静かな準備、うるさい仲間
久しぶりのダンジョン攻略
昼の光が、路地の奥までちゃんと届く季節になっていた。
看板の文字がくっきり見えるくらいには、空が澄んでいる。
【疲れた身体にはやっぱりこれ】
――ポーション&簡易休憩所 アトリエ・くぼ地
店の前を通る人が、看板を見てふっと笑う。
「分かる」って顔をして、ため息の重さを少し軽くしていく。
そういう反応を見るたびに、俺は心の中で小さく頷く。
今日も、棚は整っている。
ラベルの文字は読みやすく、栓は締まり、瓶底の澱も落ち着いている。
ポーション屋なんて地味な仕事だと思われがちだが、地味だからこそ、崩すと一気に信用が死ぬ。
派手に売れるより、静かに“必要とされ続ける”ほうが難しい。
カウンターの上では、クリムが毛づくろいをしていた。
ふわふわの毛玉が、器用に前足を舐めて顔を拭く。
拭いてるだけで偉い。存在が偉い。
入口ではルゥが横になっている。
番犬(正確には狼型魔物)兼、もふもふサービス担当。
客が入るたびに尻尾だけ動き、危険がないと分かればそのまま寝る。
危険があると、寝たまま片目だけ開く。
“寝ながら警戒できるやつは強い”という格言を、毎日更新してくる。
俺は売上表をつけながら、昨日の仕込みを頭の中でなぞった。
疲労回復のベース、集中補助、胃腸ケア、睡眠調整、緊張緩和、香りの類。
客が来た時に慌てないよう、最悪のケースを想定して棚を組む。
いつも通りの、いつもの準備。
……だったはずなんだが。
「や!久しぶり!」
扉がカラン、と軽く鳴って、馴染みの声が店に飛び込んできた。
声だけで分かる。人の懐に入るのが上手いタイプ。
そのくせ、肝心なところで急に命を賭ける。
「ガイルか」
顔を上げると、ガイルが笑っていた。
昔から、笑ってる時ほど危ない仕事を抱えてくる男だ。
鎧は軽装。剣はよく手入れされている。
肩の力は抜けているのに、目の奥だけが妙に澄んでいる。
“見つけた”目だ。
クリムが「きゅ」と鳴いて、ガイルを見上げた。
ルゥは寝たまま片目を開け、すぐ閉じた。
危険ではないが面倒、という判断だ。賢い。
「最近、新しいダンジョンが見つかった。一緒に行くか?」
……ほら来た。
俺はペンを置いて、ため息の代わりに言葉を吐いた。
「俺、今なに屋だと思ってる」
「ポーション屋」
「そうだ」
「でも元は錬金術師で、元・ダンジョン常駐者だろ?」
「“元”が多すぎる」
ガイルは肩をすくめ、カウンターに肘をついた。
そして少しだけ声を落とす。
こういう時、こいつの本題は大体“危険と魅力が同居した話”だ。
「……あの草原階層に似てるんだ」
俺の指が止まった。
青空、草原、湖、森。
四季がぐるぐる巡って、魔物の死骸が光になって消える。
そして、ポーションで治療した魔物が懐く。
クリムとルゥがうちの拠点の住人になった、あの階層。
「転送あり。環境が安定してる。
魔物の挙動が……妙に“生活寄り”だ。
探索者の間では通称“沈黙の階層”。音が吸われるらしい」
「嫌な名前だな」
「ギルドも扱いに困ってる。危険度は低め判定。
ただ、奥に行くほど帰還率が下がる。
戻れないっていうより……戻り方が分からない、って感じだ」
俺は棚を見た。
小瓶が並んでいる。
ここにあるのは、人の生活を前に進めるための補助だ。
命を賭けるための道具じゃない。
……いや、元々は命を賭ける場で必要になって、今の形に落ちたんだったか。
「俺を誘う理由は?」
ガイルは即答しなかった。
一拍置いて、苦笑する。
「……生きて帰れそうだから」
「正直だな」
「お前がいると、無理して進まなくていい感じがする。
