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薫る風の声に  作者: 舞山礼実
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第三章 愛を知るとき

第三章 愛を知るとき



告白


有名無実の夏休み。

将来のために勉強もおろそかにはできない。志望する大学に進みたい。それでも、忙しい時間をやりくりして吹部の仲間と少しでも長く一緒に過ごしたい。心も体も飽和状態なのに、更にいろんな思いを詰め込もうとする夏。

凛は制服の下から覗く長い足を太ももまで露わにして投げ出しているが、誰も気に留めない。

「今日の課題曲十回通しには本当に参った。三沢先生、また来週やるって言ってたけど、今のペースだと潰しが間に合わないんだよなあ」

「凛、あまり無理しないでね。あなたのところ一年が多いから」

夏希の言葉は力なく、香音は天井を仰ぎながら頷いている。夏希は始めこそ行儀よく正座していたが、五分と持たずに背骨を丸め、尻を畳に直接つけ、いつものよく通る声はか細い。

「パート練習の教室、エアコン効くようにしてほしい」

香音は扇風機の前に座り込んでテコでも動きそうにないが、台所の方から聞こえる、ずみずしい物が包丁と擦れる涼しげな音に耳をそばだてている。

「お待たせ」

縁側から差し込む西日に大玉スイカの切り口が輝いている。

「響子ちやんと碧ちゃん、本当に疲れ知らずですよね。私、萎れたホウレン草みたいになってるのに、二人ともこのスイカみたいにみずみずしい」

「私も碧も、体力だけはあるのよね」

汁がしたたり落ちんばかりのスイカが、まな板のままで茶の間の座卓に置かれた。扇風機から送られるなま暖かい風が香音の前髪をさらさらとかき上げている。それ以外はスイカを頬張る音だけだ。萎びたホウレン草が生気を取り戻すと、テーブルの上にはスイカの皮が何段にも積み上がった。

そして、性懲りもなく、また部活のことを気にし始めている。

夏休みに入ってすぐ、三澤はサックス講師として宇垣玲子を呼んだ。それから一週間も経たないうちに、ほとんど全部のパートに総勢十名程度の楽器講師がついた。彼らはみんな宇垣の仲間で、自腹で信州伊那まで来ている。

その内の一人、パーカッションの嵐沢は宇垣の同級生で、共に三澤の指導で全国金となった時のコンクールメンバーだ。今は二人とも静岡の大学に通いながら市民オーケストラに所属している。

「嵐沢さん、パーカスは耳と顔で演奏するもんだって言うんだよ。最初、はあ?って皆思ったけど、確かに適度に体の力が抜けて良い感じになるんだよ」

確かに最近、パーカスが使う練習室から美緒や拓のはしゃぐ声が漏れ出ている。

「パート練習は演奏指導はなし、ゲーム感覚の基礎練習と漫談だけ。笑わせてくれるだけじゃなくて、含蓄のある話だったりもするんだよなあ。そうそう三沢先生ネタもあるんだよ」

「それって、生徒の家で泥酔したって言う」

「なんだ、響子もう聞いてたのか」

「うん、美緒ちゃんから。最近おかしいんだよね。多弁でやたらと話しかけてきて」

「ああ、ランナーズハイって感じだよね。心配ないよ。私の経験から言ってそういう時期に開眼するもんだから。実際、叩き方が一皮向けて、拓と良い勝負してるんだよ」

「その、三沢先生の泥酔って言うのは・・」

「そうか夏希はまだ聞いてなかったんだな。気になるよな」

「気になる、凄く。頑固な堅物だと思ってたから」

前の吹奏楽部の女子生徒が、親から無理矢理部活をやめさせられそうになった時、三沢が生徒の家まで出向き、親御さんを説得して思い止まらせたと、そこまでは勇ましい熱血教師の美談だが、その後がいけない。見かけに依らず武骨な男だと親御さんに気に入られ、飲めないお酒をすすめられ、泥酔したうえに二日酔いで、学校にも行けず、その生徒の家で一日介抱される事態になった。嘘か本当か生徒の父親から、まじめな話、娘の婿になんて事になったという話だ。

「その生徒って、宇垣さんでしょ」

「嵐沢さん、はっきりそうは言ってなかったけどな」

「宇垣さん見てたら分かるよ。三沢先生の事が好きでたまらないって感じだもん。そういう生徒思いの先生だったから、教え子さんたちが、宇垣さんだけじゃなくて、大勢、私たちの所に教えに来てくれるんですよね。三沢先生を慕って」

三沢が頑固な堅物であることに違いはない。恋愛対象にされてもされなくても、お酒が飲めても飲めなくても、二日酔いで生徒の家で介抱されようがされまいが、音楽で自分の存在意義を示そうとしていること、生徒あっての教師であると信じ、頑固なまでに教師の本分を果たそうとしている。

「まあ、何にしてもだ、三沢先生を信じてついて行くしかないんだよな。そういう意味では、響子と碧ちゃん、あと夏希以外は顎が上がって周回遅れの失格ってところだな」

「私も、不合格よ。三沢先生の要求する練習量をこなせていないもの。響子と碧ちゃんは本当に疲れ知らずだよね」

「前の学校では、もっと厳しかったから、まだまだ大丈夫」

「毎年全国に行くぐらいの強豪校だもんね」

「うん、それもあるけど、私も碧ももともと体力には自信あるんだ」

「響子のお母さん、お医者さんで、響子も医学部志望だったもんね。医者は体力勝負だって言うからね。お父さんは、何してるの?お医者さんじゃないの?」

凛と香音が口をつぐんで空気が重くなる。響子が片親であることを、夏希にはちゃんと話してなかったのだから仕方がない。

「お父さんはいないんだ。一応音楽家っていうのかな、ピアノとか作曲みたいな仕事をしてると思う。お父さんと言っていいかどうかわからないけど」

本当の事を話すのに躊躇はしないが、何が本当か分からなくなる。自分でもうまく説明できないことがもどかしい。

「音楽家って、香音も知らなかった」

「ううん、全然有名ってわけでもないみたいだったし、私、お父さんの仕事のこと詳しくないんだ。小さいころから家にもあまりいなかったから」

響子はそう言ったきり口ごもるしかなかった。

───私は、父親のことを知らない

知らないのを当然の事として受け入れてきた。芳恵は父親の話を避け、響子も敢えて尋ねなかった。知らないことを受け入れざるを得ない深くて暗い違和感の塊が響子の胸を重くする。

自分では些細なことに頓着しない性格だと思っているから、一度感じた小さなズレをその場で考え込まずに適当にやり過ごし、あとでじっくり考え直してみる。子供のころからそういう生き方を自然にするようになった。その方が自分の人生を生きて行く上で好都合だった。

しかし、今日に限って、違和感の塊は叩いても叩いても、ひょこひょこと頭をもたげ、響子が欲して大切にしていた空間に膜が張る。気まずさが支配する。

「つまんない話して、ごめんね」

自分から謝って、ごまかすことができると思ってしまっている。本当の原因がどこかにあると分かっていても、本当のことが分からないように、これでいいんだと薄めてしまう。


「ただいま、響子、碧いるの?」

母が帰宅したのは夜七時過ぎだ。いつもに比べれば随分と早い。作っておいた、みそ汁を温めなおして、出来合いの総菜を並べただけだったが、家族らしく三人で食卓を囲んだのは久しぶりかもしれない。

「今日もお友達来てたの」

「うん、夏希と凛と香音」

「部活を一生懸命やることに私は反対しないけど、今年は受験だから、そっちもしっかりね」

母親は勉強をしっかりやってから部活もねと言いたかったのだろう。

「うん、しっかりやるから」

しっかりやっているとは言えない。これだけ吹奏楽の練習ばかりしていたら〈勉強なんか〉しっかりやる時間なんてある訳ない。そういうことは全てお互いに分かっていて、交わされる無難なやり取りだと思う。一見無意味のようにも思えるが、響子は口に出して〈勉強なんか〉とは言わないし、母も〈部活なんか〉とは言わない。一定の距離感を保ちつつ、一応伝えるべきことは伝える儀礼のようなものだ。そこそこ良好の関係を続けるために家族でも必要な儀礼はある。

仲の悪い家族ではない。

例えば学校であったことは良く家族で話題にしたりもする。宮北高のおかしな慣習や行事、例えば応援練習では応援歌をたくさん憶えさせられるとか、一日で四十キロ以上歩かされる強歩大会、やたらに気合の入ったクラス対抗の合唱コンクール、吹奏楽部で今年は初めてコンクールに出ることになったとか、仲の良い友達やその家族のことも母親に話した。

芳恵からは勤め先の病院の話もよく聞く。

芳恵が時々話題にする同僚医師の一人が、祐樹の父親であることを響子は知っていた。祐樹との関係に進展はない。あってもなくても母親にはそのことを知られたくはないので黙っている。

他にも、医者の言うことを全く聞かない古参の看護師や、経営重視で現場の声に耳を貸さない院長だったり、クレーム体質の横暴な患者さんのことを話してくれる。

芳恵が病院の近くに見つけたフランス料理店のことも聞いていた。先々月、定期演奏会直前の日曜日、碧の誕生会だからと言って芳恵が予約を入れたのには閉口した。碧の誕生日から二週間は過ぎていた。結局、練習をサボって家族三人でその店に行ったのだが、たまたま香音の家族と鉢合わせして、少しばつが悪かったが、芳恵は香音の両親と打ち解けて話し、響子姉妹と香音姉妹の四人は、吹部の話で盛り上がった。一緒に来ていた香音の父親の会社の人は居場所がなさそうにしていたが、香音が無視を決め込んでいて少し気の毒なきもしたが、。

