030.人形は出会う
<<アリア・ヴェルディス視点>>
新暦269年、春。
私、アリア・ヴェルディスは、ゴア帝国の特使として和平交渉の重責を担い、
フェナンブルク王国へと向かう旅路についていた。
本来であれば帝国の威信を示すため、豪華な馬車に帝国旗を掲げ、
護衛を従えて堂々と街道を進むべきところだろう。
金糸で刺繍された帝国の紋章を掲げ、
武装した騎士たちが整然と隊列を組み、
威風堂々と王国の首都へ向かう――本来ならば、そうあるべきだった。
けれど、そんな理想は戦場の現実の前には、あまりに儚い。
実際はそう甘くないのだ。
両国間に横たわる戦場を通過するのは、外交使節といえども不可能に近い。
戦闘に巻き込まれれば、和平交渉どころではなくなってしまう。
魔法による攻撃の残滓が大地を焼き、
死体の山が築かれた戦場を、どうすれば安全に通過することが出来るというのか。
敵味方の区別もつかない混戦状態では――
帝国の旗を掲げていようとも、容赦なく攻撃を受けるに違いない。
更に深刻な問題として、フェナンブルク王国側の強硬派による妨害工作の可能性もある。
王国内に於いても派閥はあるが、間者の情報では和平を望む勢力は確認されていない。
つまり、状況次第ではその場で戦闘になる。
帝国の兵士も、特使も、何ら関係はないからだ。
暗殺や拉致といった手段で交渉を阻止しようとする者達の存在も報告されている。
正規のルートを通れば、そうした危険に晒される可能性が極めて高い。
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熟慮の結果、私は危険を承知で山岳地帯を迂回せず、山を越えるルートを選んだ。
リズには散々反対されたが、決してこの判断を無謀だとは考えていなかった。
私の魔法技能と戦闘経験を客観的視点で分析した結果、単独での山越えは十分可能だと判断したのだ。
ゴア帝国でも指折りの風属性魔法使い...自分で口にするのは恥ずかしいが、"風神"アリアなら対処出来る。
これまで数々の困難を乗り越えてきた自負がある。
山岳地帯の危険な魔物たちと遭遇しても、十分対処可能な戦闘技術がある。
食料や水の確保についても問題ない。
サバイバルに関する知識なら、十分に蓄積されている。
天候の変化など恐れるに足らない。
風属性魔法使いなら誰もが、気象の変化を敏感に察知出来る。
突然の嵐や霧に遭遇しても適切に対処出来るし、
風の流れから天候を予測し、危険な気象現象を事前に回避出来るだろう。
しかしながら、この任務の重要性を考えれば多少のリスクは受け入れざるを得ない。
両国の戦争を終結させ、無意味な殺戮を止めるためには、確実に王国に到達する必要がある。
正規ルートでの移動が不可能である以上、この山岳ルートが唯一の選択肢だ。
帝国の未来、そして両国の民衆の命がかかっている以上、個人的な安全を優先するわけにはいかない。
客観的な実力評価に基づく合理的判断だった。
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本当は――軍人になんてなりたくなかったとは、誰にも言えなかった。
決して裕福ではない家庭だったにも関わらず、父と母は体を壊してまで私に全てを注いでくれた。
そんな両親の期待に応えてあげたかった。
二人の背中を見て育った私には、勉強は苦にならなかった。
幼少期から魔法の英才教育を受け、帝国魔法学院を首席で卒業した私は、実戦経験を積み重ねながら魔法の可能性について常に研究を続けてきた。
街や、人々の暮らしを良くするためにずっと学んできた。
体からマナが無くなっても生命力を変換して実験を続けた。
そのせいか、元々黒かった私の髪はいつしか白銀に変わり、実年齢と外見年齢にズレが生じていた。
もう十五歳くらいからだろうか。
私の成長は止まったままだ。
我が身を切って世に出した研究成果は悉く戦争に使われ、名も知らない誰かの命を奪っていく。
そして私はいつしか考えるのを止め、人形のように無機質で、色の無い日々を送っていた。
ユークリッド陛下から呼び出された私に言い渡された指令は、無意味な殺し合いに終止符を打つことだった。
これこそが、命を掛けるに値する任務なのだ。
帝国の明るい未来を築くべく、私は意気揚々と馬車に乗り込んだ。
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帝国を発ってから二か月、実際に深い森に足を踏み入れ険しい山道を登り始めると、想像を遥かに超える過酷な現実が待ち受けていた。
