027.幕間:君主の決断
新暦268年、冬。
フェナンブルクから遥か東方――
ゴア帝国の王宮は、夕日に照らされて荘厳な輝きを放っていた。
黒い石材で築かれた巨大な建造物は、帝国の威厳を象徴するかのように天高くそびえる。
その最上階にある玉座の間では、長期化する戦争への対応を巡って重要な会議が行われていた。
その場にいる人間は全て女性で構成され、男女格差を如実に物語っている。
玉座に座る女性が一人。
聡明にして慈悲深く、民を想う希代の君主。
髪を優雅に結い上げ、金の装飾が施された深紅のドレスに身を包んでいる彼女こそ、
ユークリッド・フェアリーロック・ゴア。
ゴア帝国の現皇帝である。
華やかな服装とは裏腹に、その顔には深い憂いの色が浮かんでいた。
彼女は眉間を押さえ、重いため息をつく。
「もう三年になるのか...」
皇帝の呟きは玉座の間に静かに響いた。
フェナンブルク王国との戦争が始まってから、既に三年の歳月が流れていた。
当初は短期決戦で決着がつくと予想されていたが、王国の必死の抵抗に戦況は膠着。
戦争の長期化により帝国の民は疲弊し、経済も圧迫されていた。
皇帝として、この状況を看過することはできなかった。
ゴア帝国とフェナンブルク王国とでは魔術の技術水準、資源、兵士の練度に於いても大きく上回っていた。
滅ぼすだけなら容易かったが、
ユークリッドの想いが、
敵国の民をも、戦火から守ろうとする傲慢さが、
長期化の原因だと糾弾する者もいた。
しかし――事実はそうではない。
戦争が始まった当初、想定通りに戦況は動いていた。
しかしある頃から王国の騎士団が劇的に強くなったのだ。
間者の報告を聞く限り、シンシア・ルーヴェンという人間が新たに団長の席についた直後、
兵士の士気は高くなり、戦略的な判断も的確になった。
戦場に於いても頭角を現し始めた者達がいた。
"女男"や"雷神"など、ゴア帝国にも大きな被害が出ている。
玉座の前には、帝国の重臣たちが居並んでいた。
軍事顧問、財政官、外交官。皆華奢な体格をしている中、山のような巨躯でその場に居座る者がいる。
四天将の中で唯一この会議に参加を許されたインペリエ・アルバスト・ゴアの姿があった。
彼女は皇帝の実妹であり、帝国軍の中で最も信頼される将軍の一人だった。
インペリエは姉である女王を見上げながら、慎重に言葉を選んでいた。
筋骨隆々とした体躯に茶色のウェーブがかった髪、そして鋭い眼光。
戦場で数多の敵を葬ってきた歴戦の勇士でありながら、同時に深い知性を備えた人物でもあった。
「陛下、よろしいですか」
インペリエは一歩前に出て重たい口を開いた。
ユークリッドは首肯で返す。
「この戦争の長期化により、我が帝国の民は疲弊しております。このまま戦いを続けることが果たして帝国の利益になるのか、臣として疑問に思うところでございます」
重臣たちの間にざわめきが起こる。
四天将という立場にありながら、戦争の継続に疑問を呈するとは予想外だった。
軍事顧問の一人が前に出る。
「インペリエ様、何を仰るのですか!戦況は優勢!今こそフェナンブルクを完全に屈服させる好機です」
しかし、インペリエは首を振った。
「私は申し上げているのは戦術面ではなく、戦略。如何なる決断が帝国を真に繁栄させるのかと問うているのです。長期化すればするほど、我が帝国の国力は削られていく。民の生活は困窮し、経済は停滞する。これが果たして勝利と言えるでしょうか」
インペリエの言葉に、財政官が苦悶の表情で頷いた。
「...忸怩たる想いで、申し上げます。戦費の増大により、帝国の財政は逼迫しております。このままでは、戦争に勝ったとしても国が破綻しかねません」
しかし、軍事顧問たちは猛反発した。自らの利権を脅かされた者達は揃って金切り声を上げ始める。
「弱腰になってどうするのです!今こそ攻勢に出て、一気に決着をつけるべきです!」
「早期決着こそが最も帝国に利益をもたらすと何故分からんのだ!」
会議室は激しい議論に包まれた。
戦争継続派と和平派が真っ向から対立し、どちらも譲ろうとしない。
ユークリッドは深い溜息をつく。
「喧々諤々とするのは構わんが、己が未熟さをひけらかす場所ではないぞ。まだインペリエの話は終わっていないであろう」
玉座から発せられた声が響くと、議論が止まった。
彼女の威厳ある態度に重臣たちも静まり、ひと時の静寂が訪れる。
巨躯の四天将は話を続ける。
