大晦日
「カリサさん、それでは良いお年を」
「はいよ、イネスも良い年を迎えておくれ」
住み込みを始めた薬屋から、新年を家族と一緒に迎えるために実家へ戻るイネスを見送りながら、カリサはふーっと大きく息を吐いた。
息が真っ白になるのは、昨夜から降り始めた雪のせいだろう。
薬屋の裏口から見える風景は、どこも降り積もった雪で白く染まっている。
「今年は雪が多くなりそうだねぇ……これじゃあ春まで馬車は来そうもないね」
遠い昔、子供の頃なら喜んで走り回ったであろう雪も、今のカリサには気分を重たくさせる存在でしかない。
雪が降り積もるとイブーロの街との往来を支える駅馬車の運行が止まる。
ここアツーカ村には、人も荷物も届かなくなってしまうからだ。
はぁ……っと、もう一度大きな溜息をつくと、カリサは扉を閉めて居間に戻り、暖炉の前の椅子に腰を下ろした。
扉を閉めてしまうと、雪が降っているからか、部屋はシーンと静まり返っている。
この数か月は薬師の見習いとしてイネスが住み込んでいたので、家の中はいつも賑やかだったが、今日は火が消えたみたいだ。
「落ち着きが無いのが玉に瑕だけど、イネスがいると賑やかだったからねぇ……」
カリサはテーブルに置かれていたカップを手にして、冷えてしまったお茶で喉を湿らせると、厚みのある封筒を手に取った。
もう何度も何度も読み返しているニャンゴからの手紙だ。
手紙と一緒に同封されていたニャンゴの写真を目にすると、カリサの口許には穏やかな笑みが浮かんだ。
「本当に、今にも喋り出しそうだねぇ」
毛並みも温もりも感じられないが、それでもカリサはそっと写真を撫でる。
「今頃、何をしてるんだろうね。みんなと年越しパーティーの準備でもしているのかねぇ」
イネスが住み込むようになってから、薬屋は本当に賑やかになった。
カリサから見ると集中力が乏しいと感じるが、イネスは嫌味がなく本音でぶつかってくるから気分が良い。
カリサのもう一人の弟子キンブルは、イネスとは対照的に寡黙だ。
自分から話を切り出すのが苦手のようだが、集中力が長く続き、黙々と作業をこなす。
「二人を足して二で割れば丁度良いのだろうけど、人はそんなに簡単じゃないからねぇ」
カリサは、ニャンゴが発掘に関わる大勢の人に囲まれている写真に目を落とし、血の繋がらない孫が人々の信頼を得ているのだと実感し、また笑みを浮かべた。
だが、今度の笑みには寂しさが含まれているようだった。
ニャンゴがアツーカ村にいた頃は、大晦日には一緒に年越しの準備をしていた。
今年は既にキンブルやイネスが手伝って掃除も終わっているし、正月の間に食べるものもあちこちから送られてきた。
村長の家からだとゼオルが塩漬け肉やチーズを抱えてきたかと思えば、イネスの両親からは野菜や芋、キンブルの家からは蜂蜜が送られてきた。
一人で食べるには十分すぎる量だし、正月の支度もやってもらって大いに助かったのだが、カリサはニャンゴと二人で慌ただしくしていた年の瀬を懐かしく思っていた。
大晦日は日が暮れるギリギリまでいてくれたし、年が明けると一番に顔を見せてくれたニャンゴはいない。
家の中では、薪がはぜる音しか聞こえない。
「どうれ、そろそろ薪を足さないとだね……」
冬を越すための薪も、ゼオルとキンブルが用意してくれた。
正月の間に使う分は、家の中に積んである。
太い丸太を斧で割り、乾燥させてあるから良く燃えるし、生木を燃やすような煙も出ない。
カリサは、丸太を割って作った薪の下敷きになっている薪を見つけて目を細めた。
これは、斧や鉈を振り回せなかった頃の非力なニャンゴが、山に入って拾い集めてきた薪だ。
ゴブリンやコボルトと遭遇したら危ないからとカリサが止めても、毎日のように薪を担いできてくれたのだ。
「あたしが大丈夫だって言っても聞きやしない。まったく頑固で、本当に優しい子だよ……あぁ、会いたいねぇ……旧王都は遠すぎるよ」
カリサは暖炉に薪をくべ、火にかけていた鉄瓶からカップにお湯を注いで喉を潤すと、また椅子に腰を下ろして写真を手に取った。
家の外では風がでてきたのか、時折窓がガタガタと音を立てている。
遠くで昼を知らせる鐘の音がしたが、カリサは食事の支度をするつもりは無いようだ。
