1話
エルフの森のクランベリーはとても甘いらしい。友人にそう聞いたサーシャは、空の籠を下げて一人で森の奥へ入った。
皆を驚かせたくて誰にも言わずに。
「わぁ…」
低い草を踏みしめてなだらかな斜面を登ると、開けた場所に出た。
大きな楓の葉の隙間からは木漏れ日が白樺の幹を照らしている。
小さな湧き水の横には鈴蘭が咲き、紫の蝶がその上を飛んでいた。
「喉、渇いたな…」
湧き水の方へ行こうと次の一歩を踏み出した瞬間に身体が大きく傾く。
足元が斜面になっていることに気が付かずにサーシャは滑り落ちた。
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「何をしている」
昼下がりの森は木漏れ日が苔を照らしている。
大きなトネリコの木の下で、サーシャは足を投げ出したままぼんやりと座っていた。
群青色のローブを纏ったエルフが楓の木の下に立っている。
フードを目深に被り、長い銀髪がフードから腰のあたりまで流れていた。
「ここは禁足地だ」
もう一度、エルフは声を掛ける。彼女はそちらをぼんやりと見つめるだけで動かない。
訝しげにエルフは数歩近寄り、サーシャを見下ろした。
泥に汚れたスカートと靴、そして血がついたエプロン。少し離れた所に布巾だけ入った籠が放り出されている。
「動けないのか?」
サーシャは脚を動かそうとして、痛みで顔を顰める。
恐る恐るスカートをめくる。
すると膝から脛にかけて深く切った傷があった。
浅く息を吐いてエルフを見つめる。
エルフはため息をついた。
湧き水を掬ってきて傷口を洗うと、腰に下げていた袋から取り出したのは小さな薬瓶だった。
サーシャは薬を塗られると痛みで身体が震えた。
エルフは宥めるように声を掛ける。
「動物用だから人間にも効く」
「動物…?」
「そう。君は動物だろう?」
フードの下で少し笑う気配がした。
サーシャは痛みで涙目になりながら「違うよ」と笑った。
「人間は人間だよ」
「君がそう言うなら、そういうことにしておこう」
籠の中の布巾で傷口を縛りながら、エルフはサーシャの顔を見た。
「幼いな。何歳だ」
「8歳…」
「8歳?お前と同じだな」
近くの枝に止まってサーシャを見下ろしているツグミに声を掛ける。ツグミは返事をするように斑模様の腹を震わせて一つ鳴いた。
「あなたは何歳?」
「私か?」
少し間が空く。
「二百ぐらいだろうか。正確に数えていない」
「ずっとここにいるの?」
「ずっとここにいる」
言葉をそのまま受け取るように頷く。
エルフと森や精霊の関係について説明する気は無いようだった。
「私、サーシャ」
「そうか」
「あなたは?」
「アルヴェ。人間はそう呼ぶ」
手当が終わるとアルヴェは立ち上がった。
「歩けるようになったら帰りなさい」
「え…」
サーシャは不安そうに周りを見回す。
鈴蘭と湧き水。その向こうには楓と白樺。斜面の下から見る風景は、来た方向も判別出来なくなっていた。
「帰り道も分からないのか?」
びくりと肩を震わせて俯く。アルヴェは一つの方角を指差した。
「あちらに行きなさい」
「……」
「仕方ないな」
アルヴェはサーシャの目の前に手を差し出す。銀色の刺繍を施されたローブの袖から覗く、細くて白い指。
「立てるか?」
サーシャは自分の手が汚れているのを気にしながらも、その手を握った。手を引かれてゆっくり立ち上がる。
痛みはまだ残っていたが、もう歩けるほど回復していた。
「…ありがとう。アルヴェ」
フードの下から少しだけ、目を細めるアルヴェの顔が見えた。
それが、サーシャとアルヴェの出会いだった。
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「こんにちは、アルヴェ」
「サーシャ」
トネリコの木の下で座っているアルヴェが、籠を抱えて走ってきたサーシャを見上げる。
籠には来る途中で拾った木の実とハーブが入っていた。
フードを被っていない彼は、町で見たことがないくらい美しい青年だった。長い睫毛と切れ長な二重の双眸を、今は呆れたように細めている。
サーシャがここを訪れて三度目くらいだったろうか。面倒くさくなったのかアルヴェは顔を隠さなくなっていた。
「前も言ったが、ここは禁足地だ」
「禁足地?」
「人間は来てはいけない」
「どうして?」
「そう決めているから」
不満そうなサーシャの顔を見て、アルヴェは木々や湧き水に目を向ける。
「採ってはいけない植物や動物がいる。私も家に土足で踏み込まれたくはない」
「家?ここが?」
「そう思っていい。人間が汚していい場所ではない」
サーシャは力強く頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「汚さないようにするね」
「……ああ」
それ以上は何も言わなかった。
サーシャは斜面に広がるシロツメクサをたくさん摘むと、両手に抱えてアルヴェの横に座る。
「アルヴェはどうして町の人と会わないの?」
「会う必要が無いから」
「怖がられちゃうよ?」
「それでいいんだよ」
サーシャはふぅん、と呟いてシロツメクサで花冠を作り始める。
花の茎を割いては重ねて、器用に編んでいくサーシャの手元をアルヴェは眺めている。
「町の人達は、エルフに魅入られちゃうからあんまり近寄るなって言ってたよ」
「そうか」
シロツメクサを重ねて茎でまとめる。
「お母さんは、日が暮れる前に帰ってくるならいいって。お薬のお陰で傷が残らなかったから喜んでた」
「そうか」
サーシャは出来た花冠を被った。
そのまま膝をついてアルヴェの方に近寄る。
赤茶色の長い三つ編みが白い花冠の下で揺れていた。
「アルヴェは怖がって欲しいの?」
「そうではないが」
サーシャの周りに散らばる余ったシロツメクサを指でつまみ上げる。
「君みたいなのがたくさんいたら困るから」
「…アルヴェって、言ってることがよく分からないわ」
アルヴェは口の端をそっと上げて笑った。
「君ほどじゃないよ」




