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薫る風の声に  作者: 舞山礼実
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第一章 別れと出会い

第一章 別れと出会い



ホワイト・クリスマス


十二月二十五日、その日を特別と思うかどうかは人それぞれだ。フライドチキンやケーキを前に、プレゼントをもらったり、彼氏と肌を寄せ合って甘い言葉をささやきあったり、クリスマスで連想することは、ほとんど前の日に終わっている。だから、今日は、前日の余韻にひたる、ただそれだけの日だ。

ちょうど一年前、近くの商店街にある和菓子屋でバイトをした。

「親友だから誘ったんだよ」

由希はそう言っていた。接客か商品の出し入れぐらいだろうと高を括る方にも問題がないとは言えない。でも、サンタのコスプレ、正確にはそれっぽいミニのワンピを着て、店先で呼び込みをして、売れ残ったクリスマスケーキを売るアルバイトだなんて普通思わない。何で和菓子屋でクリスマスケーキなのかもおかしな話だけど、問題はそこじゃない。悶々としながら、慣れた様子の由希に従って、何時もより一オクターブも高い声で、身振り手振りを付けて呼び込みを始めると、ケーキだけでなく、団子や饅頭も面白いように売れて、息つく間もないほどだった。店じまいの頃には、声が枯れ、くたくたになって、スカートの丈が異常に短い事をすっかり忘れ、店先の地べたに座り込んだ。

「あとはやるから、響子は休んでていいよ」

由希はサンタワンピのまま、店裏から門松を持って来ると、お店のエントランスに据え、クリスマスツリーの片付けを始めた。

「クリスマスはまだ終わってないし、正月には早いんじゃないかな」

「そう?こういうのは見切りが大事だから」

呆気に取られて苦笑いするしかなかった。ケーキを売り切ってしまえば何処吹く風だ。あっけらかんとして、あからさまに素っ気なくて、ロマンスのかけらもないが、響子にはそんなクリスマスがむしろ特別に思えた。


「なんだか、楽しかったな」

こぼれるような独り言が漏れる。

響子は、芳恵が運転する車で、転校先の宮北(みやきた)高校に向かっていた。フロントガラスに降りしきる雪が滑り落ちてはワイパーでかき上げられる。

「お母さん、大丈夫?」

「大丈夫よ、こうみえて信州(しんしゅう)っ子だしね」

長野県に住んでいたのは確か中高生の頃のはずだから、母親の運転技術には関係ない。不揃いの段ボール箱が積み上げられた後部座席では、妹の(みどり)が縮こまって座っている。芳恵は、肩をすぼめるようにしてハンドルを回し、国道沿いにあったコンビニの駐車場にそろりと車を入れた。

駐車場には車が数台あった。周囲は田畑で人家はない。そこそこのスピードで車が時々通るが、人影は見当たらない。目を逸らしたくなるほど鮮やかな、見慣れた赤黄緑の看板は周りの景色から浮いている。

「店員さんに道を聞いてくる」

芳恵は急ぎ足で店に入った。急遽、人から譲り受けた古い車にナビはなかった。雪の降り積もった駐車場には、車のタイヤ跡が無造作に残されている。響子と碧も後に続いて車を降りた。響子は履き慣れたローファーを滑らすようにして、ゆっくりと後を追う。

「お姉ちゃん、雪だよっ、雪、ホワイトクリスマス」

碧が降りしきる雪の中、駐車場に積もった雪を素手ですくった。

「そうだね、ホワイト、クリスマスだね」

その甘美な言葉の響きにも心は動かない。響子は、一面灰色で、不明瞭な地面と空の境界を無表情に眺めながら、二か月前の最低最悪の日を思い返す。


響子が部活動を終えて、妹の碧と帰宅したのは午後七時過ぎだった。いつもは帰宅の遅い芳恵がいた。

「お母さん、今日は早かったんだね」

「そうね」

キッチンで背中を向けて座っていた芳恵の顔は見えなかった。

響子は、制服のままリビングのソファーにふわりと腰を沈めると、無防備に四肢を投げ出し、目を閉じて気怠さに身体を委ねた。演奏中は、同じ姿勢を保つのも大変だが、見た目以上に激しく腹筋と肋間筋が緊張と弛緩を繰り返し、横隔膜の上昇に合わせて繊細にキーを操作しながら、自分の音を探して周囲にアジャストする。練習を終えて緊張が緩むと、目、耳、手足、体幹、脳のあらゆるところから疲労物質が吹き出すようだ。

高二の響子とひとつ歳下の碧が居る吹奏楽部は、県内ではまずまずの進学校にありながら、全国的に名の知れた強豪だ。沢山の部員が当然の様に努力をする中で、さらに特別の努力と父親から受け継いだ少しの才能、そして家族の理解のお陰で、今年の吹奏楽コンクールではAメンバーに選ばれ、全国大会に出場することができた。

響子はゆっくりと体を起こすと、小脇に抱えたままだったハードケーズをそっとテーブルに置いた。左右のホックを外して、蓋を開けると、漆黒の躯体に銀色のキーが複雑にちりばめられたクラリネットがあった。学校で楽器の清掃を大体は済ませるのだが、帰宅してから念入りに拭き上げるのが響子の日課だった。ゆるりとクロスで包み、指で直接キーに触れないようにしながら、そっと撫でる様に拭く。碧も自分のフルートを黙々と拭き上げた。

「夕食の支度すぐするから、少し待っててね」

「うん、悪いわね」

働いている母親に代わり、一切の家事は響子と碧の仕事だった。斜め横からくもりがないことを確かめてクラリネットをケースに戻した。

「お母さん、なにか食べたいものある?ありあわせになっちゃうけど、これから準備するからさ」

響子が楽器ケースの蓋をゆっくり閉じようとした時も、芳恵はキッチンで二人の娘に背中を向けたままだった。

「お父さん、もうここには帰らないから」

「え、どういうこと?」

すぐには理解できなかった。長い沈黙があった。

「もう、お父さんとは会えないから」

「なにそれ、意味わかんない。そんなの、そんなの、だめだよ、お母さん。お姉ちゃんも何とか言って」

碧が関を切ったように叫んだ。

「ごめんね、ごめんね」

涙声で繰り返す母親の姿は現実感を欠き、映画の一シーンのようだった。

「碧、しょうがないんだよ、どうしようもないんだよ。お母さん困っているから、もう泣くのやめようよ」

嗚咽の止まらない碧の背中をさする響子の視界は霞んで、目に液体があふれ、頬を伝った。不思議と悲しいという感覚が薄かった。たぶん残酷過ぎる現実は、感情を飛び越えて、涙をあふれさせることができるのかもしれない。あるいは、仕方がないとか、しょうがないとか、響子には以前からそういう覚悟があったのだろう。

覚えている限り、一か月の間に数日程度しか居ない父親が父親である証拠はなかった。日本では東京、札幌、名古屋、海外ではロンドンやボストンでも作曲とか編曲の仕事をしているらしい。ありきたりの家族関係でないことは分かっていたけれども、父親が家にいる数日は、見せかけでなく、うわべだけでもなく、心底良い父親だった。

「お父さん、ここ吹いてみるから、聞いてくれる?」

つい先月、コンクールで演奏する自由曲の譜面を見ながら話した。

「本当に響子はうまいなあ。よく練習してるみたいだしね。でも、このレガートの後の休符が少し短いかな。オーボエの対旋律をよく聞いて、もう少し間を取った方がよくなるよ」

そういいながら、パート譜の右上に小さい字で、絶対、金!と書いてくれた。響子は自分の中の音楽に関わる感性は父親そのものだと信じて疑わなかった。法的にどうとかは分からなくても、心で父親を感じていた。

響子と碧抜きで家族関係の形に結論を出してしまって良い理由はないが、母親なりの考えもあって大人二人が決めたことだ。これからは、母娘三人で生きていく。響子の胸に寂しさが鳴った。これまでは、父親が居ない日も寂しいと思ったことはなかった。いつかは分からないが父親が帰る日を楽しみに待つことができたから。もう、その日を待つこともない。父親の記憶に蓋をして決して思い出すことがなければ、永遠に来ないその日を待ち続けて寂しい思いもせずに済むだろう。


碧が無造作に雪をかき集めてむき出しなったアスファルトは、やがて雪で覆い隠された。響子は、暖かいコンビニの店内から、小脇に楽器カバンを抱えたまま、ぼんやりと外を眺める。

───大人の事情って、残酷だ

ほんの一、二カ月前まで吹奏楽一色の青春真っ只中だった。部活に行かない日など考えられなかったし、考えたこともなかった。

芳恵は小児科医で、近所の病院にパートタイムで勤務していた。まずまず裕福な家庭に育ち、人並み以上の教育を受け、思う存分部活をし、そういう幸運が願わずとも当然のように続くものと思っていた。

芳恵が独立して生計を営むために、フルタイムの勤務先として信州伊那谷(しんしゅういなだに)を選んだのは、芳恵が中一から大学までを、松本で過ごしたことと、医学部時代の友人のつてがあったからだ。すっかり疎遠になっているが、芳恵の父母も松本に住んでいた。

響子達には、転校せずに、父親の遠い親戚の家から通学するという選択肢もあった。響子は、細かいことはあまり気にしないような無神経なところもあったが、父親の親戚といってもほぼ他人の家からの通学にはさすがに抵抗があった。部活には相当に未練があったが、新しい環境で家事に疎い母親の傍にいて支えたいという気持ちが強かった。それは碧も同じだった。芳恵とじっくり話し合い、最終的には一緒に移り住むことを響子達自身が決めたのだった。

芳恵の話では、この辺りの高校の冬休みは短く、毎年クリスマスの後に二学期の終業式となるらしい。こんな中途半端な時期に引っ越してきたのは、芳恵としては、心機一転、できるだけ早く新しい生活を始めたいという気持ちがあったのだろう。他にも、勤務先の病院で年末年始の休日当番医を頼まれていたという事情があった。

響子は店内を半周し、ホットドリンクのコーナーにたどり着いた。制服は前の学校のまま、楽器カバンを少し胸の方に引き寄せてお気に入りのミルクティーを手に取る。

「吹奏楽やってるの?」

芳恵に道を教えた若い女性店員が、ミルクティーのレジ打ちをしながら話しかけてきた。

「楽器っていいよね、頑張ってね」

言い終わる前に響子は視線を下に滑らせ、楽器を抱えていた方の拳を強く握りしめる。

「ご、ごめんね。何か気に障るような事言っちゃったみたいだね」

「いえ、大丈夫です」

大人の事情で、頑張っていた吹奏楽をやっとの思いで辞めたのに、今さら頑張れもないだろう。しかし、響子の家庭の事情には何の関係もない人に急に苛立ったりして良いはずがない。むしろ、土地の人でもないのに優しく話しかけてくれたことを感謝すべきだ。響子は自己嫌悪に襲われ、ひどく落ち込んだまま車に戻った。

