番外編
寄付を巡る炎上騒動を受けて
「汚い金」
真っ当に稼いだ金では無い金銭のことをこのように表現することがある。
犯罪を犯して手に入れたお金、からだを売って得たお金、ぼったくりで儲けた売り上げetc……。
一方で、「汚い金」とされるようなものが職業として確立している社会では、この発言は職業差別とされるので注意が必要だ。
「汚い」基準は人それぞれかもしれない。
一昔前、まだYouTuberという存在がここまで大きくなかった頃、世間はこのような反応だったように思う「こんなふざけた仕事があるものか、けしからん」と。
しかしいつしか立派な職業の一つとして市民権を得たと言っても過言では無いだろう。
今日、表立ってYouTuberを否定しようものならどうなるだろうか。
「時代遅れ」「老害」「底辺の嫉妬」「妬み」
などと言った声が聞こえてきそうだ。
もう少し時代を遡れば、テレビに出てくるお笑い芸人なんかも同じ匂いを感じるのだが……。
似たようなところで考えるとプロゲーマーはどうか、アイドルは?スポーツ選手や格闘家は?
こう並べるとやはり職業として成立しているのだから認めるべき。となりそうだ。
しかし著者の私には何か釈然としない物が残る。
何が引っ掛かっているのだろう……。
「お金になる」と「価値がある」は同じなのか?
ここまで考えて、私が「汚い金」という言葉に引っ掛かっていた理由が、少し見えてきた気がする。
もしかすると私は、「貨幣が価値の代理人になっている」ことに違和感を持っているのではないだろうか。
例えば、農家が一年かけて食料を作る。
看護師が人を助ける。
道路を直す。
子どもたちを教育する。
どれも社会にとって、とても重要な仕事である。
一方で、人気のYouTuberが動画を一本公開する。
人気選手が試合に出る。
アイドルがライブをする。
あるいは、投資によって大きな利益を得る。
これらも市場では大きなお金を生み出すことがある。
もちろん、後者に価値がないと言いたいわけではない。
誰かにとって必要であったり、人生を豊かにしたりするからこそ、お金を払う人がいる。
問題は、そこから先である。
私たちはいつの間にか、
お金になる。
↓
価値がある。
↓
優れた仕事である。
という連想をしてはいないだろうか。
逆に、お金にならない仕事には、
お金にならない。
↓
価値が低い。
↓
大した仕事ではない。
という評価をしてしまう。
しかし、本当にそうだろうか。
ここで、少し前の話に戻りたい。
今では当たり前のように職業として認められているYouTuberも、少し前までは「そんなもの仕事ではない」と言われることがあった。
ところが、見る人が増え、広告や企業との取引によって大きなお金が動くようになると、いつしか一つの職業として社会に認められるようになった。
これはYouTuberに限った話ではない。
お笑い芸人、プロゲーマー、アイドル、スポーツ選手など、かつては「そんなことで食べていけるのか」と思われていた仕事が、需要を獲得し、市場で大きなお金を生むようになることで、社会的にも立派な職業として認められていく。
もちろん、それ自体は悪いことではない。誰かを楽しませることも、感動させることも、立派な価値である。
私が考えたいのは、その仕事が良いか悪いかではない。
「市場で成立した」という事実だけで、その仕事の社会的な価値まで決めてしまっていいのだろうか、ということである。
市場で大きなお金が動く仕事と、社会にとって不可欠な仕事。この二つは、必ずしも同じものではない。
農業がどれだけ重要でも、食べる分以上のお米を買い続けるわけではない。
一方で、娯楽には明確な上限がない。
昨日より面白いゲーム。
昨日より美味しい料理。
昨日より格好いい服。
昨日より魅力的な映像。
人が「もっと欲しい」と思う限り、市場はそこに新しい価値を見つけ続ける。
そして、それによって生まれたお金の大きさが、いつしか「その仕事の価値」のように扱われてしまう。
だから私は、「汚い金」という言葉にも引っ掛かったのかもしれない。
その仕事で大金を稼ぐことが、本当に社会にとって悪いことなのか。
逆に、大してお金にならない仕事だからといって、本当に価値が低いのか。
そもそも、一つの貨幣だけで両方を測ろうとするから、こうした混乱が生まれるのではないだろうか。
生活を支える価値と、生活を豊かにする価値。
どちらも人間にとって大切だ。
ただ、それは同じ「価値」ではないのかもしれない。
もしそうなら、私がこれまで考えてきた「生活保障労働」と「ギルド経済」を分けるという発想も、少し違った角度から見えてくる。
ギルド経済では、誰かが欲しいと思うものを自由に作ればいい。
たとえ、それが別の誰かから見れば「そんなものに金を使うのか」と思われるようなものであっても構わない。
逆に、生活保障労働では、「どれだけお金になるか」ではなく、「社会にとって何が必要なのか」を基準に考える。
そうすれば、「お金になる仕事=偉い仕事」という価値観から、少し距離を置くことができるのではないだろうか。
「汚い金」をなくす必要もない。
もしかすると必要なのは、お金に「社会的な価値」まで背負わせないことなのかもしれない。
「汚い金」という感想に対して「汚い心」などと一蹴するのでは無く、こういう感想が生まれる理由を自分なりに考察した結果、このエッセイで伝えたい事と根本で繋がる事だと思ったのでここに記しておく。




