074.夜を纏う翡翠
翌夕、私はミルカと共に玄関前で来訪者を待っていた。
暖炉の火がぱちりと弾ける音がやけに遠く感じるのは、足元から這って来る寒さと長く戦っているからだろう。
ミルカには居間で待てと散々口論になったが、最終的に私が彼女を無視する形になってしまった。
やりたいこと、とやるべきことを分けろと言われても、初めて来る客を出迎えたいと思うのが悪いこととは思えず、然りとて舌戦を受けて立つ技術は今の私には備わっていない。
斯くして私達は肩を並べながらも互いに敵対する奇妙な構図になっているというわけだった。
玄関の机の上には、ミルカが用意した小さな花瓶。
白、橙、薄紅――華やかに空間を彩るこの花々の名前は知らない。
しかし香りは強く主張せず、静謐とした空間に彩りを加えていた。
家というものが、来客の度に顔を変えるのだと初めて知った。
――コン、コン、コン。
控えめで、しかし迷いのないノックが重たい木の扉を鳴らす。
ミルカは桜色の髪を指で素早く撫で付け、襟元を整える――さながら儀式のような形式美。
先刻まで毒を吐いていた少女の影は既に鳴りを潜めている。
鍵を外し、扉が開く。
「お待ち申し上げておりました、ハイネ・フォン・ガリレイ様」
ミルカは深々と頭を下げた。
背筋は名工が打った剣の一振りが如く真っすぐで、礼は重い。
それだけで、屋敷の空気が一段“かしこまる”。
扉の向こうに立っていたのは――いつものハイネではなかった。
軍服でも、仲間達と酒場で見る軽い服でもない。
肌に密着する翡翠色のドレスが、彼女の身体の線を隠すどころか、ありありと浮き出たせる。
小麦色の長い髪を丁寧に後ろで束ね、陶器のように美しい首筋が妖艶さを漂わせていた。
耳元と首には同じ系統の澄んだ宝石が慎ましく主人を引き立てる――そこに、"雷神"はいない。
ただただ、美しかった。
「お招きありがとうセラくん。少し早かったかなあ?」
「―――え!?いや大丈夫だ!鍛えてるから!」
「ふふ、なんそれ。ウチの本気モードに見とれてもうたん?言ってること意味わからんで?」
ケラケラと無邪気に笑うハイネ――それを肯定できるほどの勇気は、まだ私にはなかった。
ハイネは視線をミルカに移し、見たこともない優し気な表情を浮かべて声を掛ける。
「使用人の方もご苦労さん―――って......あれ?んー?」
ハイネがミルカを見下ろして、首を右に左に傾ける。
「ミルカ?自分、ミルカ・ルーヴェンやんな?」
「.....私を、ご存知なのですか!?」
ミルカの声が、裏返った。
仮面が外れ、無邪気な子供が顔を出す。
「ハイネ様、どうして私の名前を?」
「そら知ってるよ。四年くらいルーヴェン家で使用人やってたからなあ。調理場仕えやったけど」
「―――え」
隣にいる私ですら、ミルカの顔から血が引いていく音が聞こえてきた。
自分の憧れの人は過去――あろうことか実家の使用人であり、そしてそれを知らなかった。
きまりが悪いこと、この上ない。
(まさか団長とハイネがそんなに長い付き合いだとは思わなかったな...あまりオレには関係ないか)
ミルカの反応を見て、ハイネは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「シンシアはよく―――厨房に来とったから付き合いあったし、ミルカ"お嬢様"のことも当然知ってるよ。まあ言うても、調理場の人間が屋敷の主人や家族と話す機会なんて、そうそうあらへんけどな」
「そう...だったのですか。"雷神"ハイネ様を使用人扱いしていたとは、このミルカ・ルーヴェン。これほど我が生を悔いたことはございません」
「重いなあ。食事の前に腹が一杯になってまうよ。ほならミルカも一緒に食べよ?な?セラくんもええやろ?」
「ああ、勿論だ」
ミルカは一瞬口を開きかけて、閉じた。
呼吸だけが、少し荒い。
「ハイネ様、大変ありがたい申し出ではございますが、私は使用人。主人と同じ食卓に座るなど許されざることでございます。仮にご主人様がお許しになっても、私の矜持が許しません」
「まあ、普通はせやろな。でもご主人様が命じたら従わなあかんやろ?」
「ハイネ様!?それはっ!」
「客人の前で使用人が主人の命令を聞かへんかったら――そりゃあ主人の顔に泥を塗って石投げるようなもんやろなあ。あーこりゃ使用人の矜持に反するかも知らんなあ。はー困った困った」
「ミルカ...一緒に食べよう。ハイネもこう言ってるし、別にオレは上下関係なんて気にしないぞ」
ハイネの死角で刃のような視線を投げる。
素直に首を縦に振ればいいものを――恐れより期待が勝る顔つきを隠せていない。
シンシア・ルーヴェンという崇高な存在と、同じ高みに並ぶであろう英雄ハイネ・フォン・ガリレイ。
姉と同じ高みにいる"雷神"と食卓を共にするということが、彼女にとって如何に僥倖であるかは推し量れない。
桜色の髪の少女は短く息を吐き、意を決して口を開く。
「...ご主人様が、そう仰るのであれば」
(顔、だらしなくなってるぞミルカ)
口に馴染まない言葉を噛みしめ、ミルカは仮面を被りなおす。
まだ口角は下がりきっていない。
ハイネが小さく笑い、そして――急に私の横に来た。
肩が触れるほど近い、いや近すぎる。
耳元に熱が落ちる。
(あ――いい匂いがする...)
「ミルカのことなら、シンシアよりウチの方がよう知ってる。任しとき」
「お、おう」
香りがした。
花じゃない、酒でもない。
人の体温と、上等な石鹸みたいな匂い。
私は咳払いで誤魔化し、晩餐の間に案内するミルカの背中を追った。
足取りは、羽根のように軽い。