「私が申し上げたいのは、ゴア帝国の懐の深さを示すべき時が来たということです。我が国から和平を申し入れるべきかと。帝国の寛容さと大国としての風格を示しましょう、陛下」
インペリエの提案に、重臣たちは再び騒然となる。
帝国から和平を申し出るなど、屈辱以外の何物でもないと考える者が多かったのだ。
特に、戦争の長期化により利益を得ている軍需商人や一部の貴族たちは、烈火の如く反対した。
「馬鹿なっ!それこそフェナンブルクがつけあがりますぞ!」
「そのような弱腰では舐められます!」
「帝国の威信に関わる問題です!」
しかし、玉座に座る皇帝は静かに手を上げ、場を鎮める。
再びの沈黙に、肩唾を飲む者、歯を食いしばる者。
それぞれの思惑が交錯する中、ユークリッドは静かに、しかしはっきりとその場の全員に聞こえるように言い放った。
「インペリエの提案は一理ある。戦争とは手段であって、目的ではない。我らが目指すべきは帝国の繁栄であり、民の幸福であると心得よ。尊厳を守っても民が守れなければ、帝国の旗が泣くというものだ」
皇帝の言葉に、またも訪れる沈黙。
誰もが認めていた。
彼女は単なる征服者ではなく――真の意味で統治者だった。
「し、しかし陛下!相手が和平に応じる保証はありません。むしろ、我々の弱さと受け取られる可能性もあります」
軍事顧問の意見に、ユークリッドは頷いた。
「然り――それでも試みる価値はあろう。我々が真摯に和平を求めていることを示せば、少なくとも民心に一時なりとも希望を与えることは出来るだろう」
インペリエは姉の判断に深く感謝した。
民を想う心が無ければ、玉座に座る資格はない。
同時に、民を想うだけでは資格足りえない。
実姉が真の君主であることに疑いはなく、
心から揺るがぬ忠誠を誓う者が多いのはさもありなんと言ったところだ。
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「では、使者は誰が良いでしょうか」
外交官の一人が質問する――重要な問題だった。
和平交渉という重責を担うには、相応の人物でなければならない。
皇帝の言葉を捻じ曲げることなく、理知に富み、そして相手に威圧感を与えない者。
インペリエはその条件に当てはまる人物に心当たりがあった。
「有事の際に脱出できるよう、魔術に長けた者が望ましいでしょう。...ヴァルキリー隊の総隊長、アリア・ヴェルディスは如何でしょうか。彼女の魔術の腕前は帝国随一です。また、知性と品格も兼ね備えており、外交官としても申し分ありません」
この提案に、重臣たちも頷いた。
アリア・ヴェルディスの名は、帝国内で知らぬ者はいない。
王国に"雷神"あれど――帝国に"風神"あり。
過去に例を見ない卓越した風属性魔法の使い手として、いつしかそう呼ばれるようになった。
つい先日、北部戦線で彼女が発動した重戦術級魔法。
その一撃で戦況が一変したことは、この場にいる全員が知っている。
「アリア・ヴェルディスなら確かに適任だが、代わりにヴァルキリー達の指揮を誰が執るか...いや、些末な問題かもしれん。この悩みは同じ天秤に掛けるべきものではないな」
当然アリアは現在前線で戦っていた。
彼女を呼び戻すには時間がかかるが、この重要な任務には彼女以外に適任者はいないことも同時に揺るぐことのない事実だったのだ。
「アリア・ヴェルディスを前線から呼び戻せ。和平の使者として派遣する」
皇帝の決定により、帝国の方針が定まった。三年間続いた戦争に、ついに転換点が訪れようとしていた。
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三ヶ月後、前線から戻ったアリアは、謁見の間に膝をついて玉座の前に頭を垂れた。
長い銀髪は戦場の埃を洗い流され、美しく輝いている。
しかし、その華奢な体には戦いの疲労が刻まれていた。
実年齢よりもかなり幼く見える彼女だったが、それとは裏腹に深い知性と経験が垣間見える。
「アリア・ヴェルディス、参上致しました」
「急な呼び出しですまなかったなアリア。息災で何よりだ。面を上げよ」
皇帝の声は威厳を持ちながらも温かく、深い愛情を感じるものだった。
「前線での活躍、大儀である。貴公の働きによって帝国の被害も最小限に抑えられている。感謝しているぞ」
「恐れ入ります、陛下。我が身、心、全ては帝国のためにあります。私はただ臣の務めを果たしたに過ぎません」
