魂を映す鏡
将軍。
この国の頂点に立つ男。
あの執事が、まさか。
輝吉——様は、そう言うと、俺に向かって静かに視線を向けた。
「驚かせてすまなかったな、写楽。まずは、先日の働き、見事であった。帝都の民を代表し、礼を言う」
「……いや、そんな……」
あまりの展開に、俺はただ戸惑うばかりだった。
輝吉様は、隣に立つ美与へと視線を移す。
「そして、改めて紹介しよう。こちらは、我が懐刀であり、この国の理を守りし者。——『龍脈の巫女』、美与である」
……龍脈の巫女。
「写楽……」
美与——様が、初めて口を開いた。
「あなたの魂が持つ光、そしてその覚悟、しかと見届けさせていただきました」
彼女は、浅草での高飛車な態度は微塵も見せず、ただ静かに、そして慈愛に満ちた瞳で俺を見つめている。
「写楽」
再び、輝吉様が口を開いた。
その表情は、将軍としての威厳に満ち溢れていた。
「そなたには、改めて我らの口から伝えねばならぬことがある。この帝都が、いかにして成り立っているのか。その世界の理をな」
輝吉様は続けた。
「既に政信から聞いていると思うが、この帝都の繁栄は、大地の下を流れる巨大なエネルギーの河『龍脈』から放たれる『龍輝』の恩恵によるものだ。そして、帝都に存在する三つの『龍穴』は、その龍輝を地上に供給する、極めて重要な拠点となる」
美与様が、静かに言葉を引き継ぐ。
「我らは、その龍穴を守護し、龍脈の恩恵を正しく帝都の発展に使う責務を負っています。そして、そなたたちウキヨ英士は、その龍輝の力を悪用する惡魂から、民を守るための剣なのです」
告げられた事の大きさに、言葉が出ない。
俺は、これから足を踏み入れようとしている世界の、本当の姿を初めて垣間見た気がした。
「写楽。そなたには、ウキヨ英士となる覚悟があるか?」
輝吉様の問いが、静まり返った広間に響き渡る。
俺は、真っ直ぐに輝吉様たちを見つめ返すと、迷いのない声で、はっきりと答えた。
「応ッ!」
俺の決意に、輝吉様は静かに頷いた。
「……よかろう。ならば、その覚悟、示してもらおうか」
輝吉様と美与様に導かれ、俺たちは謁見の間を後にした。
城の奥深く、幾重もの厳重な警備を抜け、俺たちがたどり着いたのは、古びた木造の社の前だった。
その社の奥、注連縄が張られた巨大な洞窟の入り口から、尋常ならざる力が漏れ出しているのを、俺は肌で感じていた。
ここが、江戸城龍穴。帝都の龍脈を司る、最も神聖な場所。
「これより、ウキヨ英士となるための試練を執り行う」
輝吉様が、厳かに告げた。
その言葉を引き継ぎ、美与様が静かに一歩前に出る。
「写楽」
鈴の音のような声が響く。
「この龍穴の最奥には、龍輝の力が結晶化した『龍輝晶』と呼ばれる鉱石があります。ウキヨ英士となる者は、自らの魂の力で龍穴の試練を乗り越え、その龍輝晶をその手に持ち帰らねばなりません」
彼女は続ける。
「ただし……。龍穴は、人の魂を映す鏡。龍穴内で何が待ち受けるかは、あなたの心次第です」
(俺の、心次第か……)
ごくりと唾を飲む。
「写楽」
不意に、隣にいた北斎が、低い声で呟いた。
「……己に負けるな」
それは、指南役として、そして同じ道を歩む者として、彼が俺に贈る、初めての助言だった。
俺は、一度強く目を閉じ、そして開いた。
「……行ってくる」
短い決意の言葉を残し、俺は一人、龍穴の中へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間、背後で社の扉が閉まる重い音が響き、俺は完全な闇と静寂に包まれた。
ひやりとした空気が、肌を撫でる。
ここは、ただの洞窟じゃない。尋常ではない力が渦巻いているのが、肌で感じられた。
(これが龍輝か……)
不安が、胸をよぎる。
