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継承のセラ  作者: 山久 駿太郎
第八章 -第三の勢力-
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077.晩餐の余燼

<<セラ・ドゥルパ視点>>


敵前逃亡。

いや、敵――ではないのだが。


「はあ...はあ...やばい、やばいやばい!やっちまった!」

廊下を走り、一番近くにあった手洗い場に駆け込む。

背中を壁に預けると、ようやく肺に空気が入ってきた。

白磁の陶器に張られた水を両手で掬い、熱を持った顔に叩きつけた。

その冷たさが、酔いと羞恥で火照った肌を心地良く覚ます。

思考が巡り始める――待っていたのは、激しい後悔と自戒の念。

(これじゃアリアのこと、とやかく言えないな)


ハイネも、ミルカも、楽しそうにしていたのに。

穴があったら入りたいとはこのことだ。

いや、穴を掘って埋めてほしい。

重要なのは、それを彼女らがどう受け止めたか――単なる世迷言としてならよし。

もし、そうでなければ。

私への評価は危険人物のそれになってしまうだろう。


また、孤独になってしまうのは、嫌だった。


濡れた顔を上げ、正面にある鏡を見る。

そこには、情けない顔をした少年が映っていた。

白髪は乱れ、目は泳ぎ、水滴が涙のように頬を伝っている。


『――隠す事でもなかろうに』


不意に、声がした。

耳からではない。

脳髄の奥底から、直接響いてくるような重厚な響き。


驚きは、ない。

むしろ、来るべき時が来たのだと、どこかで予感していたのかもしれない。

シグヴァルド要塞で意識を奪われて以来、ずっと潜めていた気配。


「...お前、やっぱりまだオレの中にいたのか」


鏡の中の私は、唇を三日月のように歪め、醜悪な笑みを浮かべている。

千の魂を喰らい、長い年月を呪いとして生きてきた"彼"の顔だ。

鏡の中の瞳が、妖しく光る。

傲慢にして、高慢にして、不敵――自分の顔とは思えなかった。


『カカ、つれないことを言う。我はずっと見ていたぞ?貴様が女に現を抜かし、昼行灯の体で葡萄酒に溺れる様をな』

(ヒルアンドンってどういう意味だ...?)

『間抜けという意味だ』

「おい、勝手に考えを読むんじゃねえ」


『積み上げてきたものを失うのが怖いか』

「...うるせえ」

『仲間、信頼、居場所――手に入れた温もりが、己の異質さによって壊れるのを恐れている。貴様の五体は、そう叫んでおるわ』


図星を突かれ、私は言葉に詰まる。

セラ・ドゥルパという人間は、人の形をした呪いである。

その事実を知った時、ハイネやミルカが、私をどう見るのか。

化け物を見るような目で、拒絶されるのではないか。

それがたまらなく、怖かった。


『ならば、いっそのこと――あの二人も吸い取ってしまうか?』

鏡像は嗤う――舌なめずりをしながら。


『喰らわば、永劫に我らと共に生きる存在になるのだ。さすれば失う恐怖に怯えることも無かろう?』

「ふざけるな!!」


加減など一切考えることなく拳を叩きつけた鏡像は、私の姿を七つに割った。


「あんな真似は二度とするな!オレの身体を勝手に使うのもやめろ!ハイネやミルカに指一本でも触れてみろ...オレは、その場で死を選ぶ」


"彼"は、私の激昂をどこ吹く風と受け流す。

嘲笑を深め、愉悦に浸るように目を細めた。


『それは貴様次第だ、セラ』

「あぁ!?」

『あの時――戦斧を繰る大女と相対したあの時だ。貴様の器に収まらぬ量のマナが流れ込んだ結果――器は裏返った。主導権が我に移ったのだ』


彼の説明は、デミの仮説と似ていた。

器から水が溢れた時、どうなるか分からない――そして溢れた結果が、これだ。


『溢れた水が引かねば、器は元に戻らぬ。あの時、我がお前の身体を使って暴れたのは、溢れたマナを消費するためでもあったのだぞ?カカカ、貴様が口にすべきは謝辞であろう』


