062.幕間:秋空に消えゆく[後編]
「関所の管理権を、永続的に帝国に渡すつもりはありません」
王陛下の言葉を聞いたヴェルディスは、眉をひそめる。
「これは提案です。南部、北部――両関所の管理権は五年単位で交代するのは如何か。」
広間に、再びざわめきが走る。
「最初の五年は帝国。次の五年は王国。以後も同様に、五年ごとに管理権を移譲する。通行料については帝国案の銅貨三枚で構いません。これは、我らフェナンブルクも互いに歩み寄るべきでしょう」
ヴェルディスは短く目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「十分に合理的なご提案だと思います。五年単位で管理権を交代するという条件――その点を持ち帰り、皇帝陛下に諮問する必要がございます。よろしいでしょうか?」
「結構。私も、全てをこの場で決めるつもりはありません。むしろ落としどころとしては、貴女の目論見通りでは?」
「―――滅相もございません、ヘンリエッタ陛下」
そこまで言うと、ヘンリエッタ陛下はほんの僅かに口元を緩めた。
まだ道の途中である――あるのだが、これを喜ばずして、いつ喜ぶというのか。
「大筋においては問題ありません。ユークリッド皇帝の聡明な判断と、敵国の城まで、しかも単身で乗り込んできた貴公の勇敢な行動に――心から感謝します。大儀でしたね、アリア・ヴェルディス」
「寛大なお言葉、痛み入ります。陛下に於かれましても、この場を整えて下さったこと、恐悦至極に存じます」
ヴェルディスは静かに頭を垂れた。
張り詰めていた広間の空気が、少しだけ柔らかくなる。
まるで春風が雪を解かすように。
陛下は側近に視線を送り、合図を出す。
老臣が一歩前に進み出た。
「ゴア帝国ヴァルキリー隊総隊長、アリア・ヴェルディス殿。陛下のご高配により、王城内に客間を用意しております故、今後の協議期間中はどうかそちらでお過ごしください」
「感謝します――ですが」
何故、そこで、言葉を切る?
嫌な予感がする。
「ですが?」玉座から見下ろす視線は、怪訝なものに変わっていく。
春風が、止んだ。
「陛下。客間のご用意には心から感謝いたします。ただ、私は既に滞在先がありますので――」
「――そういえば貴女は、今どこに寝泊まりしているのですか?」
王陛下の口からその問い掛けが出たのは、私が危機を感じた後だった。
もう目は、笑っていない。
何故、その問いが、よりにもよって今出てくるのだ。
私はヴェルディスとドゥルパが紐づかないよう、細心の注意を払って王に接してきた。
なのに...
なのに―――
直截な問いに――帝国の"風神"は、さも当たり前かのように答えた。
「セラ君と共に暮らしています」
(ふざけるなよ――アリア・ヴェルディス)
口からこぼれそうになる言葉を飲み込み、不気味な沈黙に耐える。
不自然なほどに、長く、深く、それは続いた。
左翼に並ぶ騎士の一人が思わず咳払いをしたが、その音ですら場違いに感じられるほどに、謁見の間は凍りついていた。
ヴェルディスを除くこの場に参列した全ての人間が、一瞬思考を止めた。
「...今、何と?」
「セラ君と、一緒に暮らしていますと申し上げました」
隣にいる帝国の馬鹿女は追い打ちをかけるように、同じ言葉を繰り返した。
私だけが――この先に待つものが何なのかを知っている。
冷や汗が背中を伝う感覚だけが、この凍った時間の経過を知らせてくれる。
「貴公の言う"セラ君"とは――セラ・ドゥルパのことですか」
「はい。彼と同じ屋根の下で暮らしています」
私は、見てしまった。
欲望のままに生きた、前王オーギュスト。
実母である前王と同種の光が、ヘンリエッタ陛下の瞳の奥に宿ったのを――
「客間は用意します。そちらに移りなさい」
「...えっ?」
ヴェルディスの声が、明らかに上擦る。
「彼は、私の"もの"です」
「は?」と口から出かかる声を、私は寸前で飲み込んだ。
――今、陛下は、何と仰った?
耳が、確かにその言葉を拾った。
思考が、一瞬だけ止まる。
ここまで直接的な表現を口にしたのは、初めてだ。
衛兵たちの何人かが、思わず視線を泳がせる。
老臣の一人が、喉を鳴らして唾を飲んだ。
喉の奥からなんとか振り絞った言葉は、何の意味も持たないものだった。
「ヘンリエッタ陛下...?」
「な――な、何か問題が?シンシア・ルーヴェン団長」
玉座からの視線が、突き刺さる。
しかし王陛下自身が困惑しているように見えるのは、何故だろうか。
自分が口にしたのは、本意ではないとでも仰りたいかのようだ。
「...滅相もございません」
頭を垂れて答える以外に、私に出来ることはない。
"風神"の異名が霞むほど、隣で膝をつくヴェルディスはぽかんと口を開けていた。
ようやく状況を理解し始めたのか、頬にじわじわと赤みが差し始める。
「勘違いをしないでください。セラ・ドゥルパは――そう、そうです!王国騎士団に所属する騎士であり、この国の宝です。まして、男でありながら初めて星付きの称号を得た者。軽々に"同居"など許されるものではありません。」
言葉の内容だけを取り出せば、実に正論だ――前段の一言がなければ。
「客間に移りなさい。セラ・ドゥルパとは切り離します」
「敵軍の将である我が身には余ります。謹んで辞退させて戴きます、陛下」
「...アリア・ヴェルディス。私が命じたことが理解出来ませんか?今貴公が立っているこの場所は、ゴア帝国から遥か西方の敵国なのですよ。そして目の前に座る私は、その敵国の王。これは命令です――移りなさい」
「嫌です。」
(この馬鹿女がっ!!)