「気を取り直して出発しますか。新たは母校になる宮北高校に」

車から店内を見ていた芳恵の声はやけに明るい。駐車場に絡まるように遺されていたいくつもの轍は降りしきる雪に覆われ、一面が平坦で清新な響子達だけの場所となった。


応接室は暖房がよくきいて暖かかった。

「こんな大雪の日に、大変でしたね。本日は校医の引継ぎについて養護教諭から説明させますので、少々お時間を頂戴いたします。どうぞおかけになってください」

教頭に対して、少し威厳を示すように、無言で頷いた芳恵は、保護者としてだけでなく、新任校医として学校を訪れている。響子も碧も学校の成績は良い方だったので、編入試験自体は問題なかったのだろうが、二学期も終わろうとしているこの時期に転入が認められたのは、芳恵の校医のことがあったからかもしれない。

響子と碧は、ふんわりしたソファーの端で居心地悪そうにじっと座っていたが、自分たちと関係無い話がはじまると、緊張がゆるんだのか、辺りを見まわし始めた。応接室にはトロフィーや盾がたくさん飾られていた。弓道と女子バレーボールの大きなトロフィーがガラスケースの中央にあり、その横には男子バスケットボール、卓球部、野球部の盾やトロフィーがひしめき合っている。

「二人とも、吹奏楽をやってたんだよね」

教頭は、手持ちぶさたの二人を見て、気安い感じで話しかけたかったようたが、響子は質問には答えなかった。

「吹奏楽部のは無いんですね」

「ああ、吹奏楽部はあるけどね。吹奏楽でもあれでしょ、一応コンクールっていうのかな、トロフィーとか楯とかもある訳でしょ。そういうのに出られるレベルじゃないのかなあ。要するに弱小部活なんですよ。私も、いっぺん出てみればと思うんだけどね」

教頭は、べらべらとしゃべりながら、薄くなった頭頂部をぺたぺたと撫でて笑っている。

悔しさが込み上げる。

───この人は、運動部だけが部活だと思っているんだろうが、吹奏楽部にだって、コンクールっていう真剣勝負はあるし、勝つために血の滲むような努力もする。地方大会を勝ち抜いて全国大会に出場し、そこで金賞を取るという目標だってある。

ドアをノックする音がすると、教頭は響子の怒りをはぐらかすように立ち上がり、二人の先生を招き入れた。

「こちらが三沢先生、二年F組の担任です。こちらが吉本先生、一年B組の担任です」

芳恵は立ち上がって深々とお辞儀をした。三沢は、冴えない顔色で細面の、年のころは二十後半か三十前半の男性教師、吉本は、如何にも自信たっぷりといった雰囲気で、四十半ば過ぎの女性教師だった。落胆気味の碧は立ち上がってお辞儀をしたが、響子は座ったまま膝の上で握りしめた拳を見つめている。

───学校に飾るトロフィーや盾のために私は吹奏楽をやって来たんじゃない。前の学校で、正面玄関に飾られていた吹奏楽部の数々のトロフィーや盾、それを見て誇らしい気持にはなったが、そんなのは何回か見れば十分だし、単なる記念品でしかない。それを勝ち取るための努力に対する誇りや自信こそが宝物だ。教頭にとっては記念品こそ大切なのかもしれないが。

「三沢先生と吉本先生は、お母さまと少しお話ししてて下さい。私の方で子供たちを連れて、校内の案内をした後に……」

教頭の話を遮るように響子が立ちあがった。

「私、部屋の外で待ってます。お母さん、これ、家に持って帰って」

響子は、片時も離さず持ち歩いていたクラリネットの入った楽器カバンを芳恵に押しやり応接室を出た。

「ちょ、ちょっと、響子」

「お姉ちゃん?」

碧も自分の楽器カバンを芳恵に渡し、すぐに響子の後について部屋を出る。教頭は眉を寄せて二人の背中を睨みつけたが、直ぐに芳恵の方を向いて、とってつけた笑顔を浮かべ、頭をペタペタなでながら、応接室を出た。



新しい仲間


黒板に、自分で久見木(くみき)響子と書いた。

「クミキキョウコです。埼玉県の大宮西北(おおみやせいほく)高校から転校してきました。よろしくお願いします」

パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ、パチ

素っ気無いあいさつと疎らな拍手だった。

宮北高は、この辺りでは一番の公立の進学校だ。と言っても、電車で一時間程度いけば、もっと進学実績の良い私立やら公立の高校はある。敢えてこの学校の転入試験を受けて転校して来る生徒は滅多にいない。

「はい、みなさん、よろしくね。久見木さん、窓際の列の後ろから二番目の席についてください。では、みなさん明日は終業式です。いろいろ大切な連絡しますよ」

見たことのない制服を着た都会からの転校生、そういう好奇の目を跳ね返すように、響子は少し顎を上げ、いつもより歩幅を大きくして席に着く。

トコトコトコトコトン

二本の指が小気味よく響子の肩を叩いた。

「そのセーラー服、可愛いね」

後ろの席の女子生徒が小声で話しかけた。

「ねえ、あなた、嫌々転校してきたんでしょ」

「うっ」

呻くような声が漏れた。くすくすと笑う声がして、担任と目が合う。

「えー、久見木さん、どうしましたか」

「すみません、急に、しゃっくりが」

恥ずかしさと、腹立たしさで、顔から耳の先まで血がたぎるようだ。響子は、担任に気付かれないように声を潜める。

「なんで、そんなこと分かるのよ」

「顔に書いてあるじゃない。まあこんな田舎じゃ無理ないけどな」

不機嫌が顔に出やすい自覚はある。しかし不機嫌なのは、あの禿げ頭のせいだ。田舎だからではない。

「では、終業式には、以上の持ち物を忘れないようにしてくださいね。そこの二人、いいですか?」

「はーい、先生、大丈夫でーす」

「久美木さんもいいですね」

「えっ、は、はい、すいません、何でしたっけ?」


ホームルームは終了した。不機嫌が顔に出るのは仕方ないとしても、自然に振舞い、周囲の空気を乱さず、目立たないないことを願ったが、思いがけず笑いを誘った。不本意ではあるが良くも悪くもない。

「うーん、なんか難しい顔してますね」

響子の顔を小柄なおさげの子が覗き込んだ。

「この学校、嫌いですか?」

黒目がちなぱっちりした目に好奇心を満々とたたえている。その向うでは、後ろの席にいた子が、こちらを一瞥して、じゃーねとばかりに片手を挙げ、教室を出ていった。すらっとした長い手足、ポニーテールの黒髪、凛とした後ろ姿は、この辺りには似つかわしくない都会的な空気を漂わせていた。

「えーと、嫌いとかじゃなくて、第一印象って大事じゃない?だから初めから嫌われちゃうと困るなあって考えてただけ」

小柄で愛くるしさ一杯のその子は、初め怪訝そうだったが、表情をくるりと変えて言った。

「変なこと言うんですね。私たち、響子ちゃんが来るの楽しみにしてたんですよ」

「あ、ありがとう」

「では、やっと本題なんですが、先ずは自己紹介させていただきます。一番、アイシマカノン、香りに音です。よろしくお願いします。では、まだ他にも大勢いますので、どんどん行きますよ。はい、次の方どうぞ」

新しいクラスメートが次々に自己紹介をしていく。香音(かのん)の後ろに、屈託のない笑顔、はにかみ笑顔、爆笑笑顔、強張った笑顔が続く。少し離れた所から、響子の方を見て様子を伺っているような生徒もいないわけではない。前の学校なら、響子はそちら側の人間だっただろう。

ようやく列が途切れると、香音が響子を見て眉をひそめた。

「響子ちゃん、楽器どうしたんですか?三沢先生が、転入生は吹奏楽経験者で楽器持って来てるぞって言ってましたよ」

応接室での事を思い出し、口に苦いものが上がって来た。

「えーと、経験者っていっても大した部活じゃなかったし」

「そうですか・・・。私、吹奏楽やってるんですけど、大宮北西高校って、今年全国大会出てましたよね」

「あ、へえー、香音ちゃん、吹奏楽やってるんだ」

「はい、アルトサックスです。響子ちゃんは?」

「クラリネット」

「妹さんも吹奏楽なんですよね」

「うん、フルート吹いてる」

「それにしても響子ちゃんはなんで楽器を学校に持ってきたんでしょうね」

「ははは、なんでだろうねえ」

言葉が上滑りしている響子を見て、香音はしばらく考え込んでいた。

「とにかく音楽室に行きましょう。今日は、明日の終業式の校歌演奏の練習があるんですよ。是非見てってください」

香音は響子の腕に自分の腕をからませて引っ張っていく。香音の横顔は上気し、嬉しくて仕方がなくて、響子の不機嫌さも苛立ちにもとっくに気付いるのに、それでもお構いなしだ。それでも、少しも嫌じゃない、むしろ心地よささえ感じる。


「連れてきたよ」

「ありがとう、相島(あいしま)さん」

第二音楽室の入り口で極太セルフレーム眼鏡の大柄な男子生徒が待っていた。

「僕は、吹奏楽部の部長で、田中と言います」

扉の近くには碧がいる。響子と同じように、同じクラスの吹奏楽部員に連れてこられたのだろう。

「久見木響子です、あっちは妹の碧です」

「響子ちゃんはクラ、妹さんはフルートなんだよね。マイ楽器は行方不明です」

香音は腕を絡ませて響子の傍を離れない。

「早速なんですが、ブラバン入りませんか?」

「きゃー、いきなり核心きた」

「相島さん、おふざけは無しでお願いします」

急に響子の様子がおかしくなる。

「いま、ブラバンって言いましたか?」

パチリと不機嫌のスイッチが入った音がするが、田中には聞こえないようだ。

「ええ、ブラバンです。ブラスバンドを略してブラバンです。正式には吹奏楽部ですが、本校では通称ブラバンです。Miyakita High School Brass Bandだから、頭文字を取ってMBBって言ったりもしてるんですよ」

「MBBって言い始めたのは田中君なんだけどねー」

「相島さん、茶々入れないでください」

田中がブラバンと言うたびに眉を寄せる響子が、おもむろに口を開く。

「ブラスは、本来は真鍮を素材とする金管楽器を指します」

「はあ、まあ、それは知っていますが、伝統的にブラバン・・」

「その言い方は時代遅れとも言えます。何十年か前なら吹奏楽をブラスバンドと言う事もあったと思いますが、本来の吹奏楽は木管、金管、打楽器の混合合奏なので明らかに間違いです」

