じっくりねっとり
「おっおかえりぃ。その様子を見る限りやとそれなりに楽しめたようやなぁ」
シミュレーション室まで戻ってくると、だらけた様子でポテトチップスを口にくわえているエンが出迎えてくれた。服装はダボダボのジャージととてもラフな格好だ。寝っ転がっているにもかかわらず激しく主張している胸元を、空はあまり視界に入れないようにしようと決めた。
とても長い一日だったようだ。エンの姿がもう懐かしく思える。
空は休憩のため、両手に持っている買い物袋を下に降ろした。ここまでほとんど休憩なしだった。両腕が丸太のようだ。我ながらよく頑張ったと思う。
「エン。ちょうどよかった荷物があるの。部屋まで運んでもらえないかしら」
「いやや。なんでウチが使われなあかんの」
シトラが、どう考えても暇を潰しているようにしか見えないエンに助力を求める。堕落に堕ちた少女は当然のように拒否した。しかし、ここで怒るようなシトラではない。
「下着も買い足したの。さすがに空には任せられないでしょ?」
「いつの間にそんなものまで買ったんだ!?」
エンを頼ろうとする予想外の理由に、空は思わず驚きの声をあげた。
確かに服も買った。だけどそれは普段着だけのはずで、下着までは買っていなかったはずだ。だって空は男だ。女性用下着売り場なんて近づけるはずがない。買っていれば気付くはずだった。
「ふっふふふ。なんや自分らいつの間にそんな仲になったん?」
「なんか怖いぞエン」
顔を俯かせて渇いた笑い声を出すエンに、空は一歩後ずさった。表情は読めない。だけど何となく、嫌な予感がした。
「下着姿を見せ合うなんて」
「誰がするかよ!」
空は叫んでエンの言葉を否定する。
おかしい。どう連想したらシトラが下着を買ったという事実から空まで下着姿になるというのか。いやまあ、シトラはすれ違う人皆が振り返るような超美少女だけども、もしもそういう関係になれたら悪い気はしないけども。
「エン。アタシとコイツは主人と奴隷よ。肌を見せ合うような関係ではないわ」
「おい気のせいか? 不穏なことを言われた気がしたんだが。気のせいだよな」
「うるさいわよ奴隷」
「お前奴隷言っただろ! ちげーからな!」
空は指差して、シトラの言葉を全力で否定した。
誰が奴隷だ誰が。もう二度と荷物係なんてやってやらないからな。
空は断固たる意思で決めた。それでも降ろした荷物の近くから一歩も離れないことから、空の立場がよく分かる。
「ホンマか?」
エンがゆったりとした動作で立ち上がり、小さく首を傾げる。体の動きに合わせて、二つの凶器も大きく揺れた。
「逆にどうして信じられるんだよ。今時奴隷制度なんて時代遅れがあるわけないだろ」
空はとっさに目を逸らしながら、少々見当はずれに重ねて否定する。
豊満な一部分を見ないようにするためにエンを視界から外す。だから気付かなかった。彼女が足音を殺して近付いてきていたなんて。
「じゃあウチの番やな」
「はっ?」
見事有効射程距離まで接近することに成功したエンが、体を寄せて空の腕に絡みつく。腕を包む柔らかい感触に空は一瞬意識を奪われた。
「エンさんや。どうして抱き着く? どうして俺の腕を自分の体に押し付けているのかも簡潔かつ早急に頼む」
「鈍い奴やな」
「残念だな。それは答えになっていない」
なんとか平静を保ち、空は突然の奇行に走ったエンに尋ねる。
彼女は逆に空を責めるような視線を送ってきた。残念なことに、唇を尖らせる彼女の言葉に空の知りたい内容は一ミリも含まれていない。
「ウチは寂しかったんや。一日も空から離れたんやで」
潤んだ瞳が、空を見つめている。
止めろよ理性が蒸発するだろ。
空は下唇を噛んで、離れようとする理性を必死に繋ぎ止める。なんだか口の中が鉄臭いが、まあ気にする必要はないだろう。
「そうか。じゃあもう満足だろ。今すぐ離れろ」
「嫌や」
エンは即答した。
「そうか。お前の気持ちはよーく分かった」
空はエンを引きはがすため顔を掴んだ。ほっぺたが柔らかかった。
「ンググッ、乙女の顔を抑え付けるなんて最低やな自分」
エンの顔を掴み、少しでも暴力的なふくらみ二つから離れようとする空。対してエンも、ようやく帰ってきた遊び相手を離さまいと必死に食い下がる。女の子が人に見せてはいけない顔になっていたが、二人ともお構いなしだ。
「やかましい! 一日外に出て疲れてんだよ!」
「ほっほーう?」
エンが猫のような身のこなしで空の抵抗に従い、いきなり体を離した。力の行き先を見失って、空はつんのめりそうになるが、何とか耐える。シトラの冷めた視線が刺さってくるが無視した。