恩着せがましい言い草だが、理屈は通っている。

私が黒雷を使い、敵のマナを奪いすぎた結果、制御不能に陥った。

それが"彼"を呼び覚ます引き金になったということか。


『だから言ったのだ。貴様次第だとな』


"彼"は言葉を切った。

――次も同じことをするという確信めいた意志が伝わってくる。

こいつは、私の身体を乗っ取る機会を虎視眈々と狙っている。

私の意志など関係なく、殺戮と捕食を繰り返すために。


「...お前と話して分かったよ――――もう二度と、黒雷は使わない」

鏡像の眉がぴくりと動く。


「魂を吸う呪いも使わせない。敵を殺すのに変わりはないけど...これ以上、自分が人間ではなくなっていくのは嫌だ」

私の決意を聞いて、"彼"は暫く沈黙した。

そして――


『カカカカカ!』

腹の底から響くような哄笑が、大理石に響いて反射する。


『良い、良い。構わんさ。好きにするがいい。だがなセラ、予言しておいてやろう。お前は必ず、この力に頼ることになる』

「...頼らない」

『いいや頼る。綺麗ごとで守れるものなど、たかが知れている。絶望の淵に立たされた時、己の無力さを呪った時――貴様は必ず、黒雷を使う。それは確実だ』

「うるせえ!」


胸の奥に重い鉛を飲み込んだような感覚が残ったまま、私は手拭いで顔を乱暴に拭い、厠を後にした。

否定したかったが、否定出来ない現実があることも理解していた。

そして目を逸らした。

また――私は、逃げた。


---


廊下を歩きながら、冷静さが戻ってくるにつれて、別の後悔が押し寄せてきた。

晩餐の間から逃げ出した理由を今更になって思い出す。

(やばい...なんにも思い浮かんでないのに)


足取りが重くなる。

晩餐の間の扉が、処刑台への入り口のように見えた。

中では、ハイネとミルカがまだ席に着いていた。

私が戻ってきたことに気づき、二人の視線が集まる。


「あ、あの...その...」

「戻りはったんやね。セラくんも、"あの病気"にかかってしもたんやねえ」

「ハイネ様、まさかそれは――自分が世界の中心だと思い込んで、変な妄想したり、急に語りだしたりする"あの病気"でございますか?」

(なにそれ死にたい)


二人は私のことを病人として扱うつもりらしい。

妄想を口にしてしまう愚か者という札が私について回るのは決して受け入れられるものではないが、

今はその流れにのるしかない―――のだろうか。

妄想を垂れ流す病人か、人の魂を喰らう化け物か。

天秤に載せるものはもう少し選びたかった。


「しかしハイネ様、私も経験があるので分かりますが、あの病気は女性特有のものでは?男性も、あの病にかかるのでしょうか」

「ウチの大将は他の男と違うからなあ。感受性が豊かやし、そういうこともあるんやろねえ。勿論ウチもシンシアも通ってきた道やから、先達として見守らなあかんよ」

「なんと、お二人もですか!なるほど...」


ハイネは片目を閉じてこちらに合図を送る。

助け舟、なのだろうか。

それとも、単に面白がっているだけなのか。

どちらにせよ、今の私にはこの流れに乗るという選択肢しか残されていなかった。


「あ、ああ...そうなんだ!その病気なんだよ!変なこと言って悪かった!」

「ふふ、ちょっとウケる」

誰にも聞こえない声で話すミルカの笑顔に、棘はない。

どうやら、最悪の事態は回避できたようだ。


「さてと」

ハイネがグラスを置き、立ち上がった。

翡翠色のドレスがふわりと揺れる。


「夜も遅なったし、随分長居してもうてごめんなあ。そろそろ帰るわ」

「あ、もうそんな時間か」

「そういえばセラくん、中隊選抜試験の内容は決まったん?」

「ああ、大丈夫だ。大枠は考えてある」

「そか。楽しみにしてるわ」


ハイネは満足そうに頷き、玄関へと向かう。

私はミルカと共に彼女を見送るために後に続いた。

火照った身体を冷気が包み込む――こんな中、ハイネを乗せてきた馬車は外で待っているのだから少し気の毒だ。

次同じことがあれば、御者が待つ部屋を用意しておこう。

どうせ部屋は無駄に余っているのだ。


「ハイネこそ、デミの用事は大丈夫だったのか?」

ふと気になっていたことを尋ねる。

昼間、デミに連れていかれた彼女が、何をされたのか。

ハイネは一瞬、苦い顔をした。

自分の首をさすりながら、ため息をつく。


「あー...ホンマ痛かってん。でもまあ、とりあえず形にはなったかなあ」

「へえ、新しい魔法ってことか?」

「そ。今度見せたるわ。もうセラくんはウチに追いつけへんかもしれんよ?」

彼女は悪戯っぽく笑うと、ひらひらと手を振った。


「ほなな、セラくん、ミルカちゃん。ご馳走さん!」

夜の闇に消えていく翡翠色の背中を見送りながら、私は深く息を吐いた。









「おい、クソガキ」

「...ナンデショウカ、ミルカサン」


誰が、その蔑称を口にするのかは心当たりがある。

あるのだが、振り返りたくはなかった。

(くそ...やっぱダメだったか――)


「あんたのこと、少しは認めてあげる。ほんの少しだけね」


意外な、言葉だった。

ただし、それに続くのは

「じゃあさ、その前にはっきりさせよっか」

(ほら出た!どうせ上下関係って言うんだろ!)


少しでも心を許した自分に腹が立つ――それでも、認めるという言葉が聞けただけで、ハイネが来てくれた甲斐があったというものだ。

感謝しなければならない。





「さっきあんたが酔った時に言ったこと、全部ちゃんと話せ。包み隠さず、全部だ。このミルカ様に嘘つくんじゃねえ。使用人舐めんなよバカチビ」


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