072.憂いは色濃く
新しい家の初日が、終わった。
いや、終わったという言葉は、出来事に区切りをつけるための言葉だ。
むしろ今の状況は、面倒になったという方がしっくりくる。
選びなおした言葉は抵抗を受けず、沼に足が沈んでいくように溶け込んだ。
翌朝は寝床が柔らかすぎて、身体の方が戸惑っていた。
目が覚めるのはいつも通り早いのに、立ち上がるまでに妙な気力が要る。
広く、高く、そして白い天井――ああ、思い出した。
ルクセン平原で一度死んだあと、瞼を持ち上げて最初に目に入ってきた救護室のそれだ。
つまり、自分の死を追体験するような朝の目覚めなのだと気付いた後は、より一層身体が重く感じた。
朝の鍛錬は、屋敷の地下にある鍛錬場を使った。
意外なことにミルカも同時刻に鍛錬をしていたが、挨拶や会話は一切無い。
意図的に視線を逸らしてしまう自分の弱さが恨めしい。
対する彼女は私など眼中にないのか、一心不乱に徒手空拳の鍛錬を積んでいた。
騎士団に赴き午前の訓練を終えても、心の内は乱れたまま、形が戻る様子は見えない。
心当たりは――ありすぎた。
昼食も喉が通らず、人生で初めて食事を残すと言う大罪を犯してしまったのだ。
母さんがその場にいたら、二度と顎で食事が出来なくなっていたことだろう。
食堂の皿を片付けて、私は逃げた。
誰にも言わずに、騎士団本部の裏庭へ回る。
(くっそ!もうどうすればいいんだよ!)
---
結局、ミルカとの距離感に未だ正解を見出せない。
どのような言葉で接すれば角が立たず、それでも舐められずに済むのか。
今まで生きてきて、ああいうタイプとまともに関わったことがない。
獣人族の連中は、もっと分かりやすかった。
母さんの目が光っていたとはいえ、"日当たり"の悪い場所は必ず存在する。
投げ掛けた言葉が返ってくることはなく、代わりに石が飛んできた。
あれはあれで最悪だが、裏と表が同じという一点に於いては好ましい。
しかしそれが許容出来たのは、関わる必要が無かったからだ。
仮に母さんやラビがそうだったとしたら、陸に揚げられた魚の如く水を探し彷徨っていただろう。
裏庭は表の中庭と違い、人の気配が薄い。
昼食時は殊更だ――強いて言えば、稀に寂しい男性騎士が気配を消して食事をとっている姿が見られるくらいだろうか。
石造りの騎士団庁舎が巨大な影を落とすこの場所は、日照時間が極端に短い。
昼前のほんの数十分を、丁寧に整えられたアーチ状の緑道が大切に受け止める。
古びた長椅子がひとつだけ設置されており、それが言葉に詰まるほどの寂寥を湛えている。
以前はこんな雰囲気ではなかったらしいが、置かれた状況に鑑みれば避けようがない結末だろう。
腰を下ろすと、椅子は小さな鳴き声を上げて私を受け止めた。
白い雲の切れ間に見える青――そこだけが、妙に遠い。
「はあ...ほんと、面倒だな」
口にしたところで意味のない悪態は、肌を刺す風が共に攫って行く。
その時、人の気配。
飛び石を踏む音は軽い――だが、気配が強い。
視線を向けるまでもなく、その人の名前を口にする。
「ハイネか」
「気配でウチだって分かるなんて、もーホンマに大将の愛にも困ってまうなあ」
背の高い身体を少し屈めて、私の顔を覗き込んでくる。
冬の光に透けて、あの小麦色の髪は蜂蜜のように柔らかく見える
口元は笑っているのに、目はまっすぐに私を映す。
「悪い、今は軽口に付き合う気分じゃないっていうか...ちょっと一人になりたい」
「ふうん?...なあ、午前の訓練、ぜーんぜん身が入ってへんかったで?」
「あー、ごめんやっぱ分かるか?」
「分かるよ。槍が、寂しそうにしてたからな」
その言い方が、妙に刺さる。
私は椅子の背にもたれて、天を仰いだまま言った。
「別に、大したことじゃないんだ。」
