5 全てはこれから
父は、いつもと変わらぬ様子で私を見返してくる。もう少し驚くかと思っていたのに、少し拍子抜けした気分で訊ねてみる。
「お父様、あまり驚かれないんですね。それとも、もしかしたらこういう日が来ると予想していらしたんですか?」
「ああ、いや。これでも十分驚いているよ。あまり派手に反応する体力がないだけだ。何しろ、今日会った相手と婚約したいと言われたのだから、驚かない訳がないだろう」
「そうですよね」
苦笑と共に出された言葉ののち、少しの沈黙。
それから、父がおもむろに口を開く。
「だけど、いつかこんな事になるのではないかと思っていたのは事実だ。連れてきた相手や性急さには驚いたけれど、覚悟はしていたよ。でも、正直意外だった。確かに私たちの暮らしは決して良いものとはいえないが、古の血族の男を連れて来るとは思わなかったよ」
「そうでしょうか? 我が家だって古の血族です。同じ階級のひととの結婚は妥当でしょう」
淡々と告げる。
すると、父は底の見えない鋭い目で私の真意を見透かそうとしているような視線を向けて言った。
「そうか。だがね、クラリス、私は君が古の血族の存在を憎んでいると思っていた。だから、上流階級の新興貴族や軍属を選ぶのではないかと考えていたのだが、オーティス家は特に由緒正しい、歴史ある家だ。もしかしたら、君はまだあのことを引きずっているのかい?」
「だとしたらどうなさいますか? 反対なさいますか?」
真っ向から父の目を見る。
このロッドフォード家の特徴である艶のある黒髪と濃い青い目を。
同時に脳裏によぎるのは、それと全く同じ色をした小さな存在。
思い返す度に、心臓が凍るような痛みを覚える。
私はその痛みをこらえるように、そっとこぶしを握りしめた。
「いいや、君がそれを選択したのなら、強く反対はしない。だけどね、本来ならこのロッドフォード家は君が継承するはずだったんだ。直系の子どもの中から最も力ある者が選ばれるのが決まりだからね。私は君に継いで欲しかったよ。だが君はそれを拒んだ。理由ならわかっているつもりだよ」
どこか含みを持つ父の言葉。
いつもなら、何か嫌みのひとつでも言っておこうかと考えるのだが、今日はそういう気分ではない。私は早々に話を切り上げることにした。
「それなら、もうおやすみ下さい。遅くなってしまいましたし」
「ああ。そうするよ。だけど、例え結婚して他家へ嫁いでも、あの魔法石からは絶対に逃げられないよ?」
決して忘れてはならないと突き付けられたようで、私は微かに顔を顰める。もちろん、言われなくてもわかっている。それでも父はあえて言ったのだ。
「それは仕方ありません。何より、私にもあれは必要なものですから、一生持っていくつもりですよ」
「そうか、ならいいんだ。うん」
何かを堪えるような様子で頷く父に、私は言った。
「本当に、おやすみ下さい。きっと彼は明日早くから来ると思いますし」
「そうだね。それにしても、オーティス家の息子がああいう男だとは思わなかったな。もっとろくでもない女誑しだろうと思っていたが、誠実さの塊のような男じゃないか。今日見た限りではだけど」
「ああ、それは私も驚きました。人の噂はあてにならないものですね」
そう、それについては全く同意見だ。
「こうなってくると、彼が婚約していた令嬢の方が怪しいぞ。もしかしたら、王子殿下に乗り換えるために破棄させる理由を作ったのかもしれないぞ」
父は柔和な見た目に反した鋭い目つきで言った。
こういう時、父の推察は大抵当たっている。何より、私もブライアンを見ていると、その可能性はかなり高いような気がしていた。だが、何の証拠もないし、相手は王子殿下をすでに射止めている以上、あまり踏み込みたいとは思わなかった。
だが、ここで推測を言う程度なら問題はないだろう。
「そうですね。妹令嬢も怪しいですよ。生家は新興貴族らしいですし、裏がありそうです」
「ああ、確かに! うん、面白いな。明日が楽しみになって来た。早く休まなくては。クラリスも早くおやすみ。今日は疲れただろう?」
「ええ、疲れました。では、おやすみなさい、お父様」
「おやすみ」
