#4.5
~ナディア帝国・ヴェステア 新市街
その少女は本を閉じて背伸びをした。城に勤めている友人から借りた小説だったが、当たりだった。後で礼を言っておこう。
少女は小柄だ。鮮やかなブロンドの髪をツインテールにまとめ、瞳の色は緑色。十人中十人が「美少女」と答えるであろう、整った容姿である。
ユリウスの妹、カチュア・ギュンター。二十一歳だが、実年齢よりはかなり若く見える。外見年齢は十五、六歳といったところか。小柄な母親に似たのか、兄とは異なる、小柄な体格だ。父のことはほとんど記憶にないが、立派な体格をしていたらしい。兄は父に似たのだろう。
兄が出陣してから、もう十日ほどが経つだろうか。慣れているとはいえ、賑やかな兄がいないのは幾分寂しい気がする。
普段は兄と二人で暮らしている。母は七年前に死んだ。父は昔から居なかった。父は身分の高い人間で、母はその妾であったという噂を聞いたことがある。特に不自由のなかった子供の頃を思い返せば、その噂は当たっているのだろう。
時刻は昼下がり。今日の家事はほぼ終えている。借りていた本も読み終えた。昼寝でもして時間を潰そうか。それとも、兄の部屋から何か適当な本を借りてくるか。読み書きができる時点で、カチュアは学のある部類に入る。それに加え、字が汚い兄の代筆もやっていたりするので、自然と実務の知識が身についていた。在野の女性としては才媛と言っても差し支えないだろう。
ひとまずソファーの上でもう一度背伸びしたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、はいはーい」
来客とは珍しい。玄関を開けると、そこには見知った男がいた。
「よ、カチュアちゃん」
「ヨゼフ君! 久しぶり!」
ユリウスの友人、ヨゼフ・マコーネル。ユリウスと比べると若干劣るが、それでも人並み以上の上背。赤い髪を後ろに撫で付けて、頭頂で編んでいる独特の髪型だ。その髪型に違わず、着ている服もなかなか派手である。一年ほど前まではヴェステアで働いていて、今はフィツール地方中部のセルフォナに移動していたのだが、今日は何の用だろうか。
「ユリウスはどうした?」
「今はお仕事。ミラバルで起こった反乱を鎮めに行くんだって」
「そうか、忙しい奴だなー。ってことは、ライーザ先輩やレオンも?」
「みたいだね。それで、わざわざどうしたの?」
「おう、ちょっと知らせたいことがあってな」
「あ、じゃあ立ち話もなんだから、上がって」
「あいよ。邪魔するぜ」
ヨゼフを応接間に通し、茶を淹れ、菓子を適当に見繕う。茶葉の残りが少なく、薄くなってしまったが、まぁ大丈夫だろう。ヨゼフは何を食べても「美味い」というタイプだから。彼の父親はフィツール公ディアスの右腕という恵まれた家柄なのだが、その舌はずいぶんと庶民的である。
「はい、どうぞ」
「お、悪いな」
ヨゼフに茶を出し、自分も向かいに座る。
「うん、美味い。カチュアは茶選びのセンスあるなー」
予想通りの反応。彼はやたら人を褒めるところがある。
「じゃあ後で売ってるとこ教えたげるよ。で、今日は何の用?」
「おう、実はな……」
「実は?」
ヨゼフは意味ありげに言葉を溜めてみせる。カチュアもついついその雰囲気に乗せられてしまった。
「いい寄せて上げる下着の話を聞いてな」
「そんな情報はいらないわよーっ!!」
期待して損した。手元にあった本を投げつける。これは借り物ではなく、兄の持ち物だから大丈夫だ。
「うわっ、悪い! 冗談だって、冗談!」
とは言うものの、悪びれないヨゼフ。カチュアの胸は平坦である。
「で、本題だ。俺、今度領主になる」
「え? 領主?」
寝耳に水。ぽかんと口を開けたカチュアがおかしかったのか、ヨゼフはくすりと笑った。
「おう、領主だ」
ヨゼフは鞄から辞令を取り出してみせる。そこにはヨゼフをセルフォナの領主に任命するとの旨が書かれていた。押されている印章は嘘の小道具には見えない、精巧なものだ。
「え、凄いじゃない! おめでとう!」
