其ノ四拾参 吸血鬼が蠢いている村
奇妙な村だった。
ブルガリア共和国のバルカン山脈に位置する、麓の小集落。森の狭間でひっそりと暮らす人々の家が、夕焼けに照らし出され鈍く輝いている。石積みの基礎の上には白く塗られた木の壁が、煙突屋根にはオレンジ色の素焼き瓦が配されてあり、遠目に見ても実にメルヘンな雰囲気が感じられる。
私は、そんな光景が見下ろせる崖上を後にして、岩場の遊歩道まで引き返した。木製の通路・階段が急斜面に張り巡らされ、眼前には草木が生い茂り、小さな滝の裏側を通り抜けるなど、自然を楽しみながら心地いい疲労感がもたらされるコースだ。
小一時間ほど歩いて村に到着する頃には、もう薄明も終わりつつある時間帯となっていた。…まだ寝静まる時間ではないはずだが、家屋から漏れ出る明かりなどは無い。薄暗がりな村の中、石畳が敷き詰められた道をゆっくり進んでおくとする。
ふーむ、辺りを注視しても人影1つ確認されないな。生活音についても全く聞こえてこない。その一方で、町並みは廃墟と呼ぶには手入れが行き届いており、窓から見える室内には生活感がある。どうやら、奇異な状況と言ってよさそうだ。
私は適当に1軒の家を選び、玄関のドアを軽くノックした。少し間を空けて3回繰り返したが、反応は何も無い。なので、古びた木のドアをきしませ開き中へと入ってみる。その瞬間、やや腐敗の進んだ臭いが鼻を突いてきた。
テーブルの周りに食器と共に散らばっている、牛の第2胃を具材にしたスープが臭いの元凶だな。牛乳やニンニクなども用いたシュケンベ・チョルバ、その成れの果てだと思われる。ここ数日の気温を考えて、3日前の夕食になるはずだったものだろう。
台所に置かれたグラスの中には、ヨーグルト飲料のアイリャンらしき液体が無事に残っていた。ちびりと飲んだところ、やや乳酸発酵が進んではいるものの、適度な塩味と併せてまだ美味しい範囲内だった。もう一口だけ飲んだ後、室内をぐるりと見回す。
季節的に使われてなく当然なペチカを除いて、やはり少し前まで人間が暮らしていた使用感の部屋だ。そして、食器の他にも家財などが床に落ちているのが散見される。夕食時に、何かに襲われたのかも知れない。別の家も同様なのか見てみよう。
「ア゛〜」
!! 玄関の隅、ちょうど私の死角になり続けていた場所から、うめき声を上げて動く存在を感知して、私は思わずぴょんと外に出た。振り返り視認したそれは、四つん這いの幼児であった。一目見て、精神に異常をきたしているのが分かる。
明らかな興奮状態。おそらくは幻覚を伴った攻撃性の高まり。追いすがろうとするその幼児に対し、私は麻酔薬を噴霧して、まずは沈静化させた。…ふむ、脱水症状と低血糖だな。栄養剤を静注してあげ、代わりに血液サンプルをもらって解析にかける。
アナライザーが結果を出力するのを待つまでもなく、狂犬病ウイルスの類いが関わっている所見ではあるな。左肩の噛み痕から感染したものと推察される点もそれっぽいが、病状の進行はかなり速そうだ。この子は手遅れだろうなと思いつつベッドへ運ぶ。
家の外に出る。そこで周囲の変化に気が付いた私は、ドアを閉め、可能な限り気配を殺しながら移動した。焦らず着実に村の外へと歩を進め、森の入口まで戻ったところで、手頃な高さのヨーロッパブナの木に登る。ここからなら、安全に観察出来るだろう。
「ア゛〜」「ア゛〜」「ア゛〜」
村人がわらわらと各家から出てきて、先ほどまで不気味なほど静かだった村に、濁った声を轟かせている。その所作からは、あの子供と同じ症状であるように思われる。お、互いに攻撃し合っているな。噛み付いて…血を舐めてもいるようだ。
敵も味方もなく、しかし争いと表現するにはあまりに刹那的。目の前で動くものに反応して、ただそれを攻撃しているだけにも見える。そんな彼らの様子を観察している内に、ゲノム解析の結果が得られた。予想通り、人工的なウイルスによる事象だったか。
狂犬病ウイルスに代表されるリッサウイルス属がベースになっており、罹患した際の症状はその影響が大きいようだ。発熱、興奮、不安狂躁から始まり、今の村人たちの様に、錯乱、幻覚、攻撃性などを呈していく。中でも特に幻覚と攻撃性の高まりが顕著になるらしく、そのため、噛み付きによって唾液中のウイルスを相手に感染させるというシチュエーションは、かなり生じやすくなっているだろう。
感染後は半週くらいの間を寝込んだ後に、興奮状態で覚醒して動き出すはずだ。その時点における水分と栄養分の枯渇が、傷口からの吸血行動を誘発しているものと思われる。
村人たちの覚醒がほとんど同期していたのは、感染が一気に広まったことを前提として、発症までに要する時間もその要因として挙げられる。例えば狂犬病の場合だと、ウイルスは増殖しつつ末梢神経から脳へとゆっくり伝わっていく。その一方、この村で蔓延しているウイルスは、潜伏期間が大幅に短縮されている上に、体のどの部位からの感染でも脳への到達にかかる時間は同じくらいなようだ。