「響子ちゃんはクラだからね。私はアルトサックス。サックスって金属でできてるけど木管楽器なんだよね。不思議だよねえ」

「うちも創部から五十年ですから、ブラバンの伝統を・・」

「ですから、ダメなんです。吹奏楽部を略して言うなら、せめて〈すいぶ〉です。今はこれが主流です。ブラスバンドはダメです。特に略して言うなど絶対だめだと思います」

香音がしきりに頷いている。響子は増々語気を強め、田中は気圧され、腰を低めて頭を掻く。

「それに───」

「それで?それで?」

「相島さん、それ以上焚きつけない方がいいんじゃないかな」

「ブラバンって、ブラジャーを連想して、いやらしく聞こえていやなんです!」

第二音楽室は静まり返った。

「と思う人が他にもいると思います」

「言っちゃったね、響子ちゃん」

響子は顔を真っ赤にしてうつむき、田中は苦り切った表情だ。

「では、今日から〈すいぶ〉にしましょう」

第二音楽室の入り口で三人のやり取りを聞いていた三沢が言った。

「え、香音ちゃん、担任って、吹奏楽部の顧問なの?」

「言ってなかったっけ」

「はい、皆さん、もういいですか。明日は終業式の校歌伴奏です。すぐに合奏練習にしましょう」

三沢は応接室やクラスで会った時よりずっと親密な口調で言った。。

「久見木響子さん、それから碧さん、お母さんから預かってきましたよ」

芳恵から受け取っていたのだろう。両手に抱えていた響子達のクラリネットとフルートが収まった楽器ケースを二人に手渡した。

「二人とも自分の楽器をとても大切にしているようですね。素晴らしいことだと思います。どこで何があっても、何をしていようとも、この楽器はあなた達にとって自分の一部ですよね。これからもずっと大事にしてください」

三沢の声は雨のようだと思った。梅雨にしとしと降り続ける雨だ。押しつけがましい所のない、ただただ穏やかで沁み込むような雨だ。

「明日の終業式、校歌の伴奏のお手伝いをお願いできますか」

響子は少し考えてから、碧と顔を見合わせて頷いた。

「わかりました。一緒に演奏させてください。香音ちゃんもいいかな」

「もちろんですよ」

「久見木さん、ありがとう。では、皆さんも楽器の準備を急いでくださいね。楽譜係、ファーストクラとセカンドフルートの譜面をお願いします」

後ろの方では、黒髪でポニーテールのあの子が、ドラムスティックを両手の指でくるくる回しているのが見えた。

「彼女、パーカッションだったんだね。なるほどね」

「あの子は、同じクラスの後藤(りん)ちゃん、ちょっと男の子っぽいけど、美人だよね」


教室で小突かれた時のトコトコトコトコトンが、きれいな連符だったことを思い出した。

一ヶ月以上触れることのできなかったクラリネット。収めたケースの蓋を開ける手は微かに震えた。


ローテンションして使っているリードを慎重に見定め、口にくわえてゆっくりと湿らす。

ジョイントのコルクに塗るグリスは、多からず少なからず、

ベルから、下管、上管、バレル、マウスピースの順番に組み上げ、

くわえていたリードを、マウスピースに合わせて

微調整しながら、リガチャーで固定する。


これまで数えきれないほど繰り返してきたからこそ特別だと思える。

軽く音出しをして三沢に目で合図を送る。


「では、B♭ください」


響子は久しぶりの合奏を心から楽しんだ。そして、教頭の言っていた弱小部活というのが必ずしも正しくないことはすぐにわかった。

響子の目は譜面を追いながら、両耳はくるくると良い音のする方向を探り当てていた。香音のサキソフォンは柔らかく甘美な音色で艶やかにメロディーを歌い、凛のスネアドラムは粒がそろって水晶発振の様に正確にリズムを刻んでいた。田中のチューバは軽々と飛ぶように低音域のパッセージを奏でていた。

少人数で、パートの編成がアンバランスではあったが、どのパートも個々の演奏レベルはかなり高かった。肌をなでる心地の良い音圧に、響子は自分の音を気持ちよく重ねた。

運動部至上主義の、あの教頭に張られた弱小吹奏楽部のレッテルをべりべりとはがして、あの禿げ頭に投げつけたい、そんな衝動にかられた。

練習が終わっても、皆なかなか帰ろうとしなかった。おしゃべりしたり、ふざけたり、好きな曲を合わたり、思い思いの時間を過ごしていた。碧もフルートパートの子たちに交じって楽しそうだ。

第二音楽室の出窓には小さなクリスマスツリーが飾られ、窓の外は、しんしんと雪が降り続いていた。日はすっかり暮れ、窓明かりからは、真っすぐで瑞々しく、外連味のない話し声が漏れては、降り積もった雪に吸い込まれる。響子の心に灯った明かりは、小さく、手をかざすと微かだがようやく熱を感じることができるほどだが、今日、十二月二十五日、新しい仲間との出会いは、素っ気なくて、奥ゆかしくて、あっけらかんとして、優しかった。



終業式


当たり前の家族かどうかは、大晦日と正月の過ごし方で決まると、響子は思っている。年末に家族そろって、テレビで恒例の歌番組を見て、年越しそばを食べて、二年参りに出かけ、お年玉をもらって、お雑煮を食べて、みんなでボードゲームをするって言うあれだ。

響子の家では、正月だからと言って、それらしいことを一切しない。子供がお年玉をもらう、そういう事さえ無い。

周りには、高校になってもお年玉をもらっている友人は沢山いたが、響子が、それを羨ましいと思ったことは、ただの一度もない。ただ、自分がお年玉をもらった事が一度も無いと誰かが聞いたら、さぞかし驚かれるのではないかと、冷や冷やしていた。

由希に恐る恐る白状してみた。

「そういう家もあるんだよ。別にいいじゃない」

由希は、響子の家が他とはちょっと違っていて、響子がそれを引け目に感じているのをよく分かっていた。由希のポケットには、響子を安心させる答えが、いつだって入っていた。

響子は、時々、こっそりと由希の家に遊びに出かけた。なぜ、こっそりかと言えば、母親が、響子や碧が友達の家に遊びに行くことを、極端に嫌っていたからだ。理由は分からない。その逆で言えば、友達が自分の家に遊びに来るなど言語道断だ。やはり理由はわからない。

由希の家には、いつも優しそうなお母さんがいて、響子が遊びに行くと、いらっしゃい、よく来たね、ゆっくりしてってね、と温かく出迎えてくれた。両親のことは、それなりに尊敬していたが、こういう当たり前の家の子どもに生まれて来られたら良かったのに、そういういう切ない思いもあった。由希の家に、時々遊びに行っていたことを、母親は知らない。あれは、由希の母親に内緒にするように頼んでいたのは由希だったはずだ。響子は、由希のことを一番の親友だった思っていたし、心から信頼していた。ただ、あの時だけを除いて。

二年の時の吹奏楽コンクールのオーディションがきっかけだった。クラリネットパートにはずっと仲良くしていた美紀先輩がいた。吹奏楽コンクールには出場人数制限があり、毎年、百名以上の部員から五十五名がA部門、言ってみれば一軍枠に選抜される。その他の殆どはB部門、言ってみれば二軍枠での参加だ。

「美紀先輩ならAで間違いないですよ」

心にもないこと、いや、その時は本当にそう思っていたのに、蓋を開けてみれば、二年の響子がA、三年の美紀先輩はBだった。クラリネットは元々大所帯で、B部門行きになる三年生は大勢いた。オーディションで響子は美紀先輩よりたまたま上手く演奏できたのかもしれないが、その差は微々たるもので、結果として起こってしまったことは交通事故みたいなものだ。

美紀先輩は表面上は普通だったが、陰では、響子さえいなければみたいなことを言っていた。背筋が凍った。それからしばらくすると、他の先輩からも無視されるようになったばかりか、由希からも避けられるようになり、孤立した。由希もフルートでA部門に選ばれていたから、あからさまに響子をかばうことなどできなかったのかもしれないと諦めていたはずだった。はずだったが、あれ程信頼していたのにと思うとやりきれない思いが募った。結局わだかまりは解けないままコンクールは終わり、響子は転校となった。後悔やら、憤りやら、寂しさやら、いろんな感情をむりやり押し込めた胸がいまでも疼く。


音楽室で音出しとチューニングをした後、生徒だけで体育館の入り口付近の渡り廊下で出番を待っている。

「冷えるし、何だか緊張する」

「大丈夫ですよ。みんな私たちの演奏なんて聞いてませんから」

香音はあっけらかんとして言う。実際のところ、体育館にいるのは生徒と教職員だけだ。。

「たかが、終業式なんだから気楽にやろうよ」

凛はドラムススティックを器用に手のひらと指でクルクルと回して見せた。

「そうそう、それに、校歌の伴奏して、校長の話を聞かなくて済むなんて、ブ・ラ・バ・ンの特権でしょ、これは」

目は半開きで気怠そうにトロンボーンを抱えた男子生徒がことさら大きな声で言う。演奏前に片手ポッケはあり得ない。

祐樹(ゆうき)君、しっ、もう式が始まってるから」

「はい、はい、副部長さん」

副部長の夏希(なつき)は、スウェードの手袋で、真下に向けたトランペットのベルを左手で支え、体育館の中の様子をうかがっている。響子のかじかんだ手に気が付くと、ベストのポケットから使い捨てカイロを出した。

「寒そうね、これ使って」

「ありがとう。私、校歌の伴奏でも演奏機会は大切にすべきだと思う」

「そうね。でも、祐樹君の言うことあまり気にしないで。直ぐカッコつけるんだ」

「カッコ悪いと思うけど」

「私もそう思うよ。子供っぽいところあるから、気を引きたいだけ」

夏希の眼鏡の奥の潤んだ瞳はどこか儚げだが、意志の強さを含んでいた。校長講話が終わると、夏希が目くばせをして演奏位置につく。三沢が壇上の方にうやうやしく一礼したあと、おもむろに構えた指揮棒が振り降ろされる。


全校生徒が体育館後方の出口に列を成していた。暖房が効かない極寒の体育館で、演奏をし終えると終業式が終了とは確かにありがたい。これ程の寒さとは思わず、制服の下はいつも通りで来た。すこし悔しいが祐樹の言う通りかもしれない。吹奏楽部の前を通り過ぎる何人かの男子生徒が、響子と碧に目を留める。二人の着ていた前の学校の制服が、今風のセーラー服だからだろうか。彼らは、すぐに視線を逸らして、足早に通り過ぎたが、ひと際背が高く、浅黒い顔に、ぎょろっとした目のついた男子生徒だけは、響子の方を真っすぐに見て、通り過ぎるまで視線を逸らさなかった。

「あの人は、今度、合唱部の学生指揮者になった二年C組の前田博一(ひろかず)

香音が後ろから耳元で囁いた。フルネームで呼び捨てにされたりするのは大抵評判が芳しくない場合だ。

「合唱部には気を付けてくださいね。みんな意地悪ですから。それにあの前田博一は女癖が悪いって有名です」

「へえ、特にもてる様には見えなかったけど」

「合唱部自体、男女関係がドロドロだって噂です」

香音の言葉が妙にとげとげしい。素顔が笑顔のような香音の口元が歪む。

「香音ちゃん、何か合唱部に恨みでもあるの?それとも、あの前田っていうのに泣かされたとか」

「とんでもない。私はあんなギョロ目ノッポのことなんか何とも思っていませんよ。でも、泣かされた女子が何人もいるそうです。それに、合唱部とは毎年新入部員の取り合いになるんですよ。といっても、中学の吹奏楽経験者はほとんど合唱部にとられるという一方的な流れなんですけど」

