9.始まりの終わり
土煙に紛れながら、二本の触手がゆらゆらと静かに揺れ動いている。攻撃に参加しているモノのように低空に構えるわけでもなく、予備動作としてに振り上げているわけでもなく、中途半端なところに位置している。
特にシリルの目を引いたのは、触手の先端に握られた二本の長剣だった。片方は先端の三分の一が折れた幅広の剣を、片方は鍔が小さく刃渡りがやや短い剣をそれぞれの触手が握っている。
どちらともシリルには見覚えがある。折れた剣はシリルの装備品で、もう一つはアウレリアが所持していた剣だった。それを異形が拾い上げて、武器として構えている。
それを見たシリルは不意にぞわりと鳥肌が立ち、加えて嫌な記憶を思い出した。ほんの少し前、アウレリアが殺された時のことだ。
アウレリアが刺される直前の出来事をシリルは見ていない。ただ見ていなくとも、状況を考えれば煙幕越しに触手が襲ってきたのだろうと、シリルは推測していた。
――もし異形があの時の再現を狙っているのだとしたら。
アウレリアの時のように、今度は少女の虚を突こうとしているのではないのかと、シリルの脳裏をチリチリとした嫌な予感が駆け巡る。
銀髪の少女は高い身体能力を活かして、飛び跳ねるように回避行動をとっている。一見すると確実性が高い方法に思えるが、大きく飛び退いた後の着地の瞬間には、わずかとはいえ確実に足が止まっていた。
対する異形は闇雲に乱打するように見せかけてその実、受け身や回避後の隙を狙い澄ます傾向があるのはこれまでの戦いから見ても明らかだ。
今でこそ異形につけ入る隙を与えていないものの、何かが違えば二本の長剣が振り下ろされてもおかしくはない。そうなっては、一撃を防ぐ手立てを持たない少女には致命的となる。
異形の狙いがわからないにせよ、不審な挙動を看過することはできなかった。いずれにしても触手の行動を阻止しなければと、シリルは必死の思いで立ち上がる。
鉛のように重い身体は、すでに平衡感覚すら失いかけていた。足取りもよろよろと乱れ切っていたが、まともに機能しない身体だからこそ、少しでも距離を詰めなければ何もできない。
一方の少女は土煙の外周と呼べる位置にまで到達していた。常人の脚力でも五秒とかからず異形に接触できるだろう至近距離だ。
シリルは自分の考えが杞憂であることを祈った。しかし少女が土煙の中へ躊躇なく突入しようとした時、シリルの思いは届かず予感は現実となった。
煙に踏み入る直前、斜め上空から降ってきた触手を少女が横に跳んでかわした時だった。
「――っ!?」
先の攻撃とは反対の方向から、地面を這うほどの低空から一本の細い触手が煙の中から飛び出し、突如として少女の足首を絡め取った。不意を打たれて驚く少女を勢いよく空へ吊り上げ、それに呼応するかのように、二本の触手が最低限の動きで剣を構える。
くすぶっていた疑惑が確信に変わったシリルは、限界を超えている身体に鞭を打ち、本能が発する警告を振り切って無理矢理に氷の投槍術を唱えた。
消え入りそうなほどにか細い光の中から、歪な形をした三本の氷槍が撃ち出される。
命中精度に長ける氷の投槍術ならば必中を期待できる間合いだった。……にもかかわらず三本すべてが滅茶苦茶な軌跡を描いてデタラメな方向へと飛んだ挙句、大した距離も進まないうちに槍の形状を保てなくなり、すぐさま自壊して粉々に消えた。
「そんな……」
打つ手を失い、シリルは愕然として地面に両手を着いた。手足から再び力が抜けていく。ありとあらゆる異常に全身を蝕まれて、意識が混濁し始める。
歪んだ視界の端に、逆さ吊りにされた少女の姿が映る。当の少女の対応は冷静だった。吊り上げられる途中、上空に放り投げられる前に素早く上体を起こすと、足首を掴む触手を折れた長剣で叩き切った。
対して異形は少女が剣を振るよりも早く、それすらも読んでいたかのように得物を上段に振り上げる。
