終点:『別れの花束』
――それから、街は止まることなく進んだ。
歯車が刻む音に、ためらいはなかった。建設の槌音と、人々の呼び声が、日ごとに街の奥へ奥へと広がっていった。
眠っていた空間が、ゆっくりと膨らんでいく。
東区の風車塔から見渡すと、街のそこかしこの“見えない壁”が、まるで朝霧のように、静かに消えていっていた。
人々の足音が、遠くの区画まで届くようになった頃。私とネネは、できるだけ多くの時間を共に過ごした。
スヴェルカに連れられて、買い物に行った。店先で焼きたてのパンの匂いに鼻をくすぐられながら、ネネが「これ美味しそう」と笑うたびに、私は袋をひとつ余計に(スヴェルカの財布で)買った。
図書館の書架が一般開放され、パムェトナが選んでくれた童話を、彼女の隣で静かに読んだ。
ネネは自分で声に出しながら読むのが好きだった。物語のセリフを演じるように喋り、ときどき登場人物の気持ちになって、ぽろっと泣いた。
エモシュカの劇団の公演も観に行った。演目は“鳥籠から飛び立つ娘と、見送る男の物語”……。
あの図書館での別れ際の言葉は、彼女の本音だったようだ。言葉通り、主演の演技は見事だった。
いや、主演だけではない。会場の空気を包むような役者たちの演技と、最後の一言で喉を詰まらせる脚本。終幕のあと、私は不覚にも涙ぐんでいた。
「……エモシュカさんの劇団の人たち、すごいね」
そうつぶやいたネネの声を、私は覚えている。
日々は穏やかで、温かくて、それゆえに、確かに“終わりが近い”と感じさせた。
トルハ区……スルドツェのやや北に、まだひとつだけ着手されたばかりの建物があった。
"バードギール"。
塔のように高く、ガラスと鉄骨で構成された構造体。何に使われるのか、誰も知らないまま。
――しかし私にはわかる。これは“肺”なのだ。
心臓がスルドツェ、脳が図書館、声帯が劇場、蠕動がトラム。ならば、残されたこれは……呼吸のための器官。
母体の中にいる胎児にとって、“肺”は必要のない臓器だ。けれど、外の世界で生きるには、どうしても必要になる。
この街が、夢という名の子宮であるのなら。バードギールは、ネネが“生まれるための準備”だ。だから、そこだけが最後まで残されていたのだろう。
***
――それから、二十日が経った。
街は完成した。もう建設できる空白は残っていない。東区にも歩ける道には石が敷かれ、建物には灯りが灯り、そこに暮らす住人も現れた。
いや……正確にはまだ…だ。まだ完成前に残された、たったひとつ。バードギールの最頂部“てっぺんの煉瓦一つ”だけ。
組み上がった鉄骨の塔は、街全体を見下ろせるほどに高く、最上段に、最後の“仕上げ”のための空間だけがぽっかりと開いている。
塔の下、小さな広場。エモツェたち、そしてネネと私。
「……外界との接続負荷を考えれば、なるべく早いタイミングでの完成の方が、確かに望ましい」
私はそう切り出した。言葉を選びながら、言外の意味を含めて。
「だがギリギリまで完成させなければ、この街での生活は、それだけ延ばせる。それでも……いいのか?」
空気に、少しだけ沈黙が差し込む。
「なんや、もう決めたやん」
最初に頷いたのは、インスティナだった。いつものようにスーツの襟を整え、あっさりと言う。
「……ええ」
ラスカヴァが続く。その目元はいつもどおり静かだったが、声には熱があった。
「誰かに選ばされたわけじゃない。自分たちで選んで、ここまで来た」
ルースカも腕を組みながら笑う。
「ここまで街を仕上げといて、中途半端で残したまま過ごすのも……気持ち悪いでしょ?」
エモシュカは両手を胸の前で組み、うるうるした目でネネを見つめる。
「……わたしも、ネネちゃんが“主役”の最後の劇、見届けたいです」
パムェトナは一度だけ目を閉じ、静かに言う。
「……ええ、そうね。ここからは、次の頁を開くとき。ならば、物語は完結させましょう」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。ならば、完成させよう。この街を。
***
――翌日。
バードギールの落成式は、街をあげての祭となった。
人々は集まり、スルドツェの鐘が鳴り、トラムが臨時運行し、花と紙吹雪と住人たちの声が、塔の下を彩っていた。
エモツェたちはそれぞれの正装で並び、ネネは、純白の衣に包まれていた。
街の最頂部。まだ煉瓦がひとつ欠けた場所へ、私とネネは一緒に登った。
ずっと薄曇りだった空は高くなり、雲が静かにたなびいていた。
見下ろせば、街の住人すべてが……。私とネネを見上げていた。