体育館の狭い出口では、生徒の列が一本の紐にまとまり、前田の姿も一緒くたに淀みなく押し出されて行った。


この状況でいったい何人が田中の話を聞いているだろう。

「冬休みですが、明日は練習はありません。明後日から十二月二十八日までは午前中の・・・です。一月三日から・・・朝、教室は空いた状態ですが、練習終了後はパートリーダーが責任を・・詳細は副部長が今からプリントを配り・・・」

各々の教室で二学期の通知表を受け取って、落ち着かなくなる理由は色々あるだろう。ただし、この子の場合は確信犯に近いものがある。

「ねえ、私、西山だけど、一緒に帰らない?ぶらぶらしながらさ」

「でも碧と」

遠慮がちに小声で言いながら、凛が指差す方を見る。碧は同じフルートパートの子と何やら楽しそうに話し込んでいる。

「たぶん、あっちはあっちで仲良くやると思うから」

「凛ちゃん、ずるいですよ。今日は香音が響子ちゃんと一緒に、どこか遊びに行こうと思ってたのに」

「悪いね、早いもん勝ちという事で」

凛に軽くあしらわれた香音はくるりと背中を向けて小柄な体を更に小さくする。凛は身振り手振りで、放っておいていいと言いたいらしい。

「じゃあ、香音ちゃん、三人で一緒に帰ろうか」

「うんうん、私、西春丘から通学してるので、宮北駅から電車に乗るんですよ」

「私の家、駅の近くだから、散らかってるけど寄ってってよ。凛ちゃんもそれで大丈夫かな」

香音は何度も頷いて満面の笑顔だ。尋常ではない回復の速さに響子は呆気にとられ、凛は苦笑いで肩をすくめた。

「では、皆さん解散にしましょう」

田中の弱々しい声の残響を部室に残して、三人は引っ越して来たばかりの響子の家に行くことになった。


宮山(みややま)は、西に木曽山脈、東に赤石(あかいし)山脈が南北に連なる伊那谷にある。学校はこの二つの山地のちょうど中間にある。学校より西は西山地区、東は東山地区、それぞれの山の麓からは学校まで二キロ程の道のりだ。響子の家は、学校の最寄り駅や商店が立ち並ぶ中にあり、小高い丘の上に立つ宮北高には徒歩で通学できる。凛は西山地区から、いつもは自転車通学だが、昨日の様な雪が降るとしばらくは徒歩通学になる。生徒の三分の二程度は電車通学で、香音は宮山から三駅南の西春丘(にしはるがおか)町から電車で通学していた。

生徒玄関を出ると、まだ日は高く、昨日とは打って変わって雲ひとつない青空だ。積った雪の表面は幾分溶け、適度に入り混じった氷と水が冬の太陽を反射している。さざめく光に目を細めると、瞼に圧力を感じるがそこに熱量はない。ときおり巻き上がる寒風は、外気に晒された下肢から体温を奪う。

古い日本家屋の玄関から居間に続く板張りの廊下には、荷解きの終わっていない段ボール箱が、ぎっしりと積み上げられていた。もう昼だと言うのに家の壁という壁が氷のように冷気を出している。すぐさま居間の襖を締め切ってヒーターを付ける。外から着て来たコートとマフラーはそのままで、炬燵布団に肩までもぐりこみ、部屋が温まる前、体の周りの熱を出来るだけ逃がさない様にじっとしているしかない。

「とても、お母さんには見せられません」

香音は光沢のあるケント紙の通知表を半開きにして、何度もため息をついた。

「中間も期末もひどかったから、覚悟はしてましたけど。四とか五ばっかりで嫌になっちゃう」

「どれ見せてみな」

「いやあ、それはちょっと・・」

「交換ならいいか」

「う、うん」

香音が見ている凛の通知表を、響子が覗きこむ。数学と英語が十で、それ以外殆ど九だ。

「凛ちゃん、すごいね」

「ん?うん、それなりに頑張ってるからな」

今度は凛が見ている香音の通知表を見て、思わず嘆息がもれた。

「ほとんど四か五だから、凛ちゃんの半分だね」

「響子ちゃん、分かってるから、傷口に塩を塗るようなことを言わないでください」

「相島香音、学習態度と積極的に授業に参加する姿勢△、与えられた課題を期限までに終える△、自発的に家庭学習に取り組める△、こりゃ内申もやばくなりそうだな」

「凛ちゃん、もう、本当にやめてってば」

「香音は、三年生が引退してから、サックスばっか吹いてたもんな。そりゃあ成績も落ちて当然だろうな」

「えへへ。部活、あと一年しかないから、しっかりやりたいな、なんてね」

「まあ、お前の家、金持ちなんだし、そんなに勉強頑張らなくてもいいんだろ」

「香音ちゃんの家って、お金持ちなの?」

「そっ、実家が西春丘フーズ。健康食品ブームで売れまくってる〈かんてん家族〉を作ってる会社。香音はそこの社長令嬢だよ」

「え、凄い。埼玉にも〈かんてん家族〉のショップがあったよ」

「姉妹二人で長女なんだから、お婿さんもらって、会社継げばいいんだよ」

「私は、そんなんじゃなくて、白馬の王子様が迎えに来てくれるって信じてるから」

「あー、また始まった、シンデレラ・コンプレックス」

響子は苦笑しながら言葉をはさむ。

「白馬も王子様も別に悪くないよ。でも、勉強も部活も恋愛も全部頑張るなんて無理じゃない。だから、今は何か一つだけ頑張ればいいんじゃないかな」

「じやあ、私は白馬の王子さまは後回し。先ずは部活だ」

「香音は勉強したくないだけじゃないのか?」

「えへへ、ばれちゃいました。響子ちゃんは?遠距離恋愛中とか」

「まさか」

「じゃあ、祐樹君なんてどう?多分、響子ちゃんのこと気にしてると思うよ」

「パスします。私、だらしない感じ嫌なので」

「凛ちゃんは?」

「別に」

「そう言うと思いました。二人とも暫くは彼氏なしと言うことでいいですね」

「もちろん」

響子と凛は声を揃えて言ったが、モテそうなのに興味のない凛の場合と、吹奏楽一色で余裕がなかったか、あるいは単にモテなかった響子の場合では、だいぶん事情が異なる。

「凛ちゃんって、パーカッションは天才的だし、勉強も常にトップクラス、おまけにその美貌。本当にうらやましいよ。前から京都の大学に行って、哲学の勉強したいって言ってたけど、凛ちゃんなら楽々合格ね。近寄り難いのがたまに傷だけど」

「おいおい、近寄り難いって言うのは男だけだろ。だいたい私には香音の家みたいに立派な家族がいないしな。香音は無い物ねだりしてるだけなんだよ」

「凛ちゃんは、京都に行きたいんだね」

「ああ。私、京都育ちで、中二の時にこっちに引っ越してきたんだけど、やっぱり京都が好きだから」

響子が、吹奏楽や親友の由希との関係を断ち切ってこの地に移り住むことになったのは、母親の仕事の都合と言う明白な不可抗力だった。凛が何処か遠くを見るように話した言葉は、ノスタルジーでもなく、生きて行くうえでの切実感や悲壮感だった。

「私、伊那育ちだから、凛ちゃんにそう言われるとちょっと悲しい」

「いや、もちろん伊那は好きだよ。宮北の吹奏楽部なんて面白いやつが多くて超楽しいし」

「響子ちゃんは、なんで宮山に引っ越してきたんですか?仕方なくなんて言わないで下さいね」

「まあ、家庭の事情っていうのでね。つまり、お父さんとお母さんが別れちゃって、お母さんがこっちで仕事することになったから、仕方なくと言えば仕方なくだけど。別にここが嫌いって言うわけじゃないのよ。私も香音ちゃんと違って、家庭には恵まれてないわけで、そう言う面では仕方ないんだけど」

凛は押し黙ったまま響子をじっと見ている。香音の大きな目に涙がみるみる溜まり、今にもこぼれそうだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい。そんな事情があったなんて」

「やだ、香音ちゃんが泣くことないよ。私は気にしてないし」

「ごめんなさい、ごめんなさい、みんな仕方ない理由があるのに勝手なこと言ってて」

「だから、大丈夫だから、謝らないで」

凛は、憮然として言った。

「そういうことはもう少し秘密にしておくとか、遠慮がちに言うもんだろう、普通は」

「だって、香音ちゃんが聞いたから」

「だからって、あまりあけすけに言うような事でもないし、聞かされる方の気持ちとか、責任って物もあるんだから」

凛は苛立ちが募り語気を強めた。響子も納得がいかない。香音は目に涙をためたまま、オロオロするばかりだ。

「こういう話って、普通は聞いた方が気を使うとか、慰めるとかじゃないの」

「いや、言う方が無神経すぎる。だいたい、そんなことしたって、惨めになるだけだろ。それとも慰めてもらいたいわけ」

惨めになるだけ───

響子もそうは思った。前の学校で、家庭の事情を知って、慰めてくれる同級生はいた。しかし、大抵の場合は言葉がうわすべりしてて、慰めてる方は優越感に浸っている。凛はうわべだけ見て、言っているのでない。一理ある。しかし、これほど感情的になる理由は見当たらない。凛には、聞く側に相応の覚悟が必要な事情でもあるのかもしれない。だとすると、響子は、責任を持って凛の話に耳を傾けることはできるのだろうか。胸の中に冷たい雫が落ちた。

響子と凛は押し黙ったまま二人で香音の頭や背中を撫でながら言葉を探している。

「田中君、終業式のあと部室で誰も話聞いてなくてちょっとかわいそうでしたよね」

香音が涙声でポツリと言う。

「私が原因かもしれないけど、二人ともケンカしないで下さいね」

響子と凛はばつが悪そうに眼を合わせる。

「ああ、そうだな。それにしても部長のやつ、響子たちの事は、響子さんとか碧さんとか言うんだよな」

「私たち、姉妹で入部だからでしょ」

「島田姉妹いるけど、あいつ下の名前じゃなくて、島田姉とか島田妹とか、島田一、島田二とか言ってるぞ」

「香音も、それひどいなと思ってたんですよ。ちゃんと名前で呼びなさいって」

涙声のままだが、声に何時もの明るさが戻って来た。

「あの部長が名前で呼ぶっていうことは、下心があるのかもな。あいつ彼女いるくせに」

「え?、あの黒縁ゴリラメガネに?彼女?」

「おいおい、そのあだ名は初めて聞いたぞ、ナイスだけど」

「きやははははは、お腹痛い。響子ちゃんてそう言う才能あるんだね。じやあ、三沢先生は」

「いやー、それはやめとくよ」

響子は、なぜ凛が伊那谷に移り住むことになったかを知らないし聞かない。凛が言うとおり、それを聞く側の責任があり、覚悟が必要なのかもしれない。分からないままであっても、凛は与えらえた境遇で懸命に生きていると感じる。ぶっきらぼうだが、彼女の率直な言葉の奥底に感じるひたむきさが、響子の心をとらえて離さない。