俺が突っ込んで、ミーナが心配して、ハイドが笑って、エドが淡々と支えて、ミスティが全部戻す。
その後ろで、お前が“地面を固める”だろ?」
“地面を固める”。
悪くない表現だ。
俺は顎でルゥを示した。
「こいつらも連れていく」
ガイルは一瞬だけ目を丸くして、すぐ笑った。
「相変わらずだな」
「俺は“帰れるダンジョン”にしか行かない主義だ」
「条件は?」
「攻略目的じゃない。調査だけ。
無理だと思ったら即引く。
あと、俺の店を空ける分、日程は短く。最長でも二泊三日」
ガイルは両手を上げた。
「了解。三日後。いつもの集合場所で」
扉が閉まる。
カラン、と鈴の音だけが残った。
店内に静けさが戻る。
戻ったはずなのに、空気が変わっていた。
静けさの質が、少しだけ硬い。
俺は棚を見渡し、いつもの仕込みの量を頭の中で増やした。
“生活用”の棚を減らすわけにはいかない。
なら、“探索用”を増やすしかない。
クリムが肩に乗って「きゅ」と鳴いた。
大丈夫、と言うみたいに。
ルゥはのそのそ起き上がり、俺の足元に鼻先を押しつけた。
行くの? と聞いている。
「……行くよ」
自分の声が、思ったより落ち着いていて、少し笑った。
⸻
翌日からの仕込みは、いつもより静かだった。
店は普通に営業している。客は来る。悩みは来る。
それでも俺の頭の隅に、三日後が居座っている。
「雨の日だるいポーション、まだあります?」
「あるある。ついでに“足先冷えに効くやつ”も持ってけ」
客が去ると、瓶の数を数える。
補充のタイミングをずらす。
仕込みの順番を入れ替える。
普段は“客のため”に優先順位を組むが、今回は違う。
“仲間が死なないため”に組む。
ダンジョンに持ち込むのは、生活を壊さない範囲の補助。
だが、補助の幅を増やす。
大事なのは“劇薬”ではなく“転ばないための敷物”だ。
・筋肉のこわばりをほどく
・呼吸を整える
・集中の波を平らにする
・出血を止める
・痛みを鈍らせる
・魔力の巡りを整える
・恐怖で判断がぶれるのを抑える
・胃の痙攣を止める
・眠気を起こす
・眠気を作る(必要なら)
・音への過剰反応を落とす
・空気の乾燥で喉が死ぬのを防ぐ
棚の奥に、一本だけ“限界用”を置いた。
使わないのが理想。
使うなら、誰かが死にかけてる時。
そういう瓶は、作るたびに気分が重くなる。
クリムは瓶を見て「きゅ……」と小さく鳴いた。
ルゥはその棚の前に座り、じっと見ていた。
分かっているのか、分かっていないのか。
でも、守る気だけは伝わってくる。
三日目。集合の朝。
店の看板に“臨時休業”の札をかけた。
手書きで、読める字で、短く。
【臨時休業:仕込みと外出】
……嘘じゃない。
扉を閉め、鍵を回す。
この音が、いつもより少しだけ重い。
集合場所はギルド近くの広場。
朝の空気は冷たく、パン屋の匂いが流れてくる。
人が動き始める前の街は、静かで、どこか誠実だ。
この時間帯の匂いは、嫌いじゃない。
「おせぇぞ、店主」
ガイルが先に来ていた。
隣にミーナ。
いつも通り、姿勢がきれいで、目が鋭い。
心配性のくせに、心配を見せない。
こういう人が一番怖い場面で強い。
「遅くない。お前が早い」
ハイドが笑いながら手を振る。
短剣を腰で鳴らし、身軽に立っている。
こいつは軽口を叩くが、軽口の裏で周りをよく見ている。
エドは無言。
無言でいるだけで安心感がある男は貴重だ。
剣の鞘の角度、足の置き方、視線の動き。
全部が“淡々と正しい”。
戦いが長引くほど、このタイプの価値が上がる。
ミスティは遅れて来た。
眠そうに目を擦っている……ように見えるが、本人曰く“目がこういう形”らしい。
ヒーラーはだいたい顔が穏やかで、言葉が柔らかい。
