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薫る風の声に  作者: 舞山礼実
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第二章 アンサンブル

第二章 アンサンブル



ジョイント・コンサート


「舞台係を二人にお願いしたいんだ」

練習室で、田中は響子と祐樹を目の前にして言った。

「今年も俺? 相当たいへんだよ、あれ」

「舞台係って、そんなにたいへんなの?」

「大したことはないですよ。祐樹が去年もやっているのでご心配なく。じゃあ、祐樹、後はよろしく」

田中はそういうと響子と祐樹を残してそそくさと練習室を出て行った。

祐樹の説明によると、毎年春休みに一、二年生主体で行われる合唱部との合同演奏会、それをジョイント・コンサートと祐樹は言っていたが、その舞台係はステージ進行表の作成と舞台照明演出を担当するようだ。

「香音ちゃんから合唱部とは犬猿の仲だって聞いていたけど」

「それが、なんでジョイント・コンサートなんかするのかって言うことだよな。もう四十年も続いているから、今は伝統の重みが惰性になってるんだろうな」

「惰性っていうのは感心しないけど、伝統ってそういうものかもしれないわね。じゃあ、折り合いが悪かったのに、どうして一緒に演奏会っていうことになったのかっていう所がちょっと不思議ね」

「表向きの話しとしては、四十年前の先輩方は、同じ音楽系部活の交流があってしかるべきだろうという高い志を持ってジョイント・コンサートを企画した、っていうことなんだけど、実際は当時の吹奏楽部の部長と合唱部の副部長が付き合ってたから、と言うのが真相らしいんだ」

「へえ、そちらの方がきっかけとしてはもっともらしくて、いいじゃない」

「ロミオとジュリエットだとか、ウェストサイド物語だとか学校中で噂されたらしい。それが冷やかしなのか羨望なのかは分からないけど、吹奏楽部と合唱部の、乗り越え難い憎悪の壁を二人が突き破って、四十年以上続く伝統行事の基礎になったことは賞賛に値すると思うよ。そのロミ・ジュリはそろそろ五十も半ばのはずなんだけど、学生結婚して、毎年ジョイント・コンサートに密かに訪れているという噂もある」

「よくできた話ね」

口には出さなかったが、もし、その噂が本当なら、ぜひロミ・ジュリにお目にかかりたいものだと響子は思った。

テスト週間が明けてジョイントコンサート本番まで三週、響子は祐樹と第一音楽室を後にして、いつもの第二音楽室に戻る途中だった。第一音楽室では合唱部の舞台係との打ち合わせがあり、合唱部学生指揮の前田博一も来ていた。普段、合唱部が練習で使っている第一音楽室には立派なグラウンドピアノがあり、音響設備も整っていて小ホールと言って良いぐらいだった。

響子の少し前を歩いていた祐樹は辺りを入念に見回してから、大きな声を出す。

「ああ、あいつら本当にむかつく、むかつく、むかつく」

「そういうことは、本人達がいる所で一辺言ってみたらいいんじゃないの」

「しかし、前田って、何で来てたんだろうな」

「さあね。一応幹部だからどこに顔だしてもいいんじゃない」

「お前の方ばっかり見て話してたけど、やつと話したことあるのか?」

「ないけど、それが何か」

会議の間中、前田は響子の方ばかり見て相槌を打っていた。おかげで合唱部の女子の一人は、それが気に入らなかったのか、響子の方をずっと睨んでいたし、祐樹は祐樹で、前田がいることが気に入らないらしく、ずっと、ふてくされた態度だった。こんな状態で話し合いになるのかと心配になったが、前田の態度はとても紳士的で、気配りがあり、話し合いをうまくまとめてくれた。彼が居なければ、居ないで、うまく事が運んだのかもしれないが、ハッキリしたのは、前田と祐樹は、人間の完成度と言う点で月とスッポンだということだ。もちろん祐樹はスッポンで地べたをのろのろと這っている。

第二音楽室に戻ると、田中と夏希が長机に椅子を横に並べて話し込んでいた。

───第二音楽室の階段下、やっぱり二人は抱き合っていたんだろうなあ

響子が夏希の方をチラチラ見ていると、目の合った夏希がなぜか嬉しそうに言う。

「ばれちゃってるのかな」

響子が面食らったような顔をしていると、夏希は机の上に置いていたスコアを指さした。

「ちょうど良かった。やってくれるかなあ」

木管金管打楽器八重奏曲〈Balmy Breeze〉。前の学校で、アンサンブルコンクールに出るメンバーを決めるオーディションで演奏したことのある曲だ。

「今年はジョイントコンサートでアンサンブル演奏のステージをやるの。毎年恒例のポップスステージは順送りでいつも同じ曲ばかりでマンネリになっていたから、今年は代わりにこれを演奏したいの」

響子は、自分の勘違いにホッとしたこともあり、二つ返事で引き受けた。祐樹は他人事のように、にやにやしながら響子の後ろからスコアを覗きこんでいる。

「あれあれ、随分と難しそうな曲で大変なこった」

「祐樹くん、あなたの楽譜もあるわよ」

夏希はトロンボーンのパート譜を祐樹に押しやる。

「え、おれ?」

「そう、あなた。他に部長と私、あとは、香音に碧ちゃん、フルートは始め二年の由美ちゃんにお願いしてみたけど、塾の春期講習で無理だって。一年生しかいないホルンは未定で、パートリーダーの絵里か聖桜のどちらか」

「おれ、拒否権ないの」

「ない」

にべもない返事に祐樹は悶絶する。

「それで、ぜひ響子に頼まれてほしいことがあって、アンサンブル演奏のコンミスをお願いしたいんだ。私は学生指揮があるし、田中くんも他の準備でいろいろ忙しくて、それに、あなたの実力からいって適任だと思うの」

コンミスは言ってみればプレーヤーのリーダーだから、比較的気心の知れた演奏メンバーではあるが、転校してきたばかりの響子では快く思わない部員もいるだろう。

「田中くん、他の部員は承知してるの」

「アンサンブルステージのことは内々にすすめていたので、ほとんどの部員は承知していない。我々もしっかりサポートするのでぜひお願いしたい。こういうことはトップダウンで行かないと、まとまらないことも理解してほしい。このメンバーで表現できる最高のものを何とか形にしたいんだ」

響子は息を呑む。コンクールの出場を渇望している田中や夏希が期待しているのは、きっかけだ。小さな火種がやがて〈ファイアー・ストーム〉になることを期待している。

響子は思った。できないことをできないと言って、夏希や田中を落胆させることは罪ではない。でも、できるかもしれないことからは逃げたくはない。

「わかった。やってみる。夏希、パーカッションは凛でいいのね」

「うん、楽譜は預けてある」

この曲のパーカッションの難度が極めて高く、凛以外には到底太刀打ちできるような代物でないことを響子はよく知っている。


アンサンブルステージの練習が始まる前からよくない予感はあった。

前の学校でもアンサンブルは盛んに行われていたし、全国大会のあるアンサンブルコンテストに参加したこともある。多くの強豪校にとってアンサンブル演奏の目的は個々の演奏精度を高めて大編成での底上げをはかることだ。響子自身も中学からアンサンブル曲の練習を時々やってはいたが、やはり大編成の迫力や表現の幅には遠く及ばず、演奏していて面白くないと感じてしまう。響子の不安の一つは、アンサンブルには、聴く人に感銘を与えるほどのインパクトがないのではないか、〈ファイヤーストーム〉どころか線香花火で終わってしまうのではないかということだ。

そして、また別の不安も思わぬ所から湧いた。


「凛、今日はアンサンブル来れる? そろそろ、通しでやりたいんだけど」

全体練習の後、響子はたまらず凛に声を掛けた。本番まであと十日、凛はパート練習や全体練習には欠かさず来ていたが、アンサンブルの練習にはまだ一度も顔を出していない。

「悪い、今日はやめとく。個人練習はちゃんとやってるから。音源もらってそっちでの合わせは問題ないよ。通しの録音があったら今度もらっていいかな。ちょっと塾で今日は無理、ごめん」

「わかった。じゃあ、この次ね」

去り際に、凛は振り返って言う。

「あのさ、響子を困らせるようなことは絶対しないから、それだけは信じてほしい」

アンサンブルの演奏メンバー全員が揃うことはなかなか無かった。夏希は全体合奏での学生指揮、田中は合唱部との話し合いだけでなく、プログラムや招待状の印刷、発送などの雑用で忙しい。香音も今日は渉外係の打ち合わせらしい。集まったのは響子も含めて四人、そのうち二人は一年生ホルンの川島絵里と野島聖桜、もう一人は祐樹だ。本番でのホルンパートは一名だが、田中と夏希の方針で二人を候補としておくことになっている。

「集まりが悪いから、今日も個人練にしよっか」

「わかりました。聖桜、行こう」

「じゃ、お前もおれと個人練習やるか」

「何の個人練習よ。バカじゃないの。あなたは一人でやってればいいでしょ」

らしいリアクションで良かった良かった、と言いながら祐樹は立ち去る。このタイミングでおちゃらかすとは如何にも、とは思ったが、ことによると祐樹なりの励ましだったのかもしれない。

ホルンの二人、絵里と聖桜はアンサンブルの練習に欠かさずやってくるので、響子にとっては、彼女たちのやる気が救いだった。二人は青城学園中学出身で、絵里は中学からの経験者、聖桜は絵里に誘われて入部した。聖桜は小学校の金管バンドでホルンを少し吹いていたようだが、本格的に始めたのは高校からだ。今でも、二人が一人でいる所を殆ど見たことが無いが、入部当初から絵里は聖桜の練習につきっきりだったらしい。

響子の見たところ、絵里は中学から地道な練習で着実に力をつけてきたようだが、聖桜は少し感覚的に音楽をとらえるタイプで、奏法に少し奔放なところがあった。三年が卒部して、ホルンパートは絵里と聖桜だけだった。絵里がパートリーダーになると、聖桜はみっちりと基礎をたたき込まれて、最近の上達ぶりは目を見張るほどだった。

パーカションには二年の凛、あと一年が二人、星野実緒と山田拓がいる。二人とも中学からの経験者で、実緒は普段の部活も塾などで休みがちだ。凛はそのことをあまり気にせず、美緒が練習に来た日には、みっちり仕込んでいるようだ。熱心な部員ではないが、特に人間的に問題があるわけでもなく、優先順位をつけてできることをできる分だけやる、ドライな面がある。宮北高校の吹奏楽部員の三分の一は恐らくこのタイプで、三分の一は夏希や香音のようにハッキリと部活優先、残りはどっちつかずだ。響子は、気持ちの上では今のところどっちつかずの方だ。恐らく凛もそうだ。万々が一にでもコンクールに出場ということになれば、最悪、勉強優先の三分の一が退部という事態になることも考えられる。どっちつかずの響子たちは成り行きだ。

もう一人の一年生パーカッション、山田拓はこの三つのグループの何処にも入らない。三つのグループの補集合のようなところで、外から悠々と全員を眺めているかのようだ。凛はこの拓を、ことのほか気に入っていて、よく面倒を見ている。考えていることがよく分からないようなところもあったが、打楽器センスは抜群で、何を教えても飲み込みがよく、凛を喜ばせている。

響子は、凛が、この拓にアンサンブル曲の練習をさせていることを知っていた。響子がアンサンブルの譜面を渡された日には、既に拓は譜読みを始めていたようだ。理由はよくわからなったが、田中や夏希には言わなかった。今回の選曲は凛の高い技量を見込んでのことで、その事は凛もわかっているはずだ。今は、迷惑をかけることはしない、と言い切った凛を信じるしかないが、万が一、凛が拓との交代を言い出したとしても、田中や夏希も無下にはできないだろう。響子としては、拓であっても落ち着いて合わせられるように心の準備をしておくだけだ。

そうなると、やはり今、一番の悩みの種はホルンだ。最初から夏希達がパートリーダーの絵里に決めておいてくれればと思わなくはなかったが、最近の聖桜の上達ぶりを考えれば、二人を候補にした夏希達の判断は正しかったようにも思える。しかし、最後にどちらか一人を選ぶという役まわりは、形ばかりのコンミスには重すぎる。


全体練習の後、響子は一人で三沢の部屋を訪ねた。三沢は特に理由を聞かなかったが、機嫌よく響子を自室に招き入れた。響子は田中や夏希が発案したアンサンブル・ステージの事と成り行きを三沢に説明した。

「オーディションですか。それは大ごとになってますね」

「先生にも審査に加わって欲しいと思ってるんです」

「ふふふ、それは遠慮しておきますね。ジョイント・コンサートのスローガンは、吹奏楽部と合唱部が共に自分たちの手で自分たちのために、ですから。久見木さんは知らないかもしれませんが、このイベントが始まったころは、ずいぶん先生たちに反対されて大変だったみたいですよ。生徒の自主性を重んじるということで、いろんな大人を納得させて始まったイベントなので、基本的には顧問でさえ口を出さないんです。この学校では、良くも悪くも独立自尊自重がモットーですから」

「そうは言っても、わたし、クラリネット以外の事はあまり分かりませんので」

「久見木さんなら大丈夫、自信をもって決めてください。それ以上は言いませんけど、また、困ったらいつでも相談にのりますよ」

三沢は上等なタオルの様に肌触りの良いことを言う。お陰で、響子が自分で決断を下すしかないという覚悟はできた。要は旨くあしらわれただけだが、三沢と二人きりで話をすることなど滅多にないのだから、この際、ずっと胸にしまってきた疑問をいっそこの場で吐き出したいという思いがふつふつと湧き上がる。響子にとって、あるいは田中や夏希や香音、他の吹部の皆にとって、オーディションよりむしろ大切かもしれない。

「先生はコンクールがお嫌いだと聞きましたが、それはなぜですか」

あまりに唐突で大雑把な質問にも三沢は顔色一つ変えない。

「もしよろしければ理由をお聞かせください」

短い沈黙のあと、三沢は落ち着いた口調で予想外のことを口にする。

「憶えてますか、転校初日のこと。始めは本当に心配でした。人を寄せ付けない頑な態度でしたからね。本当にどうなってしまうのかなと」

確かに大人の都合で響子の思い描いた青春ではなくなった。何で自分がこんな目に合うのかと恨めしく思った。

「しかし、私が心配するまでもなく、久見木さんは吹奏楽部になじんで、今では仲間に頼りにされ、あなたもそれに応えようと頑張って、みんなの力になろうとしている。部活ってそれだけで素晴らしいと思いませんか」

三沢は自分に言い聞かせるように二、三度と頷いた後、響子に向き直る。

「私の父は音楽家でした。父を見て育った私は、物心ついたころから、音楽とは自分の音を探し極めることで、自らの存在価値そのものだと思っていました。突き詰めれば音楽とはそういうことです。音楽である以上、生徒の指導であっても、基本的なところで私の考えは変わっていません」

「先生は、前の学校では吹奏楽コンクールで素晴らしい成績を収めていらっしゃったんですよね」

三沢の口角が微かにあがる。

「成績、その言葉がまさにコンクールの本質を表していますよね。では誰の成績だと思いますか」

「それは、学校とか部の成績と言うことだと思います」

「ですよね。そして指導者の成績でもあるんですよ」

三沢は、電気ポットに、ペットボトルのミネラル水を注ぎ、電源のレバースイッチを押し込んだ。

「コーヒー、飲みますか?」

「あ、はい」

三沢は、個包装のドリップコーヒーを二つ、不揃いのマグカップの上に置く。来客用の小さなテーブルの上には書類や楽譜が乱雑に積み重なっている。響子は促されるままにソファーに座った。沸き上がったお湯が注ぎ込まれると、立ち上る湯気と共に甘ったるいキャラメルを焦がしたような香りが鼻の奥に広がった。

「指導者にとって、勲章のようなものですよ」

「それは、先生の指導の成果なんですから、誇ってもいいことだと思います」

「私も教師の端くれです。主役は生徒なのですよ。コンクールは生徒あってのものです」

三沢は響子の前にマグカップの一つを差し出した後、自分で入れたコーヒーを口元に運び、目を閉じて、立ち上る香りを確かめ、口に含む。

「私が大学を卒業して、最初に吹奏楽の指導をした新設の高校は、二年目に初めて全国に行って、その後も二年連続で全国に行ったんですが、金にはなかなか届かなかったんです。翌年、私は近くの伝統的な強豪校に引き抜かれ、そちらに移ってようやく全国で金を頂く事ができました」