居間はいつの間にか暖房が効いて暖かくなっている。その後も、三沢のこと、クラスのこと、勉強のこと、塾のこと、進路のこと、三人でいろんな話をした。部活の帰りに友達が家に来ておしゃべりしている。時には衝突することもあるかもしれないが、嘘もなければ、取り繕うこともない生のままの会話。お互いに言いたいことを言って喧嘩しても後で謝る必要はない。相手の気持ちや言い分がわかり合えるから、相手を言い負かした気になって、大人みたいにお互いに謝って、折り合いをつけたりすることに意味がない。普通のことができる友達、普通であることの安定感と安心感、それらを知らないふりをして過ごしてきたことへの後悔が響子の鳩尾を圧迫する。

十二月三十日、朝。起きがけの寒さに閉口する。晴天が続いて朝晩の寒暖差が大きくなっていると天気予報で言っていた。九時はとうに回っているが、響子の鼻から下は布団の中だ。今日から一月二日まで部活がない。ついこの前まで、休日でも朝から練習に行っていたから、こんな風に過ごすのは何時以来か記憶にないぐらいだ。壁に沿ってうず高く積まれた段ボール箱で天井が小さく見える。地震か何かで、この巨大な段ボール箱の壁が崩れ落ちたとする。瓦礫と化した段ボールの下から誰が響子を引っ張り出してくれるだろうか。引っ越してきたばかりで近所づきあいもない。知り合ったばかりの香音や凛をあてにするのも虫が良すぎる。身を守る最善の方法は、一刻も早く荷解きを完了することだ。

芳恵は前夜から当直勤務で不在だ。響子は碧と手分けをして、玄関から居間、響子達の自室にびっしりと積み上げられた段ボール箱の荷解きをする。一度重い腰が上がると、良いペースで段ボール箱の山は片付いた。

当直明けの芳恵が仕事から帰って来た。随分と疲れた様子で、荷解きが終わっているのを見ても何も言わない。響子と碧の当然の仕事だと思っているのだろう。芳恵が働かなければ、響子達は学校に行けなくなるどころか食べるにも困る。三人にはそれぐらい頼るべき人が居ない。芳恵はシャワーの後、黙って寝室に行き、すぐに寝息をたてた。

荷解きをして安全確保が終われば、次は食糧確保に向かう。学校の行き帰りに通る駅を挟んで反対側に、程よいスーパーマーケットや商店街がある。数日の間に、少しづつ大目に買い物をし、空っぽだった冷蔵庫や食糧庫には彩りが出て来た。駅は、いつもの今頃であれば宮北高校の生徒で混雑するが、今日は人影まばらだ。時間が止まったような待合は、二時間に一本ぐらいの頻度で滑り込んでくる急行列車から降り立つ家族連れで息を吹き返す。ちょうど一人の男性がホームに降り立つのが見えた。満足そうな表情を浮かべ、深呼吸をする。すぐ後ろには、少し表情の硬い女性と、電車に疲れたのか、手を引っ張られ、足を引きずるようにして歩く幼稚園ぐらいの男の子が改札に向かう。ほどなく駅舎には楽し気な声がこだまする。響子のいる所からは見えないが、祖父母が出迎えに来ていたのかもしれない。

大宮で通っていた学校には、都心へ通勤するサラリーマン家庭の子が多かった。冬休み明けには、何処に帰省したとか、親戚の子と何をして遊んだとか、何を観たり食べたりしたとか、そんな話をたっぷり聞かされた。響子は帰省を知らない。宮北駅に降り立つ家族を見て、ああ、これが帰省なんだ、テレビで見ていた通りだなと感心する。ホームで満足気な表情を見せたあの父親には、気持ちがぴったり収まる場所があるのだろうが、響子にはない。駅前のロータリーを横切ろうとした時、駅から出て来たあの家族がちょうど祖父の運転する車に乗り込むところだった。すれ違いざまに男の子が手を振り、響子は笑顔で家族を見送った。

スーパーの入り口には、〈本日大売り出し、明日の大晦日、一月一、二日は休業日。スーパー小一・店主〉と張り出しがあって、店内はなかなかの賑わいだ。

「いらっしゃい、いらっしゃい、今年、最終日につき、半額の出血大サービスだよ」

「おじさん、これとこれを下さい」

「はい、まいど。おねえちゃん、今年は豪勢な正月になるねえ」

正月だからと言って食材に特別お金を掛けるのは集団心理か同調圧力だろうが、それも悪くない。響子は今まで目もくれたことなかったような高価な正月用の食材を買い込み、一杯になった買い物袋を碧と二人で両手に下げ、店を出た。

十二月三十一日、昼。休日当番で出勤予定だった母親が何故か家にいる。

「同僚の福島先生がね、お母さんが、ずっと働き詰めなのを見かねて、大晦日と元旦の勤務を代わってくれたのよ」

社会性が欠如していると思っていた母親の適応力が意外にも高いらしい。日本中が働かないことをよしとするこの時期に、すすんで仕事を代わってくれる仲間が既にいたという事が、響子を少々驚かせた。

「お正月用の食料をたくさん買い込んで来ちゃったから、私たちでいっぱい作るね」

「あら、私も一緒に作るわよ」

「いいよ、いいよ、お母さんはテレビでも見て休んでて。ほら、この間、たまには大晦日に歌番組でも見て、ゆっくりしたいって言ってたじゃない」

そう言って、台所から芳恵を体よく締め出したかった。響子は、いつも碧とそうしているように、好きな洋楽でも流しながら、碧と二人で料理する方が気楽で良かった。

碧とは音楽の趣味が似通っていて、1970年台のブリティッシュ・ロックが至高であるという点で意見が一致していた。特にお気に入りがロキシー・ミュージック。母親は昔から殆どクラッシックしか聞かなかったそうだが、意外なことに、このロックグループを知っていて、私たちの傍で、懐かしそうな面持ちで聞いている。

歌番組が始まっても、芳恵は落ち着きなく、台所と居間を行ったり来たりしている。お歳取り(おとしとり)のメニューは、碧お得意のローストビーフ、響子のお手製パンとコーンスープ、デザートは手作りプリン。歌番組はやめにして、遅めの夕食を囲んで、N響の第九公演を観た。

「学校はどう?」

「うん、クラスの方はまだわからない。二年から三年はクラス替えが無いみたいだから、焦らないで、ゆっくり馴染んでくよ」

芳恵は、いつになくゆるりとした優しい笑顔で、何度も頷きながら話を聞いていた。

「部活は、吹部に入ることにした。碧も一緒」

「吹部のフルートの子はみんな優しくて、仲良く出来そうだよ」

「よかった。お母さん、安心した」

「お母さんも、新しい病院でいい友達できたみたいで良かったね」

母親は、今日当直を代わってくれた仲間を思い浮かべたのか、少女のような、はにかんだ笑顔を見せた。その同僚医師が男性であることはすぐに察しが付いた。

「響子、碧、新しい学校でいろいろ大変だと思うけど、がんばってね。お母さんも頑張るから」

これまで経験したことのない絵にかいたような家族の大晦日、絵に描かいたようものに触れることを想像するのとは違う、実際に触れてわかる心地よさ。分かってはいたけれども、いやでも血のつながった母娘なのだということが心に沁みた。響子は願った。何も欠けた所のない家族と思わせてくれる時間が穏やかなまま過ぎることだけを。

床に就くころ、遠くから微かに鐘を突く音が聞こえて来た。何物にも遮られること無く、真っすぐと鼓膜に届く冴えた音だった。

元旦の朝。母の姿は無く台所には置手紙があった。


響子、碧へ

昨日はありがとう。楽しい時間を過ごすことができました。せっかく福島先生に仕事を代わってもらったけど、彼にも二人で暮らしている息子さんがいて、寂しい思いをさせてはいけないと思うので、今日は仕事に行ってきます。


便箋一枚の短い手紙だった。それに、茶封筒が二つ。中には一万円札が一枚ずつ入っていた。丁寧な字で〈お小遣い〉と書かれている。〈お年玉〉だったら良かったのにと口惜しさもあるが、胸の奥はほんのりと温かくなった。


いかがわしい匂いがプンプンする。そういう類の立て看板に挟まれた僅か半間のアルミの引き戸にはOPENの札が下がっている。響子と碧は躊躇しているが、背に腹は代えられない。もう一時間もして辺りが暗くなれば、立て看板の電飾に煌々と明かりが付くだろう。注意深く周辺を見回してから立て付けの悪くなった戸をそろりと開けてみる。

「いらっしゃい」

奥の方から、今にも歌いだしそうな声がした。

「学生さんよね」

初老の店主はエビ茶色のジャケットに赤い蝶ネクタイの身なりも身なりだが、容貌は明かに男性で、どこか芝居がかった女性らしい物言いだった。

〈宮山楽器〉と店名だけ記した小さな看板が駅舎の中にある。その店は響子の家から学校に向かう反対の方向だ。響子は、今朝、香音に電話で訊いてみた。

「宮山楽器って知ってる?」

「知ってますよ、私良く行きますから」

「練習始まる前に、リードを買っておきたいんだよね」

「気合い入ってますね。でもね、その店、店長さんが気まぐれだから基本的に不定休で、営業時間も決まってないんです」

「じゃあ、直接行ってみるしかないんだね」

「昼間はだいたい閉まってて、夕方から深夜に開いていることが多いですよ」

そして、世の中はまだまだ正月気分の一月二日に店は開いていた。

アルミの戸をくぐると、皮膚にふんわりとした潤いを感じ、鉄さびと香木が入り混じった香りが鼻先をかすめる。意外にも店内は奥行きが広く、壁一面が書棚になって、大小の楽譜が楽器別、作曲家別に収められている。

「うちは初めてよね」

「はい、私たちこのあいだ引っ越してきたばかりです」

「あらあら、あわただしい時期に大変だったわね。まあ、ゆっくり見てってちょうだい」

中央のガラスの陳列ケースには様々な楽器の小物が整然と並んでいて、響子が以前から試してみたかったマウスピースやリードもあった。

「こちらのお姉ちゃんはクラリネットのリードをお探しかしら」

「えっ、よくわかりましたね」

「人間観察って言うやつ。妹さんはフルートでしょ。学校は青城(せいじょう)学園?」

「いえ、宮北高校です」

「あら、意外ね。私はオーナーの黒田、よろしくね。それにしても宮北に転入生なんてほんと珍しいわね」

黒田は大袈裟に驚いてみせると、楽器カルテと書かれたケント紙のカードを二人の前に差し出した。楽器の種類とモデル、マウスピース、パーツ、リードなどのメーカーと型番、他には楽譜の購入歴、リペアの記録欄がある。