帰ってきた言葉に笑みを返し、私は部屋を出て自室へ向かう。
その途中でユーニスが待ち構えていた。
こちらを突き刺すように見てくる目に浮かぶ苛立ちを察し、私は小さく嘆息する。
「どういうおつもりですか?」
「どういうって、何についての質問なの?」
「決まっているじゃないですか! 突然婚約を決めてしまうだなんて、クラリス様らしくもない! 私に何一つ言わないなんて、もしもあの人が変な男だったどうなさるおつもりですか! いつもなら必ずどういう人物か調べるように私に言うのに! どうしててですか!」
畳みかけるように質問の矢を浴びせてくるユーニス。
声には怒りがたっぷり含まれている。
まあ、当然だろうと思う。私はユーニスに一言の相談もせずに全てを決めてしまったのだ。いつも心配してくれているユーニスからすれば、全くもって面白くないはずだ。
怒られるとわかっていた。
それでも、私は決めたのだ。
「ごめんなさいね。ちゃんと相談すれば良かったわよね。だけど、突然こんな幸運が飛び込んでくるなんて思わなかったものだから、次からは気をつけるわ」
「そうしてください。それで?」
「それで?」
「理由ですよ! まさか、本当に家柄と顔と財産に惹かれただけって訳ではないですよね? 確かにこの家の状況は厳しいですが、いくら容姿が優れていて、お金がざくざくあったとしても、過去に一度婚約破棄したような男の求婚をたった一日、いいえ、数時間で決めるには理由が必要でしょう!」
ユーニスは像にして飾りたくなるような美しい顔を、怒りと呆れで歪ませて言った。
「もちろん、理由はあるわ。もう少し美味しいものが食べたいな、とか、たまにはお肉も欲しいな、とか、もう少し冬の間温かく過ごしたいなとか、みすぼらしくない程度の服が欲しいなとか、もういい加減湿ったベッドから解放されたいとか、まぁ、色々理由はあるけれど、何より、彼の家はあの『オーティス家』なのよ」
そう告げると、ユーニスの目が見開かれた。
しばらくの間、彼女は宝石みたいな薄青の目を上に向け下に向け、左右に向け、それから私に視線を戻して言った。
「え、それ本当ですか?」
「ちゃんとそう名乗ったじゃないの」
「じゃあ、婚約破棄した例の男ってあの『オーティス家』のご子息だったんですか!」
「そうみたいね。私はあまり集まりに出ないし、出られないから良くは知らなかったけど、驚いたわよ。だから領地から出ないで数年過ごす程度で戻って来られたのね」
頷きつつ言う。
オーティス家は地位こそ伯爵位だが、この国の建国から王家と縁が深い。今までに何人も伯爵家から大臣や将軍を輩出しているだけでなく、何度も王家に令嬢が嫁いでいるし、また王家から王女が嫁したことさえある。
さらには伯爵家ながら公爵家並みの領地を持ち、そこからの収入だけでも凄まじい。
もしもオーティス家が裏切れば、国が二分しかねないほど重要な家だ。
ゆえに、婚約破棄という汚名を得てもなお、嫡子であるブライアンはほんの二、三年領地から出ずに、噂が下火になる頃合いを待つだけで良かったのだ。
このオルランシア王国の王族でさえ、オーティス家には簡単には手出し出来ない。その嫡子からの求婚。私にとって、これ以上ない話だ。だからこそ、申し訳ないと思いながらも、ユーニスに相談のひとつもせずに受けたのだから。
ユーニスも私の真意を理解したらしく、大きなため息をついてようやく表情を和らげた。
「なるほど、クラリス様が即決なさった理由がわかりましたよ」
「それなら良かった」
「と言うことは、ついに、始めるんですね?」
不意に、ユーニスは目を伏せて呟くように言った。
「ええ、始めるわ」
わたしは簡素に答えて、笑みを浮かべた。
「そういう訳だから、今夜は早く休みましょう。きっと、あの人は朝早そうよ」
「うえぇ、面倒そうなお人ですね」
ユーニスは盛大に嫌そうな顔をし、ようやく歩き出す。
ちなみに、私とユーニスが休む部屋は同じだ。仕切りもないが、特に気にはならない。幼い時から、ずっと一緒だからだ。
私達は明日のことについてああだこうだ言いながら部屋へ戻り、就寝のための支度にとりかかったのだった。