「夏希たちから少し聞いてはいましたが、先生は本当にすごい指導者だったんですね」

「まあ、最後まで聞いてもらうと、がっかりするかもしれませんが」

それだけで尊敬と驚愕に値する実績であることに違いないが、三沢は苦笑する。

「最初の高校では、当初から毎年沢山の一年生が入部してくれたんです。全国大会に連続して出場したことが良い宣伝になったんでしょう。でも、私が引き抜かれて急に学校をやめてから、翌年には県大会進出もままならない状態になって、一年で半分以上が退部したようです。私が辞めたあと、三年生まで続けてくれた生徒に後で言われました。全国で金が欲しかったんなら、なんで自分たちと頑張ってくれなかったのかって」

三沢は回すようにマグカップを揺らす。

「生徒にとって、かけがえのない高校生活のことを忘れ、自分のためにコンクールで良い成績を納めることしか考えてなかったんですよ。残された生徒たちがどれほどの虚無感を味わったのか、辞めて行った生徒たちが、そのあと吹奏楽以外でどんな高校生活を送ったのかを考えると、今でも胸が痛みます」

全国で金を取るというエゴのために学校を去り、とり残された生徒が犠牲になったと言えなくもない。そう考えて三沢を批判する生徒がいたのも確かだろう。だが、三沢が音楽家としての本道を極めるためだったと言えなくはない。

「音楽家でらっしゃる先生のお父様は、その時、なんておっしゃってたんですか?」

「私ね、父親とはあまり話をしないんですよ。仲が悪いんでしょうね。音楽的な部分はすべて父親から受け継いでいるように感じているんですがね」

「先生のお父様のお名前は何とおっしゃるんですか」

「質問攻めですね。私の身の上話の様になってしまいましたが、今日はオーディションの相談でしたよね」

「いや、それはそうなんですけど。先生のことをもっと知れたらと思うんです」

「父は編曲の様な表にあまり出ない仕事が主で、特に有名というわけでもありませんよ」

テーブルの上に乱雑に置かれた有名作曲家の吹奏楽曲のスコアの下に小さく書かれた文字が目に留まった。


Arranged by MITSUZAWA Isshin


「イッシン、何だかお坊さんみたいですね」

響子は意図せずとも盗み見したような軽い罪悪感を打ち消すように軽口をたたいた。

「ははは、そうですね。アンサンブルのステージ、良い演奏を期待しています。久見木さんならきっと大丈夫。遅くなっちゃいましたね。車で送ってあげましょう」

「そんな、近いから大丈夫です」

「こんな夜遅くに生徒を一人で帰すわけにはいきませんから。今日はあなたと話ができて良かった。ありがとう」

響子はコーヒーを急いでふくみ、のどに押し込む。砂糖もミルクも入れないコーヒーは初めてだった。心安らぐ香りと嘘のような苦さと肌触りの良い三沢の声がアンサンブルステージに対する不安を忘れさせてくれそうな気がする。

三沢の部屋を訪れる前、ホルンは艶やかな音を出せる聖桜に吹いてもらおうと心は決まっていた。三沢は既にそのことを見透かしていたように思う。聖桜でどうでしょうかと聞いたところで、久見木さんの思うようにどうぞとしか言われなかっただろう。頑張っている二人の内一人を選ぶと言う重荷は自分だけで背負うしかない。今更ながら重い責任を負わされたことに気がめいる。しかし、思いがけず胸踊ることもあった。それは、三沢のコンクールに対する思いを聞いて、物事の捉え方や感性に共感できたこと、それから三沢から最後に言われたありがとうの一言だった。


響子と祐樹は午前中の全体練習を抜けてシティーホールに向かった。照明演出の構成、演奏者の立ち位置などの確認のため、ホールのオペレーターとの打ち合わせが予定されていた。

「切り替えのタイミングはこんな風にスリー、ツー、ワンとやってくれるとばっちりだ。一応楽譜は預かっておくよ。それから後で構わないから、全曲の録音を持ってきておくれ。イメージ作っときたいんでね」

案内されたコンソールルームには矢上という威勢のよい初老の男性が待っていた。響子は、隅の方で壁にもたれ掛かり、少し離れた所から、祐樹や合唱部のステージ係と矢上のやり取りを聞いている。天井の低いコンソールルームから、客席の向こうにぼんやりと浮かぶステージを見下ろす。

「なあ、おねえさんよ」

「お、おねえさんって私ですか?」

矢上に不意に呼びかけられた響子は、すっとんきょうな声をあげた。鼻で笑ったのは、前田のことを気にかけていた合唱部の女子だった。

「あんたの出番はどこだい」

「ここと、ここですね、あと場所はここです」

「そっか、そっか。何か心配なことでもあるって顔だな」

響子はあらためて薄暗いままのホールを見下ろした。昨日、コーヒーと一緒に押し込めた不安が、再び苦い塊となって喉元に上がって来る。

「吹奏楽アンサンブルのステージなんですが、準備の時間が足りなくて、上手くいかないんじゃないかって」

「あんたも出るところだよね」

矢上は、被っていたよれよれの黄色のキャップを脱いで豊かな白髪を指で梳く。

「上手くいかないかもって心配になるのは、上手くやろうって考えすぎてるってことかもな。演奏の良し悪しは私みたいな素人には難しい話だけど、音楽ってのはあれだろ、音を楽しむことなんだって言うじゃない」

祐樹が合唱部の女子二人と楽しそうに話している。あらかた打ち合わせは終わったのだろう。

───自分の音を探すこと

三沢は音楽との向き合い方のことをそう言っていた。

「矢上さんにとって音楽ってなんですか」

「小難しいことを聞くんだなあ」

苦笑しながらひとしきり頭を掻いてキャップを被りなおす。

「まあ、私にとって音楽は仕事の一部ってところだけど、ここで上からステージを見てて思うことは、音楽っていうのは演奏する人とそれを聞く人がいて初めて音楽なんだってことかな。だから、あんたが本当に自分の音を聞かせたいと思っているのは誰なのかって考えてみるのもいいんじゃないかな」

「聞かせたい人・・」

「よし、手をかしてみな。あんた、名前は?」

とっておきの方法を教えると言い、響子の名前を右の手のひらに指でなどって見せた。

「そして、これをこうして呑むんだ。人って書いて呑むのは知ってるよな。自分の名前を呑むのは自分自身に呑まれない様にってことだ。気張り過ぎず、ありのままの自分を一番に聞いてもらいたい人に届けることができるぞ」

響子はぼんやりと由希や凛を思い浮かべた。

「それから、あんたが信頼する人、尊敬する人、好いている人に心を込めて書いてもらうと効き目抜群さ。だからさっきのはきっと駄目だろうな」

外連味のない笑い声が響き、祐樹や合唱部の女子は怪訝そうな表情で二人を見ている。


本番一週間前、響子は練習室で聖桜を待っている。ホルンパートのオーディションは終了し、響子が部会で全員に結果を伝えた。響子に話しておきたいことがあると聖桜から声を掛けられた。特に思いつめた様子ではなかったが、お気楽な話でもないことは覚悟している。

高い身長を気にするように身体を折りながら練習室に入って来た聖桜は飄々として無表情だが、それはいつものことだ。二人は、練習でいつも使っているパイプ椅子で向かい合わせに座る。絵里は、祐樹や香音と同じように、自主練でよく見かける顔だったが、いつも絵里が一緒で、今日は一人だけというのが少し不思議な感じだ。もちろん、二人だけで話をするのは今日が初めてだ。遮るものが何も無いまま、しばらく真っすぐに響子を見つめていた絵里が、ゆっくりと口を開いた。


    ♫


聖桜が通っていた青城学園は、宮山から車で一時間ぐらい北に行った所にある。この辺りでは有名な中高併設のお嬢様学校で、裕福な家庭の子女が県内から集まって来るということになっていたが、実際は聖桜の様に特に裕福では無くても、小学校から塾に通い、中学受験をして入学する女子が少なくない。

聖桜は青城学園中学で絵里と同じクラスだったが、ある事情で二人は青城学園高校には進まず、公立高校の入学試験を受けて宮北高校に入学した。それは、青城学園としては異例のことで、本人たちも入学した当初はそのようなことになるとは夢にも思わなかったはずだ。


教会の様な講堂には木製の長椅子が並び、誇らしい気な新入生が入場する通路の両側には芝桜の鉢が敷き詰められていた。吹奏楽部はアルセナールの行進曲を厳かに演奏し、合唱部が校歌を美しく歌い上げた。少し前には小学生だった少女たちは、新しい制服に袖を通し、早くも青春を謳歌する女学生になろうとしていた。聖桜と絵里も他の一年生と同じように、これから始まる学園生活に胸を膨らませ、この学校に通えることを心から喜んだ。

青城では、部活はそこそこ盛んだったが、こと勉強に関してはがつがつしたところがない。いずれは大学受験の波にもまれることなど意に介さず、世間から隔絶されていることを、むしろ校風の一つとしているかのようだった。

入学当時から目立って背の高かった聖桜は、当然のようにバレーボール部やバスケットボール部から勧誘されたが、本人は運動音痴を自認していたので、全く興味を示さなかった。高身長で手足が長い上にショートカットでボーイッシュな容姿は、入学早々学園の少女たちの噂と憧れの的となっていたことにも、知ってか知らずか、これも殆ど眼中に無かった。聖桜は孤独を好んだが、部活は入っていた方が良いだろうぐらいに考えていた。小学校の金管バンドでホルンを吹いたことがあったので、吹奏楽部を少し考えたが、結局、拘束時間の短い合唱部に入部することにした。

一方、外観で特に目立つ所が無い絵里だったが、真面目で世話好きな性格で、直ぐに沢山の友人ができた。絵里は金色に輝く金管楽器、特にメルヘンチックな形で柔らかい音色のホルンに憧れ、迷わず吹奏楽部に入部した。二人には、同じクラスで家が近いという以外には特別な接点は無かったが、ボタン一つの掛け違いが、二人を暗い淵に引きずり込むことになった。

始まりは中二の夏、高校と合同で活動していた合唱部の夏合宿の夜だった。就寝時間を過ぎてから、聖桜は高校生の先輩三人から中庭に呼び出された。一人はソプラノパートで高一の優子先輩。アイドル顔負けのルックスとスタイルで学校の内外にファンが居たが、気取ったところが無く、面倒見の良い楽しい人だと思っていた。


優子先輩に告白された。


リアルさに慌て、好きな人がいるみたいなことを口走った。差し詰め、その場に来ていた他の二人は介添え役だったんだろう。

胸がざわついた。夏休み明け、何ごとも無かったかの様に部活に現れる優子先輩を見て、あれは悪い冗談だったのかもしれないと思ったが、流石にそれを先輩に確かめることは憚れた。ところが、十月になると優子先輩が部活に現れなくなった。部活どころか学校にも来なかった。

結局、優子先輩は自主退学になった。男性とのいかがわしい動画がネットに拡散したことが理由だった。告白がおふざけでは無いにしても、結局は優子先輩が男性との関係を望んだわけで、あの告白と退学とは直接関係なかったんだと胸を撫で下ろした。しかし、そうではないと思う人もいた。合唱部では、優子先輩が聖桜にふられ、自暴自棄になってやったことになった。

部活での疎外には凄まじい物があった。ぬくぬくとした狭い世界は世間知らずでも意外に結束が固い。はっきりした証拠がなくても、みんなが言う方に固まっていく。初めからみんながあっったわけではない。聖桜に肩入れする人も少しいた。しかし少しの差がみるみるとみんなを作っていった。そしてみんなの力は、みんなでない聖桜を容赦なく押しつぶしていった。間もなく聖桜は合唱部をやめた。

クラスではあからさまな疎外は無かったが、私物が時々消え、しばらくするとトイレやロッカーで見つかった。はじめは鉛筆や消しゴムのような小さなものだったが、その後は、筆箱、カバン、靴、ジャージ、制服が消えた。靴が消えれば先生にサンダルを借りて帰った。制服が消えればジャージを着て帰った。制服とジャージが消えた時はさすがに親に泣きついた。

学校で物がなくなれば、親は子ども自身の管理が悪いと言う。ただごとではないと親が気付いくのは、状況がどうしよもなく悪化してからだ。三学期、聖桜は足がすくんで学校に行けなくなった。聖桜の両親は何度も担任の所に行き、クラスメートを一人一人調べるよう抗議した。聖桜の胸に寂しさが鳴った。学校が警察の様なことをして何の意味があるのだろう、自分の家族もこの学校と同じように世間から隔絶された所に居たのだと。聖桜は本当の孤独の意味を知った。

学校を休みがちの時、家が近い絵里は授業で使ったプリントを自宅まで届けてくれた。しばらくして学校に全く行かなくなると、絵里は部活を休んで家に来て、よく話し相手になってくれた。世話焼きの絵里には感謝していたが、絵里がいじめに巻き込まれるのではないかと内心気が気ではなかった。

中三の四月、クラス替えの後は持ち物が消えることが無くなった。先生も生徒も何事もなかったかのように振舞った。この学校で犯した罪は四月になるときれいさっぱり水に流され、傷つけられた人の心も癒えることになっていた。悲しみ、呆れ、怒りが込み上げ、決心した。こんなうわべだけの学校とは決別するのだと。

絵里には直ぐに打ち明けた。涙ながらに辞めないで欲しいと懇願されたが、聖桜の決心が揺らぐことは無かった。しかし、夏休み前のことだ。

「聖桜を一人にしたくない。だから吹部をやめた。青城もやめる。聖桜と高校受験して宮北に行く」

聖桜は体の震えが止まらなかった。人が一人で居続けることは出来ないものだと知った。それから二人はほとんどの時間を一緒に過ごし、二人だけの世界で互いに励まし合いながら受験勉強を続けた。絵里との閉じた特別な関係はこうして始まった。

晴れて、宮北高校にそろって合格したが、入学後は別々のクラスになった。絵里は吹奏楽部に入部し、聖桜も当然の様に吹奏楽部に入部し、絵里と一緒のホルンを希望した。絵里が傍にいてくれるから、絵里が嬉しそうに教えてくれるから、絵里が喜ぶから聖桜はホルンを続けた。


オーデイション前日、二人はいつもの水場にいた。

「明日はいよいよオーディションだね」

「聖桜、聖桜は響子先輩達とアンサンブルステージをやりたいって本気で思ってないんじゃない?」

「正直なところ、絵里がやれば良いと思ってるよ」

「私、本気でそう言うの迷惑だから」

「何が迷惑なの。実際、私なんか絵里の足元にも及ばないんだから」

「ああ、もう面倒臭い。綺麗事ばかり言わないでよ。聖桜はそうやって私の邪魔ばかり・・」

「絵里?」

絵里は、聖桜との練習が好きだった。教えることが楽しかった。聖桜の呑み込みの早さには驚かされ、どんどん上達することが嬉しかった。そして、聖羅には自分にない才能があることに気づき、今は嫉妬心と無力感に押しつぶされそうになっている。

「優子先輩のこと覚えてるよね」

聖桜はその名前を聞いて一瞬足がすくんだ。

「わたし、青城に入ってから優子先輩のことがずっと好きだったんだ」

聖桜は身じろぎ一つできなかった。全く思いもよらないことだった。

「優子先輩が聖桜に告白したって聞いた時、私は頭の中が真っ白になった。そして優子先輩が退学になった時、あなたのことを絶対に許せないと思った」

聖桜は耳を塞いだ。

「そしてあなたの持ち物を何度も隠した。筆箱だって、カバンだって、制服だって」

聖桜はずっと信頼して来た絵里に対して、漸く怒りがこみ上げて叫んだ。

「でも、じゃあ、なんで、一緒に青城を辞めるなんて言ったのよ」

絵里は、それは−と言ったきり視線を下に滑らせ苦悶の表情を浮かべた。

「私、部活の先輩に優子先輩の居場所を聞いて春休みに東京まで会いに行った。行かない方がいいよって先輩達に言われたけど、聖桜との事を絶対に確かめなくちゃいけないと思って」

東京の住所がアダルトビデオ会社の事務所だという事は承知の上だった。

「全く別人の様になって、聖桜に告白したことも全然覚えてなくて鼻で笑われた。優子先輩のセックス動画が拡散したのは、会社のプロモーションだったことも分かった。聖桜がいじめにあってあんなに苦しんでたのに、ひどすぎるって思った」

太陽は山際に陰り、西の方の空は、沈んでいった太陽が山の向こう側から、放射状に雲を茜色に染めている。

「聖桜が学校をやめる必要なんかないと思った。本当に許せないのは私自身だから、私も優子先輩と同じように、青城から消えてなくなればいいと思った。許してなんて口が裂けても言えない。一生恨まれて当たり前だと思う」