「個人情報何某(なにがし)とかいう面倒な話はしたくないから、名前は未記入でいいけど、代わりにニックネームなんか書いてもらうとうれしいわね」

響子も碧もあだ名で呼ばれることは昔も今もないので名前を書くことにする。

「ありがとう。響子ちゃんと、碧ちゃんね。あとは、ここにこうしてと」

黒田は、響子と碧が書いた名前の横にすらすらと二人の似顔絵を書いた。

「楽器を買い替えたり、パーツを変えたりした時以外はあんまり見返することはないんだけどね」

黒田が背にしている棚に、学校と楽器ごとに見出しの付いた楽器カルテが隙間なく詰め込まれている。青城学園が上から四段と半分、宮北高校は下の方に一段分ぐらいある。

「宮北の香音ちゃんて子に聞いて、ここに来たんです」

「ああ、香音ちゃんね。よく知ってるよ。香音ちゃんのお母さんもうちのお客さんだったしね。確か青城学園だったかな」

「あの、青城学園って・・」

「市内にある私立のお嬢様学校よ。中高併設で中学も高校も吹奏楽が盛んだから、ほら、カルテがいっぱいあるでしょ。うちでは一番のお得意様ね」

「宮北の吹部の子はあまり来ないんですね」

よどみなく話していた黒田が少し言葉を選んでいる。

「そうねえ。自由っていうか個性的な子が多いわね。で、響子ちゃんと碧ちゃんは吹部に入ったのかな」

「はい、一週間前ですけど」

「じゃあ、一年生でホルン吹いてる聖桜ちゃんと絵里ちゃんていう子のことは知らないよね。二人とも中学まで青城だったんだけど、しばらく見ないし、元気にしてるかしらねえ」

黒田は二人のことを気にかけて心配しているようだが、響子は彼女たちのことは知らないし、関わり合いもない。響子は、黒田の沈んだ表情を見て、聞く側の覚悟という凛の言葉を思い出していた。

「それはさておき、顧問の三沢先生、彼は優秀だよ。いい男だしね。うちでよく楽譜を注文してくれるんだけど、結構マニアックなのが多くて困るのよ」

ひとり苦笑しながら、三沢のことを話したくて仕方ないといった様子だ。黒田によれば、三沢は名古屋の方で最初に赴任した学校の吹奏楽部をあっと言う間に全国レベルに引き上げて有名になったらしい。六、七年前というから、まだ響子が吹奏楽を始める前だ。

「でもね、突然表舞台から消えてしまって、三年前に突然私のお店に現れて、宮北高校で吹奏楽の顧問をしてるって聞いた時は、何で?と思ったわよ。今は楽しそうにやってるみたいけど、最初は何時も心ここにあらずっていうか、不機嫌と言うか、そうね、ちょうど今のあなたの様な感じだったかしら」



(りん)


───まあまあかな。もっと、ださい感じかと思ってたけど。それとも、私が着るとなんでも可愛くなっちゃうのかしら、なんてね

響子は、やっと届いた新しい制服のスカートの丈の位置を気にしながら、姿見の前でベルベット生地の紐リボンの形を整えると、ちょっと右ひざを出して、ぎこちなくポーズを取り、口角を上げる。

「お姉ちゃん、気持ち悪い。スカート短いし」

眉根を寄せて目を細めた碧が、響子の後ろから姿見越しに覗きこんでいた。

「こら、のぞくな、気持ち悪いなんて失礼な、まったく」

しかし、実際のところ、響子自身も少し気持ち悪いかなとは思った。

改めてみると、筋張った太腿がスカートから真っすぐ下に、にょっきりと伸びて、つるしてある洋服をハンガーごと出してきたみたいなブレザーの上にちょこんと小さい頭が乗っている。ヒップはそれなりのサイズなのに、胸はとても高三とは思えない程に未発達だ。普段化粧はしないが、血色だけは良くて、ほんのり頬だけがいつも赤く、小ぶりの鼻の両側には、凛に言わせるといつも不機嫌そうな大きい目が付いていて、響子の方を睨んでいる。そう言えば、楽器店の店主も、同じ様なことを言っていた。響子は鏡に向き直り、スカートの上から太腿をパンパンとたたいた。

この辺りは標高が高く寒暖差は大きいが、真冬でも根雪になることは殆どない。三学期が始まって一ヶ月半ほど過ぎたが、年末に降り積もった雪はすっかり溶け、グラウンドの端は所々ぬかるんでいる。中校門から生徒玄関への通路は打ちっぱなしのコンクリートになっていて、その脇にかき分けられた雪は、土混じりでのっぺりとした形になっている。

響子は、一人で早朝の校門の前に立ち、コートの前ボタンをはずして、ウエストでくるくると手繰りあげていたスカートをこっそりと戻していた。

「いけないんだ」

後ろから静かに近寄った凛が響子の耳元でささやいて、骨ばった腰の下の柔らかい丸みをわしづかみにした。

「り、凛!」

「あははは、ださい制服似合ってるぞ」

「ひどいなあ」

二人は、笑い転げながら生徒玄関に入っていった。

「静かだね。朝練、行くよね」

「こっそりとな、今日から一応部活禁止だから」

一週間後には三学期の期末テストだ。この学校では定期テスト一週間前から部活禁止だ。建前上は禁止ではなく、生徒が自主的に活動を休止していることになっている。部としての活動休止なので、運動部であれば自主トレのようなことには先生も目をつぶるし、生徒の自主性に委ねるという校風から言えば、個人練習にまで学校は口を出したくないようだ。

音楽室に上がる階段の下では田中がロングトーンを繰り返していた。田中のチューバは全く揺るぎない。まるで、まだ眠っている校舎の寝息の様だ。

響子と凛は、スチールの階段を足音が目立たない様にかけ上がった。音楽棟は、いつも早朝から三沢が鍵をあけているはずだ。四つある練習室からはメトロノームといくつかの楽器の音が微かに漏れ、長机の上に夏希のトランペットがケースと一緒に置かれたままだ。音楽準備室の一番奥の三沢の部屋のドアは完全には閉じられておらず、中から夏希と三沢の話す声が聞こえてくる。

「ですから、金を取るとかそういうことが目的ではなく、私たちは何か目標を持って部活を続けたいんです。少しでもうまくなりたいと思っているんです」

夏希の声は、いつもよりずっと早口で、上ずって、微かに震えている。三沢のそれはいつもどおり雨のような声だった。いつもより冷たい雨だったかもしれない。

「それは少し違うと思うんです。コンクールに出るということは、上達するための手段ではありません。地区大会、県大会、東海大会を勝ちぬいて、全国大会で金賞をとることこそがゴールです。明確に勝ち負けがあって、勝利を目指すことがコンクールの目的です」

練習室から漏れる音は聞こえなくなった。扉をそっと開けて香音と祐樹、他に一年生ホルンの川島絵里と野島聖桜が聞き耳を立てている。

「勝ち負けと言うのは良く分かりませんが、このままじゃ、部活してる意味がないんじゃないかって、先輩方の思いも同じでした。去年も一昨年も先輩方がお願いに来た思います。私たちみんなの気持ちなんです」

「みんなって、本当に、みんなですか」

「それは」

夏希はくぐもって一旦飲み込んだ言葉を一気に吐き出した。

「それは、そうではありません。今のままでよいと思っている部員も確かにいます。でも、先生は前の学校で、全国で金賞をお取りになった時も、生徒全員が同じ気持ちで吹奏楽を続けていたわけではないと思うんです。生徒全員の総意がないとコンクールに出場すらしてはいけないんでしょうか、あるいは、私たちのレベルが指導に値しないということなんでしょうか」

「今日はこれぐらいにしませんか。教頭から、テスト前には、できるだけ練習させないように言われていますし」

三沢の声がもう一段低くなって、夏希の言葉をさえぎった。三沢の部屋から出て来た夏希は、上気して顔が赤く、真っすぐに前を見据えた瞳にはうっすらと液体が張っていた。練習室から出て来た香音と祐樹から一言二言声を掛けられると、二、三回うなづいて、小走りに音楽準備室を出て階段を下りていった。下で待っている田中と話をするのだろう。

「もう、今月で三回目なんです」

響子に気が付いた香音が話しかけて来た。

「私たち、もうすぐ三年で、あと一年しか部活ないから。他の何人かとも、コンクール出たいねってずっと言っていて、田中君と夏希ちゃんにお願いして、三沢先生にお願いに行ってもらってるんですよ」

三沢の部屋の扉はピッタリと閉じ、最後の一年を部活にかけると言っていた香音の切実な願いは届いていない。

「祐樹君もコンクールに出たいとか思ってるわけ」

「俺は、お前が、今年全国に行ったとか周りが言ってるのを聞いて、俺たちもどれだけできるのかやってみたいんだよ。香音とは中学の吹奏楽部から一緒だけど、あいつもずっとコンクールのこと真剣に考えてたみたいだし」

「ふーん、なるほどね」

素行不良の烙印を押した祐樹にはこっぴどい言い方をしたが、十分ではないにしろ相応のモチベーションがあることが響子にはかなり意外だった。

響子と凛は朝練を諦めて楽室を後にした。練習室が塞がっていたからだが、香音や夏希のやるせない思いで気詰まりしたのもある。

第二音楽室の階段下の校舎の陰に夏希がいた。遠目にも、背中が小刻みに震えて、声を押し殺して泣いているのが分かる。田中は夏希の肩にに手を置いて慰めている、と思ったその瞬間、夏希は額を田中の胸に押し当てた。

「あわわ、あれって」

「青春だね。あんまりじろじろ見るなよ」

「知ってたの?」

「ああ、知ってたよ。見てりゃ分かるだろ。部で知らないやつはいないと思うぞ。それよりさ、メガネのカップルってなんかやらしくないか?」

「凛の変態。でも田中君の彼女が夏希だなんてちっとも知らなかった」

「さすがだねえ、響子は」

「え、何が?」

普通教室棟はまだ開いておらず、かといって、田中と夏希がまだいるだろう音楽室棟に戻る気にもならず、仕方なく鍵の開いていた管理棟に向かい、三階から屋上へ出る階段の踊り場に二人で腰を掛けて教室が開くのを待った。屋上への扉はいつも鍵がかかっているので、行き止まりになっていてろので、人が来ることはめったにない。

「凛はどう思う?」

「思うって、あの二人のことか?」

「そうじゃなくて、香音ちゃんたち、コンクール出たいって」

「正直よくわからないんだよなあ。私も中学の吹奏楽部ではコンクール出てたけど、何が何でもっていう感じじゃなかったしな。顧問の先生が三沢先生ぐらいのレベルだったらまた違ったんだろうけど」