芳恵は、以前よりずっと社交的で、普通の家庭の母親らしい母親のように見える。そして、普通の家庭に近づけば近づくほどもっと根源的で、決定的な何かがないがしろにされて、そのことには気づかないふりをしていることへの猛烈な違和感、実は仲の良い家族と自分を偽り続けていのではないかという息苦しさが限界を超えていた。

もう、見たくないものに蓋をするのは止めにして、黒い塊の正体を見る、薄めたりしない、しっかり自分の手で掬い取って、凝視してみよう。

どこの家にだって、子供が決して見てはいけない秘密の引き出しのようなものはある。親が知らない間に、こどもがそれを盗み見たりすることだってある。響子は盗み見はしない。今年十八にもなる。大昔ならとっくに大人だし、今でも結婚だってできる年なのだから、家族の秘密を公然と聞いて見るのも悪くない。


「私はどこからきたの

 私を産んだ母さん

 私のお父さんはだれ」


小声だった。小さい声で聞いてみた。本当のところ、それほどの決意でもないから、お母さんが話したくなければ聞かなくたっていい。時計の針を戻して、今言ったことは無しにしてももらってもいい。

芳恵は箸をとめ、自分の手元をじっと見つめている。母親が視界の中心で小さくなっていくような錯覚に陥る。どれほどの沈黙だっただろうか。時計の針はもう戻らなかった。

「そうね……」

やっと口を開いた芳恵はいつもより穏やかに、とても遠くのことを、まるで自分にいいきかせるように話し始めた。



三守天神祭り


夏の終わりは匂いだ。空だきしたやかんを冷ましたあとのようなにおいがすると、夏が終わるなって思う。毎年のように今年は異常な暑さだとか冷夏だとか言われると、温度の何が普通で、どのあたりが夏の終わりなのかが分からなくなる。そういうのはあまりあてにならない。だから、それぞれに夏の終わりの感じ方があっていい。

吹奏楽コンクール東海大会を間近に控えた夏休み最後の追い込み、これもまた、夏の終わりを告げる一つの形だ。地区大会を難なく突破し、県大会は代表二枠のうちの一つを青城学園と争い、県代表を勝ち取った。東海大会では、三校の代表枠のうち全国常連が二校、実質的に残り一枠をかけてしのぎを削る厳しい戦いだ。本番までになすべきことが山積し、終わりが見えてこない。

全く別の夏の終わり方もある。香音の話では、八月のお盆過ぎ、宮山に夏の終わりを告げる三守天神祭りが行われる。江戸時代から続く伝統行事らしい。

夜道に煌々と電灯に照らされて浮かび上がる露店のにぎわいであったり、浴衣を着て友達と夜遅くまで出歩いたり、花火であったり、夏祭りの風情は女子高生の夏のアイコンだと響子は思う。しかし、夏の終わりのお祭りを、告白したとかされたとか、振られたとか振ったとかの青春アルバムの背景の一つとは考えたくない。長い時間をかけて積み上げて来た伝統行事であれば尚のこと、そこに関わって来た沢山の人の思いをないがしろにしてはいけないと思うから、家族であれ、友達であれ、彼氏であれ、響子は大切な人と過ごしたいと思う。


午後の練習が終わった。香音は上半身を音楽準備室の長机の上に投げ出し、夏バテした犬みたいに、胸と腹を密着させて体を冷やしている。体はそのままの場所で口だけが動いた。

「響子ちゃん、わたし、出遅れました」

「なんのこと?」

「部活ばっかりしてて、お祭りに一緒に行く男の子をつかまえておくのを忘れてました」

巷では三守天神祭りの仕込みはとうに終了しているらしい。

「吹部で誰かというわけにはいかないの?」

「ある意味、誰でもいいんです」

「じゃあ、私と行く? 凛も誘って」

「あの、気になってたんですけど、祐樹くんとはその後どうなんですか?」

「その後も何も、今のところ何もないから」

「えー、そうなんですか? 私、響子ちゃんはてっきり祐樹くんと一緒にお祭り行くかと思ってたのに」

「お祭りって、男の子と一緒じゃないと楽しめないってことはないと思うんだけど」

「だって、女子高生ってだけで男の子にちやほやされるのって今の内だけじゃないですか。響子ちゃんもっと楽しまなくちゃ。あ、でも今は部活が一番ですけど」

「何かとってつけたようだね。あ、凛、こっちこっち」

「香音ちゃんと三人で一緒にお祭りにどう」

「せっかく、響子と二人だけで楽しもうと思っていたのに」

「あー、響子ちゃんと凛ちゃんはそういう関係だったんですね」

「冗談だよ、こいつは祐樹とできてるから」

昨日、祐樹から誘われたが、断った。二人きりでロマンティックな雰囲気になって、告白されたりするのは困るし、彼のことは好きかもしれないが、今、関係を確定させてしまいたいとも思っていなかった。

それに、響子には、普通の女子高生のように男子といちゃついたり、夏祭りで浮かれること自体が相応しくないし、その資格もないような気がしていた。

結局、凛と香音と一緒に行く約束をしたが、待ち合わせの時間はとうに過ぎた。もともと時間通りに行くつもりはなかった。遅れて行って会えなければ、迷ったとか言い訳して、一人になることもできると思っていた。

響子は夏祭りぐらいしか着ないような浴衣は持っていなかった。普段着より少しはかわいらしい格好でと思わなくはなかったが、結局上は学校にいつも着ていく制服の白いブラウスで、下は水色のチェックの膝上丈のスカートにのろのろ着替えた。

去年は、由希と碧と三人で近所の神社の小さい夏祭りに出かけた。浴衣を着た由希は本当にかわいかった。響子には、お祭りだからってわざわざ浴衣を着て出かけることにどういう意味があるのか理解できなかったが、その日は少しばかり由希がうらやましかった。帯なんか整った花結びになって、あの優しそうな由希のお母さんが目を細めて、自分の娘に浴衣を着せる光景が響子の脳裏に浮かんだ。

小さいころから夏祭りに浴衣を着せてもらったことなど一度もない。ほとんど碧と二人きりだったので、決して多くないお小遣いを、二人で話し合いながら、出店で買い物をした。といっても決まって買うのは綿あめだけだ。二人で一袋だけ。それでも、二人は夏祭りの雰囲気を存分に味わい、楽しむことが出来た。

外で袋を開けることはせず、家に持って帰って来て、二人で少しづつ何日もかけて大切に食べた。綿あめは、だんだんと萎んで、袋にベタベタくっついたりするが、余韻を楽しみたくて、そうしていた。

いつだったか、まだ小学生の頃に、母親に不衛生だからと断りもなく捨てられた時は本気で泣いた。次の年は、こここそと急いで、それでも三日ぐらいかけて碧と食べた。

響子が小学生三年生ぐらいの時だったと思うが父親がたまたま家にいて、夏祭りに三人で出かけたことがあった。二人だけならお母さんに怒られるから絶対にしないような、射的だとかヨーヨーつりもやらせてもらえて、すごく楽しかったけれど、子供ながらにたいへんな無駄遣いをしたような罪悪感にかられた。母の強烈な擦り込みが原因だったのだろう。


碧はフルートパートの友達と先に出かけて行った。やはり浴衣は持っていないけど、彼女なりに目いっぱいおしゃれをして、部活から帰って、弾けるはように家を出ていった。碧も母からの告白を一緒に聞いたが、そのことで、碧と話をしていない。今は、お互いに避けている。碧は、気にしないそぶりで、響子に気を使っているつもりなのだろう。

携帯に二、三件メールが入っていた。凛たちを心配させないように、支度が遅れているからと返信してから、露店の並ぶ本通りを避けて、宮山楽器のある裏通りを歩きながら芳恵の告白を逡巡していた。

芳恵の告白には不思議と動揺しなかった。心のどこかで、ああ、やっぱりと思った。本当は分かっていたけれど、ずっと、心のどこかで折り合いをつけていたのだと思う。どろどろの黒い塊を給食袋にぎゅうぎゅう詰め込んでカバンの一番底に押し込めていた。今、結んでいた紐が解かれてドロドロがビュービューと噴き出している。

私を守ってくれた給食袋が、今はよごれたままで心の片隅に置かれている。黒い塊は地面に這うように広がり、響子を地面に張り付かせている。

芳恵のことは、真実を知った今でも疑問だらけだ。妻子のある父と付き合い、私たちを妊娠し、生み、ここまで育てて来た彼女の人生はなんだったのか。響子がもう少し大人になって、きちんとした恋愛をすればわかるのだろうか、それがきちんとしたものと言えるかどうかなんて今からわかるわけないが、ちゃんとしているかどうかもわからないなら、恋愛などせずに今のままでいい。

どこで、どの様に父親という男性と知り合ったかなんてことは今さら聞いても仕方がない。ただ、父親は父親、母親は母親なりの人生があったんだろう。

母は人生の脇道で、私たちを産み落とした。ただそれだけのことだ。響子達家族は、わき道を転げ落ちたりはしないように、お互いにしがみつくように生きて来た。そして、これからもそうして生きて行くことに変わりはない。特別な決意とか感慨はない。ただそうしていく。それだけだ。

