第三話 契約の先
翌日の夜。
引き渡しと傷の処置を終えた二人は、支部から離れた沢のほとりで火を囲んでいた。
シエンの脇腹の傷は、県衛兵に同行した医師が焼いて塞いだ。肩には新しい布が巻かれている。全快には、ほど遠い。それでも、久しぶりに、追われていない夜だった。
「……変な感じ」
シエンは、火を見ながら言った。
「十一年間、ラゴウの顔も名前も知らないまま、あの夜の炎だけを追ってきた。見つけて、殺した」
薪が一本、炎の中へ崩れ落ちた。
火の粉が、細く長く立ちのぼって消える。
「復讐なんて無意味だって、誰かは言うんでしょうね」
「言う者もいるだろう」
「あなたは?」
ユエンは、少し黙った。
「……五歳の子供が、川に落とされて、それでも生きて、長い年月をかけて自分の足でここまで来た。その歩みを『無意味』と呼ぶ資格は、私にはないよ」
「……そう」
「それに、君の復讐は誰かを守った。砦の、枯柳倉の、昨日の捕虜たち。——巻き添えではなく、道連れに救った。それは、ただの復讐とは呼ばない」
シエンは、膝を抱えた。
(五歳の私。あの夜、何もできなかった私。……あなたは、間違ってなかった。ここまで来た。一人、倒した)
けれど、と思う。
(終わりじゃ、なかった。終われも、しなかった)
胸の中には、埋まらない空白と、新しい問いが同居している。
姉さんは、生きているのか。
『器』とは、何なのか。
なぜ、美姫の顔は——私にだけ、貼りついたのか。
「……怖いのよ」
ぽつりと、こぼれた。
「この顔の意味を知るのが。『真の器』が何なのかを知ったら、私は、私でいられるのかどうか」
「……」
「でも、知らないままでいるのは、もっと怖い」
シエンは、顔を上げた。
「だから、行く。姉さんを探す。この顔の意味も、突き止める。——復讐の続きじゃなくて、それが、次の理由」
火の向こうで、ユエンが小さく頷いた。
「いい理由だ」
翌朝。
旅支度を終えたところで、ユエンが言った。
「一応、確認しておこう。……契約は、どうする」
「どうする、って?」
「私の目的は銀狐だ。まだ、影も踏めていない。君の目的は、シヨウと、九影の残りと、その顔の意味。——道が重なる保証は、もうどこにもない」
「……そうね」
シエンは、荷紐を締めながら考えた。
この男は、まだ何かを隠している。顔を失った経緯も。古代の因縁も。砦を襲う前から自分を見ていた、本当の理由も。
信用したかと訊かれれば——していない。
(でも)
支部の夜。この男は、自分だけ逃げられたのに、鳥舎の前から動かなかった。
シエンを道具として使うことも、できたのに、しなかった。
「助けられるなら助ける。でも英雄になれとは言わない」——あの契約を、あの男は戦場で、そのとおりに守った。
(信用は、これから得るもの。……そう言ったのは、私だった)
「契約は、そのまま」
シエンは言った。
「目的が重なる間、情報と力を貸し合う。——それで、まだ足りてる」
「重ならなくなったら?」
「そのとき、考える」
「……ふむ」
「それに」
シエンは、外套の内側の紙——署名入りの契約書へ、軽く触れた。
「『残りの代金』を払い終わるまでは、離れられないでしょう。どうせ」
「客に逃げられない仕組みは、商売の基本だ」
「最低の面屋ね」
「よく言われる」
二人は、歩き出した。
街道は北へ延びている。
『器の候補』が送られたという、北へ。姉さんが消えた方角へ。
「次の手掛かりは、支部の記録にあった『北の移送先』。それから——」
「九影の、残る八つ」
「先は長いな」
「長くていいわ。……途中で、あなたの秘密も全部暴くから」
「それは楽しみだ」
風が、二人の外套を揺らした。
シエンは、一度だけ空を見上げる。
高いところを、鳥が北へ渡っていく。
(——燕だから、戻るの。帰る場所を、忘れないように)
姉の声が、耳の奥で蘇る。
帰る場所は、焼けてしまった。二度目の故郷も、灰になった。
(なら……見つけに行く。姉さんを。私の、帰る場所を)
前へ進んで、戻ってくるために。
糸が抜けてしまわないように。
一針進んで、半針戻る——あの縫い方のように、強く。
シエンは、平凡な女の顔の下で、そっと目を細めた。
嗤いは、しない。
けれどそれは、確かに——十一年ぶりの、笑顔に近い何かだった。
燕は、次の空へ。
二人の影が、北の街道へ遠ざかっていった。
——
とりあえず一巻分の文量として書いてみたものになります。
掲載してみて思ったのは、読まれるまでのハードルが高いですね。
とりあえず、この話はこれにて完結となります。
ここまで読んでいただきありがとうございました!