だが、立ち止まっているわけにはいかない。
俺は、壁に手を付きながら、一歩、また一歩と、洞窟の奥へと進んでいった。
しばらく進むと、洞窟の壁自体が、ぼんやりと淡い光を放ち始めた。
龍輝の光だろうか。
その幻想的な光景とは裏腹に、俺の心は一向に晴れない。
道は一本道のはずなのに、なぜか前に進んでいる感覚がない。
まるで、同じ場所をぐるぐると回っているかのような、奇妙な感覚。
美与様の言っていた「魂を映す鏡」という言葉が、脳裏をよぎる。
俺の迷いが、この洞窟を迷宮に変えているというのか。
その時だった。
洞窟の壁に、ゆらり、と一つの光景が映し出された。
それは、隅田川の花火大会の夜。
俺が、応為と初めて出会った、あの夜の光景だった。
『あたしの名前は応為』
楽しげに笑う彼女の声が、洞窟の中に響き渡る。
その懐かしい光景に、俺の心が少し和んだ、その瞬間。
『……なぜ、助けてくれなかったの?』
不意に、背後から声がした。
振り返った俺は、息を呑む。
そこにいたのは、血に濡れ、悲しげに微笑む応為の姿だった。
「お、うい……?」
違う。
これは幻だ。
頭では分かっている。
だが、その姿はあまりにも生々しく、俺の心を容赦なく抉った。
『あなたのせいで、私は死んだのよ』
応為の幻が、ふっと掻き消える。
次の瞬間、周囲の景色が再び変わった。
炎に包まれる帝都。
天を舞う、八首の龍。
そして、その龍の爪に貫かれ、為す術なく絶命する、未来の北斎の姿。
『……無力だな、お前は』
地に落ちた北斎の幻が、俺を嘲笑う。
『何も守れず、何も変えられず……。貴様は、ただ見ていることしかできんのだ』
「やめろ……やめろぉぉっ!」
俺は、頭を抱えて絶叫した。
そうだ。
俺は無力だ。応為を助けられなかった。
北斎も、仲間たちも、この帝都さえも。
未来は、変えられないのか。
俺がここにいること自体、無意味だったのか。
絶望が、俺の心を黒く塗りつぶしていく。
膝から崩れ落ち、もう立ち上がることさえできない。
——その時だった。
『……忘れるな』
脳裏に、江戸城へ向かう前にかけられた、本物の北斎の声が響いた。
『お前が、何のためにここに来たのかを』
はっと、俺は顔を上げた。
そうだ。俺は、何のために。
(……守りてえ奴がいる)
(そいつが笑って生きる未来を、この手で掴む)
政信の旦那の前で誓った、己の覚悟。
ぶっきらぼうな応為の激励。
仲間たちの顔が、次々と脳裏に浮かぶ。
「……ちくしょうが……」
俺の瞳に、再び光が宿った。
「まだだ……まだ、終わっちゃいねえ……!」
幻影が囁く。
お前に何ができる、と。
俺は、震える足で、ゆっくりと立ち上がった。
「うるせえ……!」
俺は、幻影と戦うことをやめた。
ただ、その絶望的な光景を、その目に焼き付けた。
「ああ、そうだ! 俺は無力だった! てめえらを助けられなかった! だから、ここに来たんだろうが!」
魂の叫びだった。
「過去は変えられねえ! だが、未来は、まだ誰にも決まってねえんだよ!」
「俺は、もう二度と、あんな思いはしねえ! 誰にもさせねえ!」
「そのために、俺は、ウキヨ英士になるんだ!」
俺の絶叫が引き金となり、周囲を渦巻いていた龍輝の奔流が、一斉に俺の体内へと雪崩れ込む。
目の前の絶望的な幻影が、光の中に掻き消えていく。
光が収まった時、俺が立っていたのは、洞窟の最奥だった。
目の前には、祭壇のように祀られた一つの鉱石が、心臓のように脈動しながら、力強い光を放っている。
『龍輝晶』
ウキヨ英士になるための証。
俺は一歩踏み出し、その光に手を伸ばした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回は5月10日(日)19時に更新予定です。