芳恵の告白を聞いた日の深夜、芳恵と碧が寝静まった後、響子は居間にあるノートパソコンの前に座った。響子は或る思い付きを確信にかえるために。

思い付きが正しかった場合に、自分がどう考えて、どのように行動するかはあらかじめ決めておいた。今は自分への約束がしっかり果たされるように、心の中で何度も反芻して自分の決心を確かめている。

自分の胸のなかにしまっておくという自分との約束

もし響子の思い付きが本当なら、それぐらいの心の準備が無ければ何をしでかすか不安だ。

思えばずいぶん長い事、少なくともこちらに引っ越して来てからと言うもの、ずっとサカムケのままだった。

知らないふりをしていれば、意外に痛みもないが、止めればいいのに、指先から反対方向に向かって思いっきり引っ張って、ときどき剥いてみたりする。その時はものすごく痛いけどサカムケはとれて少し気持ちが軽くなる。でも一週間もすると前と同じところにまたサカムケが出来ている。その繰り返しだった。それも、今日でようやく終わりにできるのかもしれない。

ミツザワイッシン

一文字一文字ゆっくり検索ウインドにタイプした。自分のとるべき行動の正しさをもう一度呑み込んで、リターンキーを静かに押す。


気が付くと、あまり人通りのない通りの端まで歩いて来ていた。電信柱には祭りの提灯が疎らに連なっている。祭りの賑わいからは隔絶されたような寂しさだ。

少し手前の街灯の下には、黒いワンボックス車に手をかけながらビールを片手に三、四名の男が闇をつんざくような大声で面白くもなさそうなことに、無理に声を張り上げ、作ったような笑い声を上げていた。

そちらの方はあまり見ない様に道路の反対側を足早に通り過ぎた時、微かに煙草の煙が鼻先をかすめ、男たちの人影は消えていた。ホッと胸をなでおろして、歩く速度を緩めた、その瞬間、響子は背後に人気を感じ、突然、ものすごい力で上半身の自由を奪われた。

声を出そうとしたとたん、口元には大きなハンカチをあてがわれ、甘い香りが喉の奥に広がる。息苦しさで意識が遠のきそうになりながら、手足をもがき続けるがどうにも力が入らない。膝のあたりを抱きかかえられ、停まっていた車に押し込められながら、街灯に照らされた男たちの顔の中に知った顔を見つけた。

現実に私に起こっていることなのか、悪い夢なのか、響子は必死に体をくねらえせて手足をばたつかせ抵抗するが、意識が途切れがちになる。

ムッとするような狭い車の荷室では、男たちが四方から手足を押さえつけ、無言のまま響子の胸をシャツの上からまさぐっていた。口にはハンカチを押し込められ、声を出そうとすると鼻も塞がれ息ができなくなった。

祐樹くん───

男の一人が乱暴にスカートをたくし上げて、下着に手を掛けようとした時、意識を失いながら祐樹を思った。


鉄さびと香木が入り混じったような何とも言えない良い香り。馴染みのある匂いが、意識の深層にある脳の深い所を刺激している。意識が途切れる直前のことは直ぐには思い出せなかった。部屋は適度の湿気と温度で、響子が横になっているレザーのソファーの横では、扇風機が左右に往復運動を繰り返しながら風を送って、響子の頬を撫でている。

周りをうかがおうと、体を起こしてみると、手足に擦りむいた跡があり、首や背中、体のあちこちが痛む。擦り傷や、軽い打撲はあったが、特に大腿の間にある女性の中心の入り口に異変は感じなかった。

「久見木さん、久見木さん、ああ、良かった、無事で」

サンダル履きで髪を振り乱して三沢が飛び込んで来た。ここは宮山楽器店だった。店主が店の前の異変に気付いて、若い男、三名を相手に大立ち回りを演じ、響子を悪魔の様な男たちから救いだしてくれたのだという。

「黒田さん、本当にありがとうございました。大切な生徒を助けていただいて、なんとお礼を言ったらよいか」

「うちの店の前だったからね。響子ちゃんでしたよね。まさか、宮北の生徒さんだとは思いませんでしたよ。これは警察に届ける前に先生に相談したほうがいいと思いましてね」

「黒田さんは大丈夫だったんですか?」

「二、三発パンチくらっちゃいましたけど、大丈夫ですよ。私、学生時代は合気道やってて、結構強かったんですよ」

男たちは霧散したが、黒田は車のナンバーを控えていた。犯人はすぐにわかるだろう。響子が少し落ち着きを取り戻した後、三沢が詳しい事情を聞くと、男たちの中には知った顔があったというので、宮北高校の生徒だった可能性もある。芳恵へ先に連絡し、警察に届けるのは、校長とも連絡をとってからということになった。

響子は横になったまま三沢の顔をぼんやりと眺めている。三沢はずっと響子の手を握ったままだ。それまでの響子にとって、三沢は担任の先生、吹奏楽部の顧問の先生だった。今、目の前にいる男性は響子が別の思いを抱く特別な存在だ。響子は三沢の手を強く握り返すと、響子はそこかしこ痛む体はお構いなしに、三沢の胸に顔をもぐり込ませ、腕はしっかりと三沢の首を巻いて離さなかった。

「怖かった、怖かったよ、お兄ちゃん」

自分に起こったことを鮮明に思い出し、体の震えが止まらない。押し込められた感情が一緒くたに吐き出される。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん」

三沢は、はじめ少し驚いたような顔をしていたが、すぐに響子の震える肩をしっかりと抱く。響子はいろいろな呪縛から自分自身を解き放ち、胸にあふれる感情の爆発とともに、涙をあふれさせ、こどもの様に嗚咽した。

「もう大丈夫、もう大丈夫だから」

やっぱり、しみこむ雨の様な声だと思った。黒田は、何故かわけしり顔で二人の様子を静かに見守っている。


約束の時間はかれこれ一時間以上過ぎた。凛や香音から心配するメールが何回も来ていたので返信はしておいた。

響子は、芳恵に連絡を取るのを少し待ってもらうことにした。芳恵がパニックを起こして、自分自身が再び動揺するのが怖かったからだ。しっかり気持ちが落ちついてから、芳恵には響子の口から直接話したかった。三沢は響子の気持ちを慮って同意した。

三沢から家に帰って休むように言われたが、一人になるのは心細いし、このまま家に帰ったら、ますます凛たちに心配をかける。響子は三沢に無理を言って、みんなのいる所に一緒に行ってもらうことにした。

黒田に丁寧に礼を言い、ソファーから一人で立ち上がろうとした。すぐには足に力が入らずに、床にへたり込みそうになった所を、三沢に横から抱きかかえられた。ふっと掬い上げられるような浮遊感と三沢のじっとりとした手の平から腕に伝わる皮膚感覚で、響子の全身にびりびりと電気が走った。思わず、その手から逃れようと身を少しよじったが、体に上手く力が入らず、そのまま三沢の両腕に体を委ねた。

「少し楽しい事を考えながら行きましょう」

肩を抱かれ、腕を絡ませて二人で歩く。レイプで処女を喪失したかもしれないという恐怖は凪いでいく。一緒に歩くこの男性が、心の隙間の父親の姿と重なり、傷を癒していくように感じる。三沢が実の兄であることを、胸の奥にしまっておくはずだった。感情に任せて吐露してしまった事で、自分との約束が守られなかったことへの後悔はある。もっとも三沢は虚をつかれたように何のことか未だ分かっていないようだった。いつか、すぐか、遠い先か、真実を知ることがあるかもしれないし、そうならないかもしれない。響子達家族の土台には大きな間違いがあっても、それ込みで絶妙なバランスの上で淡々と生きて来たのだから、今は黙っておけば良い。今の仲間との絆、母親や三沢の生活をないがしろにして、間違いを正す事にどれほどの意味があるというのだろうか。しかし、この瞬間だけ、愛おしい家族であるべきこの人にぴったりと肌を寄せ、体温を自分の中に取り込み、二人だけがいる閉じた空間で同じ空気を吸っている幸せを自分だけのものにできればそれで十分だ。響子は上気した顔を見られない様に、うつむき加減で、三沢に肩を抱きかかえられながら、できるだけゆっくりと歩いた。

「先生、コンクール、どう思いますか?」

「今、その質問ですか。まあ、久見木さんらしいですね」

先生と生徒の会話に戻ったことが少し口惜しい。

「うまくいっていると思いますよ。久見木さんはどう思いますか?」

「東海地区がどれぐらいのレベルかわからないので、なんとも」

「全国出場が一番大切なことではないですから、それは、いいんじゃないですか」

「そうですね」

「あなたにとって一番大切なことは、届けたい人に自分の最高の音を届けること、でしたよね。できそうですか」

一旦飲み込んだ言葉があった。

───今の私には、誰にそうしたいかがはっきりと分かる。

「はい、大丈夫です」

三沢は、いたるような笑顔とあの心に沁み込む様な声で言った。

「それは、福島君ですか」

「なんでそうなるんですか。違いますよ」

あまり強く否定してむきになる必要もない。襲われた時に真っ先に考えたのは彼の事だった。彼に助けに来て欲しかったし、もうダメかもと覚悟した時、彼を真っ先に思い浮かべたのは、自分の中では彼がそういう人になっていたという事だ。

