029.帰郷
訓練を終えた後、私はフレデリックの執務室を訪れた。
相変わらず書類に埋もれている彼に、
故郷への里帰りの為一ヶ月程度の休暇を申し出たところ、快く承認してくれた。
手続きは思っていたよりもスムーズに進んだ。
なんとハイドラも貸し出してくれるらしい。
これは僥倖だ。
発つ前にデミも挨拶をしたかったが、あれから彼――いや彼女か。
ずっと研究室の奥から出てこない。
何度か尋ねたこともあったが、他の研究員からあしらわれてしまった。
まあ戻ってくるころにも状況に変化はないだろうから、デミにはあまり関係のないことかもしれない。
出発の日、城門で仲間たちが見送ってくれた。
ハイネからは旅路の安全を祈る小さなお守りを、
ビューラは貸与されたハイドラの手綱を引いて、
フォウは地図と保存食を用意してくた。
地図は貴重だ。
街中で売られるものは精度が非常に低い。
対して、フォウから渡された地図は緻密で、
恐らく騎士団本部が利用しているものと同等の精度で書き込みがされている。
彼女の自作ということだそうだ――頼りになる。
そしてウィルは息子を連れて見送りに来てくれた。
年は十一、私のひとつ下にあたる少年は、自分の父親が子供に頭を下げているのをよく思っていないのだろう。
ウィルの影に隠れて一瞥した程度で、会話をすることは出来なかった。
彼が息子を見る優しい目が――何故かとても印象に残っている。
一年ぶりに会うカルラとラビ。
どんな顔で迎えてくれるだろうか。
ハイドラに跨った私は、フェナンブルクを後にした。
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王国を発ってから四日が経過していた。
一人と一匹で野営を繰り返しながら進む。
ハイドラは持久力と機動力に優れた生物だ。
二足歩行する大型のトカゲのような外見だが、性格は温厚で扱いやすい。
この四日間、彼は文句一つ言わずに私を背に乗せて走り続けてくれていた。
西に位置するフェナンブルク王国と東に位置するゴア帝国の間には広大な森が広がり、厳しい山岳地帯が東西を隔てている。
この森は魔物が多く生息しており、一般人が立ち入ることはまずない。
戦前は、商人や旅人が両国を行き来する際は遥か北の街道を迂回するのが常識だったそうだ。
フェナンブルク王国の周辺は一帯が荒野となっている。
乾燥した大地に所々草が生え、岩が点在する殺風景な景色が続く。
しかし、荒野の中には一本の大きな川が流れており、これが生命線となって周辺に僅かな緑をもたらしている。
そのまま川上に向かうと渓谷が構えていて、深い森の中に通じている。
川は山の雪解け水が源流となっているらしい。
私の育った獣人族の集落は、その山の麓にあると思われた。
カルラから聞いた話と、この一年間で学んだ地理の知識を照らし合わせると、
おおよその位置は把握出来ているが――実際は現地に赴き、幼い頃の微かな記憶と景色を重ねて探索する必要があるだろう。
フェナンブルク王国からは徒歩で二週間程かかる距離だった。
しかしハイドラのお陰で、もうすぐ渓谷の入口だ。
徐々に景色が変わってきた。
荒野の乾いた大地から、緑豊かな森の入り口へと変化していく。
空気も湿り気を帯び、鳥の鳴き声が聞こえるようになった。
ハイドラも疲れているようで、時々立ち止まって休息を求めてくる。
「渓谷に入ったら休もう。もう少し頑張ってくれ」
私はハイドラの首を撫でながら励ました。
彼は低く鳴いて応え、再び歩み始める。
渓谷には彼の食事となる草木も生えているはずだ。
そこで今日は野営しよう。
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やがて目的の場所が見えてきた。
澄んだ川の周辺には大小様々な岩が点在し、木々がそれを静かに見守っている。
水音が岩を打ち、涼やかな風が頬を撫でた。
涼しい風が吹き抜ける。
この渓谷から森に入りそのまま進めば、ようやく山岳地帯だ。
「よし、ここにしようか。よく頑張ったな」
ハイドラから降り、丁度いい岩に腰を下ろす。
渓谷には様々な魔物が水を飲みに来ていた。
スライムが岩陰で震え、ゴブリンの小さな群れが警戒しながら水辺に近づいている。
私とハイドラが近づくと、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
少なくとも今は、追跡して討伐する必要はない。
彼らもまた、この生態系を支える者に違いないのだ。
川べりで休息を取りながら、革でできた水筒に水を汲む。
冷たく清らかな水は、旅の疲れを癒してくれる。
貰った地図を確認していると、川の流れに揺れる何かが視界に映った――流木だろう。
しかし、
何故か、
目が離せない。
水の勢いに押し出され、"それ"は私の方にゆっくりと向かってきた。
鼓動が早くなっていく。
認めたくない自分と、既に気づいている自分との狭間で、私はただ時間が過ぎるのを傍観していた。
森の向こうに姿を隠そうとする夕日が、去る間際に照らした"それ"は――
銀色の髪と特徴的な長い耳、体は膨張しているが、間違いない。
