002.集落からの旅立ち、そして別れ
<<???視点>>
何者でもない彼——セラ・ドゥルパは、この朝も、いつものように夜明け前に目を覚ました。
太陽がまだ山の向こうに隠れている薄暗い時間から、一人黙々と槍の鍛錬を続けている。
母代わりであるカルラから教わった基本の型を、何度も何度も繰り返していた。
「おはようセラ。朝食、準備するね」
「おはよう母さん。オレも、もう少ししたら戻るよ」
朝露の雫を吸い取るような柔らかな声色。
白銀の長い髪はあまり手入れをしておらず、あちらこちらと髪先は行く先を定めあぐねている。
すでに一度の出産を経ても尚、小柄ながら鍛え上げられた肉体は、足取りに猛者の気配を残していた。
そして僅かながら――人族であるセラとは異なる点がある。
鳥の囀り、穏やかな風が草木を遊ばせ、空の黒が朝焼けを引き寄せるこの時――
音を捕えているのは大きな白い耳、兎のようなそれは頭頂部から生えている。
彼の母親代わりであるカルラは――獣人族だった。
居を構える集落に暮らすのは当然獣人族のみ。
セラは生まれた直後からこの集落で暮らしているが、未だ馴染めずにいた。
異なる種族の溝は深い。
集落を歩けば石を投げられる。
狩りに行けば獲物を奪われる。
誰も彼に話しかけようとせず、話しかけても言葉は返ってこない。
それが、セラ・ドゥルパという人族の少年の日常だったのだ。
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私とカルラは十年以上も共に戦場を駆け抜けてきた。
あの頃の彼女は、獣そのものだったんだよ...本当さ。
喉が乾いたら殺した相手の血を飲むような女だった――想像出来ないだろう?
そんな修羅の道を歩み続けてきた彼女は、
戦場で運命的に出会った一人の赤子によって大きく変わった。
――そう、セラをね。
最初のうちは子育てに酷く苦労していてね。
まず自分の母乳が出ない事に驚いていたな。
笑えるだろ?
セラが三歳になった頃、カルラの腹は大きくなった。
集落に番はいなかった――どこぞで拵えてきたのだろう。
新たな命に向き合う日々が、また彼女を母として成長させていった。
しかし、それとは裏腹に住民の視線はより一層厳しくなっていく。
集落の民がカルラの名を口にする際、多くの者は彼女を"族長"と呼ぶ。
長の直系が生まれるとあっては、殊更にセラという人族の異分子は排除しなければならないのが道理だ。
大切な集落の長の子に、穢れがついてはいけない。
過去長い歴史の中で二種族間が築いてきた関係性とは、奪う者と、奪われる者。
獣人族の彼らは後者だったのだ。
懸念すべき点は後を絶たなかった。
故に、カルラはセラに厳しく槍術の訓練をさせた。
もはや拷問の域に達していたと思う――それほどに厳しい訓練だった。
勿論毎晩セラは泣いていた。
二歳の時から、カルラは彼に槍を握らせた。
三歳の時から狩りをさせた。
大きくなった腹を抱えながらも、カルラは常にセラを鍛え続けた。
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彼女の第一子が生まれた時、セラは本当の兄のように喜んでいた。
虫の音だけが窓から覗き込む静かな夜に生まれた赤子は、ラビと名付けられた。
しかしそれも束の間、枷から解き放たれたカルラは、より一層セラの訓練を厳しくした。
怪我など日常茶飯事――むしろ死は隣人であったと言えるだろう。
カルラは常に、セラに"戦士"であることを求め続けてきた。
槍術を始め、対人、対魔、様々な状況を想定した戦術。
一般的な教養、文字の読み書き――そして、戦士の在り方、矜持を。
ああ、勿論彼女も読み書きが最初から出来ていたわけではないさ。
セラに教える為に、カルラも必死に学んだんだ。
私が師となってね。
獣人族の集落に住んでいながらも、カルラはなるべく人族の文化を生活に取り入れていた。