しかし、自分が自分の音を一番に届けたいと考えて、ずっと空けままの席は祐樹のものではない。ずっと前から分かっていた。そこは父親しか座れない席だということを。それは叶わぬ願いだということも分かっていた。だから、長いことぽっかりと空いたままだったのだ。

二人が歩く通り沿いに並んだ露店の列は途切れ、神社の本殿が近づいてきた。境内の階段の前は広場の様になって、ロープが張られている。少し離れた所に、香音と凛が見える。

響子は自分の足でしっかりと立ち、三沢とは少し離れて歩いた。香音と凛がこちらに気が付いて手を振っている。少し後ろの方には夏希と部長が肩を寄せ合うように立っていた。もう少しだけ時間があったら、響子は胸にしまっている確かな思いを、もう一度声にして叫んでいたかもしれない。

三沢は響子を凛たちに合流させた。

「先生もぜひ一緒に見て行きましょう」

立ち去ろうとする三沢の腕を香音がグイグイ引っ張った。

境内の石階段下の広場に、酒に酔い、神輿を担いで、方々を練り歩いてきた男たちがゆっくり近づいてきた。法被ははだけ、足元がおぼつかない。

男たちの視線はものに憑かれたように、空をさ迷うか、目を閉じたままの者もいる。自ずと神輿の進む方向も定まらず、蛇行しながら、道路の両脇に群がる観衆の壁を時々へこませ、その都度歓声とも悲鳴ともつかない叫び声が上がった。

急激に方向を変えて、響子のすぐ目の前まで男たちが近づいたとき、額から酒臭い汗が飛び散った。一瞬、恐怖を感じたが、男たちは何かに操られるように、反対側の三守神社の急な石段を神輿を担いだまま駆け上がって行く。

階段の一番上まで押し上げられた神輿は、そこから乱暴に投げ落とされた。神輿はバキバキ、ゴンゴンと音をたてながら一回転、二回転して、階段の一番下の石畳みに叩きつけられる。

言い伝えでは神様の宿っていた神輿をひとかけらでも手にしたものにはご利益がるとか。そのための破壊行為がこの祭りのクライマックスだ。

少しだけひしゃいだ神輿に担ぎ手が群がり、石段上に押し上げられ、再び転げ落ちた。今度は勢い余って響子達が立って観ているすぐ目の前まで、あちこち無垢の木材が擦り切れ、所々ひしゃげた神輿が転がって来て、思わずのけぞって、かがみこんだのも束の間、再び担ぎ手が、神輿を引きずり階段を上げていく。

何度も何度も叩きつけられて、神輿はひしゃげ、真柱一本になるまで、徹底的に破壊しつくされる。神輿に宿っていた神様はもうとっくに逃げ出しているに違いない。担ぎ手は、何かに憑りつかれたようなそら恐ろしい狂気のまなざしで、破壊しつくす。破壊される神輿の破片が飛び散り、その破片に観衆が群がる。

「先生───」

そう言うと、響子は目の前にあったロープをくぐって、原形が分からないほどに破壊された神輿に群がる男どもの中に突進していく。弾き飛ばされそうになったが、体を翻して男どもの足元にもぐりこむ。一瞬姿が見えなくなったが、ちいさな木片を拾い上げ、それを高々と上に向って差し出し、そして叫ぶ。

「私は、先生と、家族で居たい、それだけ」

確かにそう叫んだが、群衆の怒声と歓声に掻き消されて、誰の耳にもその言葉は届かない。自分の気持ちは自分だけのものだから誰にも聞こえる必要はない。誰が何といっても、その気持ちは自分だけのものだから、誰にも邪魔されたくない。祭りの狂気に交じって、響子は、ドロドロも、もやもやも吐き出していく。

───神様だったら、私のちっぽけな悲しみ、怒り、苛立ち、くやしさ、妬み、人には見せられないような醜い感情を引き受けてくれたっていいでしょ

呆気に取られていた凛がロープを飛び越えた。田中、夏希、香音も続いた。響子が空に突き上げていたのは神輿のほんの小さな白い無垢木のかけら。四人は響子を囲んで突き出された木片に手をのばし、ぐるぐると回った。



全国への切符


太陽にジリジリと焼かれるコンクリートが眩しいほどに白い。夏も終わりに近いが、太陽はまだ元気なままだった。屋外の校舎の日陰で練習するのは主に金管パートだ。制服からむき出しになった腕や足、首、顔から汗が滴る。油断して演奏に夢中になると、あっという間に体が干からびる。間断なく水を飲むが、飲んだ水はすぐ汗になって吹き出し、そしてまた飲む。

屋内で練習する木管パートも楽じゃない。夏休み中に冷房が効いている教室はあまりない。風の無い日はまるで蒸し風呂だ。日によっては教室内の方が体感温度が高いことも多い。

個人練習の過ごし方は人それぞれだ。この時期に三沢から個別の指示は無い。無くてもやるべきことは皆わかるし、個人練習の時間が足りないことも知っている。とにかく、目の前に山積みになった課題を、ひとつでもふたつでも、潰していくだけだ。

全体合奏の方が気楽、そう思う人もいるかもしれない。実際のところ、その人なりの感じ方にもよるのだと思う。三沢は、全体練習で少しでも気になる音があると、指揮棒で、譜面台の横を二度叩いて曲を止める。

かっかっ

時には、何度も首をひねって、肩をすぼめて、不機嫌さを隠さない。自分たちの不完全さが簡単に暴かれ、臆面もなくダメの烙印を押される。そういうことに、いちいち反発していたらキリがないのだが、響子は、その、〈かっかっ〉に、どうしても苛立たしさを感じてしまう。

曲が止められると、たいていの場合は、同時に五、六以上のパートに音程やら強弱やらリズムやらアーティュレーションやらいろいろな指示が出る。誰に指示が飛ぶかわからない上に、全体練習の時に限って、三沢が別人のように、恐ろしく早口になるので、よほど集中していないと聞き取れないことがある。そして、三沢が納得いくまで繰り返される。納得できなければ、次までにできるようにしていくまでだ。

数十人の音を同時に聞いて、どの音にどのような問題があって、それをどのように修正するかを瞬時に判断する、恐ろしいほどの音感だと思う。力のある学校吹奏楽の指導者であれば、当然の事かもしれないが、驚くべきは、その神がかったようなスピードと指示のわかりやすさだ。響子の以前の学校を基準にすれば、全体合奏のペースは倍ぐらい早く進み、練習時間も半分だ。このことだけでも、三沢がどれほど特別な指導者であるかがわかる。

駄目だしされる高校生が、三沢の満足するレベルに到達するために取る方法は極めてシンプル。ただ繰り返し、できるまで反復する。たった一つのフレーズを練習では何百回と繰り返すこともある。はじめはゆっくりと徐々にテンポを速める。そしてだんだん上手く吹けるようになる。しかし、まだ正確なリズムが刻めていない、音程も不確か、もう一度テンポを落としてゆっくりと吹き始める、自分の息のスピード、指の運び、リードに加える圧力を調整しながら、何度も繰り返す。不思議な事にその反復によって、できないことがだんだんできるようになる。

目的を持って練習しろなんてよく言われるが、いちいち目的を考えていたら、嫌になるほど単調な練習を続けていられない。むしろ、何も考えてはいけないんだと思う。一フレーズずつ出来たか出来ないか、それがゴールだ。先の事はできるだけ考えないようにする。目の前の事だけ、一回一回のゴールを積み重ねることにだけ集中する。

別に吹奏楽でなくても、どんな部活でもそうだろう。基本の反復は大切だ。でも高校生は自分が大人だと信じている。黙って素振りしてろって言われて、延々と素振りだけ続けていられるとしたら、それは、やはり、よほどの好き者だ。しかし、その好き者の反復こそが栄光を手にする最短路だということを良い指導者は知っている。

響子達が金を取りたい、できればこのメンバーで全国にも行ってみたい、そう思うのは、むしろうわべだけの話で、そんなことを、四六時中、本気で考えているわけじゃない。心のどこかで、こんなこと続けて何になるのか? 将来、音大に進むわけでもないし、と思って投げ出したくなることもある。それでも、辛い練習に耐えるのは、ただただ音楽が好きで、自分の楽器や吹奏楽が愛おしいから。

───私たちは吹奏楽を愛してしまったのだから仕方がない。

とあきらめるしかない。


正直なところ、夏祭りで、あんなことがあった後は、なかなか練習が手につかなかった。凛はすぐに響子の様子がおかしいことに気づいて、あの、いつもの階段の踊り場に響子を呼び出した。

「絶対に、許せない」

宮山楽器店の近くで強姦されそうになったことを話した時、凛は全身を打ち震わせ、悪鬼の形相で怒る様子に、響子の方が少し引いてしまうほどだった。

犯人の一人は、宮北の元合唱部で木島公介という人物だったことも、既に分かっていた。この男のことは、香音の家族とエピキュールで一緒になった時に見かけて、響子は顔を憶えていた。香音の父親の会社の社員だったから、香音のお父さんとお母さんまでもが、家まで来て響子と芳恵に手をついて謝罪するだの、校長まで付き添って母親と警察に行くだの、ついこの前まで上を下への大騒ぎだった。

香音は大激怒で、即刻クビだなんて叫んでいたが、香音のお父さん曰く、社員の罪は会社の罪でもあるから、責任もって更生させたいということで、会社にはそのまま在籍しているようだ。