「私は、コンクール全国出場が至上命題みたいなところでやって来たし、コンクールに出場するのは普通のことだと思ってたけど」

「けど?」

「けど、今はそうじゃなくてもいいのかもって思ってる」

「部活を続ける理由なんて人それぞれで良いわけだから、なにがなんでもコンクールで全国目指すっていう必要もないしな」

「凛は、なんで部活続けてるの?」

「なんでか…、打楽器が好きだからかな。無心になれるっていうか、現実逃避じゃないけど、嫌なこと忘れられるし」

凛が忘れたい事、現実逃避の現実とは何か、仄暗い不安が付き纏うが、響子はその疑問にて目に入らないようにする。

「私、凛ぐらい上手かったら、コンクールに出て自分の音を大勢の人に聞かせたいと思うかも。いや、私は全国で凛の音を大勢の人に聞いてもらいたいと思う」

「それは、それは、おほめ頂いて光栄です」

「真剣だよ」

「おまえ、本当にわかんないやつだな。殻にこもって不機嫌だったかと思うと、急に馬鹿みたいに素直に思ったことが言えて、人の気持なんか全く構わない感じでさ」

「それって、ほめてるんじゃないよね」

「そうだな、ほめるほめないというより、敬意を表してるって感じかな」

「なに、それ。回りくどい言い方しないでよ」

がらんとした踊り場に、二人の明るい笑い声が幾度となくこだました。

「あのさ、今日、学校終わったら私の家で勉強しないか。明日、学校休みだし」

「今日、お母さん帰ってくるのが遅いし、碧を一人にできないから」

「碧ちゃんも一緒に連れておいでよ。私が勉強教えてあげる」

「じゃあ、私にも教えて」

「お前は一人でできるだろ」

「ほんとひどいよね、少し泣きたくなった。でも、お家の方で迷惑じゃないの」

「お母さん、私が友達連れてったら喜ぶからさ」

響子の胸中に冷たい雫が落ちる。芳恵には電話で、夜七時までに連絡をするので、凛の家まで迎えに来てもらうようにお願いしたが、場所のことまで話し終わらないうちに電話を切られた。


「何度言ったらわかるの、友達を勝手に家に上げちゃダメでしょ」

小学校四年生ぐらいの時だった。

「でも、萌ちゃんが今度誕生会に呼んでくれるっていうから」

「誕生日でもね友達の家に行ったりしたら相手の家の人に迷惑でしょう。萌ちゃんに誕生会には行かないって言って帰ってもらいなさい」

母親は意地悪な魔女で、本当は自分は拾われてきた子なのだと本気で思った。外で友達と遊んでいても何も言われないのに、友達を家に上げると、何故そんなに目くじらを立てるのか理解できなかった。もちろん友達を呼んで誕生会などということは絶対にありえないし、呼ばれて行くことはたまには許してもらったけど、いつも相手の家が迷惑するといって良い顔はされなかった。呼ばれても行かないと言えば、次からは呼ばれなくなる、自分の誕生会に友達を呼ばなければ、友達の誕生会に呼んでもらうこともなくなる。お友達同士で誕生会をやって、誰が呼ばれて誰が呼ばれなかったなんてことがあると、後で揉め事になるのは何となく分かっていたから、そういい面倒の種になるような事はない方がいいんだと自分に言い聞かせていた。そして、響子と碧の誕生日、クリスマス、父親はあまり居たことがなかったが、これだけはいつも家族だけになった。


小一時間、三人で坂道をゆっくり西の山に向かって歩いた。

「あれだよ」

「素敵…」

白樺に囲まれた小さなログハウスのすぐ傍を、小川がぴきぴきとした水音をたて辺りの空気を凍らせている。三人で登って来た道を振り返ると東の山地の麓まで広がる伊那谷が見通すことができた。田畑のそこかしこに自生した梅は、抜けるような青空に伸ばした枝先に膨らみかけたつぼみを付けている。

「よく来たね。上り坂で大変だったでしょう」

あごひげをたくわえ、如何にも自由人という雰囲気の主が前庭で出迎えた。

「私は凛ちゃんと同じクラスで久見木響子で、これは妹の碧です」

「お姉ちゃん、これは嫌だ」

「ははは、凛から聞いていた通り可愛らしいお嬢さん方だね」

「でしょ?小動物の様にキュートな碧ちゃん、見るもの全てを凍らせるアイスビューティーの響子ちゃんよ」

「凛、なにそれ、差つけすぎでしょ」

「ああ、その不機嫌な感じがたまらない」

「ほんとに、ふざけすぎだよ」

凛は響子と碧の腕を強引に引き寄せて自分の胸の前に抱えた。

「凛、あなた、胸になかなかの物をお持ちですね」

「なっ何を、ばかな」

「なんだか楽しそうね」

家の奥からティーポットを持って現れたのは、顔形と言い、背格好と言い凛のコピーではないかと思わせるような美しい女性だった。

「お母さん、ですよね、凛ちゃんそっくり、きれい」

「何言ってんだ、凛だよ。なんちゃって、母の加奈子でーす」

「ははは、そのノリまでそっくりすね」


通されたリビングにある小さなペレットストーブの小窓にオレンジ色の炎が揺れている。

「響子ちゃんも碧ちゃんも吹奏楽やってるんだよね、凛が二人ともすごく上手だって言ってたわ」

「凛先輩こそすごいんです。打楽器でこんなに表情豊かに演奏できるんだってビックリですよ。凛先輩のパーカッションが入ると見違える様な演奏になるんです」

「いやあ、姉妹そろってこうも開けっ広げにほめてくれるとは素直にうれしいよ」

凛はすっかり苦り切った様子だが、響子も碧の言う通りだと思う。ゆるぎないリズム、粒のそろった打音は当然だが、それだけでは全体からかえって浮いてしまう。凛の音は歌っている。一見単調な打音の連なりに旋律が見えてくるから不思議だ。

「凛は中学から吹部だよね」

「うん、そうだよ。でも最初はパーカスじゃなかった」

「何やってたの?」

「ちょっと言いたくないな。柄じゃないやつだから」

「まさか、女子憧れのフルートとか」

「まさかは余計だぞ、当たってるけど」

「凛先輩がフルートだったなんてちょっと意外だけど、女の子らしい凛先輩も素敵だろうなって思います」

「自分としては黒歴史だよ。らしくないと思って、こっち来てから希望してパーカスに移ったんだ」

響子達の様子を伺っていた加奈子が紅茶を運んで来た。

「お紅茶でも飲みながらおばちゃんともお話しましょうよ。部活の事は置いといて」

ガラスのティーポットの底で茶葉が躍っている。加奈子はキルト地のカバーをかけ、掛け時計を見る。キッチンからは甘く香ばしい香りが漂う。

「宮山の生活は慣れた?」

「はい。碧と協力しながらなんとかやってます。お母さんは家の事を何もしないので」

「そっか、お母さんお医者さんだったわよね。大変だよね」

焼きあがたったアーモンドパイを凛と碧が乾いた音立てて包丁で切り分けている。

「あの、京都から引っ越して来られたんですよね」

「そうよ、インターネットでね」

「インターネット、ですか?」

「びっくりした?宮山ってインターネットで移住者を募っているのよ。過疎化対策ね。この辺のことは全く知らなかったけど、至れり尽くせりであまり苦労も無かったわね。この家も市役所で紹介してくれたのよ」

移住の方法は、きっかけ、理由、家庭の事情次第だ。テーブルに上に並んだ出来立てのパイを凛が一つ頬張って言った。

「ママは、来てみたらなかなかいい所だった。結果オーライだって言うんだよね。もう少し調べてから決めればいいのにと私は思ったよ」

「それはそうだけど、ママが良いなと思ってるのは宮山の人達のことだから、それは実際に住んでみないと分からないじゃない。ねえねえ、響子ちゃん、宮山にプラムって名前のお店が多いのは気づいた?」

「この辺は昔梅が有名だったんですよね。友達からプラムは梅のことだって聞きました」

「あのね、梅を英語でプラムというのはたぶん間違いなんだよね。梅は梅、プラムはプラム。プラムは強いて言えば(すもも)のことだから」

「みんな勘違いしてるってことですか?」

「ところが、勘違いとばかりは言えないのよ。梅の花言葉は、不屈の精神、高潔。プラムつまり李は忠実、独立ってところ。どちらも頑固だけど筋を通すっていうイメージね。まさに、宮山の人たちの人となりそのものだと思うの。梅とプラムは別物だけど、象徴する花言葉には共通するものがあって、どちらも宮山を象徴しているのは単なる誤解か意図的か偶然か、謎ね。因みに、李の花言葉に勘違いっていうのもあるのよ」

「オチまでついてて、すごく面白いです」

「ママ、その話、確かに良くできてるけど、何度も聞いたから憶えちゃったよ。響子、その後は、ゲテモノ料理の話になるんだよ。長いから適当に聞いときな。なんなら、私がはしょって話そうか」

「凛、邪魔立てするでない。さもあらずんば、我と交え、倒して進むが良い」

「本当、疲れるわ」

名物のゲテモノ料理の後は、宮山の絶景スポットや四季折々の楽しみ、かつて有名映画のロケ地となった場所、おすすめレストラン、はたまた宮北高校の先生の噂話など、加奈子は表情豊かに、ユーモアを交え、時には尾ひれをつけ、響子と碧を楽しませた。


二階の凛の部屋には、東側に大きな窓があり赤石山脈が良く見える。庭先はすっかり日が陰って色を失っているのに、山脈の氷砂糖の様な頂だけが赤紫色に輝いている。天上世界を仰ぎ見ているかのような不思議な感覚だ。

凛は普段使っている机は響子に譲り、碧と座卓で向かい合わせに座った。数学の苦手な碧は、早速、矢継ぎ早に質問している。部屋のカーテン、敷物、寝具はパステルカラーで統一されている。ピンクのハンガーラックに掛かっている服はグレーか黒のシックな色目の物ばかりだ。本棚には、西田幾多郎や唐木順三と言った響子が辛うじて耳にしたことがある哲学者の全集があり、その上の段には随分と前に流行ったキャラクターのぬいぐるみやフィギュアがびっしりと並べられている。京都にいた頃、凛は今よりも女の子らしい雰囲気だったのかもしれないが、その時の彼女を知る人は学校にいない。

予定をオーバーしてたっぷり三時間、響子も自分の勉強に集中し、最後は凛とテストの山かけで盛り上がった。芳恵に約束した七時はゆうにまわっている。リビングで帰り支度をしながら、響子は遅れたことを芳恵へどう言おうかと考えあぐねている。電話口で怒声を帯びた芳恵の声に耐える自分を想像すると気がめいる。

言い分けを思い付く前に、響子の携帯が鳴動し、響子は顔をこわばらせた。芳恵からだった。しかし、聞こえてきたのは意外にもいつもとは全く違う穏やかな声だった。理由は直ぐに分かった。仕事が終わらず、迎えに行くのが深夜になりそうだと言う。響子は胸を撫で下ろし、肘で碧を小突いて、耳元で囁く。

「お母さん仕事で迎えが夜遅くなっちゃうんだって」

「泊まっていきなよ、明日休みだし」

思いもよらないことを凛が口にする。加奈子も一気加勢に言う。

「そうよ、そうよ。ちょっと、携帯貸して。お母さんと話してみるから」

響子は戸惑った。凛は響子の家族がどれほど無意味に世間と対峙してきたかを知らない。それでも響子の本音は単純で、友達と肌を寄せ合って一晩中過ごすことがあれば、その子を生涯の友と思い込むほど幼い。