塔の足元から、どこまでも人の気配が広がっていた。通りの石畳にも、橋の欄干にも、家々の屋上や窓辺にも。
肩を並べる職人たち、互いに手を引くスーツ姿の女性たち。トラムは軌道の途中で停車し、劇場の扉は開け放たれたままだ。
普段は音で満ちる街が、今だけは誰ひとり、動かない。どうやって、これほどの人数が集まったのか。
――だが、それでも。この街の完成を、見ようとしない住人がいるはずがないのだ。
ここに立つネネを、見上げること。この“物語の終わり”を、自分の眼で見届けること。それはきっと、誰にとっても当然で、必要で、譲れない時間だったのだろう。
私は、手渡された小さな赤煉瓦を、ネネに預けた。
「……行こう」
ネネは頷き、両手でその煉瓦を抱いた。そして、私とともに、それを最頂部へゆっくりと載せた。
――完成した。
瞬間、街の空気が震えるような感覚があった。風が変わった。空気が変わった。
街が、“呼吸”を始めたのだ。
階段を降りようとすると、その足元に、ひとりの影が立っていた。
オルローグ。この街の終わりを告げるエモツェ。頭骨にはめ込まれた瞳代わりの懐中時計が、秒針を動かしながらこちらを見つめていた。
「……先生」
彼は、静かに頭を下げる。
「お疲れ様でした。そして……心から感謝します」
私は少しだけ眉を動かした。この街で、彼が私にそう言葉を向けたのは、これで二回目だ。
「……礼を言われるようなことは、何ひとつしていないさ」
「いいえ」
オルローグは首を横に振った。
「あなたは、“あの子が夢を終える”という選択を……支えてくれた。この街にとって、それは何よりも尊い行為でした」
その言葉に、私は黙って頷いた。
そして彼は、片手を広げる。私の手に、ネネの手の温もりがある。
だが、ここから先は……私が先に行くべきなのだ。
「……行こうか」
私は、そっと頭を撫でた。
彼女は、まだ何も言わなかった。ただ、しっかりと私の白衣の裾を握っていた片手を……少しずつ、ほどいていった。
そして私は、オルローグと共に歩き出した。バードギールを降りた広場へ……夢と現の境界へと。
――広場には、五人のエモツェたち。それと、スヴェルカがやや控えめに待っていた。
私は、歩を進めながら、一人ずつその姿を目に焼きつけていく。
インスティナが、不意に口を開いた。
「そういや……アンタの本体ちゅうのは、外にあるんやろ?」
彼女はスーツのポケットに手を突っ込み、何気ない調子で、
「……一カ月くらい、この街におったけど。大丈夫なん? 戻ったら死んどった……とかにはならんよな?」
私は少しだけ笑って、答えた。
「……ふふ、心配してくれるのか?」
「いや、さすがに『一番の立役者が、外に出たら死んでました』っちゅうオチは、なんぼなんでも後味悪いやろ」
「なるほど。確かに“感動の別れの直後に主人公のミイラ死体”では物語としても締まりが悪い。だが安心するといい。この街と外界の時間軸は一致していない。私がポータル越しに計測したところによれば……この街では、外の約六十倍の速度で時が流れていた」
そう言いながら、私は一歩だけ歩みを止め、振り返る。
「……つまり外では、まだ半日ほどしか経過していない計算だ。私にとっては、まさに“一夜の夢の街”というわけだよ」
インスティナは肩をすくめて、小さく息を吐いた。
「……ほな、ええか。……まぁ、最後に握手ぐらいしといたるわ」
そう言って片手を伸ばす。
「ほれ。こんな美人の手ぇなんか、どーせ一生握られへんやろ?」
「ふっ、否定はすまい。我が娘たちは皆、いずれ劣らぬ傾国ぞろい。うち一人は文字どおり“蛾眉”の美貌だが……私へのスキンシップは、おおむね背中へのケリだ」
「何やったらそんな追い詰められるんか、いっぺん聞きたかったけどな」
そこへ、エモシュカが勢いよく割り込んできた。
「せ、先生っ! わ、私も、わたしも……!」
「……キミの劇を覚えていられないことは、残念だ。舞台芸術にあれほど胸を打たれたのは、私にしては珍しかった」
「み、見に来てくださって……ありがとうございましたぁ!」
「加えて言えば、胸パッドの記憶も消えるのだな」
「……そ、それは……っ。あ、でもそれでも良いから、いっそ覚えていて欲しかったです……!」
エモシュカはその場で顔を覆い、堪え切れずにしゃくり上げた。
隣から、ルースカがさりげなく手を差し出す。
「……病室でのこと、覚えてるでしょ? 私の勝ち逃げだからね?」
「む……何をすれば、私の勝ちになるのかね?」
「さあ? 知らないわ」
にっと笑って、さっぱりと言い切る。