「――――!!」
シリルが声にならない叫びを上げる。遠い過去の記憶が目の前の光景と重なったその時、消し炭同然の身体に灯る残り火が激しく燃え盛った。
意識と身体が瞬時に覚醒する。その激しい輝きが炎の燃え尽きる直前の、最後の瞬きだと自覚する前に、シリルは弾かれたように飛び出した。
ほとんど無意識だった。自分が一体何をしようとしているか、シリル自身にもわかっていなかった。シリルはただ衝動に身を任せ、猛然と煙の中へと飛び込み、そして突き抜けた。
視界が開いた途端、シリルの眼前に少女が着地してきた。しなやかな受け身を取って立ち上がった少女を、シリルは横合いから突き飛ばす。
「きゃあ!」
少女が悲鳴を上げて倒れたのと同時に、空気を切り裂く短い音が鳴って、黒い影が少女のいたところを――シリルを鋭く叩きつけた。
身構える間もなく、左肩に凄まじい衝撃が走った。折れた鈍色の刃は鎖帷子を引き裂いて深く肌に食い込み、肉と骨を滑るように断ち切りながら斜めに抜けていく。
ひゅ、と口から空気が漏れ、一緒に血がこぼれ出た。斜めにぱっくりと開いた傷口から鮮血が滴り落ち、反射的に右手で傷に触れようとして、肘から先の感覚が消滅しているのを知る。
「駄目っ!」
少女の絶叫が遥か彼方から聞こえた気がした。
崩れ落ちようとするシリルの虚ろな目に、もう一つの鈍い輝きが映り込むや否や、間髪入れずに鋼の刃が振り下ろされ、シリルの胸元を垂直に貫いてその場に縫い留めた。
「う……ぐっ……」
刃の三分の二ほどが身体を貫通する、紛うことなき致命傷。だが不思議と痛みはなく、代わりに耐え難いほどの灼熱感が噴き上がった。
身体の中心を通る冷たい異物感にシリルは最後を確信して、血でべったりと濡れた手を伸ばす。弱々しく震えた手が剣を押し込んでくる触手に触れ、ぬるりとした手のひら越しに触手の確かな感覚が伝わってくる。
……異形に拘束された時に思い浮かんだ分の悪い賭け。それが今のシリルにできる、精一杯の足掻きだった。
シリルは残された力の限り触手を握り締め、血の泡を吐きながら、かすれるような声を漏らした。
「“……水よ……流れを……鎮め、給……え……”」
今まさに消えようとしていた指先の光が再び輝き始める。不安定だった魔法陣の輪郭が突如として在るべき形を取り戻し、息を吹き返したかのように本来の輝きを取りした。
力尽きたシリルの手がずるりと滑り落ちた、その直後。爆発的な冷気が辺り一帯を吹きつけ、今しがたシリルが掴んでいた箇所の血痕を起点に、触手の表面が一瞬にして凍りつき始めた。
闇よりも暗い漆黒が、瞬く間に真っ白な霜柱に塗り潰されていく。その勢いは触手一本だけにとどまらず、他の触手、ひいては異形の本体にまで連鎖的に広がっていった。
異形が驚いたように剣を持つ触手を振り上げ、刃がシリルの身体から抜けた所で完全に動きが止まった。血飛沫が飛び散り、すでに霜と氷の彫刻と化した異形の姿を赤く染める。
血溜まりの中へと力なく倒れ伏したシリルは、傾いた視界の先で茫然とへたり込んでいる少女と目が合った。少女の目はまるで信じられないものを見たかのように激しく動揺していた。
「なんで……」
小さく呟く少女の顔は青ざめている。今の光景に少なくないショックを受けているのは明らかだったが、だからといって時間は待ってくれない。それに、後を託せるのも彼女しかいない。
シリルは喉の奥からどうにか声を絞りだす。
「早く……今の、うちに……」
それ以上は言葉が続かず、血泡が出てくるだけだった。
霞んだ声が少女に届いたのか、はっと目を見開いた少女は、ようやく正気を取り戻した様子で立ち上がった。
少女は剣を握り直してシリルへと駆け寄る。そばに屈み込んだ少女は、白くて細い指をためらいがちにシリルの口元に伸ばし、そこから流れ出る血を優しくすくい取った。
「ごめんなさい……少しだけ貰うわ」