凛はその話を聞いて、未だ憤懣やるかたないといった様子だった。未遂ではあるし、大きな怪我があったわけではないから、響子もそういう輩が無職になって生活が荒れて、野放しになる方が心配だった。

「だから、香音のお父さんの判断は正しいと思っているよ」

まあ、響子がそういうなら、と凛はしぶしぶ納得しているようだった。

「それよりも、ひどいのはさ」

響子は、盛大に頬をふくらませて言った。

「そいつが言うには、お酒に酔って、誰でも良かったし、つい、でき心でなんて言うのよ。誰でもいいなんて、返す返すも失礼しちゃうよ」

凛の怒りは、茶化すような響子の話に紛れて、怒ってるのか可笑しいのか、どちらでもあるような顔になっていて、それを見た響子は大笑いしてしまった。

実際、響子にとって、その事よりも堪えたのは、響子の父親の事だった。母親が未婚のまま私たちを育てたっていうこと。いわゆる非嫡出子で認知はされていないということ。母親の説明ではそうだが、響子なりの解釈で言うと、生物学的な父親からは、半分の遺伝子を頂戴して、その他のものは引き継がないということだ。

そして三沢が、たぶん腹違いの兄であることも話した。

「へー、良かったじゃない」

呆気にとられた。

「え?、何が?」

「兄妹ってことでしょ。響子の様子がちょっと変だったのは、むしろ、それでなんだな」

そのように言われたことは予想外だったが、自分ではわかっていた。

なんの変哲もない石ころのような物でも色あざやかに見えたり、何度も見ている風景なのに初めて見るように錯覚したり、ぼんやりしてたかと思うと、急に可笑しくなってみたり。

久しくそういうことはないけれど、誰かを好きになり始めた時に感じる、ふわふわした足元の感覚にも似ていた。顔を見てるだけで、うれしいから、家に帰ると、次の日が待ち遠しくて、一刻も早く、その人の顔の見える所にとんで行きたくなる、それ。もちろん練習が最優先だから、響子としては、しっかりけじめをつけて、やっていたつもりだが、外から見ると、響子が何かに憑かれたように、やっぱり、みえていたのだろう。

本当に、私って、自分の気持ちがすぐ顔に出ちゃうんだな

転校してきた時も、そんな風に思って、ずいぶんと落ち込んでいたことを、懐かしく、ほろ苦く思い出す。


練習に明け暮れた夏休みがもうすぐ終わる。終わって欲しくない夏、もうこりごりだと早く終わって欲しい夏。時間は有限だ、早く終わって欲しくても、もっと続いていて欲しいと思っても、終わる時は必ず来る。

人は時間をどのように過ごすかだけの存在だ。響子は、有限の時間を濃密に過ごしている。そこに自分のエネルギーをありったけ詰め込んでいる。それがどれほど価値のあることかなんてことは考えたことがない。

図書館から楽しそうに話しながら出てくる男女がいて、彼らがそういう時間を過ごしている。運動部の連中が大汗をかきながら、校舎の渡り廊下から、屋上まで駆け上ってそういう時間を過ごしている。眠い目をこすりながら塾にいって数学の問題と格闘している。何をしてもいいのだ。使い方は自由だ。しかし時間は有限で、高校生活の夏の煌めきは今年を最後にもう訪れることはない。残酷に公平に終わりを告げるのだ。

全国大会出場をかけた東海大会が迫り、三沢はいよいよ楽曲の仕上げにかかる。全体のバランスを崩さない様に一音一音を丁寧に修正していく。少しづつ、少しづつ。はみ出した部分を引っ込め、へこんだ部分を引っ張りだし、縦の線、横の線をそろえながら、全体の形を整えていく。

奏でる音の一つ一つに意思が宿る時、人は音楽に心動かされる。五十名以上の合奏となると、たった一人の一瞬の気のゆるみによって、全体の綾がほずれていく。儚く、デリケートな代物だ。人の織りなすものだから、いつも同じ調子とも限らない。

二学期が始まると、一週間ほどでいよいよ東海大会となる。三沢の指示がぎっちりと書き込まれた譜面は、響子達の思いを詰め込んだ夏休みの果実だ。しげしげと眺めるうちに胸が熱くなる。

夏休み最後の全体合奏、コンクール曲、通し演奏。譜面は風景の一つでしかない。演奏者全ての脳に書き刻まれた全ての指示が、意識されないレベルで次々と再現されていく。

三沢は自由曲の最後の一音の残響を確かめ、二度三度小さく頷いた。そして更にもう一度大きく頷いた。十一分四十二秒で吹き切ったコンクール曲は珠玉の一皿となった。

「この演奏ができれば、金は十分に可能です」

三沢が晴れ晴れとした表情で拍手する。譜面台を指揮棒でたたく。かっかっではない。全員が自然と笑顔になり、穏やかな表情で、互いに手を合わせ、讃え合う。

「夏休み後もこのレベルを落とさない様に行きましょう。いいですね」

「はい!」

その声は、すすけた第二音楽室の壁も天井も突き抜けるようだった。これほどに晴れ晴れと吹っ切れた返事を聞いたことがあっただろうか。これまでは、三沢が発する容赦のない言葉に、自分のふがいなさ、くやしさ、怒り、苦しさ混じりの返事ばかりだった。でも、今はもう違う。若者らしく青々として、熱っぽさと清々しさが、短い返事に詰め込まれていた。


響子は薄暗がりで息をひそめ、出番を待つ。

名古屋国際コンベンションセンター大ホール舞台袖に、不安に押しつぶされる者、決意に満ちて前を見据える者、手を握り合ってお互いを励まし合う者がいる。本性だったり、生の心をさらけ出す、舞台袖にこそドラマがある。プロであれ、アマチュアであれ、大人であれ、高校生でであれだ。

直前の出番の学校は、かつて三沢が指導をした全国大会常連校だ。響子達は彼らの演奏に気後れすることなどあり得ない。ましてや、自分たちができる最高の準備をやり遂げた今、誰かを打ち負かそうなどというよこしまな考えは抱かないものだ。

挫折、落胆、激励、再起、そのサイクルをぐるぐる繰り返してここに立っている全員が強い気持ちを持っている。怯えるな、自分に負けるな、響子は一人一人と目を合わせながら、自分自身を奮い立たせていた。そして、差し出した右手に、凛が無言のまま指でなぞった自分の名前を飲み込む。互いの右手と左手を硬く握り、額を寄せて、沸き立つ熱を分け合う。

前の演奏が終わった。響子はクラリネットを握りなおし、胸の前でしっかりと抱きかかえた。

会場スタッフの腕章をしたボランティアの女子生徒が、袖とステージを隔てる重いドアを一気に開いた。

「プログラムナンバー、十二番、宮北高校吹奏楽部、ステージにお進みください」

薄暗かった舞台袖に、光条が広がった。ドアガールの女子学生は、片腕でドアを全開にし、もう片方の腕全体で、ステージの方を差し示した。無声音に近い口真似で「グッド・ラック」と言い、私たち一人一人を送り出していたのが分かった。しっかりね、なのか、うまくいくといいね、なのか、せいぜいがんばれ、なのか、どれにしても、なるほど、あとは神のみぞ知るといったところか。

眩いばかりのステージに、少し気圧されながらも、跳ねるように歩み出す。いったん指揮棒が振り下ろされると、無心で演奏し、記憶が断ち切られる。こうやって、着席し、三沢の登壇を待つまでのわずかな時間が、記憶にとどまる青春の一ページになる。

「イチニツイテ、ヨーイ……そして、ドン!っていうまでの、あのわずかな時間に似ているんですよ」

県予選の後だったが、そう言ったのは心だった。中学まで陸上部に入っていた心が言うには、ヨーイからのわずかの時間は、自分だけが世界の中心にいて、神経が研ぎすまされ、ドンといった瞬間からは、やはり記憶がないのだという。

観客席は漆黒の海で、私たちのいるステージは、その海の中心に、ぽっかり浮かぶ島だ。確かに、ここは海の真ん中だった。

そして、この海のどこかには、抜け目のない様子で、響子達の演奏の値踏みをする審査員がいるはずだ。愛嬌のありそうな姿かたちで、こちらを見て様子をうかがう、海の上に丸い頭だけ出してぷかぷか浮かんでいるアザラシを想像した。それが記憶に残る青春の一ページ。

───よりによって、なんでアザラシなのよ。響子のバカ

三沢が足早にステージの中央に進んだ。暗い海から大きな拍手が湧き起こり、妄想は消し飛んだ。

颯爽と指揮台に上がった三沢の指揮棒に全神経を集中する。後方の金管楽器がライトに煌めき、一瞬の静寂がホールを支配した。三沢は目を閉じたまま、全員の呼吸を体で感じようとしているかにみえた。

三沢の指揮棒が一気に振り下ろされ、課題曲のマーチが始まった。

三沢が五つある課題曲から選んだのは、コンクール主催側の委託曲だった。作曲者は、光澤一心。三沢の父親であることは、三沢本人と響子しか知らない。なぜ、その曲を三沢が選択したのかはわからない。