二人で励まし合い、一緒に高校受験を乗り越えてきた日々は、空言に縁取られた虚しい記憶だ。

校舎の外で街灯灯り始めている。ここからもよく見えるグラウンドで、野球部が威勢のよい掛け声を出して練習をしている。その声は二人のいる校舎の三階までよく聞こえてきた。

「聖桜は素晴らしいホルニスト。私は凡人だけどね、音楽が大好きだから、どんな形であっても良い演奏になることを望んでいるの。だから、オーディションはお願いだから全力で吹いてほしい」


♫  


大学が決まって意気揚々と現れる者、希望がかなわずくやしさを滲ませたままの者、来年の受験に向けて決意を新たにする者、本番四日前、全体合奏に参加する三年生のモチベーションは別の所にある。

「何かこう、気合が入ってないよ。直前なんだからまとまってさ、気持ち入れてこうよ」

第二音楽室に場違いな檄が彷徨う。響子の診たてが正しければ、まとまっていないのも、気持ちが入っていないのも、コンサートに向けて練習が不足しているのも、歓迎されざる三年だ。ホルンパートの一つ、聖桜の隣にいるべき、絵里の席は空いたままで、全員の関心はむしろそこに注がれている。アンサンブルメンバーの殆どは田中と夏希が指名し、ホルンパートの二人にだけ、オーディションが課されたことは知れ渡っている。

「大体、オーディションなんて本当に必要だったのかしら」

「絵里が選ばれなかった理由を誰かちゃんと説明してよ」

「絵里、あんなに真面目に頑張っていたのにかわいそう。真面目に頑張っている人を選ぶっていうんじゃいけなかったの?」

「アンサンブルのステージなんて余計なこと考えずに、これまで通り、ポップスのステージで良かったんだよ。伝統的に今までそうして来たんだから」

響子と田中と夏希は反論しない。聖桜も、膝の上で強く握りしめた自分の拳を,じっと見つめるばかりだ。

「先輩方の言うこともわかるんですけど」

意外なところから沈黙が破られる。先輩と呼ぶべき人達の無遠慮な言葉に反駁を試みたのは一年生パーカッションの拓と美緒だった。

「ジョイントコンサートは一年と二年が企画運営するコンサートですから、今の幹部の方針は尊重してもらいたいと思います」

「ポップスのステージのことですが、聞いてる方だって毎年同じような曲ばかりでつまらないし、力のある人が、最高の演奏を聴かせるアンサンブルステージに一、二年は賛成です」

凛が呆気にとられて、立ち上がった二人を見ている。

「じゃあ、今まで先輩達が築いてきた伝統はどうでもいいんだね」

「伝統のために僕は部活をしているわけじゃないですからね。進歩を妨げる様な伝統なら、くそくらえでいいんじゃないですか?」

拓は飄々として言うが、言葉は揺るぎない。

「三年生の皆さんも伝統とか、学校のために吹奏楽をしてたわけではないでしょう。吹奏楽が好きだとか、いい演奏をしたいとか、そういう気持ちで、部活を続けてたんじゃないんですか?」

三年生達の中には、頷きながら拓や美緒の話に耳を傾ける者もいる。美緒も熱を込めて必死に言葉をつなぐ。

「今回、アンサンブルステージで演奏する方々は素晴らしい技術や音楽性を持っています。何より、誰よりも練習をし、自分たちのエネルギーの殆ど全てを私たち吹部に注いでいるんです。皆さん、その事を知らないとは、おっしゃいませんよね」

拓は、罵詈雑言を浴びせた三年生一人一人を見たが、誰も目を合わせない。自分たちが信じるところの正しさを確かめるように、美緒と顔を見合わせると小さく頷いて言った。

「僕、凛先輩から代わりにアンサンブルステージの演奏に出るように言われて、練習してたんです」

凛は落ち着きなく響子を横目で見る。

「先輩が何故僕に代わりを頼んだか、本当の理由は分かりません。でも、少しでも良い演奏になるようにと思う気持ちは、出る人もでない人も関係なく同じじゃないといけないと思うんです」

絵里が第二音楽室の中扉を少し開けて、こちらの様子をうかがっている。美緒がそれに気づくと言葉はいっそう強くなる。

「絵里ちゃんだってそうだと思うんです。青城中学から吹部でホルンを頑張ってて、苦労して宮北に入って、青城とは比べ物にならないぐらい弱小の私たちの吹部に入って、それでもホルンを続けて、聖桜ちゃんに一生懸命に教えて、聖桜ちゃんは素晴らしいホルニストになって・・」

美緒の声は涙声で嗚咽混じりで、椅子にへたり込む。

「絵里ちゃんは、アンサンブルステージで演奏したかったんだと思います。でも、もしかしたら、今回は聖桜ちゃんが選ばれることを予感していて、それぐらい聖桜が上達していたからなんだろうだけど、それはきっと絵里ちゃんがつきっきりで絵里ちゃんに教えていたからで、それでも、二人で頑張っていたんです。それは、それは、絵里が純粋に最高のアンサンブルステージにしたいと思っていたからなんだと思います」

美緒の声は涙声で嗚咽混じりで、椅子にへたり込む。

「あの」

立ち上がった聖桜は顔を上げ、真っすぐに前を見据える。

「あの、私と絵里には、今まで本当にいろんなことがありました。絵里のおかげで、私はホルンのことが大好きになれました。宮北吹奏楽部の事も好きです。そして絵里の事はもっと好きです」

聖桜は、自分に言い聞かせるよう、一言一言を絞り出す。

「でも、私、間違ってました。絵里のために上手になるんだとか。私は、選んでもらった以上、素晴らしい演奏にするために、絵里に私の最高の音を届けるために、持っているもの全てを出し切ります」

響子は、聖桜から打ち明けられた二人の悲しい巡り合わせを想う。惹かれ、裏切り、引き裂かれ、また惹かれ、二人にとって一緒にいること自体が大きな試練になってしまった事が悲しくも美しいと。

中扉が大きな音を立てて開いた。

「すみません、寝ぼうしちゃって」

目は真っ赤に腫れ、鼻をぐすんと鳴らしながら、絵里がホルンと楽譜を抱えて駆け込んで来る。自分に注がれる視線をはねのけるように、いつもの席に、いつもの様に聖桜に寄り添うように腰を下ろす。

「遅い、絵里、心配させるな」

聖桜が肘で小突いた。

「ごめん」

「私、アンサンブルステージ頑張るから、しっかり見ててよ」

「うん、精一杯、応援する」

絵里はかつて愛し、憎み、いじめ、許され、共に苦しい時、楽しい時を過ごした聖桜を愛おしそうに見る。聖桜は絵里を見ない。見ないが、強い口調で幼いことを言う。

「絵里とのこと、こんなんで終わりにできないから。そんなの絶対に許さないから。絵里がいないと私はだめなんだから、絵里はずっと、これから、どんなことがあっても、ずっと私と、一緒にいなきゃだめなんだから」

「わかった、約束、だね」


ジョイント・コンサート、第三ステージ、管打楽器八重奏。わずか八名が寄り添うように綺麗な半弧を描いて薄暗がりのステージ中央にいる。ホリゾント幕が複雑な色味の茜色で立体的に染まる。フットライトとバックライトがゆっくり点灯し、響子が構えたクラリネットのキーが複雑に光を反射する。ベルが微かに上下して静かに演奏が始まった。

凛のスネアドラムは静かにリズムを刻み、性質も形も全く異なる七つの楽器が不規則に波打つように折り重なりながら一筋の音になっていく。頬をなでる心地よい音圧のユニゾンは、田園風景に鳴り渡る草笛の様に、どこかおどけたメロディーを奏でる。夏希、祐樹、聖桜、田中の艶やかな金管のハーモニーは田園に吹き渡るさわやかな風のようだ。一瞬の静寂のあと、情念がほとばしる激しいシロフォンで平穏な心象風景が打ち砕かれる。美しかったメロディーは、地鳴りのような低音金管と、嘲るような木管の不協和音で霧散する。はるか彼方から、澄み切った聖桜のホルンの軽やかなパッセージとスネアドラムに導かれ、ファンファーレが響きわたる。のどかな風景の地の底からから湧き上がるような低音楽器の力強いハーモニーの上で優雅に踊るように、香音のサキソフォンと碧のフルートが朗々と大地礼賛のメロディーを歌い上げる。

ステージの袖で祈るように見守る絵里の指は微かに細かく動き、聖桜のそれと完璧に同調している。折り重なるようなそれぞれの思いのままに音を奏でた八人に、観客の視覚、聴覚、皮膚感覚、ありとあらゆる感覚が吸い込まれる。三沢もその中にいる。解き放たれたように奔放なまでのパーカションと優美で官能的なホルンは衝撃的ですらあった。感覚を研ぎ澄ます程、脳底に深くしずみこんでいくような一体感と同調性。三沢は胸骨の裏側が疼き、背骨の方までその波動が伝うのを感じる。

繰り返しアインザッツを送る響子は冷静だった。そして無心だった。記憶されたスコアとそこに配置されたすべてのパートのアーティキュレーション、ダイナミクス、アゴーギクに至るまで、全てが寸分の狂いなく再現され、無心のまま曲を終え、気が付いた時はステージ上で鳴りやまない観客の拍手を聞いていた。

袖にはけた聖桜は、倒れ込むように絵里の胸にもたれかかり、子供の様に泣きじゃくる。吹奏楽部でも合唱部でも関係なく皆が感動し、響子達に賞賛の言葉をかける。夏希と香音の目にも涙があふれる。響子は言った。

「田中くん、どうだった?」

「僕たちの今できる最高の演奏だったと思う」

矢上の言っていた、響子が一番に自分の音を届けたいはずの存在は不確かで、あやふやで、もどかしい気持ちのままだが、響子は届けたい気持ちを音にのせ、そして、仲間を想って奏でた。


コンサートの片づけを終え、矢上に挨拶をして、響子は一人で学校に戻った。春分を過ぎて日が伸びてきたとは言え、夕方六時を回ると、太陽は西の山間に暮れて夜の帳の気配となる。

響子は片付けの後に姿の見えなくなった凛を探した。第二音楽室に行き、練習室にも準備室にも凛がいないことを見て取ると、その足で急いで管理棟に向かった。三階から屋上へ出る階段のあの場所に、ようやく凛の姿を見つけた。薄暗がりで一人、少し小さくなって階段に座っている。響子は凛の顔を見ずに、少し離れて腰を掛けた。

「ごめん、拓の事黙ってて。怒ってるよな」

「うん、怒ってる。でも知ってた」

「それにしても今日の凛はすごかった。あんまり合わせる時間無かったのにさすがだよ。だから許す」

「あの曲な、中二の時にアンサンブルコンクールで演奏したことがあるんだ」

響子は驚いて聞き直した。全体的に曲の難易度は高いが、特にパーカッションは中学生が演奏できるレベルをはるかに超えている。

「いや、他は中三の先輩だったし、私も今ほどちゃんと叩けていなかったから」

淡々とした口調は、努めて感情を押し殺して話そうとしているように思えた。

「そのころ家族の中で辛いことがあって、練習に集中できてなかったんだ。本番でも酷い演奏になっちゃって、先輩にも随分怒られたよ」

家族であった辛いこと、その言葉の意味することに強く反応した響子の胸は締め付けられ呼吸が苦しくなる。

「今でもあの曲を演奏すると、その時の記憶がよみがえってダメなんだ。トラウマって言うんだろうね。拓と美緒にはその事はちゃんと説明して、拓が代われるんじゃないかと思って、美緒にも手伝ってもらいながら練習してたんだ」

声が微かに震え、細々として途切れがちになる。

「ほんというと、拓も十分演奏レベルまで上達してたんだけど、最後の最後に、トラウマなら乗り越えるチャンスかもしれないし、私がやらなきゃダメだって、拓にも美緒にも強く言われて。なんとか、今日は演奏できたけど、今も少し手が震えてる」

響子は凛のすぐ傍に座りなおし、そっと首に腕を回し、凛のうなじを横から抱きよせる。凛の体が僅かだが小刻みに震えるのを感じる。体だけではなくて、今、響子が包み込んでいる心まで、冷えて、小さくなって、おびえているのを感じる。響子は凛をしっかりと抱き寄せ、自分の体温を移す。

「私ね、凛のお母さんから」

凛の体が少し硬直し、一瞬、震えがとまったのを感じた。

「宮山に越してきた理由、聞いたよ」

しばらくは浅くて、静かで、規則的な呼吸だけだった。やがて、凛は一度深く息を吐く。

「そっか、知ってたんだ。うん、いつかは言わなくちゃって思ってたから、よかった…」

それから、凛の呼吸は徐々に不規則で荒くなり、やがて嗚咽にかわる。両手は響子の腕を縋りつくように掴んでいる。響子は凛の肩をしっかりと抱いた。その肩は細かった。凛の瞳を覆う液体は一気に溢れだす。とめどない涙は階下から僅かに差し込む廊下の白い灯りを反射し、鈍く光って凛の頬を伝い、響子の首筋を濡らした。

「演奏するのは、つらかった、けど、今日は、響子の、響子のためにたたきたかった。響子のことや、アンサンブルのことや、そういうのを悪くいうやつらに、一言だって、文句言わせない、それぐらいに、完璧にたたきたかった。そう思ったから、できたんだと思う」

嗚咽で凛の涙声は途切れがちた。響子は目を静かに閉じる。

「うん、わかってる、わかってるよ、ありがとう」

凛の緩やかな遅れ毛が響子の瞼を柔らかく撫でた。

凛が中学生の、その頃に戻って、凛に寄り添い力になってあげたかったという無念が響子の胸を締め付ける。せめてこれからは、ずっと、悲しい気持ちも楽しい気持ちもつらい気持ちも二人で分かち合えばいい。二人に流れていた時間の川を逆戻ることはできない。だから、過去はもういい。これから二人で行く。どれほど遠いかは分からないが、できうる限り遠くまでその先に何があっても二人で行けばいい。



桜の咲くころ


正門から生徒玄関までの通路は、オモチャ箱をひっくり返したようなにぎやかさだ。それぞれの部活のユニフォームはともかく、場違いな仮装、派手なペイントのプラカードと横断幕、からした声や血走った目の上級生、全部が目に痛い。真新しい制服に身を包んで続々と登校してくる新入生の視線は前後左右に泳いで、視線が定まらず、少しうつむき加減で通路を足早に通り過ぎる。

二年から三年でクラス替えはない。響子、凛、香音は三人とも同じクラス、担任も三沢のままだ。

「新入生の部活の勧誘って、なんかカオスだよな」

「お祭りみたいで、私は楽しいなと思うんですけど」

「でも、私たちのチアガールみたいな衣装は、いったいどういうことなの?」

響子たちは、吹奏楽とはおよそ関係のないであろうチアガールの衣装だ。眉根を寄せて、憤まんやるかたない様子で響子は言う。

「わたし、今日の今日までぜんぜん聞いてなかったし」

春とはいえ、時折、寒風が尻から太ももの間を抜けて、響子は思わず腰をかがめて膝を折る。若さ爆発みたいなミニスカートをはいたって、はじけた気分にはならないし、ばかばかしい程に大きくトレーナーにプリントされたMBBにもうんざりする。

「毎年吹奏楽部の女子は、これで勧誘するんですよ」

香音はエンジと白色のスコートでクルクル回ってはしゃいでいる。

「新入生のみなさーん、一緒に吹奏楽部で青春しましょうって」

香音の物おじしない明るさは見ているだけで楽しいが、それは見ている時に限る。

「香音ちゃんにはついていけないよ」

「私は、ちょっと楽しいかも」

凛のヒップからウエストは、上等な陶器の細口花瓶のような曲線を描いて、手足はその先まで滑らかで伸びやかだった。

───ふん、私だって、凛ぐらいのスタイルならチアでもなんでも喜んでやるわよ

響子は、がりがりで骨ばった自分の太ももに視線を落として、両膝をしっかりと閉じた。

伏し目がちの新入生の男子生徒が、チラチラと香音や凛の方を見て行く。なかなかの宣伝効果だと思う。

響子は、お願いだから私の方は見ないで、と目を逸らす。

香音は、待ってるからねー、と言って投げキスをする。

大勢の新入生男子の視線が、一斉にくぎ付けになった。

これはさすがに度が過ぎる。

合唱部の女子達の刺すような視線に腰をかがめながら、名残り惜しそうにしている香音の腕を、響子はぐいぐい引っ張って、第二音楽室に戻った。

多少冷や冷やしたが、こちらを見ていた何人かの新入生男子は入部してくれるだろう。香音のお陰だと思う。香音は明るいだけではない、いつも周りに熱を与える。彼女が熱を奪うのを見たことがない。

