果ての海より来たるもの(4)
エイダンは、気づくと「文字の虫」に呑まれた時と同じ場所、同じ姿勢で書庫の中に立ち尽くしていた。まるで立ったまま白昼夢を見ていたかのように。
『どうだ?"物語"の中に連れて行かれた感想は?』
「お前、よくもっ……!」
不意打ちのようにインクと文字の沼に引きずり込んでおいて、写本の悪魔は全く悪びれない。その軽薄な態度にエイダンは思わず殴りかかった。
拳は当たったものの手応えはなく、ただ剣を振るわれた濃霧が一瞬乱れるように、悪魔を構成する「文字の虫」がわずかに飛散し、すぐ元に戻っただけだった。
『まあまあ怒るな。軍人上がりの修道会じゃあるまいし、聖職者が暴力なんて振るうものじゃない。だいたい、「今からお前を"俺"の中に取り込む。安全だから心配するな」などと言っても信じないし応じないだろう?とりあえずやってみて、無害だと実演するのが手っ取り早い。暴れる乙女を手籠めにしたでもあるまいし、大したことはしてないだろうに』
そしてわざとらしく肩を竦め、さも申し訳なさそうに頭を下げて見せる。
『……おっと、だがこういうのは受け取る側の気持ちが重要だったな。お前の穢れなき乙女のように繊細で初心な心を傷つけたなら悪いことをした。謹んでお詫びしよう』
こいつの軽口に付き合うだけ無駄だ。エイダンは諦めたように深く息を吐き、心を落ち着けた。
その様子を見計らったかのように写本の悪魔――かつてブラザー・ロガラッハと呼ばれた男の姿を取る悪魔は言葉を続けた。
『そんな事より、俺に聞きたいことがあるんじゃないのか?』
「……」
エイダンはじろりとロガラッハを睨みつけ、しかし努めて冷静に訊ねた。
「……お前は聖ファーハルの弟子だったのか?」
※
聖ファーハル。
それは今エイダンがいる、この修道院を建立した人物だった。
この北の孤島だけでなく、多くの島々で修道院を建立して人々の信仰の礎を築き、教えを広め――そして"怪物"や"悪霊"、"海の悪魔"と対決し、退けた伝説でも知られる高僧。
そもそも、教会の定義する「悪魔」とは「堕ちた天使たち」の類である。唯一の創造主である神が「悪魔」をも造ってしまったなら、神の無謬性に矛盾が生じる。だから天使として造られたものが傲り高ぶり悪魔に堕ちた、と解釈される。
一方で、「悪魔」と通称されるものにはもう一つ種類がある。
神ならずして神を名乗り、人々を惑わせる邪悪な霊。
異教の神たちである。
古代レバントの雷神バアルや、牛頭の神モロクが代表的だろう。
そしてはるか古の時代、神の教えがもたらされる以前の《島》にも異教の神があり、異教の智慧者たちがいた。
それらの多くは人々の信仰を失うと共に西の海の彼方へと去り、あるいは妖精や伝説となって民話の世界に習合していったとされる。
だが中には――時と共に穏やかに神秘と民話の世界に溶けていったものばかりではなく、なおこの地に残り、悪しく呪われた存在であり続けるものもあるという。贄の幼子を生きながら焼くことを求める邪神のように。
人々を惑わし、時に血と贄を求める旧き偽りの神。それらに仕える邪悪な霊。
彼らをも「悪魔」と呼ぶからこそ、今目の前にしている呪われた写本に宿る存在もまた、「写本の悪魔」の伝説として伝わっていたのだ。
聖ファーハルこそは、まだ神秘と、そこに秘された闇とが身近にあった時代に、多くの「悪魔」や「怪物」を退けた聖人の一人なのだ。
その弟子だった男が、呪われた存在になるなど――。
※
「お前は私を惑わそうとしている。あるいは本当のブラザー・ロガラッハを殺し、記憶を奪って私に見せることなど悪魔ならばたやすいだろう。神の僕として聖人に師事した者が、悪霊になどなるものか」
エイダンは言った。
ロガラッハは腕を組んで小首を傾げる。
『そうかな?別に不思議なことはないだろう。この世の終わりまで彷徨う最も呪われた男は、人の子で最も祝福された者の弟子だった。光の傍にいるほど、影も濃くなるものじゃないか?あるいは、光を求めて輝くものに手を伸ばし、しかしその先に光など無いと見つけてしまった時こそ、最も昏い場所に行き着くのかもな』
ロガラッハはそこまで言ってひらひらと片手を振った。
『いずれにしろ、俺が読ませる"物語"が嘘とも真とも証明する術は無いんだ。それこそ悪魔の証明だな。そしてお前は俺を燃やしたいのだから、嘘でも真でもこの先を"読む"必要がある』
「なら、なぜ一度に読ませないんだ?」
『身体や精神への負担だの、色々と制約があるのさ。ちゃあんとお前に害のないよう考えているんだ。苦行と奉仕の美名のもとに人様の体を壊す連中より、よっぽど良心的だろう?』
「……お前の言葉が信じられると思うのか?」
『少なくとも、あのマリーとかいう娘は回復しただろうが。……まあまだアレはアレで、油断はできないと思うがね。様子を見に行ってやれ』
エイダンはロガラッハの意図を探るように、疑わしげに目を細める。
「あの娘を随分気に掛けるじゃないか」
『病状が悪化した時に、"お前の知識は結局偽りだった"なんてされたくないからだよ。神の子の金庫番は裏切り者だったが、俺がお前に与える知識に嘘という"裏切り"は無い。前にも言ったようにな』
そしてロガラッハは、口の端を歪めるようにして愉快そうに言い足した。
『この世には裏切る者と裏切られる者、そして裏切りを看過する者がいる。……お前はどれだったろうな?エイダン』




