(5)面影
(視点︰ベラトリス)
午後の柔らかな陽射しが、灰の塔の窓から静かに差し込んでいた。
ベラトリスは二階の回廊から、一階の研究室を見下ろす。
机を挟んで向かい合う二人。
少女は資料へ目を落とし、羽根ペンをゆっくりと走らせている。
由良は少し離れた椅子へ腰掛け、静かに本を読んでいた。
互いに話すことは少ない。
けれど、その沈黙は不思議なほど自然だった。
紙をめくる音。
羽根ペンが紙を擦る音。
窓から吹き込む風。
その静けさを、誰も壊そうとはしない。
少女がふと考え込む。
羽根ペンの先を軽く唇へ当て、視線だけを窓の外へ向ける。
その姿に、ベラトリスは思わず目を細めた。
「……。」
胸の奥で、小さく何かが揺れる。
遠い昔。
同じように資料を前にして考え込む少女がいた。
答えに迷えば、一度だけ空を見上げる癖。
そして、何事もなかったように机へ戻ってくる。
「……理永。」
懐かしい名前が、心に浮かぶ。
だがベラトリスは静かに首を振った。
「違うわね。」
目の前にいる少女は理永ではない。
話し方も違う。
考え方も少し違う。
研究への進め方も違う。
同じ資料を読んでも、少女は理永とは別の答えへ辿り着く。
だからこそ、この子はこの子なのだ。
それでも。
時折、どうしようもなく面影を感じてしまう。
「不思議なものね……。」
小さく呟く。
その声は誰にも届かない。
視線を由良へ移す。
由良は本を閉じると、少女の机へ近づいた。
机の端から資料が滑り落ちそうになっている。
何も言わず、その束をそっと支える。
少女が顔を上げる。
「あ、ありがとうございます。」
「気にするな。」
短いやり取り。
それだけで由良は元の場所へ戻っていく。
ベラトリスは、その光景を静かに見つめていた。
昔も、由良はそうだった。
誰かに見せるためではなく。
褒められるためでもなく。
困っている人がいれば、ごく自然に手を貸していた。
それは理永に対しても変わらなかった。
そして今も、変わらない。
「……あなたは、本当に変わらないのね。」
その言葉に苦さはなかった。
かつては違った。
由良の隣に立つ理永を見るたび、胸が締めつけられた。
叶わなかった想いを抱え、自分だけが少し後ろへ下がることもあった。
あの頃は、それが苦しかった。
けれど長い年月は、少しずつ心を癒してくれた。
理永を失ったあとも、由良はしばらく小屋の近くに姿を見せていた。
ベラトリスは研究者として、その変化を静かに観測し続けた。
魔性は少しずつ薄れ、その表情から激しい苦しみが消えていくのを、確かに見届けている。
——そして、ある日。
由良は何も告げることなく姿を消した。
それから長い年月が流れた。
だから今、再び灰の塔で穏やかに過ごす由良の姿を見ても、不思議ではなかった。
「……あなたは、ようやく帰ってきたのね。」
ベラトリスは胸の内でそっと呟く。
あの日、胸を締めつけていた痛みも。
理永を失った悲しみも。
叶わなかった想いも。
長い年月の中で、少しずつ静かな思い出へと変わっていた。
今はもう、胸は痛まない。
ただ、懐かしいだけだ。
そして少しだけ、嬉しい。
由良がこうして穏やかに誰かの隣にいられることが。
少女は再び研究へ戻る。
由良も何も言わず、自分の本を開く。
言葉は少ない。
けれど互いの存在を当たり前のように受け入れている空気が、そこにはあった。
ベラトリスは観測帳を開く。
羽根ペンを取り、静かに書き記す。
『由良の行動に変化は見られない。』
少しだけ考え、続きを書く。
『少女は由良を自然に頼り、由良もまた自然に応じている。両者の関係は極めて安定している。』
筆が止まる。
再び少女を見る。
理永ではない。
そう結論は変わらない。
それでも、親友を思い出してしまう瞬間がある。
その理由だけは、まだ分からなかった。
ベラトリスは観測帳を閉じ、小さく微笑む。
「似ているのではなく……。」
静かな声が、誰にも聞こえないまま風へ溶ける。
「きっと、大切なものを選ぶ心が同じなのね。」
回廊を風が吹き抜ける。
塔の奥では、金色の炎が穏やかに揺れていた。
何も語らず。
ただ静かに、その光景を見守るように。