そのくせ、手だけは血より早く動く。
「みんな揃ったね」
ミーナが言った。
視線が俺の鞄に落ちる。
「……それ、全部ポーション?」
「全部ポーション」
「……安心感が過剰」
「過剰なくらいでちょうどいい」
ガイルが地図を広げる。
ギルドの仮登録資料らしい。
通称“沈黙の階層”。入口は新しく見つかった縦穴型の裂け目。
入ってすぐは下層の空洞、そこから横穴に繋がり、中層へ。
途中で転送陣がある。
安全地帯の表示はあるが、音が吸われるせいで“仲間の声が届かない距離”が増える。
「編成確認」
俺が言うと、ガイルが即座に頷いた。
こういうところ、こいつはTankの鑑だ。
「俺が先頭。ヘイト固定。無理に攻めない。
ミーナは中衛、支援と状況判断。
ミスティは後衛、回復最優先。
ハイドとエドは左右、雑魚処理とボス時の火力。
店主は――」
ガイルが俺を見る。
「Support。バフ全開。デバフも頼む」
「了解」
俺は鞄を開け、瓶を取り出して順に見せた。
必要なのは“安心感”の可視化だ。
見えると、人は落ち着く。
「準備。Tankリードでパーティ編成確認。バフ全開(Support)。……はい、今やった」
ハイドが吹き出した。
「お前、いちいち口に出すの面白いな」
「口に出すとズレが直せる。ズレたまま突っ込むと死ぬ」
ミスティがくすっと笑った。
「ほんとに、ポーション屋っていうより……戦場の先生みたい」
「先生は嫌だ。責任が重い」
ミーナが小声で言う。
「今さら」
……やめろ、刺さる。
俺は最初のバフを配る。
筋肉の柔軟、呼吸の安定、集中の底上げ。
どれも“強くなる”というより、“弱くなりにくくする”ためのもの。
派手な光は出ない。
出ないほうがいい。派手なものは大体、反動がある。
「飲み方はいつも通り。噛むな。舐めるな。一気に飲め」
ハイドが瓶を掲げる。
「乾杯みたいだな」
「乾杯は帰ってからだ」
エドが小さく頷く。
ガイルはすでに飲み終えている。
Tankは準備が早い。準備が早いTankは死ににくい。
ルゥが俺の足元にぴたりとつき、クリムは肩に乗った。
いつもの隊列が、自然にできる。
歩き始めると、街の音が背中に残った。
店を離れるときの、ほんの少しの胸の空洞。
でも、それを埋めるように仲間の気配が近い。
こういう時、人は“帰る場所”の重さを知る。
入口の裂け目は、街外れの岩場にあった。
風が強い。乾いている。
縦穴の縁は削れ、誰かがロープを固定した跡がある。
ギルドの調査班が最低限の整備をしたのだろう。
裂け目の中は暗く、光が吸い込まれていく。
覗くだけで喉が乾くような闇。
それでも、変な匂いはしない。血や腐臭ではなく、湿った石と冷えた土。
“まだ死が染み付いてない場所”の匂い。
ガイルが言う。
「行くぞ」
「待て」
俺は鞄の中を一度触って確認した。
限界用は奥。
即効の止血は取りやすい位置。
集中補助と疲労軽減は左右。
香りものは割れないよう布で包んだ。
――準備は、できている。
「よし。行け」
ロープを握り、降りる。
手の皮がきゅっと締まる。
この感覚、嫌いじゃない……なんて言ったら嘘になる。
怖い。
でも怖いから、準備する。
準備するから、怖さが役に立つ。
縦穴の途中、壁の苔が湿っていた。
指に冷たさが移る。
石が古い。
古い石は、人の時間を踏んだ跡がある。
それが安心にもなるし、不気味にもなる。
底に着くと、空気が変わった。
音が、薄い。
自分の呼吸が、自分の耳の中だけで鳴る。
仲間が隣にいるのに、足音が遠い。
何かが吸っている。
大気そのものが、音を飲み込んでいる。
「……これが沈黙か」
ハイドが口を動かす。
声が聞こえにくい。
音量の問題じゃない。
