第九話(月明かりのなかで)
やがて3月の終わりが来て、アズミは20歳になった。
真昼の午後、ケーキに20本のろうそくを立てて、ぼくはアズミにCDをプレゼントした。
僕がいま、練習しているエリック・クラプトンの曲だ。
「わぁ、ありがとー」
アズミはさっそくそれを聴いた。彼女は嬉しそうに、「今度、亮平バージョンも聴かせてね」と言った。
「ところでわたし、タバコ臭くない?まえから、少しずつ吸ってるのよ」
「ぼくも吸うから臭わないけど」
「もう20歳だもんね。これで親にも堂々と言い訳できるわ」
ぼくには、タバコなんてどうでもよかった。ぼくはふいに、彼女を引き寄せてキスした。
彼女はかなりびっくりしたようだった。
「臭ってない、臭ってない」
「…って、あーー!!なによ、いまのちょっと?!」
「あはははは」
彼女が焦って紅茶をこぼしているところへ、さらにぼくは追撃を加えた。
「だから、ぼくはライオンだって言ったろ」
「”もし”がついてたでしょ、あのときは」
「つまり、可能性があるってことでしょ、もしもし、おねえさん?」
本気でアズミが、おろおろし始めたので、ぼくはこのへんでやめておこうと思った。
そのとき、ぼくのケータイが鳴った。なんだ、せっかくのいい昼下がりに。
ぼくは、大げさにちっと口に出して、「もしもーし」と電話に応答した。それは、《ギター大好き!!の集まり》の常連ケンタからだった。
「あ、亮平さん?ちょっといいですか?大事な話なんだけど」
「大事な話?」
「じつは、落ち着いてくださいね…、…あの…サヤさん、お亡くなりになったんです」
「えぇえーーー?!」
ぼくが大きな声で答えたので、アズミが振り向いた。彼女は目ざとく、ぼくの表情を見てしまった。
「おとといの晩、睡眠薬を大量に飲んで。眠っている間に吐いたものが気管支から肺に入って、それで肺炎起こしたらしいです。そういう死に方ってあるんですね」
さらにケンタが続ける。
「コージさん、ミルクと浮気してたらしいですよ…」
電話を切ったあとでも信じられなかった。あんなに、元気だった人が死んでしまうなんて。こんなに簡単に。
呆然とするぼくを、アズミが見逃すはずがなかった。
「なに?なんの電話だったの?!」
ぼくは、説明しないわけにいかなかった。だが、そのタイミングを誤ったかも知れない。
アズミのショックは予想以上だった。
「うそ…!サヤさん、いつかオフ会で会おうねって約束したのに…!」
「落ち着け、アズミ」
「コージさん、どうして?!ひどい!!…駄目、辛い、わたしも飲んでしまう」
「やめろ、アズミ!」
あっと言う間に、彼女はバッグを開け、自分のピルケースの中身をざらざらっと飲み込んでしまった。
◇◇◇
いったい、どんな薬が何錠入っていたかもわからなかった。
ぼくは急いで、アズミを洗面台に連れて行き、口のなかに指を突っ込んだ。
ゲホゲホと咳き込みながら、彼女は胃の中のものを吐き出していた。20歳のケーキの残骸が流れていく。
「亮平、くるしい。やめて」
「だめだ」
もういいだろうというところまで、ぼくは徹底的にやった。万が一でも、彼女になにかが起こって欲しくなかった。
ぼくはもう、アズミなしでは生きていけない。そのことを、何度も何度もあたまのなかで反芻していた。
「げほっっ…げほっ…」
アズミの目から、涙が浮かぶ。
「よし、これで全部出たな」
ぼくは、アズミを抱きかかえて、部屋へ戻った。
「おい、大丈夫か」
「………」
「アズミ?」
しばらく様子を見ていると、アズミは涙ぐんだまま、ぐったりと眠りについてしまった。ぼくも少し疲れを感じて、シャツをゆるめてそのままアズミのそばで横になった。
――ふと気がつくと、真夜中だった。
月明かりのなか、ぼくの目のまえに、アズミのうるんだ瞳があった。
「大丈夫か、アズミ」
「うん…ごめん、亮平……」
どちらからともなく、ぼくらは身体を寄せ合った。アズミの目から、再び涙がこぼれた。
「あんなにいい人だったサヤさんが、死んじゃうんだもん…」
ぼくは、彼女の背中をなだめるようにさすった。
「悪いことをしているわたしたちは、きっと地獄に堕ちるよね…」
ぼくは、ぼくらは、死の恐怖から逃れるかのように、しっかりと抱きしめ合った。
部屋の外には、蕾をつけた桜の木があった。
震えるアズミをあたためるために、ぼくはていねいに蕾をひらくように、彼女をほどいていった。
「亮平」とアズミがつぶやく。
ぼくは、彼女の唇に優しく口づける。
蕾のなかには、白く染まったアズミの肌が、小さくひろがっていた。
ぼくの大きな胸をそこに重ねると、ふたりの鼓動がどくんと共鳴した。
大丈夫、ぼくらは生きている。なにも心配することはないよ、アズミ。
このままふたりで死んでしまっても、地獄へ堕ちたりなんかしない。