「そないなわけあるかいな。最近、近接戦でも黒雷使わへんようになったし。らしくないで、セラくん」
時間の問題だとは思っていたが、流石に良く見ている。
北部戦線以降の訓練では、一度たりとも黒雷を使っていない。
槍を鍛えなおしたい、とか何とか言って誤魔化してはいるものの、ハイネはまったく信じていない様子だった。
風属性の魔法のことも未だに打ち明けることは出来ず、細かいことを考えるのが苦手な私にとって、今の状況は面倒の一言に尽きる。
ただ、ミルカのことでこれ以上悩んでも進めないであろうことも事実だった。
(相談、してみるか)
「じゃあ、ちょっとオレの相談に乗ってくれるか?」
「ふふ、ええよ。隣、座ってええかな」
首肯で返答し、長椅子はもう一人を出迎えた。
――固有名詞は出さないでおく。
絶対に団長に耳に入れるわけにはいかないのだ。
「新しい家にさ。使用人が来たんだよ」
「まあ星付きなら当然やなあ。どんなおっちゃん?」
あたかも、男性であるのが前提で質問を返される。
そこに悪意はない。
「いやそれがさ、女なんだ」
「―――――ふうん?」
「しかも若い。ビューラより年下だ」
その瞬間、ハイネの目が丸くなる。
心底驚いた顔というのは、こういうのを言うのだろう。
大抵のことは笑って流す女が、言葉を探している。
「女で、しかも若い......なんそれ、使用人としては珍しすぎるやろ」
「オレもそう思う」
笑うでもなく、私は続けた。
彼女の態度、条件、言葉の棘、そして――その棘の中に混じる、妙に正しい部分。
腹が立って、納得して、悔しくなって、そして少しだけ寂しくなったこと。
全部、飲み込んで言葉にした。
心情を吐露した後、少しだけ息が楽になったような気がした。
「オレ、ああいうタイプと接したことないんだよ。同じ家で暮らしていくのに、どう人間関係作ればいいか分かんねえ。今朝も挨拶すらしてないし――まあ、飯は美味かったな」
「そら悩むわな。でも、今時に珍しい子やな。街のガキンチョなんて、みんなシグヴァルドの英雄が大好きでしゃあないハズなんやけども――その子も何か背負ってはるのかもしれへんなあ」
笑って言うが、目は優しい。
私の言葉を茶化しているようで、ちゃんと受け取っている。
「――なあセラくん、明日の夜セラくんの屋敷に遊び行ってええ?」
ハイネが、急に声色を変えた。
「遊びに?」
「そ。ちょっとだけな...まあご飯食べるくらいやね。パルテンシアにおるんやし、女性寮とも近いしな。ウチがその子と少し話してみよか?」
言い方が、妙に遠慮がちだった。
いつもなら「明日の夜行くわ!」で終わる。
彼女なりに配慮をしてくれているのだろうか。
「ああ、別にいいぞ。使用人には事情を話しておくよ。小隊のみんなにも声かけるんだろ?」
「......えっと」
ハイネが、少し黙る。
そして、急に距離を詰めてきた――体温が伝わるほどに。
近い。
近すぎる。
この女、距離感が時々声もなく狂う。
引き込まれそうな美しい灰色の瞳が、冬の空よりも澄んで見える。
普段は獰猛な獣みたいな目なのに、今は違う。
悪戯っぽさと、不安が、同じ場所にいる。
「ウチひとりで行ったら――ダメなん?」
声が、可愛い。
いや、可愛いと言うと怒られそうだが――可愛い。
こんな顔も出来るのかと思うほどに、少女みたいだ。
(なんだよ...それ)
心臓が一瞬だけ跳ねる。
私は咳払いして、わざと素っ気なく答えた。
「――いいぞ」
「っ!?ホンマに!?うれしい!やったあ!」
その瞬間、ハイネの顔がぱっと明るくなった。
さっきまでの探るような目は消えて、無邪気な笑顔が咲いた。
戦場で見せるあの獣の笑みとは違う。
雪解けの朝みたいな、軽い笑い方。
胸の奥が、少し温かくなる。
こんな顔を見せられると――
(もう許すしかないよな...)