これは、まず傷口においてマクロファージに感染し、そのミクログリア化によって血液脳関門を越える仕様で成立させているな。安易にインフルエンザウイルスとのハイブリッドにして飛沫感染、なんて戦略にしなかった点は評価を出来る。
そういった改変は見られるものの、脳への影響はほぼ保たれており、感覚器を鋭敏にするといった特徴も受け継がれている。液体を飲み込む動作で痙攣を起こすため水を恐れるようになり、瞳孔反射の亢進で過敏に反応してしまう日光を避けるようになり、冷たい風や大きな音までもが恐怖の対象となっていく。
そして、最終的には昏睡状態から呼吸停止へ至るという結末が待っている。発症からの余命は、まあ1週間といったところだろう。
こうした狂犬病に似た症状となる脳炎を、スピーディーに引き起こすことが肝ではあるが、4種の阻害剤を発現させることで、それ以外の効果も示すように設計されている。その意図を汲み取ると、ウイルス感染によって吸血鬼を成すことが目指されたっぽくはある。
まず目に付くのは、日光に対する弱さの付与である。ウロポルフィリノーゲンⅢデカルボキシラーゼを阻害することで、コプロポルフィリノーゲンⅢが蓄積し、小疱や水疱を伴う光過敏性を患わせることに成功している。つまり晩発性皮膚ポルフィリン症を誘発しているわけで、狂犬病の症状も相まって、ダブルの効果で光を避けるようになる。
造血性のポルフィリン症とも組み合わせていれば、肌は血の気が引いた色になり、歯茎が痩せ細って歯が牙のように見える効果だとか、ポルフィリンの沈着で赤い歯にすることも狙えるのになとは思う。しかし、そこまで達するには人体にそこそこの時間が必要となるので、余命の延長が必須となるプランだ。
吸血鬼が「動く死体」系統の魔物だという点に着目してだろうが、メラニン色素を作り出すチロシナーゼも阻害されている。死体ベース故の青白さに加えて、魔性を感じさせる紅い瞳を求めてのことだと思われる。私なら、元が色白でなければ不自然になってしまう前者の効果は排除したいので、GPR143遺伝子を操作して、眼白皮症にすることで瞳の色だけを変えそうなものだが。まあ、それは個人の好みの問題ではあろう。
問題なのは、メラニン合成の阻害だけでは色が抜けるのに時間がかかる点である。迅速に分解する特性も付与するだとか、あるいは、やはり死ぬまでの時間を長くしなければ意味が無い。
怪力を付与するという目的では、定番のミオスタチン関連筋肥大症が選ばれている。ミオスタチンに結合してその作用を阻害するペプチドと、アクチビンⅡ型受容体の拮抗剤の2つを組み込んでいるという徹底ぶりだが、こちらも感染から10日間くらいでは大した効果を期待が出来ない。
総評としては、設計者のやりたいことは分かるものの、合目的的でない点が目立ち過ぎる。エレガントさに欠けるとかそういったレヴェルの話ではなく、とても不細工な出来損ないと言う他に無い。
この吸血鬼ウイルス(笑)を改変して余命が長くなるよう調整したなら、狂犬病の症状が微妙になってしまうと思うので、まずはコンセプトを見直して最初から設計し直すべきだろう。恐水症状は残しつつも液体は難なく飲めるようにしたり、血液に対する嗜好性を向上させるなど、本気で「吸血鬼」を再現したいなら考えるべきことは色々とあるはずだ。
一通り思考を巡らせたところで、東の空に下弦の月が昇ってきた。その美しい天体によって暗い森が照らされたことで、私は1つの死体がそこにあることに気が付けた。それだけ見て、この村を去ることにするか。
腰をかけていた木の枝から飛び降りて、100メートルほど山中を進む。林床に伏している死体に接近し、観察を開始した。ふむ、死斑の感じからして死後数時間といったところだろう。トルコ人の男性かな。日光が当たりそうな部位には炎症が確認される。この者が感染源だとして、1人で村中を襲えたとは考えにくい。おそらく、他にも何人か放たれたのだと思われる。
体組織をサンプリングして、当該のウイルスを保有しているかだけさっと確認したところ、結果は陽性であった。これが死に至った末期患者だとすると、やはりメラニンや筋力にはほとんど変化が無かったであろう外見だ。
しかし、誰が何の目的でこんなウイルスを作ったのか。何となく大方の予想はついているが。たぶん、よくある類いの動機だろう。A級諜報員に調査を依頼するとしよう。
2日後、その調査結果が手元に届いた。あの村は、とある富豪が吸血鬼の退治をする体験の場に選ばれていたとのことだ。ブルガリアは、串刺し公のヴラド・ツェペシュで有名なルーマニアと隣接していて、吸血鬼の存在が古くから信じられてきた。対処法も数多く、その伝統を守ることも目的であるらしい。
その5日後、村人たちの死体が発見されたというニュースが流れてきた。胸部は鉄の棒で貫かれており、その歯は全て抜かれていたということだ。死体が吸血鬼になることを防ぐための古い儀式だが、それを自分で吸血鬼化させた相手に行うことに、幾分のちぐはぐさを感じながら、私は次の村へと歩みを進めた。
 