───音楽的な部分はすべて父親から引き継いだ

そう言っていた三沢は楽曲理解と言う点で有利と考えたのかもしれない。響子には、東海大会で父親が会場に現れるという確信があった。三沢和実、響子が母親から聞いた父親の実名。彼らの父親がコンクール会場に居たかどうかは定かではない。彼が居たとしても、彼が分かったことは、自分の息子が挫折から立ち直り、再び吹奏楽の世界で輝こうとしているという事だけだ。よもや、自分の娘が、自分の曲を演奏している姿を目の当たりにすることになるなど夢にも思わないだろう。今日こそ心にぽっかり空いていた穴に、自分の思いのたけを全て詰め込んで、全身全霊で自分の最高の音を仲間ともに届けることが、ようやくできるのだ。爽やかでエモーショナルなメロディーのマーチを軽快に演奏し終えた時、胸につかえたものが、滑り落ちていくのを感じた。課題曲を演奏し終えて、十分に余力を残したまま、三沢のタクトは一旦下ろされた。

勝負の自由曲、三沢の指揮棒に反応して構えたのは夏希一人だ。トランペットのハイトーンピアニッシモのソロで曲は始まった。

音程も音色も完璧だった。三沢の欲した、優しく浮かび上がるような音色だ。三沢はその柔らかい音を左手でつかみ、確かめるように耳元に運んだ。ゆっくりとそれとは分からない程に音色の少しづつ異なる金管楽器が折り重なり、いきなりこの曲の最大の聞かせどころがやってくる。この後三十秒近くも続く金管だけのアンサンブルに、この夏、金管パートリーダーの祐樹ともに三沢が最も心血を注いだ。

コーラル調のゆったりしたメロディーのハーモニーは完璧に縦と横がそろい、教会の壮麗なパイプオルガンを聞いているかのようだった。残響が完璧にコントロールされ一切の濁りがないのは当然の事だ。

驚くべきは、多様な音色をフレーズごとに吹き分けていることだ。煌びやかな直接鼓膜に届くような金属音を排除して、どこまでも深い背後からなる鈴のような高温、足元から伝わる地鳴りのような低音、頬をなでるような内声。まさに、人の織りなす最高の音の結晶だ。

導入部の最後は、すべての金管楽器のユニゾンが莫大なエネルギーを伴ってホールの壁という壁を打ち鳴らし、それはあたかも一つの人声のように朗々とメロディーを歌った。その圧倒的な音は、突然に猛烈なスピードで遠ざかり、あなたに消え去る。

一瞬の静寂のあと、地を這ってゆっくりと向かってくるような凛のスネアドラム。急速に接近速度を増し、碧たちのフルートが対旋律にオーボエを従えて叫ぶようなパッセージで、第一主題を複雑で色鮮やかな織物に仕立てていった。響子のクラリネットは、低音金管の伴奏を伴い、縦横縦横無尽にフルートとオーボエの間を縫うように連符を重ねていた。ライトにキーが時々鈍く光り、筐体が豊かな音を奏でた。第一主題を最後に引き継いだ香音のサックスの艶やかな音色はゆっくりと、ゆっくりとメロディーを静寂へと導く。

拓のティンパニーと凛のけたたましいまでのシロフォンが悲嘆と狂気に満ちた第二主題を奏でる。第二主題は寄せては返す波のようにうねる低音楽器群に引き継がれた。浮かび上がっては消え、また浮かび上がるように絵里のホルンはまるで木管楽器のごとく軽々と早いパッセージを奏で、そこに、聖桜のホルンが遠鳴りする豊かな音色で表情豊かに、さえずる小鳥のような楽し気な旋律を重ねた。全くニュアンスの異なるメロディーを奏でるホルンのデュオは、完全に一体化して一つのメロディーと錯覚してしまうほどだった。

そこに多種多様な生命が重なり合うように、クラリネット、フルート、サックス、オーボエが生命の創生と繁栄を祝福するがごとく、華やかなハーモニーで歌いあげる。凛のスネアドラムは歓声から行軍を鼓舞する夏希たちのトランペットのファンファーレを導くと、荘厳なドラの音と共に大合奏に向かう。トゥッテイ。全ての楽器が一塊となって再び第一主題の歓喜を歌い上げ、地面を打ち鳴らすバスドラムのロールが地鳴りとなって曲は終焉となった。

自由曲、渾身の最後の一音を演奏し終えた。肉体でも精神でも、全身にやどる全てのエネルギーを放出し、響子達は生命とは言えない空虚なもの、器としての人間でしかなかった。三沢は手を胸の前に合わせ、全体をみまわすと、それとわからないぐらいではあったが二度、三度頷いた。三沢に促されて全員が立ち上がって、観客席からの大きな拍手を全身に浴びていた。響子は軽いめまいを覚え、長くは立っていることはできないだろうと思った。全員が抜け殻の様にステージに立ち尽くすのみだった。



手紙


三月、伸ばしていた髪は肩で切りそろえた。昨日までの荒天が嘘のような快晴、風は少し強くて、短くなりすぎた制服のスカートの裾が気になったが、ポカポカして春先にしてはやけに青い空。

どんよりとした寒空に凍えた欅の並木道を先生や後輩、父母に祝福され、にこやかに手を振りながら学校を去っていく少し大人になった私、そういう卒業のイメージも、由希の勝手で自由な思い込みだ。

イメージ通りでなかったことに特に不満というわけではないが、少し計画が変わったのは確かだ。

ハンカチで涙を何度もぬぐっていた両親に、先に家に帰ってもらうことにしたのは少し心が痛んだ。しかし、由希には、卒業の日、どうしてもやるべきことがあった。それは、響子からの手紙を、二人が部活を過ごした音楽室で一人きりになって読むこと。

───計画通りにいかないことはままあるものね

今日の天気、外は予想外にポカポカした晴天だった。だから思い切って、音楽室を出て、学校の近くの橋のたもとを降り柴川の堤にやって来た。ここは、部活の帰りに、二人でよく立ち寄っていた二人だけの場所だったからだ。

薄緑色の若葉が疎らに交じり始めた場所を選び、由希は腰を降ろした。時々強く吹く風が、乱暴になでる髪を気にしながら、大切に、内ポケットに忍ばせていた、一昨日届いた手紙を丁寧にひろげて、一文字一文字を心に刻みつけるように読んだ。



私の永遠の親友、由希へ


急に手紙なんて、由希は、びっくりしているかもしれません。自分でも少し驚いています。伝えたいこと、自分の気持ちを一文字一文字書いて、それを手に取って、見たり触れたりしてもらった方が、本当のことを感じてもらえるんじゃないかと、手紙を書くことにしました。


そちらはもうすぐ卒業式だね。宮山では三月初めの大雪で、まだグラウンドや学校の中庭には雪が残っています。私は、先週、寒々とした体育館で卒業式を終えました。昨年あつらえたばかりの制服にもようやく馴染んできたところでした。由希が着ている制服で私も一緒に卒業するはずだったのに、とても不思議な気持ちでした。前の制服は、周りの学校とくらべても断然かわいいセーラーで、私はとても気に入って着てました。宮北の制服は、何ていうか、見た目は何の変哲もなくて普通のブレザーなんだけど、実は五十年以上も変わっていなくて、その制服を着ている女子生徒そのものが宮山の昔からの風景の一部になっているようです。

私は、たった一年余りだったけれど、宮北高校の伝統の一部として過ごして来れたことをとても誇らしく感じています。そこにいる間はなかなか分からないことだったけれど、学校で学んだこと、経験したことが自分の一部になり、自分自身の行動が学校の歴史や伝統の一部に少しづつなっているんだと思います。


今だからはっきり言えるけど、正直なところ、こちらに来たばかりの頃は、とんでもない所に来たなって思っていました。私は吹奏楽部に高校生活のほとんど全てをかけていたのに、大人の勝手な事情で断ち切られ、みじめな高校生だって、勝手に思い込んでいたんです。

でも、吹奏楽を続けて来たからこそ、こちらに来て沢山の素敵な出会いに恵まれました。一生分の出会いだったんじゃないかって思うぐらいです。

もちろん、由希と別れるのは本当につらかたったし、そちらでずっと由希と高校生活を過ごしていたらと思うと、今でも胸が苦しくなって、切なくなって涙が出そうになります。こちらに来たばかりの頃は、不安ややるせなさに押しつぶされそうでした。そういう時に、気が付くと、私に寄り添って、手を貸してくれる誰かがいたんです。一緒に行こうって。

私は本当に幸運だったんだと思います。つくづく人との出会いって、かけがえのない素晴らしいものだなって思うし、私の場合は吹奏楽をしていたから、出会いに恵まれたんだと思います。


ここに来て最初の出会いは、コンビニでバイトしているお姉さんでした。最初に会った時にものすごく嫌な態度をとってしまってずっと後悔していました。そのコンビニには部活の後によく行くようになって、お姉さんには家庭の事情も話して、きちんと謝ることができました。後で聞いてびっくりだったんだけど、実はそのお姉さん、十年ぐらい前に宮北高で吹奏楽部に入っていて、クラリネットを吹いていたそうです。県大会のあと、金賞取って県代表になったよって言ったら涙流して喜んでくれました。

その後の東海大会、目標だった金賞をとれたんですが、由希も知っているように、代表にはなれず、全国には届きませんでした。今年も全国に行った由希は経験したことがないと思うけど、こういうのダメ金っていうんだよね。でも、私はダメだったなんて全然思ってません。考えてみれば、初めてのコンクールで全国まであと一歩。これってすごいことなんじゃないかと思います。