それもセラの為であったのだろうが、結果的に集落の仲間たちとの溝が深まっていったのはやるせなかった。
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そして今年、セラは十一歳になった。
カルラは第二子を宿していた――まったく、どこで拵えてくるのやら。
その子が、そろそろ生まれるという頃だった。
食卓には、九歳になったラビも座っていた。
カルラと同じ白銀の髪は、母親と違い丁寧に撫でつけられ、艶やかな絹糸のように輝きを放つ。
獣人特有の小さな耳をぴょこぴょこと動かしながら、セラの顔を見上げている。
あどけない表情に、カルラの面影が見え隠れしている。
いつかこの子もカルラのような道を歩むことになるのだろうかと、当時の私は楽しみでたまらなかった。
セラが、この幼子が、敵の血と臓物を撒き散らしながら戦火に身を投じていく、未来がね。
「セラお兄ちゃんおはよっ!!!」
「おはようラビ。今日もお前は元気だな」
彼がわしゃわしゃと頭を撫でると、ラビは大層喜んだ。
皆が席に着き、右手を握って胸に当て、戦の神に祈りを捧げる。
ほどなくして沈黙が解かれ、カルラの一声によって食事を始めた。
今朝も質素な野菜のスープに、いもを蒸してほぐしたものだ。
肉は決まって夜に食べる。
鳥、兎、猪、鹿――野に生きる数多の命。
足るを知り、決して必要以上の殺生はせず、自然と共に生と死を繰り返す種族。
そこが――愚かな人族との大きな差かもしれない。
カルラとラビが黙々と食事をとる中で、セラだけは何故か静かに目をつぶっていた。
食事中の会話はない――これは文化や風習というより、カルラの教えに依るものが大きい。
しかしこの日――何千回と繰り返された朝の時間に、人族の少年はとある決意を持ち込んでいた。
既にカルラは彼に違和感を感じていた。
養子とはいえ十一年間育ててきた息子の変化を見逃さないはずはない――まあラビはまったく気づいていないようだったが。
意を決したセラは朝食に手を付ける前に、カルラを真っすぐ見据えて口を開いた。
「母さん...今まで育ててくれてありがとう。」
一拍の間。
カルラの手が止まる。
「明日――この集落を出ていくよ」
「えっ...ええええええぇ!?お兄ちゃんどこか行っちゃうの!?」
スープの椀を取り落としそうになったラビを、カルラが静かに支えた。
目の前の息子を映す両の瞳には、溢れんばかりの感情が宿っていたんだ。
カルラは若い頃から、集落の長として責任を背負い続けてきた。
これは強者の宿命と言える。
集落の者たちは、カルラが人族の子を育てることを快く思っていない。
獣人族にとって集落の長というものは、何者も逆らえない絶対的な存在であるからだ。
セラを拾ってきた日も、誰もが文句を言わなかった。
しかしそれは言えなかっただけであって、納得したわけではなかったのだろう。
もしくは絶句していただけかもしれない。
――だからこそ、彼女はセラを鍛え上げた。
もし自分が守れない状況になった時、一人で生き抜く力を身に着けさせるために。
いつかこの日が来るということに、きっとカルラはセラを拾ったその日から思い至っていたのではないだろうか――朝の清々しい空気とは裏腹に、食卓を囲む雰囲気は重たい。
「いつから、そんなことを考えていたの?」
「最近。」
「理由は?」
「...強く、なりたいから。外の世界を見てみたいから」
強がりという少年の小さな嘘を暴くほど、カルラは無遠慮ではない。
そしてそれ以上追及しなかったし、出来なかった。
――口にしなくても、理由を理解していたからだろう。
カルラはセラ自身が、人族である自分と共に暮らすということがどれほど周囲に負担を与えているかに悩んでいたか知っている。
義妹のラビも幼いながらに何かを察し、それ以上は口を挟まない。
長い、長い沈黙を経て、カルラは深く息を吐いた。