「おう。せっかくだからユリウスに自慢したかったんだけどな。まぁよろしく伝えといてくれ」
ヨゼフは誇らしげな表情を浮かべたまま、辞令を鞄にしまう。
セルフォナは首都レグザミールを守る城塞都市で、そこにヨゼフのような若者が領主として赴任するというのは異例のことだ。フィツール公ディアスは実力主義の人事を執るとのことだが、まさかヨゼフが領主とは。
「うん。きっと悔しがるよ、お兄ちゃん」
「まぁな。まさかあいつやリーンよりも早く領主になれるとは思ってなかったけど、これで賭けには勝ったよ」
リーンとはユリウスの士官学校での同期。士官学校を主席で卒業した秀才である。
「賭け?」
「カチュアちゃんには言えない」
「はいはい。どーせエッチなことでしょ」
カチュアの冷たい視線に、ヨゼフは苦笑で返事をする。兄は遊び好きだが、ヨゼフも同じぐらい好きだとはよく聞いた。何度も顔をしかめたものだ。おおかた女遊びの代金を賭けていたのだろう。
「じゃ、ユリウスいないからこの辺で引き上げるわ。他に報告しときたい人もいるしな。またよろしく伝えといてくれ」
「あ、うん。ごめんね、たいしたおもてなしできなくて」
「いーって。んじゃ、カチュアちゃんも元気でな」
ヨゼフはカチュアの肩を叩いてから退出した。
「うーん、ヨゼフ君が領主様とは、まさかねぇ」
カチュアは背伸びして、ヨゼフに出したカップを流しに持って行く。背伸びは彼女の癖なのだ。
すると、再び呼び鈴が鳴った。ヨゼフが何か用件を思い出したのだろうか。
「はーい」
玄関に向かう最中も、呼び鈴は止まらない。ここまで焦っているということは、ヨゼフではないだろう。えらくせっかちな客人だ。
「はいはーい、今出ますー」
玄関を開けると同時に、一人の女が倒れ込んできた。東国風の上着を羽織っている。なかなかの長身だ。
「わ!? ちょ、ちょっと、大丈夫ですか!?」
「……み、ず……」
「水?」
「水、くれへんか……? 喉、乾いてな、死んでまいそうや……」
「あっ、はい! 今持ってきます!」
女はかなり衰弱している。カチュアは慌てて台所に向かい、水槽からコップに水を移して持ってくる。
「はい、どうぞ」
「おおきに……」
女は水を一気に飲み干した。人心地ついたのか、大きく息を吐く。
「ぷはー……。……いや、ホンマに助かったわ。すんまへんな、お嬢ちゃん」
女が微笑み、八重歯が見えた。吊り目がちな目と合わせ、どこか猫のような印象を受ける。黒髪をアップにした、なかなかの美女だ。
女にはブレストン訛りがある。旅人だろうか。
「いえ、困ったときはお互い様ですから」
そこで女の腹が鳴った。彼女は照れ臭そうにはにかんだ。
「……あんな、何か食べ物あったら、くれへんか? もう二日ぐらい何も食ってへんのよ」
「あ、はい。パンならいくつか」
馴染みのパン屋はいつも同じ量を届けてくる。兄がいない今、それだけの量を消費することはできず、結局は間食となっていた。台所からいくつか取り出し、水と一緒に玄関へ持って行く。
「どうぞ」
「いや、すんまへん」
女はパンをあっという間に平らげ、満足そうに息を吐いた。その口元には微笑み。
「いや、助かったわ。お嬢ちゃんはウチの命の恩人やな」
女が立ち上がり、膝を払う。彼女の背は高く、小柄な男性よりも上背があるだろう。全体的にすらっとしていて、特に脚が長い。二ヶ月ほど前に大道芸で見た西方の踊り子のような、細身の見事なプロポーションだ。小柄かつ幼児体型気味なカチュアにしてみれば、羨ましいプロポーション。
「実はな、ウチはいろんなとこ旅して回っとんのやけど、こないだ財布をスられてもうてな。いやー、往生したで」
「そ、それは災難でしたね……」
「あ、そうそう、挨拶しとこか。ウチはメリーベルっちゅーんや。用心棒やりながらいろんなとこを回っとんのよ」
「用心棒、ですか?」
「せやで。まぁ、仕事のほうは暇しとるんやけどな。ウチみたいな仕事のもんが暇っちゅーのはええことやけど」