三人が第二音楽室に戻り、制服に着替えるために練習室に入ろうとした時、入り口付近で、祐樹と鉢合わせした。

「お、おまえ……」

「な、なによっ」

響子は反射的に胸を手で抑えた。

「いや、かわいいなと思って」

祐樹はわざとらしく手で口を抑えたが、視線はスコートの下から真っすぐに伸びた華奢な大腿から貧相な胸に這っていた。響子は顔を真っ赤にして、祐樹を睨んだ。

「いやらしい」

「おれ、何もしてないじゃん」

───スコートは確かにすごく可愛いと思うけど、その可愛い衣装も私が着たら台無しでしょうに。

「祐樹君て、貧乳好きなのかなあ」

「香音ちゃん、ひどいこと言ってる」

後ろ手に練習室の扉が完全に閉じられ、内鍵をかける乾いた音が音楽準備室に響いた。



響子の瞳は春の光を含んでいた。祐樹は鈍く窓ガラスに差し込んで光を散らすあの柔らかい春の光を見た。祐樹は練習室に入って行く響子の後ろ姿を目で追った。嘘をついた。何もしてないというわけではない。ぴったりしたスコートで形のはっきりわかる丸みを帯びた下腹とヒップ、下に真っすぐ伸びる華奢な太ももを目に焼き付けていたし、にやついたりしないように必死にこらえた。そして、その残像の余韻を楽しみながら、昨日降ってわいたような思いがけない出会いに思いを巡らせた。


「ああ、分かった。練習終わったら帰りに寄るよ」

父親からの電話だった。他の家庭に比べれば、よく話をする父子だと思う。それは、もうずいぶん長いこと母親と暮らしてないからかもしれない。

父親の仕事が早く終わりそうな時は、一緒に外で夕食を済ませて帰宅するのは珍しくない。しっかり個人練習をして帰ると夜八時を過ぎることが多かったが、今日は三沢が職員会議で全体合奏がないので、祐樹の方も早めに帰ることができた。父親はそのことを知るはずもないので、軽く言い訳をして誘いをやり過ごすこともできた。実際、これまでも三回に二回ぐらいは断っていたから、今日そうしたからといって、特別なことでもないはず。ただ、なぜか今日に限って胸がざわついて、そうしなかった。

母親が離れて暮らしているのは、母親の仕事の都合だ。父親の仕事の都合ではない。父親と母親が不仲であるとは思わないが、良くもない。母親は、結婚しても、祐樹が生まれても、それはそれ。研究者という若い頃からの夢を想ったとおりに貫いて、東京に一人で住み、今の様な生活になっている。祐樹は家庭的な父親を心から尊敬し、感謝している。母親が上等の人生を自分の足で歩いていることをとやかく言う気もないし、期待もしない。

太陽は西の山の端に落ち、濃紺の空に映えるオレンジ色の壁が印象的な大きな病院の入り口まで来た。もう夜七時を回っていたが、玄関にはひっきりなしに人が出入りしていた。玄関脇の救急搬入と書かれた立て看板の前にとめられた救急車の脇に、父親の姿が見えた。祐樹を見つけると、落ち着きなく辺りをきょろきょろと見回して、よそよそしく声をかけて来た。

「わざわざ、ごめんな」

二メートルぐらい後ろから、年の頃は父親と同じぐらいの女性が、やはり祐樹の方を見ながら近づいて来る。ほっそりとして活発そうな足取りとは不釣り合いな、ライトグレーのシックなスーツを着込んでいた。祐樹にあまり考える猶予もなく、その女性は話しかけて来た。

「私、久見木芳恵です。お父さんと同じ病院に勤めているの。祐樹君ね。よろしく」

「あ、はい」

実に気さくに話しかけられた。祐樹が自己紹介する間もなく、祐樹のことは父親から聞いて知っているようだった。

「じゃあ、レストラン予約してるから」

「う、うん。どこ?」

「エピキュールっていうフレンチ、行ったことなかったかな」

父親の声はどこかよそよそしく、いつもより半音ほど高くうわずっていた。

───うん、確かに半音だ。それに、そんなフレンチの店、聞いたことも行ったことも断じてない。

三人はその女性の車でレストランに向かったが、やはり知らない店だった。フレンチレストランというよりカジュアルなビストロ風で、先ほどの父親の空々しくて大袈裟な言い方を思い出して、祐樹は少し可笑しくなった。真白な厚手の布性クロスがかかった四人掛けの正方形のテーブルで、角をはさんで隣り合わせに父親と女性が座り、さっそくオーダーの相談を始めていた。祐樹は女性の向いに腰掛け、父親との会話に聞き耳をたてて身構えていたが、拍子抜けするほど、二人の間に同僚と言う以上の親密さを感じなかった。

料理が運ばれるまでの間、この女性は父親と仕事の話をし、祐樹には学校の勉強や部活のことを聞いて良く笑った。時々見え隠れする少し威厳を滲ませた態度や言葉遣いから医者であることは直ぐに分かったが、なぜかその声や空気感が祐樹の胸を少し息苦しくさせた。注文した料理がテーブルに並び始めていた。祐樹は、はじめに名前を聞いてから耳にはさまったままの疑念についてようやく質問する。

「響子さんと碧ちゃんのお母さん、ではないんですか」

「そうよ。響子と碧は私の娘。久見木って珍しい名前だから直ぐに分かっちゃうわよね」

予期していたことなのに、祐樹の思考はショートして、脳みそから熱いものがほとばしり、体中を上下左右にかけめぐった。

「今日は、響子と碧にも来るように言ってたんだけど、もちろん祐樹君やあなたのお父さんのことは言わずにね」

声の調子が落ちて少し残念そうだったが、やはり芳恵は笑顔を絶やさない。

「今日は少し早く帰れる日だったんでしょ。でも、あの子達、なんだか様子がおかしいと思っちゃったみたいでね。アンサンブルの練習が入ったから無理だって。祐樹くんがここに来てるんだから、あの子達が嘘ついてるのわかっちゃったけどね」

今日、部活が早く終わることを父親も知っていたのだ。やはり祐樹の感は正しかったと言うべきか、響子は結局来なかったわけだから、断った方が響子達にも都合が良かったのかもしれないが、とりあえず父親に自分の嘘が露呈することは避けられた。

「あなたのお父さんと話をしててね、子供たち同士が、学校で仲良くしているんだってことを最近知ったのよ。それが分かった時は、なんだかほっとしたというか、私たち急にこちらに引っ越して来たから、子供たちは学校でつらい思いをしているんじゃないかって思ってたの。何だか心強かったわ。私たちが昔からの知り合いで、たまたまかもしれないけど、子供たちも友達同士だったら、いっそ家族ぐるみで楽しく付き合わせてもらえれば、図々しお願いかもしれないけど、楽しいんじゃないかって勝手に思っちゃったのよ」

家族ぐるみも悪くないのだが、響子とは個人的に付き合いたいというのが祐樹の本音だ。芳恵は次々に運ばれる料理を、父親にも時々目くばせをしながら、手際よく取り分けた。

「結局、失敗しちゃったけど。また、出直しっていうことね」

芳恵の話によると、父親は大学時代の先輩で、大学祭の実行委員で一緒になった時、二学年下の芳恵に父親が交際を申し込んだそうだ。あえなく断られて、それっきりだった。最近になって、芳恵が所属していたオーケストラに入っていた親友から、後輩だった芳恵が松本で仕事を探していることを聞いた。父親は二十年ぶりに芳恵に連絡を取り、今勤務している病院を紹介したとのことだった。昔から特別な男女関係だったことは一度もなく、今も同じ病院の同僚と言うだけだった。

「その、昔、親父をふったんですよね」

「あなたのお父さんがそのことを根に持っていなければいいんだけど。もう二十年も前のことだから、時効っていうことでいいんじゃない。私はあなたのお父さんのことはloveではないけど、好きだったし。本当にいい人なのよ、昔も今も」

父親は何だか嬉しそうに笑っていたが、感じの良い人はおおよそloveの対象ではない。昔も今も。

祐樹は思った。芳恵は考えていることを真っすぐに伝える人だと。少しオブラートに包んだり、尾ひれをつけたりするのは、会話のたしなみだと思うのだが、芳恵の話し方は、気持ちに真っすぐ届く。自分とは人との接し方がまるで違う。一瞬、身構えて相手の出方をうかがっている間に、懐にざっくりと飛び込んでくる感じだ。

「あのね、くれぐれも響子には、今日のこと黙っててね。福島先生と会えば、響子も、きっと直ぐ分かってくれると思うんだけど、私たちお付き合いしているわけでもないし、響子と碧は父親のことを本当に慕っていたから。変に勘繰られて、あなたたちにも嫌な思いさせたくないからね」

祐樹にとっても、今日のことは、響子に知られない方が良いと思った。少しづつ響子のことを知って、踏みしめるように距離を縮めていく、大切にしたい関係ほど、そのゆっくりした過程に意味があるように思えたからだ。響子の家族のことも、まずは響子のことを良く知ってからだと思った。

「あの、響子……さんは僕のこと何か言ってましたか?」

「ああ、そうね。ジョイント・コンサートとかの準備で一緒だったんでしょ。楽しかったって言ってたわよ。あ、そうそう、トロンーボーンは中々の腕前だって」

喉に苦いものが上がってくるのを感じた。父親は笑い、頭をかき、相槌をうったりしながら、芳恵と楽しそうに話していた。二十年前の父親は芳恵に好意を抱いたが、結局相手にされなかったというのが本当の所だろう。今度は息子がその娘を恋愛対象としているのだが、今のところ目立った進展はない。それが現実だ。芳恵は祐樹の様子をみて何かを悟ったかように少し微笑み、祐樹の片腕にそっと手をあてがいながら言った。

「響子のこと、よろしくね。あの子はあの子だから」

その手から伝わる温度はとても心地よかった。



響子は練習室でチアのコスチュームを脱ぎ捨て、制服に着替えていた。時々長く注がれる祐樹の視線に気づいてはいた。祐樹がそれを臆せず、隠そうとしないのは中学生レベルだと少し疎ましく思ったが、可能な限り視界の端の方で祐樹の視線を意識しながら、悪い気はしていなかった。普段はできるだけ気付かないふりをするが、たまに視線が合うと鼓動が一段早まる。だから、練習室のドアを後ろ手に閉じ、祐樹の視線を遮った。

「祐樹君て、ずぼらに見えるけど、本当は繊細なんですよね。私同じ中学で吹奏楽部でも一緒だったから良く知っているんですよ。シャイな子でね、可愛かったんですよ。あの、ぶっきらぼうでだらしない感じなんかは見せかけなんですよ」

香音は、反応を確かめるように、下から響子の顔を覗きこんでいた。

「気になりますよね、祐樹君の熱い視線」

響子より背の低い、香音の下着からのぞく、豊かなバストの合わさり目から、思わず目を逸らし、あわてて軽口をたたいた。

「線の細い男はだめね、芯があってタフじゃなきゃ」

「そうですか。じゃあ、響子ちゃんは、ムキムキがタイプ? 香音、サッカー部と野球部に友達いるけど、紹介しましょうか」

「ははは、メンタルの話よ。気持ちの強さが大事ってことかな」

思ってもないことを言うものではない。香音に余計なことを言うと、考えもしない方向に話がそれていく。凛は響子の辟易とした様子をみて口をはさんだ。

「あいつの馬鹿みたいに分かりやすいところはいいよなあ。自分ではそう思っていないみたいだけどさ。響子もさあ、あまり考えすぎないで、やればいいんだよ」

そう言うと、響子の微かに丸みを帯びた腰骨の辺りの柔らかくて弾力のある冷たい肌を左右から挟みこんだ。

いつもこれだ。

「ぎゃ、や、やめてったら、凛、なんでいつもそこなの」

「では、私もちょっと失礼します」

今度は香音が、響子がひるんでいる間に、ブラジャーの上から胸を両手でわしづかみにした。

「貧乳認定します。貧乳好きの祐樹くんに報告しておきましょう」

「きゃはは、こら、二人ともやめなさい」

「祐樹と付き合うんだったら、相談してくれよ」

「相談してくださいね」

「うんうん、わかった、わかったから、もう、やめて」

遮音された練習室は、三人だけの秘密の空間だった。


運動系であれ文化系であれ、二週間の新入生勧誘期限までに、部員獲得のため、全力を傾け、ことによると妄言の限りを尽くす。特に中学の経験者は喉から手が出るほど欲しいものだ。

勧誘期間は、既に一週間が過ぎた。放課後、第二音楽室を訪れた見学者は今日も疎らだった。

歓迎演奏をひと通り終えると、田中はなんだか無理のある明るい調子で、常套句を並べた。まるで、大勢の一年生がそこにいるかのように。

《楽しく、和気あいあいと、吹奏楽を楽しもう!》

黒板にも確かにそのように書いてあった。凝った飾り文字に、どこかで見たアニメキャラが、なかなか上手に描かれている。

《初心者大歓迎、やさしい先輩が一から丁寧に教えます!》

《テスト前には、しっかり休んで勉強に集中することができます‼》

何度も聞いているのだが、嘘ではない。

この学校では勉強が強要されている訳ではない。運動部には部活に全てをかけているような生徒も大勢いる。部活もよし、勉強もよし、学校としては、とにかく自分たちで考えて行動しなさいということらしい。不思議なもので、自由にしなさいと言われると、偏差値のそこそこ高い宮北高の生徒の多くは、結局、勉強して少しでもいい大学に入るというローリスクの目標に方位磁針が落ち着く。地球全体の地磁気ぐらい、一斉にそちらの方を向かせてしまうのだから、結局、学校が一枚も二枚も上手なのだろう。

「コンクールの成績はどうなんですか?」

新入生が手を挙げて質問した。昨日も、一昨日も同じ質問があった。おそらく中学の吹奏学経験者だ。のどから手が出るほど欲しい経験者である。田中は取ってつけたような笑顔で答えた。

「コンクールは出てません。うちは、そういう部活ではないので」

貼り付けたような笑顔が痛々しい。見ているだけで息苦しくなる。田中はあの笑顔の下では、さぞかし悔しい思いをしていることだろう。

コンクールの質問が出るたびに、一年生の嘆息、失笑、どよめき、言葉にはならない反応を目の当たりにする。そして、私たちの吹奏楽部は部活としては半人前なのだということをあらためて思い知らされる。

転校してきた日に応接室で禿げ頭をぺたぺたしていた教頭、いまだに廊下でたまに会って会釈しても嫌な顔をする教頭は確か言っていた。吹奏楽部は応接室の陳列棚に盾やトロフィーを飾ることの出来ない弱小部活だと。それは、教頭だけの考えではなかったわけだ。

お気楽な部活なら、吹奏楽未経験者にとっては敷居が低くて良いのかもしれないないが、即戦力の経験者は半人前の部活には見向きもしない。不愉快なことに、合唱部は敢えて吹奏楽経験者を一本釣りしているらしい。これには香音も激おこだ。

放課後の練習の後、部会では自ずと新入部員の勧誘が話題になった。コンクールに出ると、部員が増えるのかな、勧誘もしやすいのかなと言いつつ、勧誘が目的のコンクールなら本末転倒ねとも言う。

こういう話し合いに、何かを変えようとする熱はない。弱小部活のレッテルをはがして位置エネルギーを上げようとすれば相応の熱量が必要になる。この平場にとどまることを良しとするならば、それはそれでよい。一応議論をしてみるのも大切だ。

そもそも、コンクールに出場することに大義が必要なのかという根源的な疑問はある。響子の前の学校ではコンクールに出場して良い成績を収めようとする空気みたいなものがあった。ただ、その空気に乗っかっていただけで、大義があったわけじゃない。

部活がうまく回っているように見えても、そうでなくても所詮は惰性の問題だ。風車が、急にスピードを上げて、ビュンビュン回り出すことは普通はない。響子達の吹奏楽部の活動エネルギーが極端に小さいわけでもない。ただ、位置エネルギーを一段上げるためには、一時的には膨大なエネルギーが必要で、それには、何かのきっかけなり、偶然も必要なのだと思う。

森の蝶一匹のわずかな羽ばたきが、巡り巡って都会に竜巻を起こすことがある、バタフライ効果っていう、あれだ。僅かな初期値の違いと予測不能性は伝統やマンネリを覆すことがないわけではないということだ。これを神頼みとも言う。貧弱な位置エネルギーが底にとどまって変わらないのは生徒たちだけの責任ではない。生徒の力だけで劇的に変えるなど望むべくもない。


チアの衣装からは解放された。放課後、響子は第二音楽室の入り口の階段に座り込んで、膝の上で頬杖を突いて、深いため息をひとつ吐く。新入生勧誘期間はあと二日。まだ部活の決まらない一年生ってどうなんだろうと少し思う。優柔不断なのか、もともと部活に入るつもりがないのか。勧誘のビラ配りにも力が入らない。

体育館に向かう渡り廊下の向うの方から、校長と三沢がこちらの方に歩いて来るのが見えた。後ろをついてぞろぞろ歩いているのは、放送局用なのか大きなビデオカメラや、照明か録音か何かの機材をもった四、五名の大人たちだった。学校には似つかわしくない軽装で、その中には、ニュース番組で見たことのある若い女性も混じっている。女子アナとかレポーターという類なのだろう。直に見ると、厚化粧で恐ろしく無表情で愛嬌のかけらもない。この一団を一緒に眺めていた田中が校長にに手招きされた。

「吹奏学部の部長さんだね。たった今、三沢先生にはお話しして了解を得たんですが、南信州テレビの方が本校の吹奏楽部を取材したいということで来られたんだ。急で申し訳ないんだが、えっと…」

校長は胸ポケットから取り出した紙片を見ている。

「久見木響子さん」

「あ、はい」

「テレビの方が君たちのアンサンブルの演奏をぜひ放映したいそうだ」

───テレビが、なぜ弱小部活に?放映って何かの間違いでは?