それは、獣人族の死体だったのだ。
騒がしい心臓を抑えながら、観察する。
...母さんとラビではない。
死体の状態から判断すると、刺し傷、切り傷が無数に確認出来る。
間違いなく自然死ではない。
何等かの暴力によって命を奪われたのだ。
布に落としたインクのように――私の心に不安が広がっていく。
風に乗って僅かに鼻を突く、何かを焼いた匂い。
胸で渦を巻くこの気持ちが警鐘を鳴らし続けていた。
食事中のハイドラに跨り、先を急いだ。
早急に集落に向かい、すぐにでも私は母さんとラビの安否を確認したかった。
渓谷を抜け、山道に入り、懐かしい景色が次々と現れる。
しかし、その景色には何かが欠けていた。
鳥の声は途絶え、虫の音も消えている。
森は息を止めたように静まり返り、その沈黙は――"死"そのものだった。
進むにつれ、異様な臭いが漂い始める。
腐敗臭に似ているが、もっと強烈で吐き気を催すようなものだった。
風向きによって臭いは強くなったり弱くなったりしたが、確実に集落の方角から流れてきている。
何故こうも不安が大きくなっていくのか。
川で見つけた死体、
森の異様な静寂、
そしてこの臭い。
全てが最悪の事態を示唆している――しかし、真実を確かめるまでは、希望を捨てるわけにはいかない。
頼む...無事でいてくれ。
私はハイドラを全力で走らせ続けた。
暗く静かな森を、月明かりだけを頼り進んだ。
ついに見覚えのある場所に到達した。
あの日、母さんとラビと分かれた集落の入り口。その”ハズ"なのだ。
しかし、その光景は私の記憶とは大きく異なっていた。
集落を囲んでいた木製の柵は破壊され、所々に爪痕が残っている。
門は完全に破壊され、木片が散乱していた。
家々も多くが倒壊しており、かつての村の面影はどこにもなかった。
充満する――血の臭いが、私の心を食い破る。
ハイドラから降り、道中の倍の速さで走らせ疲労の限界で倒れそうになっている彼を気遣った。
「悪かった。ここで休んでいてくれ」
ハイドラは疲れ切った様子で地面に横たわった。
本来はもう少し労ってやりたいが、今はそれどころではない。
足を踏み入れた瞬間、心が絶望に支配されてしまった。
集落の広場に続く道には大量の血が続いており、
所々に獣人族のものと思われる四肢や体の一部が乱雑に散らばっている。
気づけば布に包んだ槍を握る手に力が入っている。
足音を殺し、周囲に注意を払いながら、集落の奥へと向かう。
育った家があった場所に向かおうとしたが、そこにもう家はない。
破壊されて焼け焦げた木材だけが残っている。
まだ...まだだ。
ここには死体が見当たらない――まだは希望ある。
そう自分に言い聞かせている自分を、どこか他人事に俯瞰しているもう一人の自分がいた。
私は向きを変え、集落の中央広場に向かった。
巨大な炎が立ち上がっているのが遠目からでも分かる。
きっとそこに、答えがある。
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広場で燃え盛る炎は、まるで地獄の門が開いたかのように禍々しく揺らめいていた。
夜空は血のように赤く染まり、煙は悪臭を孕んで天へと昇る。
遠目から、その炎の中にある何か。
くべられた薪の隙間から、
"向こう側"から、
こちらを見ている。
広場の中央で燃えていたのは、山のように積み上げられた獣人族の死体だったのだ。
老人、大人、子供。
性別も年齢も関係なく、全ての獣人族が無慈悲に殺され、燃やされている。
炎は死体の油脂を燃料として激しく燃え上がり、その光景はまさに地獄そのものだった。
防波堤を失った感情の波は、形を成せぬまま体を内から食い破る。
私は嘔吐を堪えることが出来なかった。
口の中に広がる酸味と、喉を焼く痛み。
膝が震え、立っていることさえ困難だった。
それでも――炎から目を逸らすことができなかった。
きっとこの中に、燃え盛る火の中に、母さんとラビが...
もう何も考えられない。
ふと、炎を眺める人影があることに気づいた。
背中を向けているため顔は見えないが、長い白銀の髪が風に揺れ、幼い体格の女性のようだった。
しかし、獣人族の耳はない。
夥しい血が付着した軍服に、胸元には多くの勲章のようなものが付けられている。
炎の光を受けて、それらの勲章が煌々と光っていた。
瞳は、どこか遠くを見ていた。
時折風が吹いて髪が舞い上がり、その度に勲章が炎の光を反射する。
ゴア帝国の軍人であることは間違いないが、止まった脳でも分かるほどの異様さが際立つ。
死体を焼き尽くす業火の中で、彼女の心には何も響いていない。
まるで――人形のようだ。
そして、その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。
何かきっかけがあったわけではない。
気配を気取られたわけでもない。
しかし彼女は、ふとこちらを振り返り、私と目線がぶつかった。
そして、その瞬間、時が止まったかのような静寂が訪れた。
炎の音、風の音、全てが遠くに感じられる。
ただ、互いを見つめ合う二つの瞳だけが、この世界に存在しているかのようだった。




