民徳とサロン
関羽達と分かれて、1ヶ月ぶり(自分達としては300年振り)に故郷の遺跡の村に帰って来た。
すると、なんとなく様子が変だった。
村長に「何か変わったことはないか?」と聞いてみた。
「ヨッシー公の町で、何でも、『サロン』なるものが大人気らしいんですわ。」
「それは悪徳なものなのか?」
「全然悪徳ではないですよ。ちょっとした会費は取られますが、言い話が聞けて幸せな気分になれるということで、半分の人間が仕事よりもそちらに夢中になってしまっているのです。」
(全くの油断であった・・・)
ヨッシー公の政策や俺達の協力によって、民は十分な生活を送れるようになっていた。
そのお陰で余裕ができたため、幸せに欲が出てしまったに違いない。
俺の尊敬していた山岡荘八先生は、その小説でこう書いていた。
「人間の姿には、凡そ4つの面がある。その2つは欠点。あとあと2つが、美点であれば上乗の人間で、欠点3に美点1の者が多い。といって、1の美点もない人間は存在しない。」
それなのに、中には、常日頃忍従を強いられ、劣等感を持っているもののいるであろうことを俺は忘れていた。
俺には良く分かっていたが、サロンに行ったからといっても、一時的な高揚感を味わえるだけで、実際には全く幸せになることはない。
(そんなものに金を使っている時点で幸せから遠ざかっている)
実際、サロンに通い始めるようになったものたちは、お金のために、村の外の粗末な木の家に済むようになったらしい。
(これでは魔物がきても助けられないな・・・)
漸く帰ってきたというのに、早速心配事ができてしまった。