其の九十弐「妖しく微笑む赤いマスク」
これから語るのは、もしかするとこれから広まるかもしれない
いや、広まってしまうかもしれない「怖い作り話」です。
全部で壱百八話。どれも短い物語です。
しかしその中には、時に背筋に冷たいものが走り抜け、
時にひそひそと誰かの囁きが聞こえ、
時に見てはいけないものが見えてしまうこともあるかもしれません。
そしてひとつだけ、どうしても言っておきたいことがあります。
これらの話は、すべて作り話です。しかし、ただの作り話ではありません。
この話、本当なんです。
私は40代になってから、友人の影響でプロレスを見るようになりました。
それまで私はプロレスとは無縁でしたが、あるYouTubeチャンネルを勧められ、そこから一気にハマってしまったのです。
技の名前も歴史も分からないことだらけの私に、友人が根気よく教えてくれたおかげで、古い時代から現代までのプロレスの流れを、少しずつ理解できるようになってきました。
そんなある日、友人がぽつりと、こんな話をしました。
それは怖い話が好きな私にとって、妙に心を掴まれる内容でした。
「女子プロに、“紅”って覆面レスラーがいるんだけどさ……知ってる?」
紅?女子プロのことはまだあまり知らない私は首を振りました。
すると友人は、この覆面女子プロレスラー・紅について話し始めました。
それはこんなお話。
◇◆◇
紅――。女子プロレス界に、ある日突然現れた覆面レスラー。
赤い能面のようなマスク。
耳元まで裂けた大きな口が描かれたそれは、まるで笑っているように見える。
その異様なデザインのマスクは、初登場の瞬間から観客の視線を奪った。
最初は誰もが「口裂け女をモチーフにしたレスラーなんだろう」と思った。
だが、それはすぐに別の方向の噂へと“変質”していった。
その噂――紅は“モチーフ”ではなく、本物の口裂け女なのではないか、と。
その発端は、紅のデビュー戦だった。
会場は小さな地方体育館。
そこに紅が入場した瞬間、空気が変わったという。
照明が落ち、赤いスポットがリングに落ちる。
そこに、ゆっくりと歩み出てきた紅。
観客席を見渡すその動きは妙に滑らかで、まるで人間ではない何かが覆面を被っているように見えた、と後に語る観客もいた。
試合が始まると、紅は相手を追い詰めるたびに、マスクの口元を指でなぞりながら囁いた。
「私、キレイ?」
マイクを通していないのに、その声は観客席の後ろまで届いたという。
耳元で囁かれたように感じた観客もいたらしい。
さらに奇妙なのは、紅の素顔を見た者が誰もいないことだった。
控室でも、移動中でも、彼女は決してマスクを外さない。
覆面レスラーとしては珍しくないが、その徹底ぶりは異常だった。
だが、あるスタッフが偶然その素顔を見てしまったという。
控室の扉を開けた瞬間、鏡の前に立つ紅がいた。
そのとき紅はマスクを外していたのだ。
スタッフは一瞬、何を見ているのか理解できなかったという。
鏡に映っていた紅の“素顔”は――
マスクよりも深く、耳の後ろまで裂けた口で、にたりと笑っていた。
スタッフは驚き、悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
だが翌日から、そのスタッフは姿を見せなくなった。
退職したのか、辞めさせられたのか、あるいは――真相は誰も知らない。
◇◆◇
紅は華麗な技を持ちながら、どこか人間離れした動きをする。
試合中、相手の背後に“いつの間にか”立っていることがある。
観客の誰もが見ているはずなのに、誰もその瞬間を捉えられない。
ある選手は試合後、こう語った。
「紅と向き合った瞬間、背中が凍った。あれは……人間の目じゃなかった」
別の選手は、紅に負けた後、しばらく試合に出られなくなった。
理由を聞かれても、ただ震えながら首を振るだけだったという。
さらに、紅の試合後の控室からは、時折、誰もいないはずの場所から
「私、キレイ?」
という声が聞こえたという証言もある。
スタッフは怖がって近づかなくなり、紅の控室の前だけ、いつも妙に静かだった。
今夜も紅は、静かにリングへ歩み出る。
観客は息を呑み、相手選手は固唾を飲み、小さく震える。
そしてその場にいる誰もが、心のどこかで同じことを思っている。
――彼女は本当に、人間なのだろうか。
――覆面女子プロレスラー紅は、本物の口裂け女なのではないか、と。
プロレスファンの間では今もこんな都市伝説が囁かれているのだとか。
◇◆◇
「これっていつの話?」
私がそう尋ねると、友人は意味ありげに笑った。
そして、このあとの友人の一言に背筋がゾゾゾとした。
「……もしかしたら、今もどこかのリングに立ってるかもしれないね」
まるで――紅が、今もどこかで「私、キレイ?」と誰かに囁いているかのように。
この話、本当なんです。




