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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第六旅程『Pamětná』
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エピローグ:『パパ、授かる』


 ……ぴくり。


 私は、肩を跳ねさせて目を覚ました。

 椅子だ。メインラボのスツール。

 背もたれなし、座面硬め、長時間滞在に不向き——つまり寝落ちに最悪の家具である。

 にもかかわらず、私はここで眠っていた。深く。実に深く。熟睡レベルで。


 ……頬に、なにか冷たいものが伝う。私は指で拭った。

 ――ぬるり。無味。無臭。


 ……ふむ、よだれだ。

 いや、待て。その少し上も濡れている。これは……涙?

 なるほど。どうやら私は、よだれと涙の同時放出という、情緒と生理のハイブリッド現象を起こしていたらしい。人間とは、かくも繊細で、かくも汚い。

 何か、夢を見ていた様な気もする。よだれを垂らしながら、涙する夢だったのだろうか?だが、夢の内容は思い出せない。

 ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残っている。


 まるで――何か大切なものを、手に入れ、抱いて、そして手放したあとのような。

 ……いや、違うな。もっとこう……そう!

 コンビニで最後の一個だった限定スイーツを買い、帰宅途中で袋を落とし、三秒ルールを主張する間もなく車に轢かれ、それでも「まぁ写真は撮れたし」と自分を納得させた時の湿った納得感。――そんな夢……。

 もしくは、深夜帯における自律神経の偏重。要するに生理現象である。


 私は咳払いを一つし、事実を上書き保存したところで、


 ――ぐうぅ。


 腹が鳴った。

 ……ふむ。これは“飢え”だ。涙→よだれ→空腹。

 感情と内臓が、綺麗なリレーをしている。非常にはしたない兆候だが、生命としては正しい。

 私は立ち上がり、白衣を払う。モニターはまだ点いている。時刻を見る。


 ――04:27。

 

 なるほど。これはもう「うたた寝」ではない。完全なる睡眠事故である。

 労働基準法的にはアウトだが、私は父であり、父は労基の管轄外だ。これは世界の常識である。


 私はメインラボを出た。目的地は明確だ。アジュールがこっそり隠しているお菓子の保管場所。

 彼女の自室の引き出し、二段目の奥。すでにそこにあったチョコを三度くすねている。もはや“犯行”というより“定期収穫”だ。栽培扱いでよかろう。

 ――いや、違うな。これは父による間引きであり、食育であり、資源管理だ。


 廊下は静まり返っていた。人工照明の切り替えタイミングなのか、全体が少し青白い。空調の低い唸りが、巨大な生き物の寝息のように響いている。


 私は歩く――と、途中で足を止めた。

 ……なにか、聞こえる。


 ((……ふぇ……ぅ……))


 微かな音が、遠くから空調のリズムに混ざって紛れ込んだ気がした。

 細く、途切れ途切れで、弱々しい。


 ……泣いている?私は耳を澄ませた。


 ((……ふぇぇ……ひっ……あぅ……))


 低く、か細く、ぎこちない呼吸。それはどう考えても、赤ん坊の泣き声だった。だが、ここはラボだ。研究所だ。早朝だ。赤ん坊など、いるはずがない。

 泣き声は、廊下の先。かつて使われていた第三実験室から聞こえていた。照明は落ち、扉には「立入禁止」の札。私の直筆だ。

 私の字は汚すぎて他の人間には読めない。私はそれを、高度な暗号の一種として運用している。

 ここは封鎖済みだ。電源も落としている。結界も張っている。つまり、常識的に考えれば誰も入れるはずがない。

 ……が。泣いている。これは、かなりホラーだ。

 だが、私は科学者である。お化けは信じない。例外として、実体干渉型霊体や量子魔導的存在は“現象として”認めるが、それはホラーではない。検証対象だ。

 よって、これは。怖い出来事ではなく、調査案件である。

 私は扉に手をかけ、静かに開いた。


 ――ぎぃ……。


 錆びた音。埃の匂い。閉ざされた空気が、足元を撫でる。

 

 「……あぁ……ふぇぇぇ……」


 空気の層を割って、はっきりとした泣き声が漏れ出している。これは紛れもない。乳児系哀音(にゅうじけいあいおん)である。

 蛍光灯は死んでいた。だが、室内の奥、かつての魔導炉から、淡い光が漏れている。

 ……まるで、何かが生まれた直後の、濡れた呼吸のような。


 私は一歩ずつ近づいた。――第三実験室。精創型プロトコルの試験場。核を用いない、曖昧な、そして、失敗したはずの実験。

 

 [トゥルパ]。想念を依代として、意思そのものを形にする構造。


 私は精創型の最初期に、真っ先にこれに着手した。だが結果は散々だった。魂が安定して収束しない。定着せず、留まらず、想ったそばから霧散する。

 そこで私は判断した。『これは核が要る』と。

 そうして切り替えたのが、核を用いた安定構造。マハとエナの系譜である。

 

