065.幕間:檻の中で[前編]
牢屋という場所は、不思議な場所だ。
本来出会うはずのなかった者同士が、鉄格子を挟んで語り合うこともある。
新暦269年、冬。
ゴア帝国領、カノプゼリエ島の地下深くに造られた拘禁施設は、今日も変わらず湿り気と冷気に満ちていた。
石造りの壁には、幾度となく人が刻んだであろう爪痕や、いつかついた血の筋がこびりついている。
鉄格子は分厚く、各階に備え付けられたアーティファクトによって体内のマナが乱される。
魔法が使えないだけでなく、脆弱な者は投獄されて一日と持たず、命の灯を吹き消されてしまうのだ。
そして――囚われるのは、単なる罪人だけではない。
時に、国家の重責を背負う者さえも。
四天将インペリエ・アルバスト・ゴアも、その一人だった。
本来、彼女がこの場所にいるはずはなかった。
四天将にして第二王女――帝国軍の柱であり、帝国の矛である彼女が。
その彼女が、今は石の床に座っている。
壁に背を預け、両目を閉じていた。
すでにこの矮小な部屋に身を置いてから、一カ月が経過しようとしていた。
シグヴァルド要塞陥落の報を携え、北部から首都に戻った彼女を待っていたのは、軍議の場で浴びせられる非難と嘲笑だった。
「敵前逃亡」「四天将の名折れ」「王族の面汚し」――
数多の言葉が、インペリエの鍛え上げた肉体を、魔物のように食い散らかす。
戦略的撤退という言葉を口に出来るほど、彼女は器用ではなかったのだ。
責任は須らく将が負うものである、インペリエという人物が常日頃から口にする言葉だ。
戦いの最中――
膝を落とし、斧を杖代わりに立つことすらままならぬほどに魔力を奪われ、
目の前で部下がひとり、またひとりと倒れていく光景を、彼女は目の当たりにした。
女狐の狂気に当てられた、片割れの神童の犠牲によって――生きながらえた。
そして、帝国の未来を託されているという自覚が、彼女に撤退を選ばせた。
あのまま戦場に留まれば、待っていたのは間違いなく、死だった。
それでも、残された兵達に見せた自分の背中は、「逃げた」としか映らなかったのかもしれない。
当然、事実は異なる。
あの場で死力を尽くした兵は皆、インペリエを生かすことが帝国の未来に繋がると信じていた。
彼女と共に撤退する者、その場で殿を務める者――誰一人としてこのような結果を望んだ兵はいない。
ゾーイが主張した、王国の少年兵――"黒槍"と呼称した敵の兵士と戦い、彼女は敗れた。
"雷神"に引けを取らない戦闘力に、黒い雷の特異性。
常識に捕らわれない発想で、あの坂を難なく越えてきた。
それを男の、しかも子供が成したのだ。
特異点と呼ばずして、何と呼ぶ。
しかし軍議の席では、何人もの将校が彼女の処刑を声高に主張した。
斬首、あるいは軍籍剥奪のうえ辺境送り。
出された案はいずれも、彼女の名誉と存在そのものを踏みにじるものだった。
その流れを断ち切ったのは、他ならぬ皇帝ユークリッド・フェアリーロック・ゴアである。
皇帝の静かな一声が、喧騒を一瞬で鎮めた。
誰もが納得したわけではない。
むしろ不満と不審の声は参加者の胸中で燻っていただろう。
それでも王命は絶対だ。
かわりに下された処分は、敵前逃亡に準じる罪として、一か月の拘禁。
インペリエは甘んじて受け入れた。
自責の念と向き合うには、丁度いいと思ったのだ。
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投獄されてから彼女は、自戒のために食事と用便の時以外は常に瞑想を続けていた。
目を閉じ、呼吸を整え、過ぎ去った戦いを、己の半生を、何度も何度も反芻した。
悔恨は、悔恨のままでは終わらない。
それを次に繋げられる者のみが、戦場に戻る資格を持つ。
彼女はそう信じていた。
そして明日。
ようやく、この牢を出ることを許される。
「...明日、か」
ぽつりと。
本当に、ぽつりと零れた言葉だった。
その言葉に、対面の牢から静かな声が返ってきた。
「出られるのですか。よかったですね」
酷く掠れたその声は、性別さえも判然としない響きを持っていた。
