(3)交錯
(視点:由良)
静寂。
誰も動かない。
黒い裂け目の前。
青年は一歩だけ前へ踏み出した。
その足が床へ触れた瞬間、研究室の空気が静かに震える。
由良は少女を背中へ庇う。
「下がっていろ。」
少女は小さく息を呑みながら、一歩だけ後ろへ下がった。
ベラトリスもまた、少女の隣へ移動する。
「……来るわ。」
千年前と変わらない。
いや。
変わっていないのは、目の前の青年だけだった。
あの頃の自分は、ただ追われることしかできなかった。
逃げ続け、生き延びることだけを考えていた。
だが、今は違う。
守るべきものがある。
だから。もう、一歩も退かない。
由良は静かに青年を見据える。
千年以上前。 幾度となく命を狙われた相手。
忘れようとして忘れられる存在ではなかった。
青年は由良を見つめる。
感情はない。
敵意もない。
ただ、観測するような眼差しだけが向けられている。
「状態確認。」
淡々とした声が響く。
「吸血因子、活性化。」
「神聖因子、潜行。」
「状態変化、確認。」
わずかな沈黙。
「……記録更新。」
由良は静かに腰へ手を添えた。
「更新などさせるつもりはない。」
その声と同時に、身体の奥で魔力が巡る。
穏やかな蜂蜜色の瞳が、静かに揺らぐ。
蜂蜜色はゆっくりと赤へ染まり、神聖力の気配は静かにその奥へと沈んでいく。
相反する二つの力。
同時に世界へ現れることはない。
だが、そのどちらも確かに由良の中に存在していた。
少女が完成させた術式は、本来なら両立しないはずの二つの力を、一つの存在として繋ぎ止めていた。
次の瞬間。
由良の瞳は、理永を守ると誓ったあの日と同じ、吸血鬼の赤へと染まっていた。
青年はその変化を見つめる。
「状態変化を確認。」
「予測との差異を記録。」
「記録を更新する。」
その声音はどこまでも平坦だった。
由良は低く息を吐く。
「……やはり、お前は変わらない。」
千年前と同じ。
感情を読み取ることのできない瞳。
何を考えているのか分からない。
それでも由良は知っていた。
目の前の青年は、千年前と何一つ変わっていない。
青年は答えない。
ただ、一歩。
由良へ向かって歩みを進める。
その瞬間だった。
由良の姿が掻き消える。
一瞬の踏み込み。
赤い残光だけを残し、青年の眼前へ迫る。
鋭く振るわれた拳。
だが。
青年は避けなかった。
受け止めることもしない。
拳が届く、その寸前。
空間そのものがわずかに揺らぎ、由良の拳は青年の目前で静かに止まった。
まるで世界が、「そこから先」を許さなかったかのように。
由良の瞳が僅かに見開かれる。
「……っ。」
青年はその拳を見つめる。
「過去の観測結果と一致。」
「速度を確認。」
「威力を確認。」
「反応を記録。」
「観測完了。」
その一言だけを残し、静かに由良を見据え続けた。
研究室には再び、重い静寂が降り積もる。
けれど、その静寂は先ほどまでのものとは違っていた。
観測者と、千年を生きた吸血鬼。
千年越しの再会は、静かに新たな運命の歯車を動かし始めていた。