メリーベルが握った拳を口に当ててくすくすと笑う。その仕草も、やはり猫のようだ。
「んで、お嬢ちゃんの名前は?」
「あ、カチュアです。カチュア・ギュンター」
「ギュンター? ひょっとして、ユリウスさんの妹さんなん?」
「あ、はい。そうですけど」
ひょっとして、兄と関わりのある女なのだろうか。仕事のような健全な関わりならいいのだが。
「そうなんや! いや、ユリウスさん言うたらめっちゃ有名人やで! ウチも噂で聞いたわ。ヴェステアの顔役みたいなもんやってな。そっかー、カチュアちゃんは妹さんなんやなー。道理で若いのにしっかりしとる訳やわー」
噂に聞いたということで一安心。いや、別に安心することもないか。
……あ、これ誤解してる。慣れたことだが、ちょっと不快なことに代わりはない。
「……あたし、二十一ですけど」
「へ?」
メリーベルが目を丸くした。そして、慌てて否定しだす。やっぱり図星。
「い、いや、二十一でも十分若いやん! ウチみたいなちゃらんぽらんよりもよっぽどしっかりしとるわぁ!」
言っていて苦しいと思ったのか、メリーベルはしょんぼりと肩を落とす。
「……すんまへん」
その落差がなんだかおかしくて、カチュアはくすりと笑った。
「いいですよ、慣れてますし」
カチュアが笑顔を見せたことで、メリーベルはほっとしたのか笑顔に戻った。わかりやすい性格をしている。悪い人には見えない。
「……ほんで、ちょいと聞きたいことあんねんけどな」
「あ、じゃあ中で聞きますよ。立ち話もなんですから」
「ホンマ? じゃあ、お邪魔するで。あと、ウチのことはメリーって呼んでくれてええよ。ウチは二十三やから、歳近いしな。気軽に喋ってぇな。丁寧語だと緊張すんねん」
「じゃあ、お言葉に甘えて。どうぞ、メリー」
メリーベルを中に通し、茶を出す。
「わ、お茶とか久しぶりやわ! ありがたくもらうでー」
メリーベルが茶をすすり、ほっと一息。
「ほんでな、この辺で近いうちにどっか遠くに行くって人おらへんか? そんな人おったらな、紹介して欲しいんよ。ほら、財布スられてもうたからな、今一文無しやねん。どんな仕事でも欲しいっちゅうのが本音なんよ」
「なるほど、遠くに行く人、ですか……」
カチュアは知り合いの行動予定を思い返すが、そんな予定を持っている人は浮かばない。
「あー、あいにく浮かばない、なぁ……。ごめんなさい」
「さよかー……。いや、しゃあないよ。カチュアちゃんが謝る必要あらへんて」
とは言うものの、メリーベルはしょんぼりと肩を落とす。見ているとなんだかかわいそうになってきた。困っている時はお互い様だ。少し手助けしてもいいだろう。ちょうど兄も遠征に出ているのだし。
それに、ちょっと人恋しくなっていたのだ。メリーベルは悪い人じゃなさそうだし、話していると退屈しそうにはない。
「じゃあ、あたしのほうからお仕事をお願いしましょう」
「ホンマ!?」
メリーベルが身を乗り出す。
「用心棒の対象はあたし。それで、報酬は現物支給。要するに、お仕事が見つかるまで住み込みで用心棒やってください。期限は兄が帰ってくるまで。……これでどうかな?」
カチュアの提案に、メリーベルは目を輝かせる。そして、カチュアの手を握ってきた。
「おおきに! いや、ホンマにおおきに!! 助かったわ!!」
メリーベルの無邪気な笑みで、カチュアもつられて笑顔になった。美人なのに素直で可愛らしい性格の人だ。
「こらカチュアちゃんのことを様付けて呼ばなあかんな。何せ命の恩人やし依頼主やしな!」
「いや、そういうのはいいよ! 善意だもん、善意」
「あはは、冗談やって、冗談。よっしゃ、今日からカチュアちゃんを守ったるで! 悪い奴はバボーンってやっつけたるからな! 安心しぃ!」
「バボーンって何の音よ!?」
兄が帰ってくるまで、賑やかな同居人が増えることになった。これで退屈はしなくてすむだろう。
……あ。お兄ちゃんになんて言おう。
メリーベルを部屋に案内しつつ、兄への言い訳というか説明を考えるカチュアであった。
幕間です。