魔物の生息密度が異常に高く、一日に何度も戦闘を強いられる。
普通なら人が近づかない奥地であるため、強力な魔物たちが縄張りを築いていたのだ。
疲労が蓄積し、魔力の消耗も激しい。それでも私は歯を食いしばって前進を続けた。
「なかなかどうして...上手くいかないものですね」
独り言を呟いた直後、自分が不安に駆られていることに気付く。
ようやく適当な野営地を見つけられたのは、自然を相手にし始めてから三日が経った頃だった。
私は、疲れ切った体を休めるため簡易テントの設営に取り掛かった。
風魔法を応用して一帯の気配を探り、危険な魔物の気配がないことを確認してからのことだった。
それでも尚、私の認識は足りていなかったと言わざるを得ない。
まさか遥か頭上の崖から、脅威が降ってくるとは想像もしていなかったのだ。
テントを張り終えようとした矢先、背後から音もなく風が吹いた。
身もよだつ殺気を感じた私は、反射的に身を翻した。
そこにいたのは、狼の姿をした巨大な魔物――フェンリルだった。
体長は優に三メートルを超え、鋼鉄のような毛皮に覆われた筋肉質な体躯、そして圧倒的な威圧感。
その黄金の瞳に映る私は、酷く怯えて見えたことだろう。
「...出来れば、ノックをして欲しかったですね...」
我ながらなんとも間抜けた一言から、戦闘は始まった。
フェンリルは魔物の中でも特に危険な部類に属する。
熟練の戦士でも単独では対処困難とされている。
私は即座に詠唱を開始し、風の塊を生成した。
しかしフェンリルの動きは私の予想を遥かに上回り、瞬きをしたと同時に巨大な爪が私の左肩を深く裂いた。
激痛が走り、温かい血液が衣服を染めていく。
「うぐっ!?な、汝っ!見えざる刃の洗礼を受けよ!烈風刃<ゲイルブレイド>!」
生成した風刃がいくつかは命中したが、フェンリルの分厚い毛皮を貫くには至らない。
逆に、傷を負わせたことで更に凶暴性を増したフェンリルが、牙を剥き出しにして襲いかかってくる。
走馬灯が見えた――その時だった。
突然、森の奥から二つの影が飛び出してきた。
一つは背中に何かを背負った獣人族の女性、もう一つは槍を構えた小柄な獣人族の女性だった。
背負い物をした女性は大きな弓を素早く放ってフェンリルの両目を同時に潰し、
槍を持つ小さな女性が側面から鋭い突きを繰り出す。
槍は毛皮を突き抜け、あばら骨の隙間を通り、深々と心の蔵を貫いた。
急所を正確に狙った一撃によって、狼は力なくその場に倒れこんだ。
獣人族に――命を、救われたのだ。
「ありゃ?獣人族じゃないや。大丈夫?人族のおねーちゃん!」
駆け寄って心配そうに声を掛けてきた小さな獣人族は子供のように見えたが、
先ほどの見事な槍術を目の当たりにしてそのようには思えなかった――既に立派な戦士なのだ。
もう一人の獣人は成人しており、なんと背負っていたのは赤子だったのだ。
きっと二人の母親に違いない。
このような激しい戦いがあってもぐっすり寝ている。
「私はカルラ。そっちのは娘のラビ。背中にいるのはリリス。人族の娘さん、酷い怪我だね。傷がかなり深い」
彼女らが何も言わずに助けてくれたのは、私の髪色のせいだろう。
同じ白銀の髪に、これほど感謝したことはなかった。
カルラと名乗った女性は、背中の赤子を気遣いながらも私の傷を確認していた。
獣人族とは思えない――疑念を抱くほどに、親切だった。
種族など関係ないと言わんばかりの、優しい表情。
「アリア・ヴェルディスと申します。お二人のおかげで命拾いしました。本当にありがとう」
私は深々と頭を下げた。
彼女たちがいなければ、今頃は冷たい肉の塊となっていただろう。
「その傷では歩くのも大変でしょう。私達の集落においでなさい」
カルラの提案に、私は頷くしかなかった。
しかし――不安も拭えない。
獣人族と人族の関係は複雑で、友好的とは言えない。
それでも、怪我を治療しないまま一人で山を越えるのは不可能な状態だ。
傷は深く、流血も少なくない。
少しずつ意識が遠のいていくのが分かる。
「お母さん、この人本当に大丈夫なの?人族だし...」
「ラビ、困っている人を助けるのに種族は関係ないでしょう。それに、貴女が一番好きな人は人族じゃない」
「もー!すぐそういうこと言う!さいあく!」
薄れ行く意識の中で、微笑ましい会話に少し心が温かくなった。




