花の困惑
この国では、婚約と言えば親や家の者、それが居なければ正式な立会人を立て、行う約束ごとである。
その当たり前を、致命的な事に、リリスは知らないまま育ってしまった。
「一般常識を知らないままここまで来てしまったのは、致命的でした。」
ため息をつく少女を、老師は長い眉毛の下に隠れた目を柔らかく緩めて見つめた。
リリスがこんな風に雑談をしに来た事など、塔に来てから一度としてなかった。
今まで、嫌がらせを受けている様だと人伝に聞いては心配して部屋に訪れたり、なにくれと話しをしに行くのは老師の方だった。
それが、まさか少女の方から老師の部屋にやってくるとは。しかも、報告でもなければ研究の助言でもない、自身の身の振り方についての話である。
老師は喜びに笑いを抑えきれず、ふふふと嬉し気な音を漏らした。
「…老師?私、相談しているのですが。」
「いやすまぬな。リリスが来てからずいぶん経つが、その様な相談を受けることになるとは思わなんだのでな。」
嬉しそうに話す老師に、リリスは小さく口元をきゅっとさせた。
小さな変化だが、口を尖らせたのだろう。
老師はまた笑いを漏らす。
「殿下は、できる限り結婚はもう少し先にと、お考えだった…という噂じゃ。」
「そうなの?」
「もともと臣籍降下が決まっている身の上。王族の肩書がない方が、リリスにも負担にならぬ。と、お考えだったのやもしれぬな。」
老師はふわりとさりげない所作で杖を回し、いつの間に淹れたのか、お茶の入ったカップををリリスの前に降ろした。
それと同時にその手にも、どこからともなく現れたカップとソーサーがおさまり、老師はこっくりと一口茶を飲みこんだ。
噂だ。と、口では言うが、十中八九そういったつもりで立ち回っていたものであると、老師は確信を持っていた。
塔で暮らしてそれなりの地位を築いた老師である。
城の事情に聡くなるというものだ。
「王族であれば、わしらの様な一般人には考えられぬような催しや責務も多いと聞く。」
「王妃様が、結婚式の後はパレードよーって笑っていらっしゃったわ。」
「……パレード……」
「はい、パレード…」
その一言はなかなかどうして大きな衝撃であったようだ。
老師は眉に隠れた目を何度も瞬き、リリスを見つめた後、ゆっくりとテーブルへカップを置き、深くため息をついた。
「それは、難儀じゃな。」
「できれば回避したく。」
老師は、長年国に仕えてきたが、それでも一般市民の域を出ない身の上。
出身も少し裕福な家庭ではあれどただの町人だった。
だからこそ、出自の近いリリスを何くれと面倒見てくれたという一面もある。
そんな二人はそろって同じことを思うのだ。
こんな一般人がパレード等恐れ多い。見てる側で十分。むしろ、パレードの間閑散とした出店で遠くの歓声を聞きながら肉の串焼きでもゆっくりと味わっている方が楽しい。と…
リリスに比べれば老師は人好きのする社交的な好々爺である。
だが、その本質はリリスとよく似たものである。
塔にいる魔導士など、所詮は研究者。
互いに瞳を見つめあい、頭の中で最善策をと模索する。
その根幹に渦巻くのは、パレードは嫌だ。という気持ち一つ。
「…そういえば…」
無言の時間がしばし過ぎ去り、入れられたお茶が冷めきる頃、老師はポンと手を叩いた。
リリスが、何か手が?と視線を投げかける先で、老師はにこりと笑って告げる。
「大事な前準備が必要であった。リリスよ、まずは婚約を正式に交わして来なさい。」
「婚約を?」
「王妃様は実際に動かぬ者の話はお聞きにはならない方だ。まずは婚約を正式に行い、結婚についてはまだ心の準備ができないと、きちんとリリスから話すのがよいだろう。」
目に見えてリリスは動揺した。
実家に長らく帰っていない事への動揺と、王妃様に直接自分が話さなければならないという動揺。
後者の比率が高すぎる状況ではあるが。
「殿下の言葉では鼻で笑われておしまいになるだろうが、リリスの言葉であれば考える余地を持っていただけるはずだ。」
「私のようなただの魔導士がそんな…」
「あの方はかわいい子がお好きだ。話す前にきちんと殿下と相談をしていけば大丈夫だろう。」
力強く頷く老師と、結局大変なことに変わりないリリス。
呆然とリリスが座りこむ中、老師ははーやれやれ。肩の荷が下りた。と、冷たくなったお茶をすすった。
「まずは殿下を通じて陛下に婚約の旨を伝えて頂き、お前は実家に向かいなさい。」
それは、絶対厳守の命令の様にリリスには思えたのだった。