048.願い、届かず
姿勢は低く、地を這うように。
一歩、駆けて一歩、飛んでまた一歩。
沼に足を取られれば必死、歩むのは―――すでに出来た岩の足場。
道は既に出来ている。
(使うしかないか)
言の葉を紡ぎ、不吉な予感が拭えないまま槍に黒雷を宿す。
自分がどうなってしまうかは分からないが、もう迷っている時間はない。
この強敵を相手に長くはもたない。
一合だ...一合で仕留めなければ私は死ぬ。
刹那の間合いで黒雷を打ち込むほか、この戦神を沈める手段はない。
息を吸い込み、止める。
「礫よ、顕れよ...石弾術<ストーンシュート>」
インペリエが詠唱した魔法により、岩の飛礫が宙に生成される。
しかし先ほどのそれと異なり、鋭利に、そして猛烈な勢いで回転している。
練り上げた高密度の殺意は、容赦なく向かってきた。
私は速度を落とすことなく進み続ける。
――黒雷を纏った切っ先を当てるだけでいい。
飛来する岩の棘は黒曜石の穂先を掠めた途端、音もなく砂に還る。
私の黒い魔力は、土に込められたマナを吸い取り自然に戻していく。
「むうっ!?」驚嘆する戦神の顔を目掛けさらに速度を上げる。
「奇妙な魔術を使うようだな。いいだろう――来るがいい"黒槍"」
巨大な戦斧は天を頂き、まさに今振り下ろさんと鬨を待つ。
そして空気を、
音すらを裂いて、
刃は一瞬で目先まで迫った。
姿勢を更に低く、斧を潜る。
しかし、それは罠。
全身全霊の斧は囮に――私の首を狙って、地面から岩の棘が飛び出してきた。
「どこ狙ってんだよ」
すでに私は、そこにいない。
戦斧が通り過ぎる瞬間に柄を掴み、勢いを利用して空に舞い上がる。
霊峰を見下ろす私は、間髪入れずに詠唱を始める。
「裂けし境に宿りし雷よ、焦げる膜より這い出でよ!」
「来るがいい!」
空中から槍を投擲し、インペリエの足元に深々と突き刺さる――迸る吸魔の力を宿して。
「斥界這電<ヴェイルアーク>!!」
切っ先から放射状に広がった黒雷は、大地から火花のように立ち上がる。
それは戦神の鎧の表面を這うように絡みつき、乾いた破裂音を伴ってインペリエを焼いた。
許容量を超えた大量のマナが―――私に流れ込んでくる。
戦斧を握る手からゆっくりと力が抜け、戦士は膝をついた。
霊峰は、崩れたのだ。
「なんと...邪悪な力か...」
呟きは掠れ、要塞に静寂に塗りつぶされて消えた。
風が止み、鳥も声を潜める。
槍を握る手に力が入る。
四天将という頂に立つ戦神が、いま私の足元に膝をついている。
ルクセン平原ではゾーイを逃がしてしまったが、インペリエは間違いなくあの時のゾーイよりも数段強かった。
自分が確かに強くなっていることを噛みしめる。
彼女の茶色い髪は汗と血に濡れ、巨躯に似合わぬか細い息遣いは――どうしようもない程儚く、
そして、弱弱しい。
同時に私自身も限界だった。
全身に走る激痛と、失血による眩暈が私の意識を遠のかせようとしている。
それでも、勝利は確実に私の手の中にあった。
この一撃で、ゴア帝国四天将を仕留めることができる。
王国軍の士気を大きく押し上げ――戦局を一変させることができるのだ。
他の兵士が来る前に決着をつけなければ。
「はあ...はあ...インペリエ・アルバスト・ゴア。あんたのような戦士と戦えたことを、誇りに思う」
冷たい黒曜石は、神の首を落とそうとしていた。
「言い残すことはあるか」
私の問いかけに、インペリエはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に映るのは深い悲しみが宿っている。
敗北を受け入れた者の、静かな諦観。
「...貴公、名を聞かせてくれ。私を打倒した戦士の名を知らぬまま逝っては、先に待っている同胞に笑われてしまう」
「オレはセラ。獣人族カルラの子、セラ・ドゥルパだ。」
「セラ―――ドゥルパ......確と刻んだ。感謝する、勇敢な王国の戦士よ」
暫しの沈黙。
風が、汗に濡れた頬を撫でる。
「我らが...手を取り合い、共に歩む道において、言葉の他に何を要すると言うのか」
それは後悔ではない。
それは命乞いではない。
それは――懇願。純粋な迄の願い。
掠れているインペリエの声は明瞭に響いてくる。
届け、届けと。
目が語っていた。
「僅かひとかけらの心があったならば、我々の未来は、共に同じ光を目指せたろうに。そうは思わんか、セラ・ドゥルパ」
その言葉が私の胸を打った。
敵として向かい合った私たちだが、もし状況が違っていたなら、共に戦う仲間になれたかもしれない。
インペリエの瞳に宿る悲しみは、戦争そのものへの嘆きだったのだ。
双眸に映し出された自分の姿は――
(これが、オレがなりたい戦士なのか...?)
敵味方という立場を超えて、一人の戦士として私を認めてくれている。
その想いが、私の心を大きく揺さぶった。
(くそ...手に震えが...)
この女を殺すことで、どれだけの人が悲しむだろうか。
彼女を慕う部下たち、彼女の帰りを待つ家族。
そして何より、皇帝ユークリッドという人物が、妹の死をどう受け止めるだろうか。
ゴア帝国の民にとって、インペリエという人物がどれほど大切な存在なのか。
殺すべきなのか?
本当に?
思慮を巡らせていた私の身体は、突如として吹き飛ばされた。
――風弾だ。
「インペリエ様!ご無礼をお許しください!貴方は生きねばなりませんっ!」
決死の形相で現れたのは、過度に露出の多い服を纏った女魔術師だった。
理由は分からないが、その女は既に満身創痍――
顔は青白く、病人と言っても過言では風体だ。
しかし、彼女から発せられる魔力の濃度は尋常ではない。
死を受け入れた者の、散り際の光なのか。
空気が震え、要塞内の石造りの壁が微かに共鳴している。
彼女はインペリエに向かって素早く風弾を放ち、壁際まで瞬時に退避させる。
「くう......すまぬっ!子狐よ、武運を祈っているぞ!」
斧を杖代わりになんとか立ち上がったインペリエは、足を引きずりながら要塞の中に入っていく。
私は地面に叩きつけられた衝撃で、さらに傷を深くしていた。
間違いなく骨が、臓腑に突き刺さっている。
全身が悲鳴を上げそれでも私は槍を握り直し、新たな敵と対峙する。
血が口の端から垂れ、視界が霞んでいく。
限界は、もうすぐそこまで迫っていた。
「貴方が...かひゅっ――総隊長の仰っていた"黒槍"ですね。この先は絶対に通しません...」
女魔術師は私を見据えながら、静かに覚悟を語る。
胸元の黄色い魔石は光を失い、くすんで見える。
淀んだ水晶は、奇しくも鏡のように私を映す。
私の胸に潜む、魔物の姿を。