理由はすぐに分かった。

よれよれの黄色のキャップみを被ったディレクターを名乗る男性は、名刺を田中に差し出した。

「宮山シティーホールでは市民のイベントが多数開催されていて、全部は取材しきれていないんですけど、ホールの音響と照明担当者からぜひ見てほしいと、うちの局にあなたたちの演奏会の録画が送られてきたんですよ」

そう言うと、キャップを脱いで頭をひとしきり掻いた。響子は、ああ、と思った。

「実はそれが私の親父だったりするんですけどね」

田中が受け取った名刺に矢上と書いてあった。録画の送り主はコンソールルームの矢上さん、そしてこの人は矢上さんの息子さん。

何人かの吹奏楽部員が階段を駆け上がって第二音楽室に戻ると、ほどなく悲鳴のような歓声が沸き上がるのが聞こえた。二階入り口のドア、第二音楽室の窓という窓から何人もの吹奏楽部の仲間が首を伸ばして成り行きを見守る。

「吹奏楽という分野には疎いんですが、いろんな演奏を何十年も見て来た親父が、とにかくアンサンブルのステージがすごいから見ろって。私も演奏を見させてもらって、これはテレビマンとしては是非放送したいということで、急にお邪魔することになったんです」

矢上の話では、今後も継続的に取材をして、シリーズ化したいことを三沢には既に申し入れているとのことだった。

テレビ取材の話は瞬く間に学校中に広まったのだろう。新入生が次々集まり、第二音楽室は見学者であふれんばかりとなった。三沢と何人かの部員が例の女子アナからインタビューを受け、練習風景の撮影が行われた。混乱のうちに新入生勧誘期間の、ある一日は終了した。


昨日は、テレビにつられた大勢の見学者が第二音楽室にやって来た。田中や夏希までもが、テレビと聞いてなんとなく浮足立ったのはいただけないが、こと新入生の勧誘という点でマイナスにはならないだろうと、楽観的になっていたのも無理からぬことだ。

「現在の入部希望は十名、例年より少し少ないぐらいで、まあまあじゃない」

結果は明らかに期待はずれ。落胆を押し込めるように場違いなテンションで話した夏希の言葉が虚しく天井をさまよう。勧誘は今日までだが、最終日に見学者はいない。昨日のテレビ騒ぎで盛り上がったのが虚しさに輪をかけた。

「我々としてできることはやった結果なんだから仕方がないね」

田中は泰然として言っているように見えるが、内心穏やかではないはずだ。厳しい現実の前に暗澹たる気持ちのまま新年度の吹奏楽部はスタートすることになりそうだ。

タイミングの悪いことに、勧誘最終日の今日は、音響の良いシティーホールで放映用の演奏の収録を行う。全員が無言で、楽器を運搬用のトラックに積みこみ、留守番一人を残してシティーホールに向かった。

響子はシティホールに着くとすぐに矢上を探した。

「矢上さん、先日はありがとうございました」

ホールの外扉に矢上を見つけると、すぐに駆け寄った。矢上は何のことだと言わんばかりに返事一つせず、テレビ局のスタッフと話し込んでいる。

「本当にありがとうございました」

ホワイエの高い天井まで届かんとする様な大きな声に、苦笑する矢上の横顔が見えた。響子が深々と頭を下げると、矢上はさりげなく右手を軽く上げて持ち場に戻っていった。

三沢は右手後方の客席に座っていた。先日のジョイントコンサートでも同じ席にいたはずだ。

指揮をしなくても、演奏上の問題を生徒自ら解決する糸口を与えるのも指導者として重要な仕事のはず、と三沢は言っていた。しかし、リハーサルが始まっても目を閉じ、メモを取るべき手は止まったままだ。訝った響子はステージを降りて三沢の近くまで歩み寄った。穏やかな笑みを浮かべ、何かを回想しているようにも見えた。

「先生、指導をお願いできますか?」

三沢はゆっくり目を開けた。

「久見木さん、以前あなたは、なぜ私がコンクール嫌いなのか、そういう質問をしたことがありましたね」

「ええ、先生のお部屋で」

この先生は時々人の話が耳に入らなくなって、自分が世界に配置した事物にしか関心が及ばなくなる。筋違いの質問に響子は少し戸惑ったが、もちろんそのことははっきり記憶していた。

「私はコンクールが嫌いなのではなく、怖かったんだと思うんです。コンクールを通して生徒に何を伝えることができるのか分からなくなって、怖くて逃げていたんです」

三沢はゆっくりと立ちあがり、響子を真っすぐに見据えた。

「久見木さん、ひとつ私の質問に答えてもらえますか。あなた自身は、コンクールに出た方が良いと思っているんでしょうか?」

三沢の瞳の奥に、縋るような影を一瞬見た。

「私は、先生ご自身がコンクールに出ることで、私たちに伝えたいこと、伝えられることが少しでもあるというのであれば、出た方がいいと思っています」

「よくわかりました。ありがとう」

あの影はほんの一瞬だった。今となっては、三沢の瞳は、いつもの様に洋々として自信を湛えるばかりだ。

「久見木さん、では指導を始めましょう。手加減しませんよ」

「はい!よろしくお願いします」

収録が終了すると、三沢は南信州テレビの矢上としばらく言葉を交わし、何度も深々と頭を下げていた。


一週間後、一年生を加えた新生MBB始動の日、第二音楽室は、笑顔と熱気にあふれていた。普段から表情を崩すことのない夏希だったが、この時ばかりは頬が緩みっぱなしだった。

「えー、今年の新入部員は二十五名で、総勢五十五名となります。沢山の一年生に入部していただいて、とても嬉しいです」

響子達がホールで収録中に入部希望者が次々と第二音楽室を訪れ、一人残った留守番の部員が目を回した。期待をはるかに上回る人数となった。

「二、三年生のみなさん、これから教えるのが大変かもしれませんが頑張りましょう。では部長から一言」

「一年生諸君、入部おめでとう。そしてありがとう。それから我が部が誇る美脚ガールズにも感謝します。定期演奏会の呼び込みも是非、ね、響子さん」

「わ、私は、もう二度とやりませんから」

「あ、私やってもいいですよ」

「凛! 真面目に言ってるの?」

「ねえ、また三人でやろうよ、響子ちゃん」

「香音は黙ってなさい!」

第二音楽室は明るく温かい笑い声で沸き立った。田中は改めて全員に向き直ると、周囲を視線で制して続けた。

「さて、みなさん、顧問の三沢先生から、皆さんに大切なお知らせがありますので、集中してお聞きください」

三沢は何時もと同じ場所で窓にもたれかかっている。

「新入生のみなさん、入部おめでとう。顧問の三沢です。心から歓迎します。早速ですが、皆さんに一つお断りしなければならないことがあります。先日の入部の説明に訂正が生じました。上級生にも関係のあることですので、皆さん、しっかり聞いてください」

響子は、いつにも増して揺るぎない三沢の声に意識を張りつめた。

「私たちMBBは、今年、吹奏楽コンクールへ出場することを決めました。すでに、部長の田中君、学生指揮の桐野さんと一緒に課題曲と自由曲の選定作業を済ませました」

歓声とも悲鳴ともつかない声と拍手が一瞬にして沸き上がった。夏希が用意した課題曲と自由曲のスコアに群がる。課題曲は〈MISAWA Isshin『コンサートマーチ・薫る祝典の日に』〉、自由曲は〈堀田義之『君は風の声を聴いたか・フィナーレ』〉だった。

「実は先日いらしたテレビの方からもコンクールに出場することを勧められました。テレビ的にはその方がおいしいそうです」

瞬間だけ口元がほころぶ。

「言うまでもなく、テレビのためにコンクールに出場するわけではありません。今後の取材も基本的にはお断りしました。もう少し詳しく説明させてください」

三沢が黒板の前に歩み出る。全員が一挙手一投足に集中する。

「出場カテゴリーですが、A部門にエントリーします。地区大会、県大会を勝ち上がり、東海ブロックでの金賞を目指しましょう。言うまでもなく最高のゴールは全国大会の出場です。それから、これは私自身の挑戦でもあるのですが、もう一つの目標は、全部員がコンクールのステージに立つことです。幸いにも今年は総勢五十五名で、A部門の規程範囲です。ただし全員にオーディションを課し、一定水準以上でなければ出場はありません。ここまでで何か質問はありますか」

碧が恐る恐る手を挙げる。

「来年以降も、私たちは先生の指導でコンクールに出場できるんでしょうか」

三沢は一瞬言葉を呑んでから毅然として答える。

「来年以降は、みなさんのやる気次第です。私自身は、宮北高校の吹奏楽部の発展に継続的に力を尽くします。この宮北高校で皆さんと一緒に全国で金賞をとるためにです」

三沢が背負う過去の苦い経験は決意をさらに強固なものにしているはずだ。そして、全国を目指す生徒の強い意志と、目指すことが当然と思えてしまうような空気、そして三沢の指導力からすれば、それは夢でもなく、十分に手の届くことのように思えた。

「実は、もう一つ提案があります」

そう言うと、三沢は響子を探した。

「部長、副部長とも相談したのですが、久見木さん達、ジョイント・コンサートのアンサンブル演奏メンバーには、アンサンブルコンテストにも出場していただきます。我々に先んじて全国で金をとってもらうためです」

三沢は口角を上げて響子をじっと見つめる。響子は思わず生唾を飲んだ。言葉にはならず、頷くだけで精いっぱいだ。期待と不安の両方が胸の内側で猛烈に膨張して心臓が押しつぶされそうだった。だが、もう走り出している。後戻りはできない。する必要もない。走り切るだけだ。

「凛、香音始まるよ。いよいよ」

「ああ、始まるな」

「私、めっちゃ頑張る。限界まで」

響子、凛、香音は手を強く握り合った。つないだ手は輪になった。

「限界なんて自分で決めるものでしょ。だから、そういうのは無いと言えば無いんだよ」

響子の言葉に、凛と香音は大きく頷いた。

夏希や碧も加わった人の輪は何重にもなった。

「行くぞ、全国、MBB!」

田中は右手の人差し指を上に繰り返し突きさして叫ぶ。呼応する声が鳴りやまない。

「MBB! MBB!」

響子もあらん限りの声で叫ぶのを凛が不思議そうに見る。

「あれ、響子、MBBは宮北ブラバンだよ。ブラバンって、好きじゃないんだよなあ」

「うん。それはまだちょっと抵抗あるかな。でも、私この吹奏楽部に入って本当に良かったと思ってる。だからMBBもちょっと許す」

「ふーん、回りくどいけど、まあ私も許すよ」

響子と凛はもう一度右手を振りかざし、また叫ぶ。

「MBB! MBB! MBB!」



ホルン問題


部活に少し遅れた響子が音楽準備室入ると、練習室には制服が幾つも無造作に脱ぎ置かれている。仕立てたばかりのブレザーに残るかすかな機械油の匂い、プリーツスカートのくっきりした折り目、糊の効いたブラウスのアイロン跡、新しい上履きのまっさらで薄ら青いほどの白さ。隣の第二音楽室では、体操着に着替えた新入部員がオリエンテーションを受けている。

「お姉ちゃん、何でジャージに運動靴?」

(こころ)、前向いてなさい」

心は香音の二つ下の妹で、今年入部した新入生の一人だ。小柄な香音より一回り小さく、新入部員の中でも目立って小柄だ。童顔で奔放な香音と違って、ずいぶん落ち着いた大人っぽい雰囲気がある。しかし、外見は包装紙に過ぎない。いい意味でも悪い意味でも素性というのはその人の周りの空気に漂うものだ。そういう点で彼女たちからは、上品さや育ちの良さが滲み出ている。幼年期に浴びる両親の愛情は太陽だ。たっぷり太陽を浴びて育った香音と心は、上ばかり見ているヒマワリと、少しばかり俯き加減で時々足元を気にするヒマワリだ。

窓を背にした二,三年生は、教室の中央で一塊になった一年生を取り囲み、息を潜め、目を凝らしていた。

「心ちゃんっていうんだね。うんうん、可愛いね。ねえ、パーカッションやらない? 楽しいよ」

「凛ちゃん、妹をそそのかすのはやめてください」

「そそのかすって言うのはひどいんじゃないか? 打楽器不人気だから、このままじゃ消滅しちゃうんだよ」

「大丈夫よ。夏希たちがうまくやるだろうから」

「響子のところのクラは希望者が多いから、そんな呑気なこと言ってられるんだよ」

三沢は正面の黒板を背にして、入部した一年生部員一人一人の名前を確認しながら、頭のてっぺんからつま先まで、それこそなめるように見る。

「吹奏楽では息を楽器に吹き込んで音楽を奏でます。楽器にあった良い息を吹き込むことが良い音を奏でる第一歩となります。吹奏楽の演奏の良し悪しの半分は音作りで決まります。初めての方には意外と思われるかもしれませんが、吹奏楽の練習の半分は基本的な音作りに費やされるはずと言うのが私の考えです」

三沢はいつも通り穏やかな口調だったが、議論をさしはさむ隙はない。

「呼吸法を学ぶことが重要なのは言うまでもありませんが、同時に身に着けるべきは、その呼吸法を維持する体力です。五分程度の曲でもその間は息を時に早く、時にゆっくりといろいろのスピードで揺らぎなく吐き続けるわけですから、想像以上に体力を消耗します。これは大きい楽器でも小さい楽器でも同じことです。吹奏楽コンクールで言えば十二分間ですが、良い音で最後まで集中力を維持したまま演奏しきるためには、体全体の筋力と持久力を一定以上に維持するためのトレーニングが必要となるわけです」

学生指揮の夏希が三沢の横で大きく頷きながら聞いている。

何事も基礎が重要である。要するにそういうことだ。問題は文化系部活というくくりで言えば、呼吸法の練習はともかく、吹奏楽部で走り込みや筋トレが必要な理由はなかなか理解されない。

「我々が体育会系文化部と言われる所以ですね。単純で退屈ですし、非常に疲れることなのですが、一年生諸君にはその必要性を十分に理解していただきたいと思います。上級生も同様です。もし呼吸法に自信が無いとか、体力面で自信がないとか、ロングトーンを苦手にしているなどの上級生がいれば、明日から体操着で集まってください」

三沢の指導で呼吸法の全体練習が終わると、夏希はパート毎に新入生の名前を記した楽器の割り振り表を黒板に張り出す。

「では、全体練習をいったん終了します。楽器が決まった人はそれぞれのパートの練習場所に集まってください。練習場所は割り振り表に書いてあります。楽器がまだ決まらない人はこちらで少し待っていて下さい」

ほとんどの新入生は前日までに楽器が決まって、パートの先輩と合流した。いよいよ自分の楽器を手にして部活が始まるという高揚感と、一緒に切磋琢磨する先輩達との出会い、向い入れる先輩たちの期待と不安、いろいろな感情が入り混じる特別の瞬間だと響子は思う。

