フリーター 田仲 前
幼い頃から田仲は、ずっと何かを待っていた。
それがなんであるか、田仲に問われたところでわかるわけもない―――――が、彼は待っていた。
雷に打たれたような明瞭な天啓を。
他の誰でもない、自分にしかできない使命を。
魂が燃え尽きるほどの情熱を。
アニメや漫画、ライトノベルのように、自我を忘れるほど何かが、全てを捨ててもよいと思えるほどの何かが、己の人生にやってくるのを、ずっと待っていた。
人助けかもしれないし、恋なのかもしれないし、仕事なのかもしれない。
特別な力が開花するのでも、誰かが自分の才能を拾ってくれるのでも。
本当に、なんだってよかったのだ。
今はうだつの上がらない理想とはかけ離れた自分の人生だが、きっと何かが起こって、良い方向へ変わるきっかけが絶対にあると、なぜか田仲は思っていた。
されど、22年の月日が流れたものの、田仲の人生は何もなかった。
天啓も、使命も、情熱も――――――高卒後に就職もできずにフリーターとして、仕事を転々としながら、時の流れの早い自堕落な生活に浸かりきって、なにもないという今に絶望していた。
積もっていく孤独と、どうしようもない閉塞感。
若い頃ならまだしも、20歳を過ぎてから、薄々気がついてもいたのだ。
これが、現実だ、と。
そんな時、平日ながら休みの田仲は珍しく朝に目を覚ました。
休みならば絶対に目を覚まさないような時間帯で、また起きたとしてもすぐに二度寝に移行するが、目が冴えたまま眠れずに、ふとテレビを付けた。
そんな時だ―――――隣の市の上空に魔法陣が現れたというニュースを目にしたのは。
どのテレビをつけても、角度が違うだけで、同じ魔法陣を映し出し、田仲が好きな癒し系女子アナウンサーも、堅物の報道リポーターも、空を映して早口でまくし立てている。
パソコンも携帯も、魔法陣としか思えぬ上空の謎の模様の話で持ち切りで、凄い速さで話が流れていくほどだ。
慌ただしく窓を開けて身を乗り出すと、どちらかというと隣の市の境目に近かった田仲のアパートからも、魔法陣が見て取れた。
ぶるり、と田仲の身体が熱く震えた。
これだ!
きっと、これだった!
自分の人生は、今日この日の為にあった!!
今日、自分の人生は劇的に変わる―――――なぜか田仲は、無駄に自信をもっていたが、別に誰に言われたわけでもなく、その非現実さが田仲の好みだった程度の理由だ。
田仲は着の身着のまま、部屋に鍵をかけることすら忘れてバイクに跨り、隣の市に向かった。
市の境に近かったものだから、魔法陣の端っこに十分もせずについた。
携帯の速報を眺めながら、さらに中央部に向かおうと走らせようとした時だった。
魔法陣が輝きだしたのは。
太陽光すら凌ぐほどに眩く、神々しさすら思わせるほどの降る美しい光に、端にスクーターを止めて見惚れた。
なぜかわからないが、直接見ても太陽のように目が痛くはならなかったのだ。
周囲の人間たちも、多くが空を見上げて、声を無くしていた。
どのくらいそうしていたのか、その光の中にいくつもの黒い点が見て取れるようになった。
ドンドン大きくなっていき、それが蠢ている事で動物であることに気が付いた。
無論、田仲だけではなく、人々が逃げ惑う。
なんの前触れもなく、犬のような生物が大量に振ってきたのだ。
一瞬、映画みたいな非現実的な景色に光悦とすらしたが、それが田仲の付近にも振ってきているようで、慌ててバイクを動かそうとして、エンスト。
その間にも迫ってくる落下する生物。
我が身が可愛くて、二度目のチャレンジを諦めて、人のごった返す近くの喫茶店に飛び込んだ。
案の定、落下したのは、エンストした田仲のバイクの後ろ部分で、ぐっしゃりと厚さ数センチまでで、再起不能なのは瞬時に悟った。
「お、俺のバイクが……」
感歎と共につっぷしそうだったが、残念ながら満員電車さながらの店の中では不可能だ。
しかし、田仲の悲劇は終わらなかった。
ビルに当たり、景観のために植えられた歩道の樹木をクッションに生き残ったらしい子馬ほどの角の生えた犬が血塗れの状態で暴れていた。