「――――そう...ね。セラももう十一歳。自分の道を決める年頃よね」
家族の幸せとはこうも得難いものだったろうか。
十一歳の少年がこれ程重たい決断を迫られるのを誰が望んだのだろうか。
それでも息子の決断を尊重しようと決めた彼女は、紛うことなく母だった。
そして彼もまた、家族を想っての行動だったのだ。
互いの幸せを信じて、願って、別れを選ぶ――それは愛に他ならないと、私は思う。
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日中は集落の中でも世話になった獣人に、カルラと共に挨拶回りをしていた。
――世話になったと言っても、君が想像しているほどのものではないことを補足しておこう。
しかし二人の背後から聞こえてくる"喜びの声"には、私でさえも僅かばかり憤りを覚えたものだ。
十一歳の彼にはあまりにも残酷で重すぎる現実だったように思う。
その日の夜は不思議な程静かだった。
私は静かな夜を好むが、彼はずっと眉を顰めて身支度を整えていた。
月と星だけが見守る集落は夜風も無く、虫の声も聞こえない。
鬱蒼とした森の影から、目を光らせる宵闇だけが寄り添っていた。
そして、翌朝。
まだ日も昇る前に彼とカルラ、そしてラビの三人は集落の入口にいた。
山岳地帯の奥深く――密かに息づく獣人の集落には、雲海が覆う白の世界が広がる。
視界は悪く、旅立ちの日に添えるには躊躇われる天候だった。
カルラの手には布で巻いた長物があった。
ゆっくりとその布を解いていくと、カルラが長年使っていた――友とも呼べる槍が姿を現す。
槍というより、剣に槍の柄を付けたような形状の特殊な獲物。
黒曜石から削り出した美しい刃に、
霊樹の枝を整えてつくった強固な柄、
石突にはカルラ自身の毛髪で編んだまじないが取り付けられていた。
「セラ、これを。私はもう、槍を振るう機会もないでしょう。それに、私がセラにあげられるものは――これくらいしか無いもの。きっと貴方を守ってくれる」
カルラは長年使ってきた自分の槍を、息子の旅立ちに贈る事にしたのだ。
毎日怠る事無く丁寧に手入れされた槍は、まったく年月を感じさせなかった。
「...今までありがとう、母さん。それと――ごめん。オレのせいで母さんとラビには辛い思いをさせて」
微かに、震える声。
私には彼にかける言葉が見当たらなかった。
気持ちは分かるなどと...安直な言葉は使えない。
セラという少年に対してそれは無礼というものだろう。
「セラ...」母は、愛する息子をそっと抱きしめた。
「どこにいても、貴方は私の息子。同じ朝を迎えて、同じ夜空に星を見てる。場所が違うだけで、私たちはずっと家族―――ずっと、ずっと。それだけは忘れないで」
カルラの銀色の髪が、朝風に揺れていた。
親と子の抱擁というのは、いつ見ても美しいものだ。
それが子の門出となれば尚更だろう。
私はそれを傍から見ていた。
この家族の関係者とは言えないが、無関係とも言い切れない仲だ――見守るくらい、いいだろう。
「セラお兄ちゃん、いつ帰ってくるの?」
ラビは彼の事を本当の兄のように慕っていたし、種族の壁を越えた絆があったと思う。
それがこんな下らない事で引き裂かれるとは、やるせない。
涙ながらに見上げるラビを見ながら彼は言った。
「――人族と獣人族が、もっと仲良く出来るようになったら...かな」
涙で顔をくしゃくしゃにしたラビの頭を、セラは最後に撫でた。
小さな耳が、悲しそうに垂れ下がる。
彼は振り返ることなく歩き出した。
――振り返ることは、出来なかった。
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こうして、何者でもない少年の旅が始まった。
行き先は決まっていない。
生き方も決めていない。
それでも集落を追われる形になった彼を、私はもう少し見守る事にした。
――それが、カルラの頼みだったからな。