パーカッションにも経験者一名を含む四名が入った。未経験者三名の指導と言うのは苦労が多いだろうが、凛にも安堵の色がうかがえる。

心は張り出された表を、他の新入部員と見ている。そこに自分の名前はない。心の楽器はまだ決まっていなかった。

楽器決めでは、ピアノなどの音楽経験、絶対音感と相対音感の有無、唇の形や歯並び、体格などを考慮して専門知識のある指導者がその生徒に相応しい楽器をすすめるのが大切、というのが三沢と夏希の基本的な考え方だ。そして、本人の希望と適性が一致しない場合、納得がいくまで本人を説得する、しかし、最終的には無理強いはしない、そういう方針だ。

金管セクションリーダーの祐樹、四月から木管セクションリーダーになった響子、それに学生指揮の夏希と三沢の四人は、楽器が決まらない新入生三名の話を一人づつ聞いていた。

心の希望はトロンボーンだ。

「心ちゃん、大歓迎だよ」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

心の頬にピンクがさす。祐樹は香音とは中学の吹奏楽部で一緒だった。その中学で陸上部だった心のことを祐樹は知らなかったが、心は祐樹の事を知っていたようだ。

「編成上、トロンボーンに誰かもう一人充てたいのは確かなんですが……」

顔を見合わせながら話している夏希と三沢を見て、心は少し声を低めて言った。

「体が小さいと難しいですか?」

三沢は慎重に言葉を選びながら説明した。

「無理ではありませんが不利とは言えます。上達に影響する可能性があるということですね」

心は顎に左の人差し指をあてがい考え込んでいる。しばらくその様子を見ていた三沢は夏希に一度目くばせをしてから心に声をかけた。

「ホルンはどうですか」

三沢が心に勧めてみたいと言っていた楽器だった。ホルンには吹く人を選ぶという気難しさがあり、練習だけではどうにも乗り越えがたい部分が大きいと三沢は考えていたようだ。

「かわいい形ですよね。でも近くで見ると思ってたよりずっと複雑で、機械って感じがします」

音楽準備室では、夏希が今年度に購入したばかりの新品のホルンを心に見せている。近くでは絵里と聖桜も二人で肩を寄せ合うように見守っている。

「絵里、吹いてみて」

「あ、はい」

絵里は自分のマウスピースを新品のホルンにさすと、軽く音出しとチューニングをして、姿勢よく直立したままシュトラウスのホルン協奏曲を吹くと、心の瞳にみるみると光が増した。微動だにせず絵里のホルンの音色を全身で受け止めているようだ。

「素敵です」

「どう、吹いてみる?」

「はい、やってみたいです」

「ここをこうして、こう持って。マウスピースでかぶせた唇の所を息の力で、びーって震わせるの、肩の力を抜いてね」


フォ──ン、フォ──ン


遠鳴りのする紛れもないホルンの音だった。

「え?、すごい、すごくない? ねえ、聖桜」

「すごい、すごいよ、心ちゃん」

確かに絵里と聖桜は大仰にほめようと身構えていたようにも見えたが、初めてホルンを吹いて、苦も無くこれだけの音を鳴らすということには心底驚いた様子だった。その場にいた祐樹や夏希も呆気にとられていたが、三沢は、嬉しそうな笑みを浮かべるばかりだった。

新品のホルンは心のものとなり、心は希望していたトロンボーンをあきらめて、絵里の元に引き取られた。これで、経験者の山本壮も加わり、ホルンは四本となった。

楽器は人が奏で、音楽は人が織りなすものである以上、ホルンの演奏だけでなく、様々なことで困難に直面するだろう。部活ってそういうものだ。それが、何であれ、感じたこと、触れたこと、経験したこと全てをない交ぜにして、無心に奏で、四人のホルンで極上のハーモニーを響かせて欲しい、響子は祈るような気持ちで心の背中を見送った。


五月も半ばを過ぎたころ、まだ梅雨でもないのに、大粒の雨が庇をばたばたと叩きつけていた。普通教室棟と音楽室棟をつなぐ渡り廊下は大きな水たまりが所々にできている。通路のあちこちで庇が途切れていたからだ。中庭は雨の跳ね返りでモヤが立ち上るほどだ。

一学期の中間試験で部活動自粛期間となった放課後、学校全体が静まり返っていた。運動部の威勢の良い掛け声、それを聞くと、どの部活か直ぐわかる、あの、それぞれに個性的な掛け声は聞こえてこない。

音楽室棟の斜向かいにある体育館では、屋根に打ち付ける雨粒の音だけが、ザーザーというノイズになって鈍くこだましていた。響子は、第二音楽室の階段を足音が目立たないように駆け上がり、いつもの様に、体育館裏の庇の下で黙々と筋トレをする五,六名の生徒を一瞥した。息をひそめるように音楽準備室に入ると、遮音された四つの練習室からは、わずかに音が漏れ出ていた。

「おっ」

「あっ」

試験期間中にも顔を合わせる祐樹との会話は、いつもなら大体この二言で済んでいた。この日は生憎、練習室が四つともふさがっていた。今日は二人とも出遅れたようだ。

「帰る?」

「だね」

今日は四言だった。テスト期間中で、下校時間はとうに過ぎ、生徒玄関に二人以外の生徒の姿はない。

じゃ、と言って祐樹が傘を広げて玄関を出ようとした時、響子は少し離れた所から小さな声で呼び止めた。

「傘、壊れちゃって、私の家、駅の近くだけど、入れてもらってもいいかな」

玄関の薄暗がりで、祐樹の表情は良く見えなかったが、少し躊躇していたかもしれない。

「お、おう」

学校は小高い丘の上にあり、いつもの下校は、こんもりとした林の急坂を下り降りる。しかし、この雨でぬかるんで危ないだろうということになり、学校をぐるっと回って駅に向かう広い道路沿いを行くことにした。

まとわりつくような湿気で少し息苦しさを感じたが、校門を出ると雨は小ぶりになっている。これぐらいなら走って帰れたかもしれないと思ったが、楽器のことを考えれば仕方がない。響子よりだいぶん背の高い祐樹に歩調を合わせて歩くるのは思いのほか難しく、楽器カバンが濡れないように抱きかかえた腕の反対側の右肩は傘からはみ出し、びしょ濡れの夏服のブラウスの袖から滴り落ちた水の粒が腕を伝っている。

───それにしてもあの態度はないだろう

響子は歩調を合わせるのに四苦八苦しながら、生徒玄関での祐樹のもったいつけたような態度を思い出して腹を立てていた。

───いつもは私の事をいやらしい感じで見るくせに、二人きりになると目も合わさない

それも腹立たしい。

───男子と相合傘って初めて

特にそういうことに思い入れがある方ではないのに、今日に限っては無性に腹立たしい。

「お前さあ…」

この無神経な言い方が、尚、駄目だ。

「祐樹君、あのね、前から言おうと思ってたんだけど、私にも名前があるわけ。だからお前って言うのはもうやめて」

「じゃあ、きょ、響子、でいいのかな」

「響子さん、ならなおいいけど。それで、何?」。

「響子…さん、は大学どうするの」

「あ、うん、私は医学部目指してる。祐樹君は? 理系クラスみたいだけど」

「実は、おれも医学部志望」

「へえ、じゃあ一緒に浪人だね。こんなに部活ばっかりやってたら」

「そうかもしれないけど、おれは現役合格を目指してる」

「無理でしょ」

「無下に言わんで少し聞いてくれ。高校って人生を少し垣間見させてくれるっていうか、俺たちみたいに部活ばっかりやるのも、彼女作ったりするやつもそうだけど、大人になるための練習みたいなものかなって思うから、大学行って自分の本当の人生を早くスタートさせたいって思ってる」

「彼女作るのも、練習ってことか」

「本気で好きな彼女ができれば、卒業してもずっと続けたいと思うよ」

「意外にも一途なところがあるんだね。練習っていう話とは矛盾しているような気がするけど。私は高校の時の彼氏なんて、記念品というか青春アルバムの一ページみたいなものだと思うな。だって、みんな言ってるじゃない。三年になって、もう一年しかない、卒業までに彼氏作って思い出にしなきゃって」

「おれは、恋愛を記念品って言うのはちょっと抵抗があるな」

「男子はそうかもね。女子の方は高校卒業とともにさようならって感じで、さばさばしているというか、きっぱりしたところがあるからね」

「ひょっとすると、部活も記念品みたいな物って思ってる?」

直ぐ脇の車道を、スピードを上げて走る車が五、六台過ぎたところで、響子は漸く口を開く。

「それは違うと思う。部活って心に刻まれるもので、思い出とも違う。今の自分が生きてる証みたいな感じがする」

再び雨脚が強まり、大粒の雨が傘をたたく。

「今の私たちだから経験できるもの、仲間が居るから感じることができるもの、自分の弱さから逃げないようにしてくれるものだから、記念品じゃ駄目で、私は今の吹部で倒れるまで吹かなきゃいけないと思ってる」

祐樹の周りに冷たい膜が張る。それから二人は響子の家まで無言だった。

「家で、服、乾かしていく?」

「響子、一人だけなんだろう」

「う、うん」

「じゃあ、やめとく。襲っちゃうかもしれないし」

「ばか」

頭からぐっしょり濡れた祐樹を玄関に残し、響子は出来るだけ上等のバスタオルを箪笥から引っ張り出す。あの濡れ方だと、祐樹は自分の傘を殆ど響子の方にさしていたんだろう。乾いたバスタオルを差し出そうとした時、冷たい祐樹の指先が響子の手を包んだ。

「おれと付き合ってほしい」

響子の体中に熱い血が駆け巡って火照った手は、雨に濡れた祐樹の手を殊更に冷たく感じる。

「な、なによ、いきなり」

「ずっと本気でそう思ってきたんだ。でもその資格がおれにはどうやら無いみたいなんだ」

「え、資格なんて必要なんだ」

「そうだよ、だって、おれはお前に比べればまるで子供だもん」

それはそうだが、好きになったり、付き合ったりするための資格とは少し違う。

「だから少し待って欲しい。俺、ちゃんとするから」

待つとも待たないとも返事はしなかった。テスト勉強もあるからと言って玄関を出ていった祐樹の後姿を見送ると、響子は祐樹の冷たい指の感触が僅かに残る右手を見つめた。

「おしいなあ、いい雰囲気だったのに。ああいう時は、抱きついてチューでしょう」

はっとして右手を振りほどく。

「碧、何で、あなたはいつもいつも盗み見するようなことばっかするのよ」

響子は天井に向かって大きな声をあげながら、胸の高鳴りの余韻に浸った。


校舎のそこかしこで鳴るロングトーンが試験期間終了の合図だ。チューナーやメトロノームを睨み、淡々と、集中して楽器に息を吹き込みつづける風景は学校の一部になり始めている。東海大会で金という壮大な目標から逆算し、其々の部員に課される練習プランは、楽器と力量に合わせて個別化さているた。さらに、三沢自身が定期的に個人指導を行い、練習の成果と目標の修正、そこに至る手段について話し合う。優れた学校吹奏楽の指導者には卓越した音楽性はもちろんのこと、地道に生徒に寄り添う教師としての本分が必要なのだろう。特に宮北高校の様に全体の底上げが必要とされる場合は尚更だ。本格的な練習がスタートしてわずか一ヶ月の間に、クラリネットパート全員が音作りと言う点で見違える程レベルアップしている。しかし、響子はある予感をどうしても打ち消すことができず、それは日に日に確信に近づいていた。

朝練はすでに始まっていたが、練習室の一つで響子と同じ危機感を持つ絵里は夏希を待った。後から来て向かい合わせに座った夏希との距離が微妙に遠い。

「それで、心ちゃんは、基礎練習とコンクール曲に追われ、定期演奏会の方は譜読みもできない状態っていうことなんだよね」

「定期演奏会も部としては大切なイベントだと思うので、きっちりやりたいんです」

「私も同じよ。演奏経験ってコンクールにも生かせるしね。でも、三沢先生の考えでは、初心者が基礎練習をないがしろにして中途半端に曲の練習を始めると、伸びしろが少なくなるっていうことなの。だから、基礎練習が最優先」

「それでは、初心者は誰一人定期演奏会に出られません」

「初心者は一曲ずつとか、一曲の中で一部だけ演奏とか、場合によってはワンフレーズのみとか、パートの中で調整出来るよね」

堅物の夏希らしくにべもない話だ。響子は辟易としてため息を漏らす。絵里は夏希を粘り強く説得し、定期演奏会の曲練習はパート毎の判断で行っても良い事になった。さらにホルンパート内では別の問題を抱える一年がいて、夏希に相談してみると言っていた。新入生のサポートは響子たちの当然の責務だが、これほどの労苦とは思わなかった。絵里の生き生きとした様子を見る限り、響子は著しくその適性を欠いている。



───夏希が構えたトランペットは極彩色のライトを反射していた。深く素早い、静かなブレスの度に、ベルの光紋様が小刻みに歪む。隣で演奏する聖桜のブレスは周りの空気を全てかき集めて吸い込んでしまうかのようだった。突き上げるような激しい感情をむき出しのままホルンに吹き込んでいた。夏希は情感レベルを最大限に上げ、ただ同調し続けた───

ジョイント・コンサートの回想が前触れもなく蘇る。本を読んだり、部活中だったり、時にはテスト中でも、意識がうつる瞬間に前触れもなく記憶の海に浮沈し止むことがない。

聖桜をアンサンブルのホルン奏者に指名した響子の判断は正しかった。夏希にとっても素晴らしい経験だった。しかしそれは良い思い出の蓋である。時々その蓋がポンと外れる。なにかとても良いものが詰まっていることを期待させるような思い出の器には何もない。だからポンと音がする。

響子はアンサンブルメンバーから絵里を外し、聖桜は覚醒した。あれは、かつて経験したことも無いような演奏領域だった。絵里と聖桜の複雑な関係性が、聖桜の豊かな響きの底にある情念のうねりになっていたのだろう。夏希が響子の立場であれば、絵里をメンバーから外すことは無かった。そして何も変わらなかったはずだ。夏希は響子の大胆さ、感覚的な行動を疎ましいと感じた。響子自身がどうということではない。自分の無力感がそう思わせた。


物心ついた頃から夏希には特別が無かった。普通のサラリーマン家庭で、普通に優しく、時に普通に厳しい両親に、なるべく普通であることを願い、出過ぎた杭は打たれるのだと言い聞かされて育った。一つ下に妹が一人、五つ下に小学生の弟がいるが、妹と弟は理不尽と思えるほど自由で、両親は二人に対しては放任主義を貫いている。夏希が奔放な妹たちに小言を言えば、両親は大目に見てあげなさいと言う。出過ぎた杭は打たれない、夏希には合点がいかないが、それもまた事実だ。

一歳違いの妹とは大の仲良しだ。幼少の頃から何時も一緒だったが、夏希とは何もかにもが対照的だ。妹の名前は優亜、なんとも可愛らしい名前だ。実際目鼻立ちがはっきりして、両親にも夏希にも似ておらず、そこにいるだけで周りが明るくなるような華やかさがある。一方、夏希は語感がよくない。男の子の様にも聞こえる。加えて、太陽が降り注ぐ夏の様に明るく希望に溢れた顔ではなく、どちらかと言うと無表情で暗い。真面目そうだとは言われるが、それは、普通ほめ言葉ではない。妹も夏希と同じぐらい目が悪いが眼鏡をしない。コンタクトレンズだ。夏希もコンタクトにしようと思った時期があったがずっと眼鏡のままだ。見目麗しい優亜の顔が眼鏡で隠れるのは残念だが、眼鏡で丁度いい人もいる。田中には眼鏡が良く似合っていると言われるが、眼鏡が似合う顔というのはどこか足りない部分がある。

トランペットとの出会いは小五で青城学園のマーチングバンドを見た時だった。端正で華やかで、高らかにメロディーを歌い上げ、誰の目にも明らかなバンドの主役に心を奪われた。しかし、夏希が中学に入学するまで、家族にも友人にもトランペットへの憧れを話さなかった。何故かと言えば、家族には親戚も含め、誰一人として音楽をたしなむ者がおらず、音楽は、才能に恵まれた者か裕福な家の子女のものであるというのが桐野家の定説だったからだ。