頭を抱えたくなる。
実際、私はこめかみを押さえていた。
「私は今日、セラ君に"ご褒美"をもらう約束をしています。このままずっと――私は彼の傍にいたいのです」
騎士団に入って、数々の修羅場を駆け抜けてきた。
しかし――かつてここまで私が狼狽えることがあっただろうか。
願ってしまう。
縋ってしまう。
もし、神という存在がいるのであれば...
なんとか意識を現実に引き戻し、隣の馬鹿女にのみ聞こえるように囁く。
「ヴェルディス!控えろっ!」
声を荒げはしなかったが、自分でも分かるほど、言葉が震えていた。
王の左手が、
静かに持ち上がる。
周囲の衛兵たちが、ほとんど反射的に剣を抜いた。
金属音が連鎖し、広間に鋭い響きをもたらす。
私は、隣に体を僅かに傾け、小声で囁いた。
「ヴェルディス、もう何も言うな!今すぐ口を閉じろ!」
彼女も目線だけをこちらに向け、囁き返す。
「も、申し訳ありません......止められないのです」
「お、まえ......正気か...?」
陛下は、表情を変えずに言葉を紡いだ。
「最後の忠告ですよ、アリア・ヴェルディス。貴公には王城内に十分な滞在場所を用意します。早急にセラ・ドゥルパの家から退去しなさい。彼は私が婿にします。貴公には相応しくない」
これは、夢なのだろうか。
私が今、目にしているこの光景は現実なのか――?
これは、宣言だ。
ヘンリエッタ陛下の、紛れもない本心であり、欲望。
気に入った男を見れば、翌日には傍に置いた――オーギュスト前王を思い出す。
アリアは一瞬だけ目を閉じ、それから真っ直ぐヘンリエッタを見据えた。
「お断りします」
「...それが、貴公の決断ですか?」
「もうキスも済ませています。あとは最後のステップを残すのみです。今日の"ご褒美"で、私はそれを掴み取ります」
「っ―――ほう。」
自然と、私とアリアは同時に顔を見合わせた。
私の顔は、多分真っ青だった。
きっと今にも泣きそうな顔だったと思う。
対するアリアの顔は、熟れた果実のように真っ赤だった。
"消えてしまいたい"と、赤面した少女の顔に書いてある。
(こんの.........愚か者があああああああああああぁぁぁ!!)
いつしか見下ろしていたのは、
明確な敵意を宿した、
王の、瞳。
「……そうですか」上げられていた左手が、ゆっくりと空を切り――
「――捕えよ。」
振り下ろされた。
衛兵たちが一斉に動く。
鍛えられた身体が瞬時に距離を詰め、何本もの剣がアリアに向けて構えられた。
「っ――!」
その刹那、風は吹く。
「――風よ、吹き荒れよ。風弾術<ウィンドブラスト>!」
ヴェルディスの呟きと同時に、側面の壁が内側から膨れ上がった。
圧縮された風の塊が石材を砕き、轟音と共に破片が飛び散る。
視界を白い粉塵が覆った――その瞬間、
黒い傘を、音もなく大きく開いた。
傘布が、まるで生き物のように膨らむ。
「ヴェルディス!貴様っ!」
気付けなかった。
やはり、ただの傘ではなかった。
黒い布地に、ありありと浮かぶ眩い緑のルーン文字。
マナを流すことで発動する、アーティファクト。
自分に魔力適正が無かったのが致命的だった。
(私に、魔術の才が僅かばかりでもあれば...っ!!)
金の装飾が一瞬だけ光を反射し――刹那、逆向きの滝のような上昇気流が彼女の足元から吹き上がった。
槍のような風が、傘に叩きつけられる。
逆向きの滝のように、強烈な上昇気流が生まれた。
傘布が膨らみ、アリアの身体をふわりと持ち上げる。
「...ルーヴェン殿っ!この場は引かせてもらいます!いずれ戦場で!」
「貴様が言うなああああああああああああああああああ!!!!!」
風塵の中、かろうじて聞こえた馬鹿女の声に、感情のまま私は叫んだ。
彼女の身体は穴の開いた壁から大気へと放たれ、そのまま城の外へと流れ出ていく。
私が掴もうと伸ばした手は、虚空を掴んだだけだった。
彼女は最初から、こうなることも想定していたということか。
悔しさと、僅かな感嘆が胸の奥で渦を巻く。
「逃がすなっ!!」
ヘンリエッタの叫びと共に、弓兵たちが駆け出す。
だがあの風を相手に、追いつける者などいない。
瞬く間に帝国の"風神"は、空に影を落としながら――消えていった。
粉塵がゆっくりと落ち着き、砕けた石材の匂いが鼻をつく。
騎士たちは剣を構えたまま周囲を警戒しているが、もはやこの場に帝国の"風神"はいない。
「我が友シンシア、彼女の選択によって和平の道は絶たれました。」
「委細...承知して、おります」
「この王宮に風穴を開けた代償は、彼女の死をもって償わせなさい。なんとしてでも。」
「――陛下の御心のままに」
「自分を曝け出すというのは――存外、悪くないものですね...」
「...は?陛下、今なんと―――」
「なんでもありませんよ、シンシア」
気のせいだろう。
――そうに決まっている。
こんなふざけたことがあって、たまるか。
和平は、手の届く場所まで来ていた。
この国の国民として、私は未来を信じていた。
ヘンリエッタ陛下なら、必ずや変えて下さると。
しかしそれは――両国の夜明けは、
あまりにも滑稽な形で、
白い煙と共に空へと消えていった。
残されたのは、砕けた石壁と、
静かに落ちてくる、秋の日差しだけ。
いつ、日は昇るのだろうか。




