第1話 社畜、異世界に放り出される
冷蔵庫の扉を開け、紙パックの牛乳を取り出す。
コップに注いだ白い液体を、佐藤任三郎は一定のペースで喉へ流し込んだ。冷たさが食道を通って胃に落ち、ようやく脳の芯が起き始める。時計の針は午前六時四十分を指していた。昨日の帰宅が午前二時を回っていたことを思えば睡眠時間は四時間ほどだが、身体の重さに意識を向けるのは時間の無駄だった。
飲み終えたコップを軽くすすいで水切りかごに置き、洗面所で身支度を整える。短く整えた髪に櫛を入れ、鏡の中の顔を確認した。彫りの深い顔立ちにはうっすらと疲労の影が落ちているが、アイロンのかかった白シャツに袖を通し、仕立ての良いスリーピーススーツのベストのボタンを留めれば、外に出せる状態にはなる。
革鞄を手に部屋を出た任三郎は、駅へ向かう道すがら、雑居ビルの裏手にある指定喫煙所へ立ち寄った。
朝の冷えた空気の中、ケースから取り出した紙巻き煙草に火をつける。深く吸い込み、肺を満たした紫煙をゆっくりと吐き出した。立ち昇る煙が白んだ空へ溶けていくのを眺めながら、今日の業務スケジュールを頭の中で組み立てる。
午前中に月次決算の修正確認、昼から営業部が持ち込んだ契約書の条項チェック、午後は総務から回ってきた備品発注の承認と、監査法人へ提出する資料の最終確認。どれも本来なら分担されるべき業務だが、今の部署でそれらを滞りなく回せる人間は限られていた。
短くなった煙草を灰皿に揉み消し、任三郎は駅の改札へと足を向けた。
★★★★★★★★★★★
「佐藤君、悪いんだがこれ、今日の十五時までに数字を合わせてもらえるかな」
始業から二時間が経過した経理部のフロアで、デスクの上に置かれた分厚いファイルを見下ろし、任三郎はわずかに眉を動かした。
声をかけてきたのは営業部の課長だった。ファイルの中身をぱらぱらとめくれば、領収書の添付漏れや、使途不明の仮払金が並んでいるのが一目で分かる。
「課長。この案件の精算期限は先週の金曜日だったはずです。それに、三ページ目の仮払金、明細が一行もありませんが」
「いやあ、担当の奴が昨日から急に休んでしまってね。上の承認を通すのに、どうしても今日の会議までに経理の印が要るんだよ。君ならすぐ片付くだろう?」
課長は愛想笑いを浮かべたまま、ファイルをデスクの端へ押し込むように置いた。
「片付くかどうかではなく、明細のない支出には印を押せない決まりです。先方の納品書か、最低でも発注時の稟議書を出してください」
「そこをなんとか頼むよ。営業の現場もギリギリで回してるんだ。数字の辻褄なんて、経理の方でうまく作っておいてくれればいいからさ。頼りにしてるよ、主任」
それだけ言って、課長は早足にフロアを出て行った。
周囲のデスクからは、同僚たちが関わり合いを避けるようにパソコンの画面へ視線を落としている気配が伝わる。任三郎は小さく息を吐き、押しつけられたファイルを引き寄せた。
誰かが手を抜いた尻拭いを、誰かがやらなければならない。ここで突き返せば会議が止まり、結局は差し戻しの手続きで自分の手間が倍になるだけだ。内線電話の受話器を取り、倉庫の納品記録を管理している部署の番号を叩きかけた、その時だった。
足元の床が、ふっと抜けたような感覚があった。
地震かと思った瞬間には、蛍光灯の白い光も、オフィスに響いていたキーボードの打鍵音も、空調の低い唸りもすべて消え去っていた。
視界が強烈な白に塗り潰され、耳の奥でキィンという高い耳鳴りが響く。指先に触れていた受話器の感触が消え、代わりに足の裏が何か硬くザラついた地面を踏みしめた。
眩しさに細めていた目を開けると、頭上には見たこともないほど高い青空が広がっていた。
ビル群に切り取られた東京の空ではない。視界の端から端まで遮るもののない、広大な空だ。乾いた風が吹き抜け、草と土の匂いが鼻腔をかすめる。
「……えっ。なにこれ、どこ?」
すぐ近くで、若い女性の声が上がった。
任三郎が視線を向けると、数メートル離れた草むらの中に、ブレザーの制服を着た女子高生が尻もちをついていた。明るい茶色の髪を揺らし、通学カバンを胸に抱えたまま、きょろきょろと周囲を見回している。小柄な体格に少し丈の短めな制服スカート、強気そうな眉と大きな瞳には、どこか生意気そうなエッジと強い意志が覗いていた。
任三郎は無言のまま自分の身体を見下ろした。