中学になって突然、夏希にとっては当然のように吹奏楽部に入部した時、家族は随分と驚いていた。念願のトランペットに決まった後は更に家族や周囲を驚かせた。夏希は軽々と音を出し、早々に難しい曲を吹けるようになったばかりか、聞いたばかりの曲を楽譜にしてコードをあて、小編成のアレンジをあっという間に完成させた。桐野家は音楽に相応しい家柄ではなかったが、夏希には精緻な音感と言う思いがけない才能があった。しかし、トランペットに関しては、練習で演奏技術は身に付いても、音質や表現という点で物足りなさが残った。音に花がない。これこそ才能がもろに出る。足りない才能は練習で埋めるしかない。来る日も来る日も音作りに没頭した。今もそうだ。基本練習を最も大切にしている。夏希には滅多なことでは諦めない粘り強さがある。特別を期待せず、普通を積み重ねて行く才能がある。夏希は人に対しても安易な妥協を許さず、融通の利かない自分をちょっと気に入っているようなところがある。



「面白い話ですね。今の桐野さんの人となりが透けて見えるようです」

「すみません。こんな話をするつもりなかったんですが」

三沢の部屋の机には大量のICレコーダーが置かれていた。クラ1、クラ2、フル1、フル2、アルサス、ペット1、ペット2などと書かれた札が付けられている。夏希は三沢のノートパソコンにICレコーダーの録音ファイルを取り込んでフォルダに仕分けている。

「いつも、手伝って頂いて助かります」

「先生の補助は学生指揮の当然の仕事だと思ってますから。それにこういう単純作業と言うか、同じ手順の繰り返しみたいな事が苦にならないんです」

夏希はソファーに腰掛けて画面を凝視し、マウスとキーを操作する手を動かし続ける。

「それって、私の音に艶が無いことと関係してるんですかね」

「それは、飛躍しすぎでしょう」

三澤は自分のデスクから夏希の作業を見守る。

「私も中高大とトランペットを吹いていたのですが、色気のない演奏だとよく言われたものです」

「意外ですね。でも私とは全然違うレベルの話なんでしょうけど」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。演奏技術は今の桐野さんの方が当時の私よりはるか上を行っていますし。これは、私の持論ですが、表現と言われる音の揺れの八割はテンポと音量の微妙な変化です。理論的には表現を楽譜にすることができるはずです。譜面に落とし込むことさえできれば、技術のある桐野さんなら造作もないことですよ」

ようやく夏希は手を止めて三沢を見た。ほんの二、三ヶ月前、この部屋を何度も訪れ、半べそでコンクールへの出場を懇願したのが遥か昔のことの様に思えた。

「先生熱いですね」

「桐野さんは冷めてますね」

冗談めかして言った三沢もその頃を思い出していた。

「実は、今後のこともあるので、録音データについてきちんと説明しようと思っていたんですよ」

三沢は夏希の横に座りなおすと、ファイル名〈一年生・フルート・宮島美玖・全音符スケール・四月十六日〉のファイルを開いた。

「どうですか? 拙いのは分かりますが、どこが一番問題だと思いますか?」

「うーん、一番気になるとしたら、音が移る所で音程が不安定になることですね」

「桐野さん、さすがですね。私もそう思いました」

「宮島さんには、正解の見本として久見木碧さんの録音と比較して聞かせながら、音が移る直前に音程が不安定になる、その事だけ伝えて改善するようにと言いましましたが、どのようにとは特に言っていません。そして三日後がこれです」

〈宮島美玖・全音符スケール・四月十九日〉のファイルを開いた。完璧なスケールだった。

「驚きました。音程だけでなく、リリースも均一になってます」

「正解と比較してどこがどう拙いかを認識させるだけでこの違いです。以前の学校で私が行っていた方法です。彼女の場合は経験者ですので、私が指摘した以外のことも自分の耳で確認し、全般的な改善が得られたのだと思います。初心者に同じことが通用するかはわかりませんが、私の感触としては効果が十分ありそうです」

「この方法なら、すぐにでもパート練習に取り入れられそうです」

夏希は、再び画面をのぞいて、音声ファイルの整理に取り掛かる。

「コンクール曲など難易度が高めの曲の演奏であっても、生じる問題のほとんどは基礎練習に立ち戻って解決できると思っています。桐野さんの様に素晴らしい音感のある方がいれば、生徒だけでバンドの演奏クオリティーをかなりのレベルに上げて行けるわけです。ちなみに来年の学生指揮はフルートの久見木碧さん、再来年はホルンの山本快君が有望です。桐野さんほどではありませんが彼らも素晴らしい音感を持っています」

「先生がいてくだされば大丈夫なわけですから、急にやめるとかおっしゃらないでくださいね」

パソコンを操作する指はせわしなく動く。夏希は顔を上げずに淡々として言う。

「私が自ら辞めるということは絶対にありませんよ」

夏希は漸くパソコンの画面から顔を上げ、縋るように三沢をしばらく見つめると、にっこりとして言った。

「先生、終わりましたよ」



祐樹が耳打ちした。

「なあ、響子、最近やばいぞ」

「何よ、いきなり、やばいじゃ分からないでしょ」

向かい合わせで、凛が売店で仕入れて来た卵サンドをほおばる。

「そんな調子だから、こっちは何が本当でどれが大事か分かんなくなるんだよ」

「ああ、ごめんごめん、心ちゃんのことなんだけど、練習中に何かぼうっとしてる感じだし、パートの後輩に聞いたんだけど、最近、授業中に急に吐き気がして保健室によく行くみたいなんだ」

表面上は明るく振舞うが、姉と違って、そこまで楽観的ではなく、気持ちを表にあまり出さない心の事を気にはかけていた。香音はいつも大丈夫大丈夫と言うばかりで取り合ってくれない。

「金管パートリーダーの俺が心ちゃんに事情を聞くのが筋だよな」

「空気読まない福島は駄目だ」

「じゃあ、私が行く?」

「気持ちが顔に出やすい響子も無理だろう」

「ひどいなあ、凛は」

「ひどくはない。餅は餅屋だ。こういう事は先ずは夏希に相談すればいいんじゃないか」

少しでも心の力になりたいのはやまやまだが、夏希にそういう役目があるように、響子や祐樹には心のためには直接関わらないという役目もある。

「それより、二人ともなんかあったのか」

「なんかって何」

「下の名前で呼び合っちゃって、分かりやす過ぎやしないか」

「り、凛、そんなんじゃないから」

「じゃあ、どんなだ」

「えーっと、それは、この間学校の帰りに大雨で、私傘が無くて、祐樹に傘に入れてもらって」

「テンプレだな。それで距離が縮まったんだな」

「そのまま、家まで送ってもらって、制服が濡れちゃったから家で服乾かしてもらおうと思って」

「家まで来てもらったら良い雰囲気になって、チューしそうになったとか」

「そうか、俺はチューしようと思えばできたのか」

「バ、バカな、あり得ないから、祐樹は変な妄想しないでよ!」


「原因はあなたたち二人よ」

響子と祐樹は思いもよらない夏希の言葉に固まった。

「絵里から、聞いたんだけど、心ちゃんは中学の時から祐樹君のことが好きなの。最近、あなたたちがずいぶん親密そうだから、心ちゃんが勘違いしてるのよ」

祐樹は困惑気味に聞いている。全く気付かなかったのだろう。人の事はあまり言えないが、祐樹は中学から折り紙付きKYという事になる。

「前から響子は祐樹君のことタイプじゃないって言ってたし、絶対違うからって心ちゃんには言ったんだけど、このあいだ、あなたたちが雨の日に相合傘で校門を出て行ったところを見ちゃったらしいの。それで、あれ以来相当落ち込んじゃったみたい」

「あれは私、傘持ってなかったからだし、他に祐樹以外に人が見当たらなかったから」

「傘が無くて困ってただけなんだって、心ちゃんに説明して上げてほしいの。早く誤解を解いてあげて」

「分かった。うかつだったわ。直ぐに心ちゃんに言うから。私たち何でもないって」

響子は、憮然とした祐樹を視界の隅に追いやって、夏希と一緒に心の所に向かった。少しだけ、自分の胸の内を、祐樹に開いて見せたことに偽りはない。しかし、響子にとって、心の気持ちを差し置いて、自分の気持ちを押し通すほど恋愛の優先順位は高くはない。



クロスペンの文化祭


六月、湿気を思う存分に含んだ空気は全身にまとわりついて、汗との境界がはっきりしない。汗なのか、湿気なのか。湿気なのか、汗なのか。宮北高の文化祭が行われるのは、例年梅雨明け前だ。クロスペンが梅雨空を振り払うと言う人もいる。クロスペンは交差するペンを模した宮北の校章のことだ。

明日は、宮北高の文化祭が一般公開となる土曜日、今日一日授業は無い。朝から部活やクラス展示の準備で、せわしなく走り回る生徒たちで校舎はガタガタと鳴る。日がすっかり暮れる頃には、徐々に落ち着きを取り戻すが、校門前の高さ五メートルを超える巨大な張りぼてには、大勢の実行委員が群がって、仕上げ作業を行っている。

夜九時を回っても、吹奏楽部の合奏練習は続いた。いくつかの教室では、煌々と明かりが灯る。文化祭一般公開の前日、先生は総出で居残り、生徒たちの作業を見守る。夜遅くなって、帰宅時に家族が迎えに来れない生徒たちは、クラス担任や部活の顧問が手分けをして家まで生徒を送り届ける。

宮北高の文化祭の運営は生徒に委ねられ、先生が口出しすることはない。生徒は伝統を尊重しつつ、クロスペン祭にその時代時代の息吹を吹き込む。響子はこの学校の自由な空気と古臭さの絶妙な均衡に惹かれていた。

吹奏楽部の定期演奏会は、文化祭に合わせて校内の体育館で行われる。響子のクラリネットパートは初心者の一年生を含めた全員が演奏に加わる。そして心配していた心は、他のホルンパート三人と美しいハーモニーを奏でるまでに成長し、今やバンドに欠かせないステージメンバーとなっていた。個々の演奏技術だったり、バンドとしての完成度はここ一ヶ月で数段レベルアップした。五十名を超える編成になったこともあり、本番が楽しみになって来た。

吹奏楽部の練習は夜十時に終了したが、校門前では、はりぼての仕上げが続いている。香音の話では、実行委員は担当の教師と徹夜の作業になるのも毎年のことだという。

響子と碧は、香音と心を迎えに来た父親の車で家まで送ってもらうことになっていた。香音の家族とは一週間前にフレンチレストランで偶然一緒になり、親同士も既に面識があった。

「毎年のことなんですけどね、一つしかない体育館で、演劇部、ダンス部、軽音楽部なんかで毎年過密スケジュールになっても、結局は、合唱部に一番おいしい時間帯が割り当てられるんですよ」

香音はおにぎりを、ほおばりながら恨めしそうだ。

「祐樹先輩は、コンクールなんかの実績の差だって言ってました」

心が祐樹の話をする時、響子は胸の奥に何かがつかえるのを感じる。相合い傘の件では、心の誤解が溶けたとは思わない。響子に対して、笑顔で大丈夫です大丈夫ですと繰り返していた言葉の裏で、心の誤解がやはり響子の本音だと分かったのかもしれない。

「響子先輩、碧先輩もどうぞ食べてください」

心に勧められて、おにぎりに手を伸ばしながら、本当によくできた子だと改めて思う。響子は香音の父にも礼を言いながら尋ねた。

「あの、おじさんは宮北の卒業生だって香音ちゃんから聞きましたけど、部活は何をなさっていたんですか?」

「部活は卓球部でしたから、クロスペン祭の時は裏方の実行委員をやりました。三年の時は実行委員長でしたよ。今年も玄関前に張りぼてを作ってましたよね。私の時はスペースシャトルだったなあ」

昔を懐かしむ言葉に心地よい抑揚があり、それだけで聞く人を引き付ける力を感じる。さすが地元の超優良企業の社長さんだ。

「そう言えば、僕が実行委員長してた時にも、体育館のステージの順番を決めるのにずいぶんともめてたなあ」

「良くない伝統をそのまま引き継いじゃってるんですね。実行委員長された時は、張りぼての製作以外にはどんなことをされたんですか?」

「実行委員長の一番の仕事はですねえ、ファイアー・ストームの時にわかりますよ」

「ファイアー・ストームって・・」

「明後日、最終日のお楽しみ、ねえ、パパ」

香音が運転席の父親を上目遣いで冷やかすように見る瞳は甘ったるく、親子と言うより、年の差カップルた。不謹慎な想像をしたことを心の中で香音に詫びながら、こういう男性なら私でもと思わなくは無かった。


クロスペン祭、最終日。梅雨の厚い雲の合間から時折覗く瑞々しい太陽光線が中庭に降り注いでいた。法被鉢巻の田中は、鉄板から無遠慮に立ち昇る湯気と格闘していた。額から滴る汗で鉢巻はぐっしょり濡れ、法被の下のTシャツが肌にべったりと張り付く。午後一時、体育館で合唱部のステージが始まっているはずだ。夏希は出来上がった焼きそばを紙皿に手際よく盛り付ける。

「部活の序列ってあるのかな。吹奏楽部より合唱部が上、サッカー部より野球部が上みたいな」

お昼時、3Bの屋台には長い列ができている。夏希はひっきりなしに盛り付けをして、手を休めることはない。

「そりゃあるさ、応接室に楯とか賞状とか、うちらにはそういうのが何もないんだから、吹奏楽部は最下層の部活だと思われてるよ」

吐き捨てるような言い方に夏希は一瞬眉をひそめたが、直ぐに労わるように田中を見つめてわずかに肩を寄せた。田中は曇った眼鏡を拭きもせず、黙々と鉄板をかき回す。麺に比べると具の割合が随分と多いように見える。

響子と祐樹は中庭を囲む運動部の部室の並びの庇の下で、田中と夏希のシフトが終わるのを待っている。

「お二人さん、仲良くやってるねえ」

「部長と副部長じゃあ、普段は大っぴらにできないし、今日ぐらいはいいんじゃないかな」

二人のシフトはあと十分ほど続く。吹奏楽のステージまではまだ二時間ほどある。

「ところで、最後の枠だとなにか都合悪いの」

「毎年の事だけど、タイムテーブルが押せ押せになって、最後の方は、時間をかなりオーバーするからね」

「一番後なら、終わる時間を気にしなくていいから都合がいいんじゃないの」

「最後のステージのすぐ後にはファイアーストームがあるからね」

「ファイアーストームって、香音ちゃんも楽しみだって言っていたけど、なに?」

「プログラムにはない非公式イベントで、でっかいたき火を囲んで、みんなで歌ったり踊ったり、周りを走ったりするんだよ」

「キャンプファイアーみたいな」

「そう、全校生徒で八百人ぐらいでやるでっかいキャンプファイアー。張りぼてとか看板とかみんな燃やすんだ。餅とかサツマイモとか持って来て焼いてるやつもいる。火の勢いが強くなりすぎると校舎に燃え移ったりする心配もあるから、消防車も待機したりしてる」

「それ、ちょっと笑えるかも」

「笑えないよ、まじで、感動して泣いちゃうから」

「ない、ない、それは無いわ。私ね、そういうの引いちゃう性質だから」

漸く田中と夏希がシフトから解放された。

「はい、お待たせ。田中君が作った最後の焼きそば。お肉ばっかり多くて、ちょっとおかしいでしょう」

「歓迎、歓迎、オレ、豚肉大好き」

田中が眼鏡を拭きながら一つ咳ばらいをする。

「離れたところから少し見てたんだが、君ら付き合ってるよね」

「な、なにを、そんなこと、あるわけないでしょ」

実際付き合ってるわけではないが、耳が火照って心臓の拍動が耳先まで伝わる。

「焦って否定するところがますます怪しい。ねえ、田中君」

「だから、夏希、違うってば。祐樹もなんか言なさいよ」

「いやあ、俺はそれでも悪くないんだけど」

「きゃー、そうすると、これはダブルデートだね」

「そんなこと言うなんて、夏希らしくないよ」

香音と凛が合流し、六人で第二音楽室に向かった。いよいよ本番前、楽器の準備、音出し、チューニングだ。香音は押し黙ったまま、ことさら神妙な面持ちだ。

「あのね、私たち、さっき合唱部の演奏を聞いてきたんですよ。合唱のことはよくわからないんですけど、正直言うとものすごく良かったです。圧倒的で荘厳な歌声でした。前田君の指揮も自信にあふれてて・・」

田中は香音の言葉を遮って、大きく首を横に振った。

「まるで、学校は自分たちのものみたいな、そんな感じだったんだよね、きっと」

第二音楽室では絵里と聖桜が、既に楽器の準備を始めていた。

「例えばだけど、野球部が甲子園に行ったりすると、彼らは学校のスターになる。学校中どこにいてもちやほやされて、いわば学校は彼らの物になるわけだ。野球部というレッテルが彼ら全員を輝かせる」