エンは見ているこちらが赤面してしまいそうな眩しい笑顔を浮かべている。しかし、空の直感は警鐘を鳴らしていた。
三百六十度どこからどのように見ても、彼女が何か企んでいることは明白だった。聖母のような笑みは、胡散臭さの表れだ。わざと汚い部分を隠しているからこそ放てる、まがい物の光だった。
「じゃあ休憩したらじっくりねっとり堪能してもええんやな?」
「ねっとりってなんだよ……まあ、可能な限りなら応じてやるかもしれない」
理性を保てなくなりそうだから、ほとんど無理な予感もするが。
しっとりと艶めかしく舌なめずりをするエンに、空は背筋が凍る感触を覚えた。
「ダメよ。アタシが先約入れてるもの」
エンから空を庇うようにして、シトラがエンの前に立ちふさがる。
「今日一日堪能したんやからええやろ。次はウチの番で」
研ぎ澄まされた刀のような鋭さを持つシトラをまったく恐れた様子を見せず、エンは真正面から睨み合う。いつもニヤニヤしているエンが真顔になっている。それだけでも、うすら寒いものがあった。
「ダメったらダメ。次こそアタシが勝つんだから」
「なんや。また対戦かいな。いい加減諦め? 何度負けてると思うとんの?」
「おいエン、さすがに言い過ぎだろ」
あまりにひどい言い方をするエンに、空はたまらず口を挟んだ。
シトラは初めて戦ったとき、一人悔し泣きをしていたのだ。敗北という単語は彼女にとって禁句のはずだ。現に今も、悔しさを必死に堪えているんだろう、唇を噛み締めて黙り込んでいた。
「空こそいつまで付き合ってあげるん? 俺が強いって認めろよ子猫ちゃんってちゃんと断らなアカンで」
エンは逆に空を叱ってきた。まるで母親のように人差し指を立てて、ウインクをすることも忘れない。実にあざとい。
「誰が誰に対して子猫ちゃんなんて言うか」
空はエンから目を逸らして、とりあえず否定した。なんだかさっきから直視できない状況が続いている気がする。非常によろしくない。
「もっとイケボで子猫ちゃん言うて」
空は黙った。エンは舌なめずりをしている。逃げられない。
シトラの背中に隠れたい気持ちで山々だったが、残念ながら彼女の背中は空には小さすぎた。
「……子猫ちゃあん」
顔から火が出てくるのではと錯覚してしまう。それぐらい恥ずかしかった。もういっそ殺してくれ。
「きゃーっ聞いたシトラ? 羞恥が混じったイケボやで。そそるわぁ」
エンは両手を頬に当てて悶えていた。顔を真っ赤にして、それはもう嬉しそうに。
「……おいシトラ」
「何も言わないで。エンはたまにこうなるの。どうもアニメとか好きみたいなのよね」
「なるほど。オタクってわけか」
空は責めるような声音を、彼女の上司に向ける。するとシトラは半ば諦めた調子で額を抑えていた。どうやらエンの暴走はそう珍しいことではないらしい。できれば知りたくなかったし、矛先を向けられたくなかった。
空はため息を吐いて、顔の熱が引くように自分に言い聞かせた。
オタクなら仕方がない。美人だし、いいことじゃないか。ゲームセンター通いのときは何度か健太郎と妄想話で盛り上がった。そのときは自分の趣味を肯定してくれる美人を求めていたはずじゃないか。実際目の当たりにすると何だか残念な気分になるが、きっとそれは気のせいだ。そうに違いない。
「はぁー満足やわ。しょうがないからシトラに順番譲ったるよ。ウチは大人やからな」
「はいはい。そうねそうよね。エンは大人だから一歩引いてくれるのね本当にありがたいわ」
おざなりに、適当に、シトラはエンの言葉に何度も頷いていた。常に自信満々な彼女もたいがいだと思ったが、空は黙っておくことにした。
「じゃあな空。またベッドの上で」
そういって、エンはシミュレーション室を後にした。右手人差し指と中指を唇に当てて、投げキッスするのも忘れない。抜け目ないというかあざといというか。
空は頭痛がしてきた。
「……空、いつの間にエンとそういう関係になってたわけ?」
「誤解だ」
シトラがジトーッと音が出そうなほど睨んでいたので、空は首を横に振って即座に否定した。
ちなみに何度か対戦して勝利を重ねたのは結局空だった。そして本当にエンが夜中に空のベッドに忍び込んできたため、全力で部屋から逃げた。何やら顔を真っ赤にして肩を上下させていたが、空は身の危険しか感じなかった。
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次回は明日午前7時頃更新予定です。