ここまでの成績を上げることができたのは、顧問の三沢先生がとにかくすごい先生だったという事に尽きます。初心者をコンクールに出さないで勝負するよりも、全員がコンクールに出場することを目標にしたことで、コンクールに向けて結束して練習をし、初心者だけでなく、全員が大幅にステップアップできたんだと思います。今年コンクールに出場した一、二年を中心に、来年はもっともっと強くなっていると思います。

アンサンブル・コンクールの方が県大会どまりだったのは少し残念でした。吹奏楽コンクールがメインだったので、仕方ないかなとは思います。個人的には、ジョイントコンサートの時の演奏が私のベストで、一生忘れられない演奏となりました。


受験の方は、やっぱり駄目でした。医者になりたい気持ちは以前と変わらず強いので、浪人して来年も医学部を目指します。三年の時、部活をやりすぎたっていうのはあるけど、それはそれ、これはこれだと思っていて、部活はやり直しがきかないから、全然後悔はありません。今まで吹奏楽に傾けたエネルギーを全て勉強に注ぎ込む覚悟で頑張ってみます。由希は四月から東京で大学生活だね。念願の教育学部への入学が決まって私も本当にうれしいです。学校の先生は由希の昔からの夢だったからね。由希なら絶対にいい先生になると私は信じています。


それで、とっても恥ずかしいんだけど、ひとつ白状します。実は私、こちらに来てから好きな人が出来ました。同じ学年で、同じ吹奏楽部でトロンボーン吹いてる子です。今まで何度から彼の方からも付き合ってほしいって言われましたが、返事はまだしていません。今は高校卒業したら、うやむやにしてしまうかと思ってます。

好きなのに何でかって?実は、私のお母さんと、彼のお父さんが、同じ病院に勤めていて、私たちが知らない間に仲良くなって、今度再婚することになりました。それで、彼と私は血のつながらない姉弟ってことになります。

彼も医学部志望だったんですが、今年はやっぱりだめで浪人することになっているので、姉弟で浪人です。今は私たちの家で一緒に暮らし始めていますが、急に家族が増え、本当に戸惑っています。碧もいるから五人家族です。毎日とても賑やかで落ち着かないような楽しいようなとても変な感じです。一緒に暮らすわけだから、何かの間違いが起こらないとも限らないし、今は、好きとは言えないけど、心の中で好きだと思っている人と同じ屋根で暮らしていることを、こっそりと、楽しもうかなと思っています。

二人とも大学生になったら、きちんとしたいとは思います。別の大学に行くようになって、離れ離れになったら、終わってしまうかもしれません。できれば同じ大学に合格すればいいんですが、そうすると今の気持ちが続いて、結婚なんてこともないとはいえません。もしそうなったら、うちの家族はいったいどういう関係になるんだろうなんて、軽く妄想を楽しんでいます。


新しいお父さんは本当にいい人です。お母さん居は勿体ないぐらいです。それで私には十分だと思うのですが、やはり本当のお父さんの事を、自分の気持ちとしてもないことにはできないと思っています。実は私も去年の夏にお母さんから本当のことを初めて聞いたのですが、私がお父さんだと思ってた人はお父さんではありませんでした。遺伝子は分けてもらったけど、お父さんじゃない人、つまり、お母さんはお父さんとは結婚をせず、私たちは認知もされませんでした。だから、私たちに、お父さんは、ずっといなかったことになります。

小さいころから、ぽっかり自分の中で抜け落ちているような部分があるような気がしてたから、お母さんから本当のことを聞いた時は、何か妙に納得してしまいました。お父さんがいて、お母さんがいて、ただそれだけなのに、自分には望むべくもないことだったという不幸を、子供時代までさかのぼって自分で自分のことを慰め、勇気づけてあげたいと思っています。

子どもにとって知らなくても良いことが知らないままで済まされるわけではありません。子供時代は傷つかずに育ったという事にはならない気がします。真実が隠されているという事自体が不幸でおぞましい事だと思います。しかし、思いがけず、知らないでいること自体が不幸でも、大人になって知って幸運だった思う事もありました。私には思いがけずお兄さんがいたという事実です。もちろん戸籍上は何の関係もない人かもしれませんが、存在しないはずの父親から半分の遺伝子を受け取った人が、思いがけず、私の近くに、しかも信州伊那谷で現実に存在していて、私にとってかけがえのない人になっていたというのは、人生最大の幸運と言っても良いと思います。


由希が進むまっすぐな道から、私だけ急にわき道にそれて、もうその先は薄暗くて、怖いところで、転がり落ちるのかと思っていました。でも、そんな道にも、一緒に歩いてくれる人たちがいて、今は、その人を大切に思っていて、一緒に宮山で生きていこうと決心しています。宮北高校の吹奏楽部が好きでたまらなくなったように、私がいま住んでいるこの宮山を愛せるようになりたいと思っています。

由希が居ないと寂しい、また一緒に歩いていきたい、ずっとそう願っていました。でも、今は、この道で私を支えてくれた人が大勢いて、今度は私がその人達を支える番だと思っています。私はもう後ろを振り返らないし、曲がり角に戻って由希を追いかけることもしません。由希と私が行く道が、どこかで交わることがあるかもしれないし、そうだといいと願っています。でも今は、勇気を出してお別れする時なんだと思ってます。私はもう一人で生きていける。由希が居なくても、きっと生きていける。だから心配しないでください。私も由希のことは心配してません。だって、由希は私の最高の親友なんだから。私たちはきっとそれぞれに生きていけると思っています。


あなたの永遠の親友 響子より



全部を読み終える前に、由希の瞳は涙でぬれ、文字がかすんだ。途方もなくあふれた涙は幾筋も頬をつたって流れた。寂しいとか悲しいとかそれだけの気持ちとは少し違う。由希が初めて経験する大切な人との別れ。人と出会って、一生懸命にその人と一緒に過ごした時間はもう戻らないけど、しっかりと心に刻まれている。なんだか、そこが暖かい。暖かくてうれしくて、そして涙が出る。

由希は手紙を丁寧に畳んで内ポケットに大切にしまうと、ゆっくり立ち上がって柴川のキラキラした川面をしばらく一人で眺めていた。確かにこの場所で、二人は同じ時間を過ごしていた。そして今は一人で眺める。その時には別れがあることなんて想像もしなかった。大事なことなのに誰もそれを教えてくれなかった。でも、それが分かっていてもそうでなくても、その時を一生懸命に生きて来た。だから今、その記憶を美しく、そして愛おしく感じることができる。



その後


風薫る五月、誰が最初に決めたのか、金管の個人練習は相変わらず普通教室棟の北側だった。以前は疎らで遠慮がちにしか聞こえなかった音が、今は誰はばかることない。その場所は、校舎をはさんでグラウンドの反対側だったが、運動部の威勢の良い掛け声を掻き消すほどだ。部員はここ三年で八十人を超えるようになり、宮北高校ではもっとも規模の大きい部活になった。響子達が卒業した翌年からは三年連続で全国大会に出場し、全国的にも吹奏楽の強豪校と言われるようになった。当然、応接室のトロフィーは増え続け、あの教頭もご機嫌なはずだ。

吹奏楽部の根城は第二音楽室のままだった。そこで田中と祐樹と夏希を迎えたのは、今年の吹奏楽部の部長と副部長だった。三人がそろって学校を訪れるのは三年ぶりになる。

「お忙しい所、わざわざ足を運んでいただいてありがとうございます」

入り口で丁寧にあいさつをした男子生徒は、黒いセルフレームの眼鏡にチューバを抱えていた。

「冗談みたいだな、おれが知ってた部長にそっくりだよ」

祐樹は田中と男子生徒の間で何度も視線を往復させた。

「冗談とかではない。これは私の弟だ」

「え、まじ?」

「そう、まじ」

「前もって言っておいてもらわないと、あせるじゃんか。そんでもってこちらは副部長さんだよね。まさか夏希の妹っていうおちではないよな」

「ちがいます。私は宮園真琴です。クラです」

「う―ん、なんかそのそっけない感じは、響子に似てるような気がする。同じクラだし」

「響子先輩にですか? うれしい」

「響子のこと知ってるの?」

「もちろん。今日いらっしゃる皆さんのことはよく知ってますよ。チューバの田中先輩、トランペットの夏希先輩、サックスの香音先輩、ホルンの聖桜先輩、絵里先輩、フルートの碧先輩、パーカスの凛先輩と拓先輩、そしてアンコンでコンミスやったクラリネットの響子先輩。だって我が部にとってはレジェンドですもん」

「ひとり、忘れてない?」

「え、他に誰かいました?」

「おれにばっかり、きつくあたる所まで、響子に似なくていいんだよ」

「あははは、冗談ですよ、祐樹先輩。トロンボーンですよね。たしか、まだ浪人中?」

「レジェンドなのに、何で、そこなの」

三年ぶりに訪れた第二音楽室の壁は、相変わらずところどころ煤けて、立て付けの悪そうなアルミサッシの窓も以前のままだった。瀟洒な出窓が古ぼけた教室には不釣り合いで、誰がそうしているかは分からないが、花だったり、置物だったり、クリスマスツリーが飾られていたこともあった。今はゼラニウムの鉢花が飾られている。窓枠の手すりには少しだけ光沢が増しているところがあって、そこは以前から三沢の定位置で、今もそこにいて、練習を見守っているのだろう。部長と副部長の二人は、ゆっくりしていってください、と言い残して個人練習に戻った。

