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32 俺の行くところ、ランの影あり

 たちまち人けのなくなったパドックの前に残された。

 ランはフェンスに背をもたれて微笑んでいる。

 返し馬のメロディーが流れてきた。


 誰も知らない秘密がある。

 この娘のおかげでとんでもないことに巻き込まれたことは、まだ記憶に新しい。

 もうとやかく言うつもりはない。

 むしろ、その結果によって実現したことがある。これには感謝している。


 ただ、ジンが、変に気をまわしてくれることには、いささかうんざりもしている。

 うんざりもしつつ、少しうれしかったり。

 常に胸騒ぎ。

 妙な気分だ。



 ランがまたにこりと笑った。

 最近、昔のランに戻ったかのようだ。

 極端に言葉数が少なかった大学二年生の頃に。

 そう。言葉を覚える前のランに。


 仕事が忙しいのだろう。

 人間の姿をとることも最近は少ないのかもしれない。

 だから、言葉もなかなか出てこないのかも。


 ここで突っ立っていても仕方がない。

 馬券も買わねば。



「じゃ、行こうか」

 スタンドに向かおうとした。


 が、ランの思いは違ったようだ。

 パドックの奥を指さす。

 なるほど、思い出のあそこか。

 ランとの思い出、ハルニナとの思い出、メイメイとの思い出の場所。


 では、そうしよう。

 馬券はスマホで買うことにして。


「ラン。馬券は?」

「もう、買ったよ。パドック見てるときに」



 パドックの電光掲示板の裏、木々が育ち、もはや樹林帯を形成している。

 昨年もあったベンチが一つ。

 ランはさっさと座り、ここに、というように座面をパンと叩いた。


 はいはい。

 仰せのとおり。




「ミリッサ、水曜日、会ったよ」

 と、ランの第一声。

「俺と? へえ、どこで?」

 水曜日と言えば、上町ペンタゴンに行って、自殺現場に立ち会った日だ。


「天王寺区の、なんていうのか知らないけど、森みたいなところ」

「ん?」


 会った覚えはない。

 が、すぐに気づいた。


「あ、あれ、ランだったのか」

「あれって?」

「獣が二匹、走った。でかいのと小さいのと」

「そうそう、それ」

「やっぱり」

「何が、やっぱりなん?」


 ランの大阪弁。

 一度は板についたと思ったが、最近はどうも怪しい。

 言葉遣いが揺れる。


「俺の行くところ、ランの影あり」

「ハハ。それ、本気で言ってる?」

「あながち間違ってないだろ。そんな経験を何度もした」

「そうかあ。まあ、うれしい、と言っておこうかな」


 ゆっくり話し込んでいる時間はない。

 話しながら馬券は買ったが、ファンファーレが近い。


「今日は、ずっといるのか?」

 それなら、話す時間はたっぷりある。

 ジンらが、二人きりにさせてくれれば、だが。


 しかし、ランは首を横に振った。

「おれて、せいぜい三レースまでかな」


 そうか。

 残念ではあるが、自分の方からしたい話はない。

 新入生の様子も見ておかなければいけない。

 顧問の仕事だ。

 新入生を放っておけば、ガリにびしりと言われてしまうかもしれない。

 先生、顧問の役割、きちんとご存じ? とか。


 ランからは話があるのだろうか。

 あそこで何をしていた、と聞いてやれば喜ぶだろうか。


 が、もう時間はない。

 歩きながら話そう。




 スタンドに向かいながらの短い会話。

 ランの話はいつもながら、少々、要領の得ない話だった。


 あそこはね、とても重要な場所。

 太古の昔より守られてきた聖地。

 鎮めの社なのよ。

 でも、最近になって、その力が弱まってるみたいで。

 あ、最近って言っても、ここ数十年ね。

 特にここ数年、急速に。

 で、私たちも、何とかしなくては、てなって。

 お館様が、見て来いって。


「それで、私とマカミで時々見に行ってる」


 そしたら、なんて偶然。

 ミリッサがいた。ヨウドウ先生もジンやアイボリーも。

 声かけようかなって思ったけど、マカミと一緒やし。

 それに、知らない人もいたし。

 ミリッサに、ややこしいやつが来たって思われたくないし。


「続きはあとで聞くよ」

 スタンドの大時計はすでにファンファーレの時刻を指している。

「急ごう」

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