 ――そう。この魔導炉では何も生まれなかった。

 夏休みの自由研究で「タイトルだけ決めて満足した小学生」レベルだ。あとは、結果を捏造してChat GPTで出力して終わりである。

 ……にもかかわらず。そこに、居た。

 おそらく、霧散したはずの想念素子の一部が、自ら周囲の霊基構造を取り込み続けたのだ。そして、自発的に霊質躯を形成した。

 ……つまりこれは、やらずに放置していたはずの宿題を開いてみたら、なぜか全部終わっていたようなものである。――なんか、ちょっと怖い。

 だが、最初に目に入ったのは、小さな手。それが震えている。


 ——これは……やはり赤子? いや、“赤子”という言葉は、分類としては近いが、定義としては遠い。

 足の先には、柔らかな蹄。頭部には、くるくると巻かれた螺旋角。……羊の角だ。赤子と仔羊の境界を、勢いで縫い合わせたような存在。

 顔は泣き腫らしていた。肌はまだ定着しきっておらず、ところどころに羊毛のような保護膜が残っている。

 いや、羊毛ではないな。霊質が繊維化している。


 私は、息を呑んだ。

 ……なるほど。信じがたい。だが、目の前で泣いている。そして、まっすぐに私を見ていた。

 私は、静かに息を吐いた。


 「……ふぇっ、ふぇっ……ぁあああぁ……」


 魔導炉の中。崩れた結界の中心で、その子は泣いている。……が、少しだけ声が落ち着いた。

 たぶん、私を見て安心したのだろう。間違いない。


 ――これは、私の娘だ。そうとしか思えない。

 設計していない。構築していない。だが、ここにいる。私の意図に関わらず現れた、私の娘だ。


 私は膝をつき、彼女を見下ろした。羊の角。足には蹄。柔らかな体毛。

 ……よろしい。ならば、父としてやることは一つ。……名を与える。


 ――[LC-13]ナンバリングとしては、エナの次の番号。しかし、それは無機質すぎる。番号呼びは無粋の極み。

 私は父だ。詩情と誤解に満ちた存在だ。


 ――私は、すぐさま閃いた。

 この羊のような姿。その無垢な瞳。柔らかな声。まだ言葉にもならぬ泣き声。そう……ぴったりの名がある。

 [ネヴィーナ・オフチェルカ]、「無垢な羊」という意味の、異邦の言葉。


 ――完璧だ。完璧すぎる。意味、響き、雰囲気。全部いい。

 これを一瞬で思いつくとは、我ながらネーミングの才が爆発している。

 天才か。私は天才なのか。いや、天才である。間違いない。

 しかし、やや長いな。いや、正直長いな。呼ぶたびに息が切れそうだ。うむ……ならば、愛称は“ネネ”としよう。


 私は、そっと炉の縁に手を伸ばし、彼女の小さな指先に触れた。


 「……っ……」


 その瞬間……泣き声が、ぴたりと止まった。水を打ったような沈黙。最後の嗚咽の残響だけが、空気に消えた

 私は、膝をついて彼女を見下ろした。するとネネが、小さな手をこちらへ差し出してきた。

 その手の中に、なにかが握られている。


 ……これは?


 私は慎重に、それを受け取った。これは、花だ。

 形状としては深紫のアネモネ。実物と比較すると、かなり小さい。だが不思議と存在感がある……夢の濃度がそのまま色になったような花弁。

 が。次の瞬間、それはふっと消えた。跡形もなく。香りすら残さず。

 

 ……ほう?


 これは、なにかのメッセージだろうか? 選ばれしパパにのみ与えられる、父性への象徴?

 まあ、ただの偶発現象だろう。手元に花の幻影を投影するなど、夢霊系精霊なら普通にできる。


 そして。


 「……ふにゃ、ふぃ……ふはっ」


 ネネが笑った。明らかに笑った。声にならない声で、ぷくぷくと口を泡立てながら、顔をくしゃっと崩し、ふよん、と両手を伸ばしてきた。

 私は反射的に身を乗り出す。そして、慎重に、その身体を両手で抱き上げた。

 やわらかい。あたたかい。そして、軽い。

 ……なんだこれは。尊さの濃縮液か。このまま上に持ち上げたら、虹でも発生するのでは?


 ……と思った刹那、ネネが白衣の袖を、ぐいと掴んだ。

 いや、掴むというか、抱きつくというか、もはやよじ登ろうとしている。


 「……ふひ、ふぃぃっ……はっ、はぁ!」


 笑っている。明らかに、喜んでいる。

 目はうるうる、顔はぐしゃぐしゃ、でもそれ以上に、この“しがみつきムーブ”が、何より雄弁だった。


 私は震える声で、言った。


 「……間違いない。これは……」


 私の白衣が“好き”という意思表示である。

 すなわち、白衣=私。私=父。私を掴む=父に抱きつく。

 ……見事な三段論法である。

 よって、これは論理的に導かれる愛情表現である。愛とは証明できるのだ。間違いない。


 ネネは、きゅっきゅと喉を鳴らすような音を立て、さらに白衣を掴んだ。私はそのまま胸元に引き寄せる。ふわふわの羊毛が、首元に当たる。

 ……あったかい。そして、ほんのりミルクっぽい匂いがする。

 たぶん霊質由来だ。知らんけど。

 なんと尊い光景であろうか。これはもう……父イベント発生、確定演出である。


 ――私はネネに、静かに言葉をかけた。なぜか、彼女に掛けるべき言葉が、自然とわかっていた気がする。


 「……おはよう、ネネ」


 ……ネネは少し大人びた仕草で、ゆっくりと目を細め、私に微笑み返した――



――the episode’s end.

【作品について】

本作は、シュールギャグ小説『モンスター美少女たちのパパになったら、全員俺を殺しにくるんだが!?』の一部を原案とし、「秋の文芸展2026」への出展に際して、再構成・改稿した作品です。


関連作品(時系列順)


『君は、風に還る。』

——————

『境界のソードファンタズマ』

『モンスター美少女たちのパパになったら、全員俺を殺しにくるんだが!?』

『Ghost Noise 〜耳底に沈む音〜』

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