第八話(二人ぼっちの夜)
アズミが発案した緊急電話は、意外と早く使われることになった。
アズミが、父親に殴られて怪我をしたのだ。
――それは大雨の晩のことだった。
アズミは濡れた髪で、ぼくの部屋に逃げてきた。寒さでブルブル震えている。
ぼくは彼女に、転がっていたタオルと毛布をかけて、冷蔵庫にあった牛乳をマグカップに入れて温めて出してやった。
「薬のシートが部屋に残ってて、それが見つかっちゃったの。いろいろ聞かれて、返事をしなかったら、お父さんがいきなり…」
彼女の切れた額には、すでに治療ずみだった。ここへ来たのは、病院から家に戻ったあとだと言う。
「家に帰ったと思ったら、今度はお母さんがお父さんとケンカ始めて。例の女の人のことよ。二人とも、わたしのことなんか見てないの」
「ひどい目にあっちゃったね…」
「もう、わたし、あの家にいるの、イヤ」
アズミの言うことは、じゅうぶん理解できた。ぼくは、このままアズミを家に帰していいものかどうか迷った。
「とにかく、少し落ち着いて。アズミ」
「落ち着くもなにも、無理よ!」
アズミは声をあげて泣いた。ぼくは、彼女の背中をさすってやった。かわいそうに。…なんてことだ。ぼくは、自分のこころまでが痛んだ。
「アズミ、泊まっていくか?」
「……………」
「せめて、落ち着くまでここにいなよ。家にはなんとか言って」
「…………っ…」
「できる?」
「………んっ…」
「わかった。じゃ、電話して」
アズミは、しゃくりあげながらも、自分のバッグからケータイを取り出し、「今晩、優花のところに泊まるから」と言った。
「泊まりでいいの?」
「…っうん…」
「おっけ。じゃ、リラックスして」
ぼくが彼女の肩をぽんぽんとやると、アズミはうんうんとうなずいた。
「大丈夫?」
「…うん。ごめん」
「ごめんなんていいから。ぼくら、助け合う仲だろ?」
「そうだね」
アズミが少し笑った。
「ぼくが、アズミを見守ってるから」
「ありがと」
「ぼく、アズミが笑ってる顔が好きだよ」
「うん」
「アズミが苦しいと、ぼくも苦しい」
部屋の外は、まだ大雨だった。ぼくは、アズミをぎゅっと抱きしめた。彼女の身体は、まだ少し冷えていた。
「アズミ、寒くない?」
「少し」
「布団に入れよ、アズミ」
「うん。亮平、ありがと」
アズミは、敷きっぱなしの布団の中に、そろりともぐり込んでいった。
「…亮平の匂いがする」
「そっか」
とぼくはアズミに微笑んだ。彼女のしぐさのすべてが、いとおしかった。
「亮平、こっちに来て」とアズミが手を差しのべる。
ぼくは、どうしようかと迷ってから、彼女の布団の横にすべり込んだ。
「…雨、まだ降ってるね」
「今晩はやまないだろ」
「わたし、亮平のことが好き」
「嬉しいね」
「亮平は?」
ぼくは、答えのかわりにアズミに言った。
「――もし、ぼくがライオンなら」
「ライオンなら?」
「たくさんの動物のなかから絶対、アズミを選んで襲う。ダッシュでがぶっと噛みつく」
「ふふっ。わたし、脚速いんだよ」
「でも、いまは弱ってる。弱っている草食動物にかぶりつくライオンは卑怯」
「そうなの?」
「そうなの。だからぼくはたとえライオンでも、いまのアズミは襲わない」
でもそう言いながら、ぼくはアズミのまぶたに、わからないようにそっと口づけていた。
「よく緊急電話してきてくれたね。ありがとう」
「だって、わたしには亮平しか」
「…ぼくら、共犯者だもんな」
ぼくは、立ち上がっていつもの睡眠薬を口にふくみ、それをアズミに与えた。
「ぼくはさっき、アズミを襲わないって言ったけど」
「うん」
「…少しだけ、嘘ついていいかな」
「…いいよ。少しだけなら…」
ぼくは、彼女の首筋にそっとキスした。
「二人でいるとあったかいな、アズミ…」
「うん…亮平…」
ぼくは、両腕をアズミの背にまわした。彼女の、ぼくの背をつかむ指の力が、睡眠薬が効くにつれ、どんどん抜けていく。
――そのままぼくらは、抱き合ったまま眠りについた。
「いつか薬なしで眠れる夜を、一緒に過ごそうね…」
降りしきる雨の音のなかで、ぼくは最後にそんな声を聞いたような気がした。