悲し気な声と共に再び立ち上がった少女が、意を決した表情を浮かべて異形に向かう。根元しかない剣をおもむろに胸の前に持ち上げると、一匙の血を乗せた指先を剣の腹にあて、存在しない先端に目がけて勢いよく滑らせた。
そして静かに短く、されど鋭い声で少女が叫んだ。
「“燃えろ!”」
瞬間、少女の言葉を起爆剤に、剣に塗られた鮮血から紅蓮の炎が立ち昇った。激しく燃える火柱は鋼鉄を飲み込んで、少女が指で触れた跡をなぞるかのように、無いはずの剣先へと伸びていく。
やがて業火に包まれた剣を少女が振るう。赤い炎が払われて、炎の下から火焔に焼けつく刃が――失われたはずの刃が忽然と現れた。
高温の炉から出したばかりのような、まばゆい黄金色に輝く刃がそこにはあった。再生された焼ける表面を細かな火花が飛び交い、時折細い火柱が上がっては辺りの空気を揺らめかせている。
刃渡りも本来の物よりはるかに長く、従来の長剣の域を超えて、帝国の突撃歩兵が持つ両手大剣に匹敵する規模と化していた。
「これは一体……?」
その現象は造った本人にも想定外の出来事だったのか、少女は手元の大剣を見て戸惑いを見せるも、すぐに視線は前へと向いた。
氷の騎槍で飾られた純白の異形が身じろいでいる。今度こそ決着をつけると言わんばかりに、少女は一つ息をついて大剣を振り上げると、力強く地面を踏み込んだ。
異形の懐近くに跳び込んだ少女は、黄金色の大剣に十分な遠心力を乗せ、氷の騎槍に閉じ込められた異形目がけて刃を叩きつけた。
大剣に纏わりつく火の粉が一筋の尾を引いて、闇夜に半円状の赤い軌跡を描く。巨大な氷柱を容易く溶断し、霜柱に覆われた異形を捉え、少女は渾身の力を込めて大剣を振り抜く。
灼熱の刃が異形の肩口から胸元を切り裂いて中心部に達した時、かすかな手応えと一緒に何かが砕けるような音が小さく鳴り響いて、異形の上半身が後ろにひっくり返りながら崩れ落ちていった。異形を拘束していた氷の戒めも、今の一撃で強度を保てなくなり、一つ残らず破片となって弾け飛んだ。
倒れた漆黒の断面の中で不気味に輝いていたのは、異形もろとも両断された赤黒い水晶玉だった。無数の亀裂が入った水晶は間もなく木端微塵に砕け散り、同時に異形本体と触手の群れが急速に輪郭を失って、ぐずぐずと崩壊していった。
形を成さなくなったそれらは黒い霧となって一斉に消散し、わずかな痕跡すら残さず……異形の怪物など、まるで初めから存在しなかったかのように消えていく。
後には本当の静寂が残され、長い悪夢の終わりを見届けたシリルは、途端に意識が一気に遠のいていくのを感じていた。
抵抗はせずに、ただ水底に沈んでいく感覚へと身を委ねる。そもそも息が残っているのが不思議なくらいなのだから、すべてが終わった今となっては、逆らう気力すら湧かなかった。
目蓋を閉じる力もなく、ぼんやりと消え行く視界には少女の姿だけが映っている。異形を討った少女は真っ黒に燃え尽きた剣を投げ捨てると、シリルの元へ足早に戻ってきていた。
無事でよかったと、シリルは思った。本当ならすぐにでも少女に声をかけたかったが、どうやらそれは叶いそうになかった。
少女は血溜まりに座り込むと、右往左往とした手つきで傷の処置を始めたものの、ほどなく手の施しようがないと悟ったのか、震える両手が行き場を失って力なく垂れ下がった。
「どう……して……」
少女の悲愴な声が耳鳴りの中に混ざりこんできた。少女は何かを伝えようと、あるいは問いかけようとしているみたいだったが、もはやシリルの耳には届いていなかった。
身体の芯が沸騰するような感覚と共に、目の前が暗闇に閉ざされていく。場違いなほどの心地よさに包まれながら、シリルは今度こそ意識を手放す。
……意識が途絶える刹那、最後に垣間見た少女は月を背負っていた。逆光を浴びて影となったその顔には、酷く悲しそうな表情が浮かんでいた。