「よく、こんな狭くて汚いところで練習してたもんだな」

祐樹は毒づいたが、その声は優しいノスタルジーを含んでいた。

「やあ、よく来てくれましたね」

音楽準備室につながるドアが開いて三沢が現れた。口々に三沢と挨拶をかわし、昔を懐かしむ様子は、生徒と先生という隔たった関係を軽々と飛び越え、旧友との再会を喜んでいるように見える。少し遅れて三沢の後ろから香音が音楽室に入ってきた。

よう久しぶり、と祐樹が声を掛けようとした時、香音は後ろから三沢に近づいて三沢の手に自分の手を絡ませた。三沢は笑顔で頭をかくばかりだった。田中も夏希も祐樹も唖然として、言葉を失った。香音が三沢の顔を下から愛おしそうにのぞき込みながら言った。

「あのね、みんなには黙っていたけど、私たち、今、お付き合いしてるんだ」

大いに喜ぶとか、冷やかすとか、まして、冗談かと言って受け流すことも、三人には難しかった。夏希がようやく、くぐもって聞いた。

「よく、ご両親が許してくれたわね」

香音は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、三年生のコンクールが終わった後からの成り行きを、おそらくは、何かの恋愛小説風のアレンジも若干加えながら、ずいぶん長いこと話した。こういう時の女性の記憶の色鮮やかさは驚くほどだ。三沢が、香音の話をどう聞いていたかは定かでない。とりもなおさず、笑顔で頭をかくばかりで、カリスマ吹奏楽指導者としてのオーラはすっかり消し飛んでいた。夏希は興味津々と言った様子で、身を乗り出して話を聞いていたが、田中は少し食傷気味に言った。

「まあ、要するに諦め切れない香音の粘り勝ちっていうところかな」

想像力の乏しい無粋な男性を代表するような言い方に、夏希はとがめる様な視線を送りながら、気持ちは香音になり切っていた。

夏希は、昨年短大を卒業して宮山の市役所に就職していた。田中とは高校以来、濃くも薄くもない付き合いが続いていて、近い将来、地元でスーパーマーケットをチェーン展開している田中の実家を手伝いたいと考えている。普通が好きな夏希が考える精いっぱいのシンデレラストーリーだ。

「素敵、香音ちゃん」

「えへへ、そうですかね」

「でも、会社の跡継ぎの方はどうなるの」

結婚も考えてのお付き合いとなれば、その辺りの事を端折ってしまえるほど、香音も子どもではない。

「家族と話したんだけど、それは心に任せようかと思って。心も、私が幸せになるならそれでもいいよって言ってくれてる」

「心ちゃんって、本当に出来た子だよなあ。それに香音より落ち着きがあって、社長夫人っていうイメージに近いよな。いや、女社長でもいいぐらいだ」

祐樹の意見に、夏希と田中は何度も頷いていた。三沢はやはり笑顔で頭をかきながら、以前は教え子だった四人の話を聞くばかりだった。


響子は、管理棟の三階から屋上へ出る階段の踊り場で彼女を待った。地球の重力分布は不均等らしい。響子の郷愁を重力に変えて分布図にするならば、この二メートル四方程度の踊り場が最強であることは間違いない。そして、この場所で悩みを打ち明けたり、励まし合ったり、泣いたり怒ったりしていた相手は必ず彼女だった。

吹奏楽部や音楽への思い、父親や母親への複雑な感情、祐樹への恋心。今にして思うと彼女の事はあまり聞いてあげられなかった。彼女が話したがらないことは分かっていたし、ただ、過去の悲痛な思いを共有して上げるだけだった。

誰もいない管理棟の階段の下の方からコツコツと足音が聞こえて来た。三年前にここで聞いていたのは、キュキュッとした上履きのゴム底が擦れる音だった。もう何段か上がってくると、彼女の姿が見えるはずだ。

コツコツ

階段をはさんで上と下で彼女と目が合う。真っ白なワンピースから覗く四肢は透ける様な白さだった。つばひろのストローハットは少し上向きに弧を描くきれいな鼻筋の先で玉になった汗を隠している。前髪の奥では長いまつ毛の下で大きな瞳が真っすぐにこちらを見て、屈託のない笑顔を浮かべている。素肌っぽいメークも自然で愛らしい。凛は、以前とは見間違えるほどに、女性らしい、たおやかさが自然に滲み出ていた。

響子は少しの間、直視できなかった。その姿は、以前に凛の母親から見せてもらった、あの忌まわしい継父との出来事の前に撮られた写真と重なったから。でも、彼女は本来の彼女に戻っただけなんだろう。当然、完全に元通りなんてことはない。高校を卒業したあと彼女なりにいろいろ整理をつけたことは容易に想像できた。だから、きれいになったね、とただひとことを言って、凛は響子の思ったこともいろいろ理解したのだろう。二人は以前と同じように、階段の一番上の段に並んで腰を降ろした。

メールではやり取りしていたが、実際に会うのは一年ぶりだ。卒業した年、響子がまだ浪人中の夏に、京都の大学に進学した凛を訪ねた。一週間ぐらい、凛の一人暮らしの六畳一間のアパートに泊めてもらって、二人ともお金が全然なかったので、あちこち歩いて回った。響子たちは見た目も精神構造も高校の延長っていう感じで、部活やクラスの思い出話は時を忘れさせた。まだその年齢では無かったけど、こっそりお酒も飲んだりした。あれから二年、その間に響子は地元の医学部に合格して忙しい時間を過ごしている。

響子の中では、宮北で過ごした一年が重すぎた。重すぎて、そこから自分自身が変わることができなかったし、かわりたくなかった。しかし、自分自身が望む望まないに関わらず、凛を見て驚いたぐらいに、自分自身も変わっているのだろうと思った。

会話は無い。響子は重力最強点のこの場所に体を沈めて、凛との時間を共有するだけで十分幸せだ。そして、別の人生を生きているようで、実は同じ時間空間を過ごしているように感じるほど気持ちが触れ合っていることを、この場所で確かめたかっただけだ。おそらく凛もそうだ。彼女の体温、息遣いと鼓動を感じることにただ意識を集めている。


第二音楽室に響子と凛がやって来た時には、絵里と聖桜、拓も合流して、お互いの近況を語り合っていた。聖桜と絵里は、相変わらずと言うべきか、東京の同じ女子大の家政学部、拓は北海道の大学の獣医学部に進学していた。

「しかし、何もかもほっぽり出して、あれだけバカみたいに吹奏楽に打ち込んで来たのに、音楽の道に進んだやつがこの中で一人もいないっていうのはすごいことだな。部活ってだからすごいんだよな。それ自体がゴールで、その時じゃないと絶対に経験できないことで、それが何の役に立つなんてことは考えずに、ひたすらそこにエネルギーを注ぎ込む」

祐樹は感慨深げだったが、響子には、現実逃避の口実に思えて苛立ちが募った。

「そのおかげで、祐樹は未だに浪人ていうわけだけどね。夢から醒めて、早く合格してくれないと私、先に卒業しちゃうよ。合格したら付き合ってあげるって言ってるんだから、がんばりなさい」

もう何年もそういう話を冗談めかして、公言してきたが、響子は、祐樹と二人で過ごす、これからの時間を今もずっと思い描いている。

響子は三沢を見つけると、こぼれんばかりの笑顔で、スキップするように走り寄り、香音と反対側で三沢の腕を両手で抱きかかえる。

「私の大切な友達、よろしくね」

「大丈夫、大切にしてるから」

やはりあの心に沁み込むような雨のような声だった。

「響子ちゃん、やめてくださいよ。私の彼氏なんだから」

「おっと、ごめんね、でも半分は私自身でもあるのよ」

「まあ、それはそうなんですけど」

夏希は、すっかり後ろ姿が小さくなって肩を落とす祐樹の背中をポンと叩いて、田中に目くばせした。

「では、そろそろ行きますか」

田中はおもむろに右手の人差し指を天井に向けた。

〈行くぞ、宮北―!、MBB!〉

〈MBB!、MBB!、MBB!〉

田中を取り囲んで、響子が、凛が、香音が、夏希が、祐樹が、聖桜が、絵里が、拓が、腕を突き上げ、ひとしきり声を張り上げた。

「あの、すみません…」

音楽室の中扉には、三沢を呼びに戻って来た副部長の宮園真琴が立っていた。苦り切った表情で、盛り上がる先輩たちの様子から視線が滑り落ちた。

「あの、私たち昨年から、MBBって言うのやめてるんです」

「え、なんで?」

かなり遠慮がちだった後輩の声は田中に刺さった。刺さって田中は絶句した。

「ブラバンっていうかその辺の語感にちょっと異常にこだわる部員がいまして…、それって私なんですけど、本当にすみません」

「あれえ、昔、どこかの誰かさんもそんなこと言ってたよね」

凛はニヤニヤしながら響子の顔をのぞき込んでいる。

「それで、今はなんて?」

「正式には吹奏楽部ですけど、宮北ウインドアンサンブルオーケストラ、MWEって言うことにしたんです…、すいません、すいません、勝手に変えちゃって、本当にすいません」

「MWEって───、弟からも聞いてなかった」

「きっと、弟さん気を使ったのよ。田中君、昔からMBB、MBB、ってうるさくて、MBBの権化みたいだったから」

夏希が、がっくりと肩を落としている田中を慰める

「私はMBBでいいと思うんだけど、ほんと残念ね」

響子は可笑しくて凛と笑い転げている。

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