(1)旅人
(視点:由良)
街を出るのは、いつも夜だった。
人の少ない時間を選んで、
荷物をまとめる。
必要なものは、多くない。
少しの食料。
替えの服。
古びた地図。
そして――
身分を示すものは、何も持たない。
「……」
由良は、最後に一度だけ街を振り返った。
何かを置いてきたわけではない。
誰かと別れるわけでもない。
それでも。
ひとつの場所に長く留まることは、
もうできなかった。
理由は、分かっている。
「……また、来るか」
遠くから、そんな声が聞こえた。
由良は振り返らない。
ただ、片手を軽く上げる。
それだけで十分だった。
旅人。
そう名乗るようになってから、
もう随分と経つ。
どこかの街に長く滞在することもなく、
いくつもの国を渡り歩く。
宿を借り、
仕事を受け、
必要な分だけ金を稼ぐ。
そして――
気配を感じれば、また移動する。
「……」
夜の街道を歩く。
月明かりが、
遠くまで伸びた道を淡く照らしていた。
静かな夜だった。
だからこそ、
周囲の気配がよく分かる。
鳥の鳴き声。
風に揺れる木々。
遠くの獣の気配。
そして。
「……」
ほんの僅かな、
異質な気配。
由良の足が止まる。
振り返る。
誰もいない。
それでも、
感じる。
――また、来た。
「……」
あの存在について、
由良が知っていることは多くない。
名前すら、
本当にそれが名前なのかは分からない。
ただ。
何度も現れる。
そして、
自分を追ってくる。
理由も、
目的も分からない。
ただ一つだけ。
――自分を排除しようとしている。
それだけは、
何度も繰り返されることで分かっていた。
「……しつこいな」
小さく呟く。
戦えば、
勝てる可能性はある。
由良には、
それだけの力がある。
特に――
自分の中に宿る神聖力。
この力が、
何らかの関係を持っているのではないか。
そう考えたことは、
何度もあった。
けれど、
確かめる術はない。
だから。
戦う必要もない。
勝つために、
わざわざ正面から向き合う理由もない。
逃げればいい。
それが、
今の由良にとって一番簡単な方法だった。
由良は再び歩き出す。
夜の街道を、
ひとりで進む。
しばらくすると、
森を抜けた先に小さな町が見えてきた。
明かりがある。
人の気配がある。
「……」
少しだけ、
歩く速度を緩める。
こうして知らない場所へ行くことは、
嫌いではなかった。
知らない街。
知らない文化。
知らない魔法。
知らない人々。
自分が生まれ育った場所だけでは、
知ることのできなかったものが、
世界にはいくらでもある。
「……広いな」
ぽつりと呟く。
それは、
旅を始めてから何度も思ったことだった。
世界は広い。
そして。
自分の中にある力について、
由良は詳しいことを知らなかった。
神聖力。
それが、自分の家系に受け継がれてきたものなのか。
それとも――
自分だけに宿ったものなのか。
幼い頃から使えていた。
だから、それが特別なものだという感覚も、
それほど強くはなかった。
ただ。
時折、思うことはある。
なぜ、自分にはこれほど強い力があるのか。
何のために、
この力が自分に与えられたのか。
答えは、まだない。
けれど。
今すぐ、それを知る必要があるとも思っていなかった。
旅をしていれば、
知らないものに出会う。
知らない土地があり、
知らない人がいて、
自分の知らない力や魔法もある。
そういうものを見ていくうちに、
いつか何か分かることもあるのだろう。
――それくらいでいい。
今はただ、
知らない世界を見てみたかった。
それだけだった。
「……」
町へ入る。
夜遅くでも、
酒場にはまだ人が残っている。
笑い声。
食器の音。
誰かが歌っている声。
由良は、
その前を静かに通り過ぎる。
そのまま、
安い宿を探す。
旅人として生きるなら、
目立たない方がいい。
余計なことは話さない。
自分の力についても、
語らない。
そして――
あの気配を感じたら、
また別の場所へ行く。
それでいい。
「……」
宿の扉を開ける。
受付の男が、
眠そうに顔を上げた。
「一人か?」
「ああ」
「何泊?」
「……分からない」
男が少しだけ眉を上げる。
「珍しい客だな」
由良は答えない。
ただ、
宿代を置く。
「まあいい。空いてる部屋は二階だ」
「ありがとう」
鍵を受け取る。
階段を上がる。
部屋に入り、
窓を開ける。
冷たい風が入ってくる。
由良は窓辺に立ち、
夜の街を見下ろした。
知らない街。
知らない景色。
それなのに、
どこか落ち着く。
「……」
この世界には、
まだ知らない場所がある。
まだ見ていない景色がある。
まだ知らない人がいる。
それを思うと、
ほんの少しだけ――
旅を続けることが楽しみに思えた。
「……もう少し、見て回るか」
誰に聞かせるでもなく、
呟く。
あの存在から逃げるため。
それも確かに、
旅を続ける理由だった。
けれど。
それだけではない。
世界を知りたい。
自分の力を知りたい。
そして。
まだ知らない何かを、
見つけたい。
それだけで、
歩き続ける理由には十分だった。
由良は窓を閉める。
そして、
静かに灯りを消した。
この時の由良は、
まだ知らない。
この先で出会う二人が――
自分の長い旅の中で、
決して忘れることのできない存在になることを。
まだ。
何も知らなかった。