「大丈夫よ。明日朝、私がおうちまで車で送っていくからね。あなた達のお母さん、本当に大変な仕事だからね」

響子と碧は狐につままれたような心持ちでお互いを見合い、そして喜びを爆発させた。

「響子ちゃんと碧ちゃんの着替えとかパジャマは、凛のを使ってね。洗面道具もどこかのホテルから持って帰って来たのがあるから出しておくね。もう遅いから、夕御飯は家にあるものだけだと

コンビニで少し調達してくるね」

加奈子は全部言い終わらないうちに、買い出しに出かけて行った。

「うちのママ、変わってるだろ」

「ううん、素敵だし、良いお母さんだよ。うちなんか・・」

凛や香音や夏希が練習帰りに響子の家に立ち寄つても、芳恵が家いることはあまりないし、むしろその方が響子には気楽だが、家に居たとしても、お構いなしに寝ている。母親の何を良しとするかなど誰かが決めることではない。母親は唯一無二だ。だれもその現実から逃れることはできない。

「気にするなよ。私は響子の友達で、家の人の事なんか気にしちゃいないから」


西の山地の頂から冷気が滑り落ち、地上の熱は暗い空に奪われていく。加奈子か家中の暖房をつけておいてくれた。吹き抜けのリビングを見下ろす凛の部屋で、響子は頭まで布団をかぶるが、なかなか寝付けず、何度も寝返りをうった。

「もう少し暖房しようか」

「ううん、ごめん、起こしちゃったね」

常夜灯の仄かな明かりが、隣に寝る凛の涼やかな目元を浮かび上がらせている。遅い夕食をとりながらDVDを見て、深夜までおしゃべりして、ふざけあって、ほんの一時間ほど前までの興奮が嘘のように静まりかえっている。

凛が言っていた。お気に入りだと言う吹奏楽部を舞台にしたアニメを見ていた時だ。

「碧ちゃん、前の学校の吹部もこんな感じだったの?」

「そうですね、コンクールで金をとるとか、全国行くとかは大きな目標でしたからね。こんな風に熱くなってましたよ。人間関係が難しくなっちゃう所なんかもあるあるですよね」

「コンクールはおいといてもさ、皆んなで一つの目標に向かって頑張るみたいなのって、単純だけど好きなんだよね。おお、ここのバスドラムのロール、カッコよくない?」

「パーカスの人は、そこがツボなんですね」

「クラリネットはあまり出てこないんだよな、響子」

「うん、そうなんだよね・・・」

気のない言い方になった。


ソファーベッドで碧がすやすやと寝息をたてている。ある記憶を無理やり詰め込んで、栓をして、脳の底に沈めるとする。気を緩めれば浮かび上がり、ポンと栓が抜ける。良くも悪くも記憶を切り刻むにことは出来ない、記憶の断片は必ず別の断片を探すからだ。

「なあ、響子」

「なに?」

「前の学校で、何があったか知らない。言いたくなければ言わなくていい。何でも打ち明ければいいってもんじゃないからな」

「そうか、そうだね」

「でも、私は響子の傍にいるからさ。言いたくなれば言えばいい」

「傍にいるだけ?」

「だけ」

「聞かないの?」

「聞かない」

確かにそれで十分だ。救われたと感じるのは一人じゃないと思えるからだと響子にはわかる。

「ねえ、凛、碧に前の学校の吹部のこと聞いてたじゃない。夏希達は私達が全国に行ったって言う話聞いたから、あんな風に言ってるのかな」

「いや、去年も三年生が三沢先生の所に直訴に行ったらしいね。もっとも、去年の先輩達は、今の私たちほど練習してなかったから、本気ではなかったかも知れないけどね」

「凛はどう、やっぱりコンクール出たいと思ってる?」

「私は、皆が出ると言うなら出るし、出ないというなら出ない。今の部活で打楽器続けられたらそれでいい」

「そうだよね、凛にとって大切なのは、好きな打楽器を続けることなんだもんね」

「コンクールってテストみたいなもんだろう」

「まあ、言ってみればそういう事だね」

「テストは…私、好きじゃない。…そういうのは勉強だけで十分だよ…」

「凛さ、今朝私が何で部活続けてるのって聞いたら、嫌なことを忘れられるとか、現実逃避とか言ってたけど、あれ、どういう意味?」

「…現実逃避? あれ、そんなこと言ったっけ? 逃げている、うん…、そうかも…、もう、寝よ……」

途切れがちの凛の言葉はやがて寝息に変わった。響子は、艶やかな唇を少しばかり開き、すやすやと眠る凛の前髪をそっとなでる。

毎年コンクールに出ることを当然のように考えていた。コンクールで良い成績があげられないと、皆んなでがっかりして、めそめそ泣いたりした。先生や先輩は、努力が足りなかった、次はもっとがんばれとハッパをかける。目的もちゃんとわからないまま、とにかく頑張り成績を競う。

個人としては、大勢いる部員の中からコンクールメンバーに選ばれなければならない。そのためのオーディションがある。オーディションに受からなければ出場もない。全国に行ったと言う武勲を語ることができるのは、普通、コンクールメンバーだけだ。

上手な一、二年生がいれば、頑張ってた三年生がメンバーから外れることもある。コンクールで良い成績を残すという大義は、三年の努力を一瞬にして水泡に帰することができるし、それは仕方のないことだと皆んなに思い込ませるパワーがある。

やっぱり、そういうテストはテストだけで十分かもしれない。

頭の冴えた響子は、階下の微かな物音と人の気配に気が付いた。凛と碧を起こさない様に、そっと部屋を抜け出して、薄暗いリビングを見下ろした。加奈子だった。ゆっくり階段を降りて近づくと、加奈子が、暖炉の前でソファーに腰を下ろし、アルバムの台紙をゆっくりめくりながら、穏やかな笑みを浮かべている。ストーブの覗き窓のオレンジ色の炎がゆらゆらと加奈子の横顔を照らしている。

「響子ちゃん、あれ、なんかうるさかった」

「いえ、すみません」

加奈子の目はうっすらと潤んでいる。響子は視線をアルバムに滑らせる。

「それ、凛のですか?」

「そうよ」

「少し見てせてもらってもいいですか?」

加奈子は自分の座っていたソファーを少し横に座りなおすと、響子は階段を下り、加奈子の隣に座った。アルバムの中の幼い凛は、たぶん小学五年生ぐらいだろうか、想像していた通りの美少女で、裾と袖にふんわりとした可愛いフリルのついた白いワンピースを着て、友達らしい女の子とはじけるような笑顔で写っている。

「本当に、かわいいですね」

「そうなのよ、それが今は、男の子のような格好や、しゃべり方になっちゃって。そうそう、この服は私が作ってあげたのよ。あ、これとこれも。こういうの、昔は喜んで着てくれて、凛が着るのを、想像しながら、作るのが楽しかったわ」

アルバムの所々に写真の一部がはぎ取られている跡がある。記憶から消し去りたい人物がそこに映っていたことは容易に想像できた。二人は無言のままで、アルバムの厚紙が微かにこすれあう音だけがゆっくりと規則的に繰り返された。

「最近なのよ、あの子が、家でよく話すようになったの。響子ちゃんのおかげ。あの子ったらおかしいの、いきなり、新しい友達できた、多分一生の親友だなんて言ったのよ。それがあなただって、今日、すぐわかったわ」

響子はアルバムのページをめくる手を止めずに、押し黙ったまま聞いていた。僅かに困惑した表情が浮かんだ。

「いいのよ、あの子が一方的にそう思っているだけだから」

美しくて、聡明、性格はさっぱりしてて、波長が合って、黙って一緒にいても気を使わない、出会って間もないが、響子にとって凛はそういう友達ではある。

「変でしょ、このアルバム」

芳恵は写真の一部がはぎとられたアルバムに視線を落とした。薄暗いリビングで、ストーブに灯った炎が逆光になって。芳恵の表情に影を作る。加奈子の声の調子は明らかに下降した。

「実はね、あの子の本当の父親は、あの子が六歳の頃に、病気で亡くなったのよ。はじめは、私一人で、あの子を育てて行こうって思って、がんばったけれど、女が一人で、子供を連れて生きて行くのって本当に大変」

おとぎ話を、子供に言って聞かせるような、穏やかな抑揚のある話し声だった。

「結局、私は、あの子が六年生の時に、勤めていた会社の上司と、二年ぐらいお付き合いして再婚したの。その時、凛は反対するどころかすごく応援してくれた」

「一応言っておくけど、今日一緒にいた髭の人は、私の弟。そして、私たちが宮山に越してきたのは、その二番目の夫から離れて暮らすため」

加奈子の声はもう一段低くなった。おとぎ話なら、ここからだんだん怖い話になる。おとぎ話はそういうものだ。この後は耳を塞いで聞かなくたっていい。保育園の絵本の読み聞かせの間、怖い話が苦手な響子はよくそうしていた。

でも、凛は響子を一生の親友だって言っていた。そうであるなら、凛がピンチの時、響子は物語の中で凛を助けて一緒に戦う筋書きじゃないといけない。

「中一になってからだったと思うのだけど」

「はじめは、義父のことを避けてるように見えたの。年ごろだからかな、なんて軽く考えていたら、そのうち怯えるようになって。私が半年ぐらい気付かなかったから、取り返しのつかない事になってしまって、悔やんでも悔やみきれない」

「養護の先生とスクールカウンセラーの方から連絡をもらって、学校に行ったら、耳を塞ぎたくなるようなことばかり聞かされて。服を脱がされて体を触られたり、キスされたりみたいなことだった。念のために産婦人科で診察を受けておいたらどうかって言われたときは、息が止まりそうになった。凛は、私の夫の事だったから、私には言えないと思ったんだろうね。かわいそうに」

アルバムをめくる響子の手は止まり、言葉を失った。

「響子ちゃん、凛のことだけど、これからもお友達でいてくれるよね」

これほど友達という言葉を重く疎ましいとさえ感じたことはない。何かできるわけではない。何をしてあげるべきかも分からない。響子の鳩尾はどろどろした悲しみに疼いていた。そして、そのどろどろを濾し取り、やっとの思いで声を絞り出した。

「私、凛が大好きです。凛は今の私にとっても最高に大切な友人です。これからもずっとそうです。だから、だから、凛のことは任せて下さい」

響子がかつて経験したことのないような心の痛みは、凛自身の心の痛みだ。加奈子がむせび泣く声に、ありがとう、ありがとう、そういう言葉が細く混じり、ようやく聞き取れるぐらいだった。

凛が言っていた言葉が、響子の頭の中で繰り返し、がなり立ててる。


嫌なことを忘れられる、

現実逃避、

何かから逃げてる、

家族に恵まれていない、


その声を振りほどくように響子は心の中で叫んだ。

あなたは逃げてなんかない。しっかり生きてるじゃない。素晴らしいお母さんがいるじゃない。私だって、ちょっと頼りないかもしれないけど、あなたの心の痛みをしっかり胸に刻んで一緒に生きて行くから。

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