イネスがいれば食事を作る張り合いもあるが、一人だと思うと酷く億劫に感じるのだ。
「この獅子人の娘は、随分と仲が良さそうに見えるけど……この娘がニャンゴのお目当てなのかねぇ……あたしは、てっきりシューレとくっつくものだと思ってたんだけどねぇ……」
アツーカ村にも連れて来たシューレをニャンゴはパーティーの仲間だと言っていたが、カリサは密かに二人が結ばれるものだと思っていた。
ところが、送られてきた写真では、レイラの方が親密そうに写っている。
「そういえば、酒場の女給さんやギルドの受付嬢とも仲良くしているってシューレが言ってたねぇ……まさか旧王都でも新しい娘と仲良くなったのかね」
ニャンゴの女性関係に目を向けると、カリサの表情が厳しくなった。
「今度帰って来た時には、少し釘を刺してやらないといけないね」
カリサはニャンゴの女癖に憤慨しつつも、どことなく楽しそうだ。
イカ耳になりつつ、しどろもどろの言い訳をするニャンゴを見るのも、ちょっとだけ楽しみだったりするのだ。
「ニャンゴが村を出た時には、あたしの役目も終わったと思ったけど、今はイネスとキンブルを一人前にしなきゃいけないし、ニャンゴの嫁や子供も見てみたいから、もうちょっと長生きしなきゃいけないね」
小腹が空いたと感じたカリサは、村長から貰った焼き菓子を皿に出し、お茶を淹れるためにポットを携えて店に出た。
少し考えた後で、店の棚の引き出しから目分量で薬草をポットに入れる。
長年薬師を続けてきたカリサは、その日の気分でハーブティーをブレンドして楽しんでいる。
今日は体を暖める効果がある薬草を少し多めに入れた。
部屋に戻ったカリサは、お茶を淹れて焼き菓子を少し口にすると、また写真の束を手に取った。
「本当に、今にも喋りだしそうだよ」
カリサは皺だらけになった手で、愛おしそうに写真を撫でる。
「婆ちゃん、ただいま」
突然ニャンゴの声が聞えた気がして、カリサはビクっと写真を撫でる手を止め小さく首を振った。
「はぁぁ…………嫌だねぇ、年は取りたくないもんだ。とうとうニャンゴの空耳が聞こえるようになっちまったよ」
カリサは肩を落として大きな溜息を漏らした。
「婆ちゃん、開けて。いないの……?」
「えっ……?」
「婆ちゃん、ただいま! 婆ちゃん、いないの?」
声だけでなく、裏口の戸をほとほとと叩く音が聞こえてきた。
フラリと立ち上がったカリサは、それでも夢を見ているのではないかと思いつつ裏口に足を向けた。
「ニャンゴなのかい?」
「婆ちゃん! ただいま!」
「ニャンゴ!」
カリサが急いで裏口の戸を開けると、リュックを背負って荷物を抱えたニャンゴが立っていた。
家の外は、いつの間にか横殴りの雪が降りしきる吹雪になっている。
「はぁぁ、良かった。途中から雪が強くなってさ、帰って来られないかと思った」
「あぁ……ニャンゴ、ホントにニャンゴなんだね」
「いやだなぁ、婆ちゃん。俺は一人しかいないよ」
「こんな雪の中をどうやって戻って来たんだい」
「ん―……魔法とかアーティファクトとか、使えるものは総動員してきたよ。なかなか前が見えなくなっちゃって大変だったよ」
「馬鹿だねぇ、こんな雪の日に無理して帰ってこなくたっていいじゃないか」
「だって、途中で何度も足止めくらっちゃって、早く婆ちゃんに会いたかったんだもん」
「まったく、この子は……実家には寄ってきたんだろうね?」
「いや、この雪だから明日でもいいよ」
「まったく……この子は……」
呆れたように言いつつも、カリサはぎゅっとニャンゴを抱きしめた。
ニャンゴも目を細めて、鼻をヒクヒクとさせている。
「おかえり、ニャンゴ」
「ただいま、婆ちゃん」
カリサが抱擁を解くと、ニャンゴは明かりの魔道具や温風の魔道具を空属性魔法で作って部屋を照らし暖めると、荷物を解きながら土産話を語り始めた。
ダンジョンの話、自分の偽者が現れた話、元反貴族派の猫人の話、王族や大公、元騎士団長の話。
一緒に夕食を作り、食べ、少しだけお酒を酌み交わし、笑顔を浮かべ、時にイカ耳で肩を竦め、二人は時が経つのも忘れて語り合った。
外は吹雪が続いていたが、薬屋の中は温かな時間が流れていた。