着ているのは先ほどまでのスリーピーススーツ。革靴のままで、左手にはどういうわけか、デスクの脇に置いていたはずの自分の革鞄を提げている。内ポケットに手を入れれば、財布と手帳、ペン、そして煙草のケースとライターがそのまま残っていた。スマートフォンを取り出して画面を点けてみたが、アンテナの表記は『圏外』になっており、時刻表示だけが午前十時十二分を示している。
「ちょっと、おじさん! ここどこ!? さっきまで私、駅の階段を降りてたはずなんだけど!」
立ち上がった女子高生が、スカートについた草を払いながらこちらへ駆け寄ってきた。少女らしい愛嬌のある顔立ちは驚きで強張っているものの、視線はまっすぐにこちらを捉えている。
「……いえ、階段の下にこんな草原はありませんし、私も案内役ではありませんよ。ついさっきまで会社のデスクにいたところです」
「会社のデスク? え、じゃあおじさんも勝手にここへ来たってこと?」
「そういうことになりますね。どこか痛むところは?」
「え? ああ、お尻はちょっと打ったけど、別に怪我はしてないよ」
少女が自分の手足を動かして見せる。
任三郎は周囲をぐるりと見渡した。なだらかな丘陵地帯に、背の低い草とまばらな木々が広がっている。電柱も、アスファルトの道路も、遠くに見える鉄塔すらない。日本の地方に似た景色にも見えるが、空の色合いの濃さや、遠くの山並みの稜線にはどこか見慣れない異質さがあった。
「私は佐藤任三郎といいます。あなたの名前を聞いても?」
「あ、私、鈴木すず。高校三年生」
「すず君ですね。見ての通り、東京のどこにも似ていませんが、まずは落ち着いて周りを確認しましょう」
「ちょっと待ってよ……これって、もしかして小説とかによくある異世界転移ってやつ? 嘘でしょ、私、今日これから模試だったんだけど」
「模試ですか。それは災難でしたね」
「他人事みたいに言わないでよ! ……あ、ねえ、おじさん。なんか魔法とか使えたりしないの? ほら、こういうのってステータス画面が出たり、手から火が出たりするじゃん」
「手から火ですか。生憎、ライターならポケットにありますが」
「そういうんじゃなくて! ほら、なんか念じてみてよ!」
すずに急かされ、任三郎は片手を軽く前に出し、頭の中で思いつく限りの言葉を念じてみた。ステータス、オープン、ファイア。
数秒間、乾いた風が二人の間を通り抜けただけで、手のひらからは煙ひとつ上がらない。身体の奥から不思議な力が湧いてくるような感覚も皆無だった。いつも通りの、少し睡眠不足で肩の凝った三十歳の肉体がそこにあるだけだ。
「……ご覧の通りです。かすりもしませんね」
「そっかあ。まあ、スーツ着た会社員のおじさんがいきなり手から火を出しても、なんか手品みたいで変だしね」
「手品師にも失礼でしょう。すず君の方はどうですか。気分が悪いとか、何か変わったところは」
「うーん、別にどこも……あ、でもさっきから、なんか身体がすごく軽い気はするかも。遠くの葉っぱまで、なんかいつもよりくっきり見えるっていうか……」
すずは首を傾げながら、足元に転がっていた人の頭ほどもある丸い岩に目を留めた。
そして何を思ったか、しゃがみ込んでその岩に片手を添えると、ひょい、と軽々持ち上げてしまった。
「……あれ?」
すず自身が目を丸くして、自分の手の中にある岩と任三郎の顔を交互に見る。どう見ても二十キロや三十キロはありそうな石の塊を、彼女はまるでバレーボールでも扱うかのように片手で保持していた。
「すず君。私の足の上に落とされると困るので、ひとまず置いてもらえますか」
「あ、うん。えいっ」
すずが軽く放り投げた岩は、放物線を描いて数メートル先の地面に落ち、ドスンという重い音を立てて土にめり込んだ。さらに彼女がその場で軽くジャンプすると、革靴を履いた女子高生の身体が、ふわりと二メートル近い高さまで舞い上がり、音もなく着地した。
「うわ、なにこれ!? 私、めちゃくちゃ力持ちになってる!?」
「……そのようですね。少なくとも、筋力と跳躍力は普通ではありません。ほかにも変化があるかもしれませんが、いきなり全力で動くのは控えた方がよさそうです」
「えー、でもこれなら、変な怪物とかが出てきても私がぶっ飛ばせるんじゃない?」
「素手でですか? 相手が噛みついてきたり、毒でも持っていたらどうするんです」
「あ……それは嫌かも。私、そもそも喧嘩なんかしたことないし」
「なら、戦うのは最後の手段にしましょう。ただ、その力は頼もしいです。いざという時はお願いしますよ」
「うん、そこは任せてよ! おじさん、見るからに体力なさそうだしね」
「デスクワーク専門ですからね。では、お互いの手持ちを確認しましょうか。暗くなる前に、人のいる場所を探さなければ」