届き方が“歪んでる”。
俺は手で合図を作った。
指で短く。
“声が届かないなら、目で合わせる”。
ミーナがすぐ理解して同じ合図を返す。
ガイルも頷く。
エドは最初からそういう動きだ。
ミスティは少し戸惑ったが、すぐに慣れる。
こういうとき、パーティの地力が出る。
通路は石造り。
壁に苔。
床に薄い砂。
古いダンジョンの匂い。
だが、何かが違う。
空気が“居住”を拒んでいない。
ただ静かに、そこにある。
俺は小瓶を指先で転がした。
カラン、と鳴るはずが……鳴らない。
瓶が床に当たったはずなのに、音が途中で消える。
吸われる。
まるで、喉の奥に布を詰められたみたいに。
ルゥが耳をぴくりと動かし、低く唸った。
唸り声すら、薄い。
薄いのに、背筋が冷えるのはなぜだ。
「……店主」
ミーナが俺の袖を引いた。
指先が冷たい。
緊張している。
「大丈夫」
俺は短く返す。
“根拠のある大丈夫”を、ここでは配る必要がある。
「今は起だ。準備の延長。
焦る場面じゃない。
ガイル、先頭。視界確保。
ハイドとエド、左右。雑魚が出たら短く潰す。
ミスティ、俺の合図で回復。
ミーナ、全体見て」
ガイルが親指を立てる。
ミーナが小さく笑う。
その笑いが、少しだけ空気を柔らかくした。
沈黙の中で、俺たちは進む。
歩幅が揃う。
視線が交差する。
言葉が少ない分、信頼が露骨に見える。
こういう瞬間、俺は思ってしまう。
――ダンジョンは嫌いだ。
でも、こういう“人の強さが見える場”は、嫌いになりきれない。
少し進んだところで、壁に刻まれた古い紋が見えた。
転送陣の前兆だ。
この手のダンジョンは、親切に見えて油断させる。
親切の顔をした罠が一番嫌いだ。
ガイルが立ち止まり、手を上げる。
“ここで一度、止まる”。
俺はうなずいて鞄を開けた。
起は準備。
準備は、早すぎるくらいでちょうどいい。
「ここから先、沈黙が濃くなる可能性がある。
声が届かなくなったら、合図で戻る。
戻るのが恥じゃない。
戻れないのが恥だ」
ハイドが肩を揺らして笑う。
音は薄いのに、笑いは分かる。
人の表情は、音より早い。
「店主、ほんと説教くさくなってきたな」
「説教じゃない。保険だ」
「保険屋じゃなくてポーション屋だろ」
「保険も売りたいくらいだ」
ミスティが小さく笑った。
ミーナも口元を緩める。
ガイルは真面目に頷いている。
エドは無言で周囲を見ている。
この“いつもの空気”が、心臓の鼓動を落ち着かせる。
俺は一人ずつ、追加のバフを渡した。
起の段階で全開にしておく。
後で慌てて飲ませるより、“普段の呼吸に混ぜておく”ほうが効く。
ガイルには持久と踏ん張り。
ミーナには判断の明晰さ。
ハイドとエドには反応と視野。
ミスティには魔力循環と手の冷え対策。
そして俺自身には、集中の持続と恐怖の鈍化。
瓶をしまい、俺は自分の胸に手を当てた。
鼓動は速い。
でも乱れていない。
怖いから、ちゃんと生きてる。
「……行くぞ」
ガイルが言う。
その声は薄い。
薄いのに、背中が頼もしい。
俺たちは転送陣の前に立つ。
刻まれた紋が、淡く光る。
沈黙の階層が、こちらを“歓迎”しているみたいで、少し腹が立った。
歓迎なんていらない。
俺たちは帰るために入る。
店に戻るために進む。
それだけで十分だ。
クリムが肩で「きゅ」と鳴いた。
ルゥが足元で尻尾を一度だけ振った。
俺は一瞬だけ、店の棚を思い出す。
昼の光。
路地の匂い。
看板を見て笑う客。
“疲れた身体にはやっぱりこれ”。
――戻る。
そう心の中で言って、俺は陣の中心へ足を踏み入れた。
光が、薄く滲んだ。
そして――
音が、さらに遠くなった。