低くも高くもなく――ただ、どこか遠い場所から届くような、不思議な響き。
インペリエはゆっくりと瞼を開ける。
一か月、この地下牢に閉じ込められてから、彼女はほとんどの時間を目を閉じて過ごしてきた。
どちらにせよ、蝋燭すら設置されないこの場所では、目を開けていても大したものは見えない。
対面の牢には、鉄格子で仕切られた狭い空間があり、インペリエは目を凝らす。
そこにいるのは――両手両足を分厚い鎖で繋がれた、一人の影。
「そこのお方」対面の人影は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「アリア・ヴェルディスという人物をご存じではないでしょうか」
インペリエは眉をひそめる。
帝国で最も畏れられる"風神"の名を、目の前の罪人は知らないらしい。
即ち――帝国の人間ではない。
「...いや、知らんな」
短い、そっけない返答――明確な拒絶。
インペリエの目は揺れていない。
言葉も明瞭だった。
だがその囚人は、小さく笑った。
「貴方のような、まっすぐな目をした方は、嘘をつくのが本当に苦手ですね」
暗がりの中で、その声だけが柔らかく響いた。
まるで、古くからの友の癖をからかうような物言いだった。
「貴様、この暗さで、こちらの目が見えるはずもないだろう」
「...まあ、生まれつき目が良いもので。」
淡々と。
その声音には、自嘲も誇りもなかった。
ただ事実を述べているだけ――にも関わらず、その言葉はどこか哀しく響いた。
「彼女を訪ねてこの国に辿り着いたら、門兵に掴まってしまいましてね。困りましたよ――名前を出しても、分かってもらえなかったので」
「...訪ねてきただけで、何故掴まる。貴様、何をした」
「全く取り合ってもらえないまま、同行者に手を出されたので――門兵を十人ほど殺しました」
獣人は、少しだけ困ったような笑いを漏らした。
「それで、今ここにいるんです」
地下牢の空気が、僅かに揺れた気がした。
深まる、疑念。
「帝国の門兵は、精鋭であったはずだ。少なくとも、そこらの町兵より遙かな手練れだ」
インペリエは質問を重ねる。
「それを――貴様一人で、殺したと?」
「ええ、そうですね。あの程度なら無手でも十分ですよ」
対面の囚人は淡々と言葉を紡ぐ。
さも、当たり前であるかのように。
「しかし、こうなるのも分かっていたからこそ、アリアに会わねばならなかった。彼女は言ったのです。『私の名を出せば、きっとわかってもらえる』と」
感覚が研ぎ澄まされた、今だからこそインペリエは分かる。
――深い悲しみと、劫火のような怒り。
インペリエは、暫し考え込むように目を伏せた。
帝国軍人としての彼女は、常に冷静であることを求められてきた。
戦場であろうが、軍議であろうが、感情を殺し、合理のみに従って動く。
だが今、この地下牢で出会った存在は、彼女の合理を裏切るものだった。
冷たい石床に座る四天将は――ゆっくりと息を吐く。
「...貴様、名は何という」
答えを急かすわけでもなく、ただ疑問として投げかける。
そこにあるのは純粋な興味だった。
闇の中から、布が擦れるわずかな音が伝わってくる。
きっとどこかに包帯でも巻かれているのだろう。
問いかけは唐突だったが、その声には先ほどまでの棘は含まれていなかった。
純粋な――戦士としての問い。
暗がりの中で徐々に目が慣れてくる。
対面の牢屋で鎖に繋がれたその人間は、裸に剥かれ、いたるところに鞭打ちの跡。
顔は良く見えないが――インペリエはそこで気付く。
人間では、ない。
白銀の髪。
垂れた長い耳。
その囚人は、獣人族だったのだ。
「私は――カルラと言います」
その名を口にした瞬間、地下牢の空気が変わった気がした。
はっきりと、迷いなく、まるで自らの存在すべてを込めるかのように――獣人族は名乗ったのだ。
「ああ――貴方のような戦士になら、こう言った方が伝わるかもしれません」
カルラは一拍、間を置いた。
まるでその異名を口にすることが、遠い過去を掘り起こす行為であるかのように。
「以前、戦場では――」
静かに、しかし確かに、彼女は言った。
「"慟哭の至達"と呼ばれていました」