絵里と聖桜は、田中の方に向き直って話を聞いている。拓と美緒がやって来てステージ用の白ジャケットに腕を通した。

「知らず知らずのうちに、部活でその人のカラーを決めてしまったりすることがある。例えばアニメ同好会や鉄道研究会の人はちょっとオタクっぽくて付き合いずらいとか、レッテルを張って区別する、そして区別が差別になる」

続々と吹奏楽部員が集まる。準備の手は動き続け、音出しを始めるパートもある。

「僕たちは、既に区別される立場だと思う。でも、仮にコンクールに出て応接室に飾るトロフィーを沢山獲得していたとしても、他の部活を区別しちゃいけないと思う。合唱部の連中の一部は、露骨に僕らをさげすむような態度を取るよね。それは、だれだって良くないことは分かる。でもその立場になったら我々も分からない」

夏希は指揮台の椅子の横に立ち、その他の部員は着座した。田中は、誰彼にというわけでもなく話し続ける。

「僕たちはただ吹奏楽が好きでそこにいるだけなのに、それだけで下に見られるという今の現状は悲しい。だから、コンクールに出場して、少なくとも部活として一人前になる。僕は、その後が大切だと思っている。吹奏楽愛があるから部活を続けているんだという純粋な気持ちを持ち続けること、コンクールの結果が良くても悪くてもね。学校の部活カーストみたいなのに絶対にくみしないという強い意志を後輩に伝えて行かないといけない」

田中の声は殊更大きくはなかったが、何物にも遮られず吹奏楽部員全員の耳に届き、鼓膜は確かに叩かれた。

「学校は誰のものにもなりうる。部活だって、勉強だって、恋愛だって同じだと思う。好きだと思う気持ち、大切にしたいと思う気持ちを輝かせてくれるのが学校だから。当然、ただ何となく過ごすんでは学校は自分のものにならないし、輝かせてはくれない。だから、僕らはひたむきに奏でるんだ」

田中は立ち上がり、全員を見まわす。

「諸君、僕らは誰とも比べられない。比べる人がいても、そういう人たちの真ん中にいて、蹴散らしていく、そういう自信と強さを持つべきなんだ」

田中は腕時計に視線を滑らせると、すっと息を吸い低い声で言った。

「あと、二時間」

その言葉はどこか弱弱しい。あと二時間で高校最後の定期演奏会が始まり、そして終わる。大切に思っていたことや打ち込んだもの、その終わりをこれほど強く意識することが一生の間にどれぐらいあるだろう。演奏が始まれば、終わるまで無心でいられる。しかし、終わった時の寂しさを考えると、胸が押しつぶされそうだ。

田中は天を振り仰いで、右手の人差し指を上に向かって突き出す。すぐに夏希が続く。そして香音が、凛が、祐樹が、絵里が、聖桜が、拓が美緒が次々と立ち上がり、無言のまま祈るように人差し指を突き上げる。

〈宮北──MBB〉

〈MBB、MBB、MBB〉

それぞれの胸に熱いものがこみ上げる。


グラウンドに面した普通教室棟の壁ぎわに、三人で腰を降ろして校舎の壁に寄りかかっている。実行委員の一人が、マイクに向かって何かを叫ぶが内容は意味不明だ。生徒玄関前にあった張りぼて、校内の装飾や看板の一切合切がグラウンド中央に集められて点火されたが、小雨がぱらついていて、全体に火が回らない。周りを百人ほどで肩を組み、寒々と囲んでいる。響子はくすぶる炎をぼんやり眺めているが、あの輪に加わろうという気力はわかない。

演奏前に予め分かっていたことがある。体育館でホールの様な音響は期待できない。照明などの舞台装置は最低限である。狭い舞台袖は楽器の出入には著しく不自由だ。全ての一年の演奏レベルが十分とは言えない。そして予想外のこともある。前の合唱部が二十分以上も時間をオーバーした。曲間やMCを切り詰めたが、吹奏楽部の演奏が終わらないうちにグラウンドで文化祭の閉会式が始まったため、アンコール曲が始まる前には観客が半分になった。全ての演奏を終えると、余韻に浸る間もなく実行委員から早々に楽器の片づけを促された。力を振り絞り、とにかく最後まで演奏しきったという達成感だけがかろうじて残った。

校舎の近くには小型の放水車が来て、消防士が二人、火のない方をみて談笑している。

「香音ちゃん、少し聞いてたのと違うみたいだけど」

「大丈夫、これからだから」

これからどうなれば大丈夫なのか分からないが、成り行きを見守る。凛は完全に寝そべって空を見上げながら言った。

「香音、さっき三沢先生と二人で話してたよな」

心臓の鼓動が急に速度を変え、ずくんと鳴る。



「香音、心、準備できてる?パパ待ってるから、急いでちょうだい」

「はーい、すぐ行く」

香音は父親に買ってもらったばかりのクロエの濃紺のワンピースにカメオのブローチを合わせていた。定期演奏会まで一週間となった日曜日、後ろ髪をひかれる思いで夕方からの練習は休ませてもらうことにした。心の膝上丈のベージュのハイウエストワンピースには控えめなリボンが誂えてある。香音は幼い外見や言動からは連想できないようなシックで大人っぽい服装を好む。反対に心は顔立ちも雰囲気も香音よりはずっと落ち着いて見えるが、高校生になっても少女趣味の洋服ばかり着る。

香音の家族は一ヶ月に一度、四人そろって外で食事をする。決まってエピキュールというフレンチビストロだ。定期演奏家に向けてやり残したことは山ほどあるが、家族あっての自分と言う強い思いは、香音が如何に愛情深く家族に育てられたかの証跡であり、家族の大切なしきたりを蔑ろにするわけにはいかない。

香音たちが到着すると、シェフ自ら入り口で出迎えて恭しく挨拶をし、個室に案内する。ワインや料理の注文は一言二言で済む。毎月のことだからとは思うが、父親の立ち居振る舞いはスマートで無駄が無く、同級生の父親と比べると各段に若々しい。忙しい仕事の合間には会員制のスポーツクラブで汗を流し、健康的な食事をし、常に身なりに気を使う。母親は大勢の従業員や取引先の目があるからと言うが、そういう事を割り引いても男性として魅力的で、成功者の人生を歩んでいる。

店のオーナーは二代目で、引退した初代の時から父親はこの店の常連だ。母親との初デートもこの店だったというから、この場所は家族の歴史そのものかもしれない。格式を感じさせながら肩肘を張らずに家族だけで過ごせる、この店での時間を香音は楽しみにしている。ところがここ半年ぐらいの間に少し様子が変わってきた。今日も通された個室の入り口で一気に気分が下降した。六人分の席が用意され、奥には二十台半ばぐらいの男性が緊張した面持ちで立っていた。会社の人だというぐらいは分かるが知らない顔だ。

母親は東京の大学を卒業すると、父親の父親、つまり祖父が社長をしていた今の会社に入った。父親と母親の出会いは、一応友達の紹介という事になっているが、実際は祖父が、部下から、会社の経理部に当時で言えば良妻賢母と言うに相応しい新入社員がいるという話を聞いて、早速間を取り持ったらしい。母親の実家は市内の自転車屋で、言ってみれば普通の家だ。腰掛のつもりで入った会社で意図せず社長の息子に嫁入りすることになった時は、よくも悪くもシンデレラガールと噂された。母親は、周囲で揶揄したり妬んだりする人がいても、誰彼となく公平に優しく、偉ぶる所もなく、一歩下がって父親を支え、今では会社の誰からも慕われている。

母親は結婚する少し前に会社を辞めた。結局、女性は結婚がゴールで、そこにこそ幸せがあると信じている。王子と街娘の理想的なハッピーエンドは誰にでもそう思わせる。香音も白馬の王子に憧れはするが、自分の人生すべてを王子に預けようとは思わない。生まれ育った軌跡を大切にし、結婚しても仕事を続け、自律した人生を送りたい。新型シンデレラの幸せな結婚はハッピーエンドで終わらないはずだ。


香音の向いに座ったのは、総務部の野村康人、その隣で心と話をしているのは商品開発部の木島公介だ。テーブルの上に並べて置かれた名刺だけみる。彼らの顔はこの際どうでもいい。家族だけの大切なしきたりを知らない事に罪はないが、本人たちが香音の王子様候補を自認しているのかもしれないと考えただけで無性に腹立たしい。

「宮北で吹奏楽やられてるそうですね。私、合唱部だったんです」

伝統的に犬猿の仲であることを分かって言っているのだとしたら不敵な男たちだ。香音に喧嘩を売っているとしか思えない

「噂に聞いたんですけど、吹奏楽部、今年コンクールに出るそうですね」

火に油を注いできた。香音はひるまない。

「私たち、全国目指してますから」

「へー、あの吹奏学部が」

頭に血が上る。顔を見られないよう、ゆっくり品よく席を立ち、そして化粧室に駆け込む。もう少しで泣きそうだ、でも泣かない。泣いたら負けだ。薄ピンクのリップを引き直し、深呼吸をし、気持ちを整え、鏡の前でニッコリとほほ笑む。席に戻ると、正面の輩をしっかり見据えて、化粧室で見せたのと同じ、判で押したような笑みを浮かべる。

悔しい思いはおくびにも出さず、如何に三沢が優秀な指導者であるか、才能あふれるクラリネット奏者とパーカッショニストのすさまじいテクニックのこと、二年生ホープのフルーティストが奏でる豊かな音色のこと、団結して、どれほど練習を重ね努力をしているか、あふれる吹奏楽部愛を饒舌に語った。にっこりと微笑みながら野村にそっと耳うちする。

「私、あなたの居た合唱部が嫌いなんですよ、死ぬほどに」

野村は少し後ずさって、頭をかきながらバツが悪そうに言う。

「僕は科学部でして、合唱部だったのは木島なんです」

父親の席の方で繰り返し腰を折って頭を下げる木島の背中が見える。少し恥ずかしくて、かなり悔しい。

まるで水のみ鳥の様な木島を背中から蹴り飛ばしたい衝動は何とか飲み込んだ。食事よりも怒りで満たされて個室を出ると、テーブル席に思いがけず響子の後ろ姿を見つけた。喜び勇んで走り寄って背中にしがみ付くと、碧と彼女達の母親が唖然として見ている。

「あ、私、響子ちゃんと同じクラスの」

「あれあれ、香音ちゃんよね、吹奏楽部の。あ、心ちゃんも」

母親の芳恵とは響子の家で何度か会ったことがあるが、名前をちゃんと憶えていてくれたのは意外だ。

「こんなところでお会いするなんて、なんだか嬉しいです。今、両親を呼んでくるので少し待っててください」

響子が耳打ちする。

「会社の人も一緒なんだね」

香音は意味ありげに木島を指さして顔をしかめた。

聞けば、今日は碧の一七歳の誕生祝いで、響子達も部活を早めに終わらせてここに来たようだ。

「碧ちゃん、私たちもお祝いに加わっていいかな」

「うれしい、香音先輩」

「碧ちゃんのお母さんも大丈夫ですか?」

「もちろん、是非お願いね」

談話スペースを貸し切りにして、父親がシェフに誕生日ケーキを運ばせた。響子の母親のピアノ伴奏でハッピーバースディーソングを合唱し、盛大に乾杯する。お互いの姉妹同士四人で笑い、語り、吹奏楽愛を確かめ合った。親同士もすぐに打ち解け、学生時代に戻ったかのように楽しそうだ。なにより、部外者の男たちが居場所を失って実に情けない顔になっているのが最高の眺めだ。



ファイアーストームは、なかなか火が回らず、たき火のままだった。

校舎の壁沿いの端で田中と夏希が寄り添って座っている。ファイアーストームの中心から外れたグラウンドの方々で、遠ざかっては近づき、近づいては遠ざかる人影がある。クロスペン祭にありったけのエネルギーを注ぎ込み、疲労困憊の極限状態で、ありのままの気持ちをぶつけ合っている。

グラウンドの真ん中には、号令台の上で上半身裸をさらした鉢巻きの男が不明瞭な言葉を叫びながら応援歌に合わせ、体操ともダンスともつかない動きで、グラウンドの生徒を鼓舞している。彼を囲んで肩を組み朗々と応援歌を歌う一団に前田の姿も見えた。校舎の壁まで届くユニゾンは圧倒的だ。繰り返される奇妙な光景になぜか清々しさを感じる。

「香音、あれって、あなたのお父さんが昔やったやつ」

近くに凛と香音の姿は無く、代わりに祐樹が一人で立っている。

「となり、座っていいか?」

座っていいのかと言われれば断る理由もない。座っていけないのなら、それなりの理由を考えないといけない。

「いいけど」

素っ気なく言ったが、内心、心臓が口から飛び出して、胸の高鳴りを聞かれてしまうのではないかとはらはらする。祐樹は響子の横に胡坐をかいて座った。肩や腕が触れ合ったらと思うだけで、体全体が静電気を帯びたように敏感になる。息遣いで祐樹が上気しているのは分かる。ここから逃げ出したい気持ちと、肩だけでもそっと触れ合いたいと思う気持ちがいっぺんに響子の胸を一杯にしている。

「何にも言わなくていいから、俺の話、ただ聞いててくれるだけでいいから」

祐樹は響子に触れることなく、父親や離れて暮らす母親のこと、家族に対する怒りや戸惑い、悲しみ、ただ、とつとつと自分自身のことだけを話した。普段は本心を語らない祐樹が、響子に自分をさらけ出す。響子は黙って聞いていた。そして、自分の父親に対する愛情や違和感、母親への反発を包み隠さず話し、将来の夢について二人で語り合った。生のままの気持ちが触れ合う心地よさに身を委ねる。そして、目を閉じて祐樹の腕に頭をそっともたせかけようとしたその時だ。


バン!、ゴーゴー


突然の轟音で背筋が伸びた。

小雨もぱらついて火の勢いが衰えるばかりのファイアーストームが突然大きな音と光を発した。少し離れて見ていた響子達は、光と音に遅れて熱風を感じるぐらいの爆発だった。

「大丈夫だよ、毎年の事だから」

灯油か何かが入ったポリタンクが次々と投げ込まれて火の勢いが増していく。校舎の近くで遠巻きに見ていた二人一組の人影が火に吸い寄せられるように集まっていく。

「オレたちもいこうぜ」

「行くって、どこに?」

「走るんだよ」

何処に行くかも分からないまま、祐樹が差し出した手をためらいがちに握る。

両肩に手を置いてつながった人の筋がファイヤーストームを囲んでゆっくりと回り始める。その外側にはもう一つ、その外側にもまた一つ。回り出す方向は夫々で、あちらこちらで人の波がぶつかり、波紋を広げるが、そんな事はお構いなしにどんどん回り続けている。式台の号令と大太鼓に合わせてスピードが徐々に増していく外側では、つないだ手がほどけて霧散し、有らぬ方向に走る者もいる。

祐樹は、何度もほどけそうになる響子の手をしっかり握って離さない。そして、走る回る走る回る。小雨が降っていたはずだが、今、響子達に掛かるしぶきは雨ではない。実行委員が何本ものホースで輪の外から水を浴びせかけている。バケツで水をかける者もいる。それで、また走る。

全校生徒八百人余りのファイアストーム、有り余るエネルギーが火炎を中心に飛び散る。響子はわけも分からず走った。わけが分かって走っている人なんて一人もいないだろう。火炎に照らされた顔、顔、顔、それぞれに輝いて、何かをやり切った顔、涙、そして笑顔。

徐々に田中、夏希たちの近くに吹奏楽部の部員たちが集まり出した。そこでまた小さな渦を作り回る。祐樹と響子のつないだ手の間に、次々と人が割り込んでくる。凛、香音、聖桜、碧、絵里、一年生たちも。走りつかれて回転が止まりそうになると、けたたましく太鼓が連打され、応援団と合唱部が応援歌を歌う。祐樹も、田中も、夏希も、頭から水を被り、全身ぐっしょり濡れている。額をぬぐいながら歌う。汗か涙かは分からない。歌い終われば太鼓が打ち鳴らされて、再び人の輪がゆっくりと、徐々にスピードを上げて回り始める。

中心の火が衰えるまで、何度繰り返したかわからない。

西の空を見上げるフィナーレの打ち上げ花火。達成感と寂しさを湛えた瞳が花火に輝く。

隣には祐樹がいる。響子の手を握る。暖かい手だ。響子はそっと握り返す。顔は見ない。強く深く握り返すだけだ。

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