歩道の樹木は倒れ、そのまま電線をぶったり、遠くでもバチと嫌な音がした。
多くの人々が襲われ、血を流し叫んでいる。
一気に混乱に塗れた店内から弾かれたように逃げ出し、その波に飲まれて田仲も咄嗟に、人込みの中を逆らわずに走り出した。
背後で上がる悲鳴、敵意むき出しの犬の咆哮。
――――――死にたくない。
田仲は生存本能のまま、多くの人々と同じように安全な場所を探し、逃げる―――――はずだった。
「いぁああ!!マナブぅうう!!」
幾つもの悲鳴の間に紛れて、己の名前を呼ばれて、弾かれたように田仲は振り返った。
知らない女の声だ。
すぐに自分が呼ばれたわけではないと知った。
逆の方向を向いているため顔は見えないが40代ほどの女が引き摺りながら、必死に手を伸ばすが流れる人込みを強引に横切ろうとしている。
母親なのだろう。
視線の先には、小学生低学年ほどの少年。
迫りくる、角の生えた犬。
その体格差は一目瞭然で、たぶん少年は犬の一撃も耐えることはできまい。
目の前で起きている血生臭い惨劇に、ガクガクと哀れなほど身体を震わせているが、恐怖に足が動かないのだろう。
ただ同じ名前の少年が死ぬかもしれないだけだ。
他にも犬によって、既に大勢の人が犠牲になっているし、田仲は何かを待っていたが、別に死にたいわけじゃないのだ。
むしろ死にたくない――――――死にたくはないが、田仲の足は人込みを逆らいだしていた。
人が途切れたと思った時には、最後尾だった。
自他の血で朱色に染まった角の生えた犬は、一番近い少年を睨みつける。
びく、と大きく少年の身体が跳ねた後、そのまま少年は地面にへたり込んでしまった。
「っ―――――う゛わぁあああぁあああぁぁぁああああっ!!」
裏返り、我ながら情けない雄叫びだった。
これがお茶の間のヒーローもののアニメの主人公だったら、失笑モノだっただろうと田仲自身は思ったが、少年から注意を反らすには十分だった。
死にたくない―――――死んでしまったら、すべて終わりだから。
武器も何もない身一つで、飛び出した。
無謀以外の何物でもなく、眼前の角の生えた犬の足が残像しか見えないほどの速度で田仲に振り下ろされた。
田仲は車に弾かれたことはないが、それくらいの衝撃があったのだろうと思った。
どんっと重く強烈な当たりと共に足元が浮き上がり、馬鹿みたいに数メートルは吹っ飛んでいった。
電柱に当たり、枯れ木を踏んだような音が内部から聞こえる。
どこかしら折れたのだろうが、全身のどこもかしこも痛くて、どこが折れたのかすらわからない。
辛うじて電柱を支えに立っているが、いつ倒れても可笑しくない。
一瞬、意識を遠のかせたものの、ばち、ばち、と田仲をせかす様に、弾けるような音が近くでなって、目を開ける。
黒い蛇がのたうちまわっているのかと思ったが、先ほど落下してきた時に強引に千切られた電線だった。
「―――――マナブっ!」
悲鳴に顔を上げると、ぼんやりとした視界に、再び歩き出す角の生えた犬―――――――その先はようやく到着した母親が少年を庇うように身に抱く姿だ。
田仲は、物心ついた時から、ずうっと待っていた。
雷に打たれたような明瞭な天啓を。
他の誰でもない、自分にしかできない使命を。
魂が燃え尽きるほどの情熱を。
されど我が子を庇う母親の姿は、田仲が待っていた、そのすべてのモノを持っていて――――――――もっと、素晴らしいものを持っているように思えた。
極平凡な母親なのだろう。
だが田仲が成りたかったヒーローの輪郭が見えた。
それの姿に鼓舞されたかのように、存外太く重たい電線を握りしめた。
死にたくはない。
でも。
「――――――――ぁ、ぁあああ゛ああぁぁぁああ゛ああ゛あ!!!!!」
田仲は生れたての子供のように咆哮した。
もう一歩たりとも動けないけど、まだ喉はやられていなかったから、ありったけの敵意を込めて角の生えた犬に咆哮した。
口の端から、だらりと涎が垂れた感触があったが、それが血であることすら田仲は気が付かなかった。
足を止めた角の生えた犬は唸りを上げて、此方へと方向を変えた。