ラスカヴァは静かに立ったまま、整った指先を差し出していた。
「……あなたとネネを、最後まで私の部屋に招けなかったのは、ちょっとだけ心残りね。一応、一生懸命キレイにして待ってたのに」
「その“一生懸命”は、何日持続したのかな?」
「……3日、くらいかしら」
不意に、小さな影が駆け寄ってきた。スヴェルカだ。
「せ、せ先生っ……!」
両手(というより浮いている手)をぎゅっと胸の前で組みながら、震える声で叫ぶ。
「感謝しても仕切れません! ホントに、ホントに、ありがちょぶこ……!」
それ以上は言葉にならず、顔を伏せた。小さな瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ、顔はもうぐしゃぐしゃだ。
涙と鼻水でべたべたになった手を差し出してきたが、さすがに握手は遠慮した。
「こちらこそ……だよ、スヴェルカ。キミのおかげで、ギャグの体裁が保たれた場面は数知れない」
パムェトナが一歩前に出た。
――手に抱えていたのは、ひと束の花。
メインは"白いアネモネ"。それと、スイートピーとカスミソウ。そのなかに"深紫のアネモネ"が一輪だけ、静かに差し込まれている。
「……あなたに、住人を代表して」
私は、その花束を両手で受け取った。
「パムェトナ女史。この街にも、フロリオグラフィの文化はあるのかね?」
彼女は微笑み、すっと眼鏡を上げる。
「ええ、あるわ」
白い髪が風に揺れ、大きな螺旋角の影が地面に落ちる。
「白いアネモネの花言葉は、“真実”、そして“希望”。
それは、今のあなたに贈るにふさわしい」
私は、ふと視線を下げた。胸の奥で、何かがふっとほどける音がした。
私は、花束から紫のアネモネを引き抜き、ネネの方へと歩いた。
彼女は、手を胸に当てて見つめていた。
「ネネ。……この花は、キミに」
私は膝を折り、彼女と同じ高さに視線を合わせる。その小さな手のひらに、そっと紫のアネモネを包ませた。
「……紫色のアネモネの花言葉は、“あなたを信じて待つ”だ。……きっと、私と再び出会ってくれ」
ネネは、何も言わなかった。ただ、ぎゅっと胸の前で花を握ったまま、じっと私を見つめ返してきた。
――そして、しばらくの沈黙のあと
「せんせい……あのね?」
ネネが、すこしだけ顔を寄せた。唇に指を当てて、ひそひそ声の仕草。
私は、そっと耳を傾ける。
……すると、彼女の柔らかな唇が、私の頬にふれていた。ちいさな。けれど確かな、“内緒のキス”。
――これは伝承に語られる、“父と娘の仲良しイベント”だ。
……なるほど。これは確かに、記憶を失うには……惜しすぎる。
いや、むしろ。こんな思い出は、私には、あまりにも相応しくないのだろう。だからこそ、きっと忘れてしまう運命にあるのだ。
私は立ち上がると、最後にゆっくりと息を吐き、振り返った。
その瞬間、空気の密度が変わった。街が、白く……淡く、薄れていく。
――いや、淡く消えているのは、私の身体の方か。どうやら私は、皆より少しだけ先に、街の外に出るらしい。
波の音が……遠ざかっていく。バードギールの塔が、白い靄のなかに沈みはじめる。まるで一枚の絵が、誰かの手で静かに透かされていくように。
足元から、空気の密度が変わっていくのがわかる。エモツェたちの姿が、一人ずつ、淡く滲み、霧の中へと溶けていった。
「……じゃあ、さようなら。アナタは……元気でね」
パムェトナの声が、柔らかな気配とともに届く。
……私はその言葉に……『私たちは消えてしまうけれど』という含みを感じ取る。
ゆっくりと目を閉じる。そして、静かに口を開いた。
「……いや。
“さようなら”は、相応しくないな」
白くなっていく世界のなかで、彼女たちの輪郭は、最後までそこにあった。
「キミたちは……ネネの中で、眠るだけだ。
そして、ネネはきっと……外の世界で、私を見つけ出す」
言葉を結びながら、私はもう一度、目を閉じた。
「だから“おやすみ”。……外の世界で、また会おう」
その瞬間。風が、ふっと止んだ。
――そして、すべてが。白く、静かに、消えていった。
それはまるで、夢の終わりを告げる合図のようだった。
……ああ、確かに。これは夢だったのだ。
けれど私は、あの子と笑い合い、街を歩き、心を寄せて、そして名を贈った。
誰かに、必要とされて。何かを、この手で残せたかもしれないと、ほんの少しだけ……信じてみたくなった。
もし、この記憶のすべてが失われたとしても。この胸の奥に、たしかに何かが……。あたたかい“余白”として、残ってくれるのなら。
――それだけで、きっと充分だ。
――完……。




