042.幕間:北の関所を守る者
朝霧が山間を覆い隠すシグヴァルド要塞に、不吉な静寂が漂っていた。
堅牢な石造りの城壁は数百年の風雪に耐え抜き、その威容は近づく者全てに絶望を与えてきた。
要塞の最上階にある司令室には、地図を見つめながら深い思索に沈む巨躯の女性が一人。
インペリエ・アルバスト・ゴア――ゴア帝国四天将の一柱にして、
皇帝ユークリッドの実妹である彼女の表情には、憂慮の色が濃く表れていた。
見つめるのは地図上の一点――遥か西方のフェナンブルク王国。
姉である皇帝が送り出した和平の使者、アリア・ヴェルディスが向かった場所である。
あれから約半年、本来であれば何らかの報告があって然るべき時期を過ぎても、一切の音沙汰がない。
「女狐め――何をしているのだ馬鹿者」
インペリエの呟きは司令室に小さく響いた。
アリア・ヴェルディスという人物の重要性を彼女は良く理解していた。
帝国内で"風神"と呼ばれるその実力は、戦況を一変させるほどの力を持っている。
しかしそれ以上に重要なのは、彼女の尽力無くして帝国の魔法技術の発展は無かったということだ。
そんな人物からの連絡が途絶えているということは、最悪の事態を想定せざるを得なかった。
王国に忍ばせていた間者からの連絡も、同時期に途絶えていた。
偶然とは考えられなかった。
何らかの異常事態が発生している可能性が高い。
身長二メートルはあろうかという体を持ち上げ、壁に立てかけてあった巨大な戦斧を背負った。
その斧は彼女の身長とほぼ同じ長さがあり、刃の部分には美しく加工された魔石が嵌め込まれている。
「南部はオズに任せたが、ここは私が守らねば」
誰でもない、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
彼女の判断は迅速だった。
本来は肯定の傍で国を守るのが彼女らの使命だが、現在は少し違う。
本国はゾーイ・バッケンの常識に捕らわれない柔軟な戦術が、
南部の関所はオズ・プリムウッドの超長距離から射抜く弓が、
領内の村々が襲撃を受けても、白兵戦最強のルゥ・ミリオンが迅速に対処する。
そして北を自ら守り、王国の動きに備える決断をしたのは、
紛れもないインペリエ本人だった。
南北の関所が落ちれば、帝国の心臓部への道が開かれてしまう。
しかしシグヴァルド要塞は天然の要害に築かれた難攻不落の城塞だ。
急峻な坂道の上に聳える石造りの城壁は、攻撃側に圧倒的不利を強いる。
これまで何度も王国軍がこの要塞に挑み、悉く撃退されてきた。
今の王国軍の戦力では、この守りを突破することは不可能だとインペリエは確信していた。
それでも尚、胸の奥に宿る予感は消えない。
何かが変わろうとしている。
潮目が変わる瞬間が近づいている。
そんな直感が彼女を北部へと向かわせたのだ。
戦場で数多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、野生の勘がそう告げていた。
インペリエがシグヴァルド要塞に到着したのは、夜明け前のことだった。
要塞の守備隊は彼女の突然の来訪に驚いたが、誰も異議を唱えることは出来ない。
彼女は自ら要塞の防備を点検し、兵士たちの配置を確認した――全てが整っている。
この要塞を落とすことは不可能。
そんな確信を抱いていた矢先のことだった。
「敵襲!敵襲!」
見張り台から響く鐘の音が、要塞全体に鳴り響いた。
背負った大斧を握り直すと、石造りの階段を駆け上がった――歩は、要塞の床石を震わせる。
最上階の見張り台に到着した彼女が目にしたのは、遥か彼方に展開する王国軍の軍勢だった。
「ふむ...自分の直感が嫌になるな」
インペリエの目は細くなった。
王国軍の規模は約五千。
今までの騎士団とは比較にならない人数だが――この要塞を攻略するには不十分とも言える。
徴兵でもしたのだろうか、隊列の乱れが大きい。
帝国の精鋭兵なら難なく対処出来る。
問題ない。
心配ない。
いくら自分に言い聞かせても、胸の内にある"何か"がざわつく。
異物――何かがある。
これまでの王国軍とは明らかに違う何かが。
「...あの"女男"が陣頭に立っているのか?」
ゴア帝国内でも"女男"の異名で知られる王国騎士団副団長が、インペリエの脳裏に浮かんだ。
男性でありながら女性の装いをし、戦場では鬼神の如き活躍を見せる異端の戦士。
そして同じ土属性魔法の使い手。
その実力は、四天将である自分でさえ警戒すべき相手であり、婿に欲しいと密かに想う異性。
そうであって欲しいという淡い期待と、"それではない"と告げる直感にインペリエは頭を悩ませた。
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見下ろすと、王国軍の兵士達が徐々に配置を変えていた。
随分と奇抜な陣形だ。