ばちばち、と叫ぶ千切れた電線を。
田仲は、手にして。
【20××年、3月19日:市内、空門落下物対応署、第二小会議室】
「わかっているのか!あの【異能】は危険すぎる!」
SFDの制服に身を包んだ軍人風体の男が、声を張り上げた。
元々教官職であったせいか、軍人風体の男は怒声を上げているつもりはないのかもしれないが、不思議と良く響き、防音でなければ、二部屋先立って聞こえただろう。
常人ならば、足を竦ませていたに違いない。
だが、彼女は微動だにせず、男を真っ直ぐ見つめ返した。
男の言い分は、彼女にだってよくわかっている。
発見が遅れたものの【Case:JP2-049】の【異能】は、たぶん現在ある中でも『新系統』であると、研究者たちの見解は固い。
それだけの稀少性で現在は能力値は低く扱いきれていないが――――そのおかげで発見に至ったのだが――――【異能】の成長の要因は様々あるが、大きく分けて魔物との戦闘、使用回数である。
厄介な事に【Case:JP2-049】は後者でも成長する。
徐々にであるが力を増しており、発見時は強い静電気程度のモノだったようだが、現在は小型の電子機器の破壊や、入浴時の感電などが頻繁に起きている。
つまり、この先【Case:JP2-049】が恐るべき脅威となる可能性は少なくない。
無論、今までの【異能者】とて、国家の脅威となる可能性はあったが【Case:JP2-049】の能力は群を抜いている。
未知数すぎて、SFDでも議論され、意見が真っ二つに分かれている。
このままLV3の監視体制を一生続けるか。
それともSFDで飼い慣らすか。
ただ【Case:JP2-049】の生き方や人柄に対して危機感を持つ者がいるのだ――――それが、目の前の軍人風体の男である。
「まあまあ、落ち着いてください」
小太りのサラリーマン風体の温和そうな男が微笑みを浮かべて、軍人風体の男を制する。
彼女の上司である人材発掘部隊【コスモス】を立ち上げた岡野だ。
「たしかに鬼頭さんの言い分もわかります」
「だったら!!」
「ですが、それは【異能】がなかったにもかかわらず命を懸けて他者を救った事実と、現在まで【異能】で罪を犯していない事、なおかつ自分の能力を出さない様に絶縁手袋を使用していることは含まれますか?」
岡野の言葉に、軍人風体の男・鬼頭が沈黙する。
「我々は日本の未来の為、戦っています―――――戦わねばなりません。しかし【異能】だからと無理やり戦闘員として引っ張ってくることも、【異能】だからと排斥するというのも、違うと思うのです。それを続ければ、日本はいずれ【魔物】以外の敵を作ることになるでしょう」
静かに耳を傾けていた鬼頭は、こつりこつりと幾度か指先で机を叩きながら、岡野の言葉を噛み砕いているようだった。
どちらも正しく、間違いではないからこそ、悩むのだろう。
日本の危機は【魔物】が降るたびに増していっている。
一人でも多くの戦闘員が必要であるが、ぬるま湯に浸かりきった日本人が、あの惨劇と立ち会った人々が立ち上がるかといえば、それは別の話なのだ。
かといって強制すれば、牙を向く。
それでも彼女は最後まで【Case:JP2-049】を守るために動き続ける――――できることなら、更に言うならばSFDの安全な部署においておきたいのだ。
能力が露呈すれば、善人ではない者達に狙われる可能性が非常に高い。
【Case:JP2-049】の【異能】は、犯罪に多用できるからだ。
たとえ彼自身が嫌がったとしても、脅されてしまえば、やらざるえないだろう。
そうなる前にSFDで保護できれば、犯罪者に狙われる確率はぐっと低くなり、なおかつ誘拐されたとしても、SFDの特殊部隊を出動させることができる。
「……今年中にスカウトできなければ、わかっているな?」
鬼頭は呻くように呟いて、溜息をつく。
深く頭を下げて、彼女は再び【Case:JP2-049】のスカウトに向かった。
彼女は【Case:JP2-049】を守らねばならない―――――いいや、【Case:JP2-049】を見捨てるという選択肢が最初からないのだから。