任三郎が自分の革鞄を開けると、中に入っていたのはA4サイズのクリアファイル数冊、電卓、筆記用具、そして予備の名刺入れだった。
「電卓に書類、あとは財布に三万円ほどですね。ここで領収書を切る相手がいれば別ですが、あまり役には立ちそうもありません」
「あはは、ほんとに仕事道具ばっかりだね! 私のカバンは……教科書とノートと、ポーチと、あとはお昼に食べようと思って買った購買のメロンパンが一個! あと、ペットボトルのお茶が半分くらい残ってるよ!」
すずがカバンから取り出したプラスチックのボトルと、袋に入ったパンを見せてくれる。
「電卓よりはよほど値打ちがありますね。歩くと喉が渇きますから、今はしまっておきましょう」
「了解。で、これからどっちへ行くの? どこもかしこも草ばっかりだけど」
任三郎は少し離れた場所にある小高い丘を指さした。
「まずはあそこへ登ってみましょう。高い場所からなら、道や畑が見えるかもしれません」
「それなら私、ひとっ走り見てこようか? 今ならすごく速く走れそうだし」
「それで迷子になられたら、私が一人で途方に暮れることになります。携帯も圏外ですからね。少し時間はかかりますが、一緒に行きましょう」
「私が迷子になる前提なんだ? まあいいけど。じゃあ行こう、おじさん!」
二人は並んで草むらを歩き始めた。
革靴で不整地を歩く任三郎は足元に気を配りながら進むが、すずはまるで舗装された歩道を歩くかのように軽やかな足取りで隣を歩いてくる。時折、足元の大きな石や木の根に任三郎がつまずきそうになると、すずがさっと腕を伸ばして支えてくれた。その小さな手のひらから伝わる力は驚くほど安定していた。
「ねえ、おじさんってさ、なんか落ち着きすぎじゃない? 急にこんな場所へ飛ばされたのに」
「騒いで元のオフィスに戻れるなら、いくらでも叫びますが」
「えー、戻りたいの? さっき、会社のデスクにいたって言ってたよね。お仕事、途中だったんじゃない?」
「ええ。十五時までに数字を合わせろと、誰かさんの尻拭いを押しつけられたところでした」
「なにそれ、絶対嫌なやつじゃん! じゃあ、今ごろその人が自分で慌ててるってこと?」
「でしょうね。自分の机に書類を戻す手間が省けたと思えば、少しは気分がいいですよ」
「あはは、性格わるーい! でも、そういうのちょっと分かるかも」
そんな会話を交わしながら十数分ほど歩くと、丘の頂上へ辿り着いた。
吹き抜ける風がスーツの裾を揺らす。任三郎は額の汗をハンカチで拭い、眼下に広がる光景へ目を凝らした。
「おじさん、あっち見て! なんか土が削れて、道みたいになってるよ!」
すずが指さした方角、丘を下った先の平原を横切るようにして、一本の土の道が伸びていた。草が生えておらず、荷車の車輪が通ったような轍が二本、遠くまで続いている。
「本当ですね。車輪の跡があるということは、荷車か馬車が通る道でしょう。辿っていけば、街か村に出られそうです」
「やった! じゃあ、さっそく降りようよ!」
「ええ。……いえ、少し待ってください、すず君」
歩き出そうとしたすずの肩に、任三郎は軽く手を置いて足を止めさせた。
彼女の視線の先、街道のはるか向こう側から、小さな土煙が上がっているのが見えたからだ。
「……ん? あそこ、誰か歩いてきてるね。五人……ううん、六人。鎧みたいなの着てる。槍も持ってるよ」
任三郎には、まだ小さな人影が動いているようにしか見えなかった。
「六人ですか。ずいぶん目がいいんですね。兵士か、街道の警備隊でしょうか」
「じゃあ、あの人たちに道を聞けるね!」
「だとといいのですが。向こうから見れば、私たちは奇妙な格好をした身元不明の余所者です。いきなり走っていけば、槍を向けられかねません」
任三郎はベストの裾を引っ張って整え、ネクタイの結び目を確かめた。
「道へ降りて、向こうから声がかかるまで普通に歩きましょう。話は私がします。すず君は私の少し後ろにいて、もし相手が斬りかかってくるようなら、私を小脇に抱えてでも逃げてください。戦うのではなく、逃げるのを優先です。いいですね?」
「お姫様抱っこでもいいのに。……冗談だよ。うん、分かった。おじさんのことは私がちゃんと守るから、安心して話してきて」
頼もしく頷く十七歳の少女に、任三郎はわずかに口元を緩めて頷き返した。
丘を下り、轍の刻まれた乾いた土の道へと足を踏み入れる。前方からは、陽光に鈍く光る槍の穂先と、革と金属の擦れる音を響かせながら、武装した男たちが一歩ずつ近づいてきていた。