アリアの謙遜に、王は微笑んだ。
この魔術師の謙虚さと実力を、女王は高く評価していた。
そしてこれから口にすることにも、必ずや成功に導いてくれるという確信があった。
それほどにこのアリア・ヴェルディスという人物は帝国内に於いて重要なのだ。
「アリア、フェナンブルク王国への和平の使者として、貴公に赴いてもらいたい」
アリアは驚きを隠せなかった。
和平の使者とは予想もしていなかった任務だった――しかし、すぐに表情を整え、深く頭を下げる。
「謹んで拝命いたします、陛下。御身のご英断に応えられるよう、尽力致します」
女王は満足そうに頷いた。
このようなゴアの民こそが国の宝だった。
「貴公のような忠臣を持てたことを心から誇りに思う。しかし、無理はしないでくれ。身の安全を最優先に行動せよ」
「...陛下のお心遣い、身に余る光栄でございます。必ずや任務を成功させ、帝国に平和をもたらして参ります」
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それから数日後、アリアは自宅で旅装を確認していた。
使者としての正装、護身用の魔法道具、そして大切な書類の数々。
準備はすでに終わっている。
今は、とある来客を待っているところだった。
普段の品位ある振舞とは裏腹に、アリアの部屋は様々なものが散乱して足場もない程だった。
研究者としての側面を持つ彼女の部屋には様々な書類や、
得体のしれない魔物が液体に浸かった瓶、
使い物にならない低位のアーティファクトなど――傍から見ればゴミの山に暮らす仙人である。
その時、扉を叩く音が響いた。
アリアが扉を開けると、そこには艶のある黒い髪をショートカットにした美しい女性が立っていた。
頭には巻き角が生えており、腰からはすらりと細い尾が伸びていること。
魔族と人族のハーフである彼女は、ヴァルキリー隊の一員にしてアリアの部下である――
リズベット・アーヴァンノルドだった。
「アリアちゃん来たよー!...相変わらず汚いなあ。臭いし。」
「よく来てくれましたリズ。さあどうぞ、入って下さい」
「やだなあ...」
階級的にはアリアが上官だったが、二人は長年の友情で結ばれていた。
そして、リズベットがそういった上下関係に疎いことも関係していた。
育ちは魔族の住む地域であり、強さでしか上下を決めない文化で育った彼女には、
階級など自分が気にすべきことではないと考えていたからだ。
フランクな口調もアリアは特に気にしていなかった。
「リズ、折り入って貴方に頼みたいことがあります。私が留守の間、"研究室"の管理をお願いしたいのです」
「ああ...確かにやばいもんね。オッケーわかった。任せといてよ」
リズベットは軽い口調で答える。
彼女もまた、アリアの"研究"を知る数少ない人物の一人だった。
椅子代わりに書類の山に腰掛け、少し険しい顔つきになった彼女は、アリアに対して質問をぶつけた。
「でもさ、アリアちゃん。今回の和平交渉、本当に上手くいくと思ってる?ユークリッド陛下の考えは甘いと思うんだよね。フェナンブルクが素直に和平に応じるとは思えない。むしろ、帝国の弱さと受け取って、更に攻勢に出てくる可能性もある」
リズベットの指摘は、もっともだった
彼女は戦場での経験を通じて、政治と戦争の複雑な関係を理解していた。
臣下の意見を聞かない王ではない。
しかし、それでも、いずれかの形で和平を取り付けたかったのだろう。
ヴァルキリー隊総隊長、アリア・ヴェルディスはそう考えていたのだ。
「...リズの言う通りです。陛下のお考えが甘いということは、私も感じております。しかし、それでも試してみる価値はあると思います。少なくとも、我が帝国の善意を示すことはできるでしょう」
複雑な感情が込められていた。
この任務の困難さは十分に理解しているからだ。
しかし、皇帝の勅命である以上、自分が軍人である限り如何なる無理難題であろうと全うする。
ユークリッドは、そう思わせる人格者なのだ。
「分かってるのに言うこと聞くなんて、意味わかんなーい」
「リズ、もし何かあれば研究室は全て貴女の炎で燃やし尽くして下さい。あれは未来永劫、日の目を浴びてはならないものですから」
「真面目だなあ。別に気にしなきゃいいのに。そんなだからまだ処女なんじゃないの?」
「...うるさい」