一見して、素人が指揮をしているようにも思えるが...どのような意図が隠されているのか図りかねる。
理解出来ないものは危険だ。
インペリエは舌打ちをすると、近くにいた兵士に声をかけた。
「"子狐"を呼べ」
その命令を受けた兵士は、慌てて要塞内部へと駆けていった。
程なくして、一人の女性が現れた。
およそ兵士とは思えない服装。
肌の露出が過度に多く、武器も持っていない。
黒い布に金の刺繍、赤い布が肩から垂れた帝国の国色で構成されるローブを纏っている。
肌に密着した作りで、艶やかな印象を与えていた。
首から下げられたのは、魔石装具のペンダント。
美しく色の濃い黄色の魔石がはめ込まれており、優しい光を放っている。
彼女はヴァルキリー隊と呼ばれる特殊部隊の一員だった。
アリア・ヴェルディスが率いる精鋭中の精鋭部隊の構成員である。
「インペリエ四天将、お呼びでしょうか」
膝をついた女性の声からは緊張が感じ取れた。
皇帝の妹君――王族を前にし、必然的に身が引き締まる。
インペリエは女兵士を見下ろすと、端的に命令を下した。
「"告達"だ。準備にかかれ」
「はっ!ただちに。」
"告達"。
それはアリア・ヴェルディスを最重要人物たらしめる特殊な魔法技術の発動命令だった。
短い返答の後、不埒なローブを身に着けた兵士は深い集中状態に入った。
その瞬間――要塞内の空気が変わる。
密閉された部屋にも関わらず不自然な風が吹き始め、周囲にいた兵士たちの髪が静電気でふわりと逆立つ。
魔力の濃度が急激に高まっているのが、肌で感じられるほどだった。
その違和感は、要塞の外、坂を守る兵士達にも伝わっていく。
要塞の周囲一帯が―――今、満ちる。
「天つ霆よ、鳴け。地の息よ、道となれ。我が言の緒を稲光に結び、風の綾に編み込まん。雲の裏は盃、枝走る光は舟、嵐は盾、風は綴じ紐、雷は標。想い馳せ、共鳴せよ。霆鳴風之綴<インパルス・ウィスパー>!」
女性の詠唱が終わると同時に、どこか遠くで乾いた破裂音が聞こえる。
それ以外、何が変わったわけでもない。
しかし弛まぬ鍛錬を重ねた者だけが分かる――大気の微細な変化。
僅かな電流が空気中を流れ、要塞内の全ての帝国兵が身に付けている鉄製のイヤリングが反応を始めると同時に、兵士たちの鼓膜を微細に振動させる。
アリア・ヴェルディスが開発した独自呪文、霆鳴風之綴<インパルス・ウィスパー>。
これにより指揮官の声を瞬時に、正確に伝達することが出来るこの複合属性魔法は、
重戦術級魔法の発動範囲から迅速に自軍を撤退させ、敵にそれを知らせることなく一方的に打撃を与えることも出来る。
この技術が如何に破格のものかは、誰もが分かることだった。
「インペリエ様、整いました」
そう言ったローブの兵士は、両の人差し指と親指を合わせひし形を作り、インペリエに向けた。
しかし、顔は蒼白。
複合属性魔法の使用は、術者の生命力を大きく削る。
それでも任務を完遂する姿勢に、インペリエは僅かながら敬意を抱いた。
――部屋の中の兵士たちが静まり返る中、インペリエは重い口を開く。
「「帝国兵、全員射線を開けよ。十分後、坂を凍らせ、炎で表面を整えろ。その後土属性魔法で適時迎撃――以上、行動開始」」
鉄製のイヤリングを通して、インペリエの命令が全ての兵士に瞬時に伝達されたその瞬間、
要塞内部だけでなく、要塞の外で坂を守っている兵士たちも一斉に動き出した。
まるで一つの意思で動く、巨大な怪物のように。
しかし、その代償は大きい。
ヴァルキリー隊の女性は立つのも困難なほど疲労していた。
顔は土気色になり、手足は小刻みに震えている。
インペリエはそんな彼女を見つめると、珍しく労いの言葉をかけた。
「ご苦労だった。少し休め。おい、医務室まで運んでやれ」
インペリエは苦々しい表情で見送った。
こんな悪魔的な研究に頼らざるを得ない現状を、彼女は心から悔しく思っていた。
アリア・ヴェルディスという女性の才能は確かに素晴らしい。
しかし、その研究は人間の生命を消耗品として扱う側面を持っている。
(...お前は、これで満足か。アリア・ヴェルディス)
内心で毒づきながらも、その実力は認めざるを得なかった。
戦争という非常時においては、このような技術も必要悪なのかもしれない。
「...姉者よ。私がこの斧を置く日は、来るのでしょうか」
インペリエの呟きは、夏の朝風に乗って遠くへと運ばれていく。
シグヴァルド要塞攻略戦の幕が、ついに上がろうとしていた。
要塞の石壁に背を預けながら、インペリエは心の奥で一つの願いを抱く。
アリア・ヴェルディスが無事であることを。
帝国にとって失ってはならない人材であることは間違いない。
何より、皇帝ユークリッドが心を痛めることは避けたかった。
戦いの鐘が鳴り響く中、インペリエは背負った大斧を握り直した。
昇る日が北の平原を照らし出した頃、王国軍の方角から土埃が上がり始めた。




