し出す。だが、彼女はそれを駄々っ子のように手を振り乱して、払いのけ、静かに、しかし、激しく叫ぶ。


「わからないよ、そんなの。テニスを始めた理由なんて、私にはもうわからないよ。わからないくらい、もう私の心はグチャグチャになっちゃたよ。現実に戻ったって、また、私はボロボロになるだけだよ」


 結界という名の咲の部屋が端から亀裂をあげて崩壊していく。結界自体がもう役目を終えたというかのようにその速度はどんどんと上がっていくそれに構わず、僕は彼女をまっすぐに見据える。


「だから、いいんだよ、進まなくても。一度、立ち止まろう。一歩ずつ進む事だけが正しいんじゃない。それがわかるまで僕が一緒にいてやる。お前が一番大事なものを見つけるまで僕がそばにいるよ」


 漸く、僕は気づいた。僕が一人でグダグダ悩んでいるなかでも、僕の周りには確かに僕を導いてくれる人がいた。


 なら、今度は僕が彼女を導く番だ。


 涙を流し、座り込む彼女を優しく抱きしめる。その体は細くて、今にも折れてしまいそうだ。


「お兄ちゃん、私、戻るのが怖いよ」


 崩壊していく部屋の中で、咲は不安げに呟いた。僕はその不安を払うように彼女を抱きしめる力を強め、精一杯、力強く言った。


 「大丈夫だ、お前なら。兄妹仲良く頑張っていこうぜ」


 それが僕の最後の言葉だった。


 結界が消えたのか、僕の意識は再び、彼女の意識に入ったときのように一瞬で途切れた。


 10

 

  雲が流れる。


 それを僕は眺めない。授業中で、誰もいない屋上の中心で僕は黙々とバットを振るう。


 あの後、意識が戻り、最初に目にしたのは、咲の泣き顔だった。なんだ、まだ、彼女の意識の中かと思ったが、すぐそばから低く、陰険な声が聞こえて、ここが現実だと悟った。


 そう、僕は咲を夢から連れ戻すことができたのだ。


 彼女はテニス部に復帰して、リハビリに再び励むと言ってくれた。それは酷く過酷で険しい道だ。だけど、彼女はそれでも、もう一度挑戦すると笑顔で言ってのけた。


「私がテニスをできるようになるまで、側にいてよ、お兄ちゃん!」


 彼女がもう一度、元気になってくれて本当に良かった。そう思える表情で彼女は今日も家を出て行った。


「海原、お前、また、サボりか」背後から女性の呆れた声が聞こえてくる。


 振り向くと、やれやれ、といった感じの表情で設楽が腕を組んで立っていた。


「授業受けたって仕方ないですし」

「先生には言ってやるなよ、泣くぞ」

「今の僕にはやりたいことがあるんで」


 何か言いたそうな設楽を無視して、黙々とバットを振るう。


 僕は大学に進学して、野球を続けることにした。幸い、ピッチャーとしてなら地元では割と有名だった僕を見込んで、地元の大学がスポーツ推薦でとってくれることになったのだ。正直、期待に見合った活躍ができるかはまだわからない。


 でも、それでも、また、野球ができる。


 それだけで、今の僕には十分頑張れる理由になった。


「たった、数日で変わるものだな。何かあったのか?」


 設楽がなぜだか、嬉しそうに目を細めて、聞いてくるが、まさか本当のことを言うわけにもいかないので、別になんでもないですよ、と彼女の顔を見ずに言った。


「嘘をつけ、ニヤつきおって」


 設楽はそう言うと、懐からタバコを取り出し、吸い始める。どこかで見た銘柄だな、と思ったらこの間、僕から没収したものだった。


「それ僕のですよね?」

「さあ、どうだったかな?」


 つい、先日もこんなやりとりをしたな、と思っていると彼女に言わなければいけないことがあるのを思い出した。彼女のアドバイスがなければ、きっと咲も僕もこうして生活できていなかっただろう。彼女本人にそのつもりがなくとも、僕は彼女に本当に感謝していた。


「それ、お礼であげますよ。設楽先生」


「お礼?」


「ええ、先生のおかけで助かりました。本当にありがとうございます」


 バットをおき、深々と頭をさげる。彼女の表情は見えないが、さぞ困惑していることだろう。普段、振り回されている分の仕返しをできたと思い、少し勝ち誇った気分になる。


「ふむ、なんだかわからんが、役に立てて何よりだ。だがな、お礼がこのちゃちなタバコ一箱とは随分とけち臭くないか?」


「え、そうですか?」突然の反撃にそんな気分は吹き飛ぶ。


 まあ、確かに命の恩人に対してタバコ一箱は釣り合わないが、でも、僕に彼女が望むようなお礼ができるとは思えなかった。


「安心しろ、大したことではない。ただ、ある部活に入って欲しいだけだ」


「部活ですか?」

「ああ、私は文芸部の顧問をしていたな、幽霊部員ばかりで、困っていたんだ。丁度いいからお前入れ」

「いや、でも、僕、本読みませんよ」

「安心しろ、部員の半分以上は読まないから」


 何のフォローにもなっていない言葉を彼女は言うと、そうと決まれば、善は急げ、とばかりに懐から入部届けを出してくる。


「なんで、そんなもん持ってるんですか?」

「乙女の嗜みだ」

「え?乙女?」

「うん?」

「いえ、なんでもないです」


 彼女の形相に僕がたじろいでいるうちに設楽は器用にペンで入部届けに何かを記入していく。


「さて、これで君も文系部の一員だ。まあ、練習の合間に今度顔を出してくれればいいよ」


 入部届けを僕に奪取されたいためかそそくさと懐に入れると、笑顔でこちらに握手を求めてくる。


「ハァ、わかりましたよ」諦めて、その手に応じる。

「明日辺りいってみます」

「よろしく頼む」


 こうして、僕の周辺の騒動は一旦の幕切れを見せた。妹の咲は再び立ち上がり、僕も将来を決めた。だが、全て解決したかと言われるとノーと言わざるをえない。咲と同様の被害にあった人たちは未だに人形のような状態のままだ。それに小林さんはひどく心を痛めていると泉さんは言っていた。咲と同じようにその人の近しい人間を被害者の心に行かせることはできないのか、と神島さんに聞いてみたが、下手を打てば、人形がもう一つできあがるだけの結果になる可能性がある以上、そうほいほいとできないのだと彼は言った。


 ならば、どうして、僕にはそれを教えたのか、という疑問が沸き起こるが聞いたところで、教えてくれるとは思えなかったので、聞かないことにした。


 今はどうすることもできない。それが悔しくないかと思えば嘘になる。だが、同時に咲を連れ戻すことができて本当に良かったとも思っている。僕は最低の人間なのかもしれない。そんなことまで考えてしまう。結局は自分と周りの人間が良ければそれでいいのかと。


 設楽先生が屋上から出て行ったので、素振りを再開する。


 今は願うしかない。いつか、彼らを導いていく人が彼らの目の前に現れる。そう信じて、今は僕自身の道を進む。


 そんな思いで僕はバットを振った。


読んでいただきありがとうございました!ご意見、ご感想お待ちしてます!

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