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【PV公開中】『トラムの夢の街』  作者: 矢崎 那央
第六旅程『Pamětná』
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終点:『別れの花束』


 ――それから、街は止まることなく進んだ。

 

 歯車が刻む音に、ためらいはなかった。建設の槌音と、人々の呼び声が、日ごとに街の奥へ奥へと広がっていった。

 眠っていた空間が、ゆっくりと膨らんでいく。

 

 東区の風車塔から見渡すと、街のそこかしこの“見えない壁”が、まるで朝霧のように、静かに消えていっていた。

 人々の足音が、遠くの区画まで届くようになった頃。私とネネは、できるだけ多くの時間を共に過ごした。


 スヴェルカに連れられて、買い物に行った。店先で焼きたてのパンの匂いに鼻をくすぐられながら、ネネが「これ美味しそう」と笑うたびに、私は袋をひとつ余計に(スヴェルカの財布で)買った。

 図書館の書架が一般開放され、パムェトナが選んでくれた童話を、彼女の隣で静かに読んだ。

 ネネは自分で声に出しながら読むのが好きだった。物語のセリフを演じるように喋り、ときどき登場人物の気持ちになって、ぽろっと泣いた。


 エモシュカの劇団の公演も観に行った。演目は“鳥籠から飛び立つ娘と、見送る男の物語”……。

 あの図書館での別れ際の言葉は、彼女の本音だったようだ。言葉通り、主演の演技は見事だった。

 いや、主演だけではない。会場の空気を包むような役者たちの演技と、最後の一言で喉を詰まらせる脚本。終幕のあと、私は不覚にも涙ぐんでいた。


 「……エモシュカさんの劇団の人たち、すごいね」


 そうつぶやいたネネの声を、私は覚えている。


 日々は穏やかで、温かくて、それゆえに、確かに“終わりが近い”と感じさせた。


 トルハ区……スルドツェのやや北に、まだひとつだけ着手されたばかりの建物があった。

 

 "バードギール"。


 塔のように高く、ガラスと鉄骨で構成された構造体。何に使われるのか、誰も知らないまま。


 ――しかし私にはわかる。これは“肺”なのだ。

 心臓がスルドツェ、脳が図書館、声帯が劇場、蠕動がトラム。ならば、残されたこれは……呼吸のための器官。

 母体の中にいる胎児にとって、“肺”は必要のない臓器だ。けれど、外の世界で生きるには、どうしても必要になる。

 この街が、夢という名の子宮であるのなら。バードギールは、ネネが“生まれるための準備”だ。だから、そこだけが最後まで残されていたのだろう。


***


 ――それから、二十日が経った。


 街は完成した。もう建設できる空白は残っていない。東区にも歩ける道には石が敷かれ、建物には灯りが灯り、そこに暮らす住人も現れた。


 いや……正確にはまだ…だ。まだ完成前に残された、たったひとつ。バードギールの最頂部“てっぺんの煉瓦一つ”だけ。

 組み上がった鉄骨の塔は、街全体を見下ろせるほどに高く、最上段に、最後の“仕上げ”のための空間だけがぽっかりと開いている。

 

 塔の下、小さな広場。エモツェたち、そしてネネと私。


 「……外界との接続負荷を考えれば、なるべく早いタイミングでの完成の方が、確かに望ましい」


 私はそう切り出した。言葉を選びながら、言外の意味を含めて。


 「だがギリギリまで完成させなければ、この街での生活は、それだけ延ばせる。それでも……いいのか?」


 空気に、少しだけ沈黙が差し込む。


 「なんや、もう決めたやん」


 最初に頷いたのは、インスティナだった。いつものようにスーツの襟を整え、あっさりと言う。


 「……ええ」


 ラスカヴァが続く。その目元はいつもどおり静かだったが、声には熱があった。


 「誰かに選ばされたわけじゃない。自分たちで選んで、ここまで来た」


 ルースカも腕を組みながら笑う。


 「ここまで街を仕上げといて、中途半端で残したまま過ごすのも……気持ち悪いでしょ?」

 

 エモシュカは両手を胸の前で組み、うるうるした目でネネを見つめる。


 「……わたしも、ネネちゃんが“主役”の最後の劇、見届けたいです」


 パムェトナは一度だけ目を閉じ、静かに言う。


 「……ええ、そうね。ここからは、次の頁を開くとき。ならば、物語は完結させましょう」

 

 その言葉に、私はゆっくりと頷いた。ならば、完成させよう。この街を。


***


 ――翌日。


 バードギールの落成式は、街をあげての祭となった。

 人々は集まり、スルドツェの鐘が鳴り、トラムが臨時運行し、花と紙吹雪と住人たちの声が、塔の下を彩っていた。

 エモツェたちはそれぞれの正装で並び、ネネは、純白の衣に包まれていた。

 街の最頂部。まだ煉瓦がひとつ欠けた場所へ、私とネネは一緒に登った。


 ずっと薄曇りだった空は高くなり、雲が静かにたなびいていた。

 見下ろせば、街の住人すべてが……。私とネネを見上げていた。

 塔の足元から、どこまでも人の気配が広がっていた。通りの石畳にも、橋の欄干にも、家々の屋上や窓辺にも。

 肩を並べる職人たち、互いに手を引くスーツ姿の女性たち。トラムは軌道の途中で停車し、劇場の扉は開け放たれたままだ。

 普段は音で満ちる街が、今だけは誰ひとり、動かない。どうやって、これほどの人数が集まったのか。


 ――だが、それでも。この街の完成を、見ようとしない住人がいるはずがないのだ。

 ここに立つネネを、見上げること。この“物語の終わり”を、自分の眼で見届けること。それはきっと、誰にとっても当然で、必要で、譲れない時間だったのだろう。


 私は、手渡された小さな赤煉瓦を、ネネに預けた。


 「……行こう」


 ネネは頷き、両手でその煉瓦を抱いた。そして、私とともに、それを最頂部へゆっくりと載せた。



 ――完成した。


 瞬間、街の空気が震えるような感覚があった。風が変わった。空気が変わった。

 街が、“呼吸”を始めたのだ。

 階段を降りようとすると、その足元に、ひとりの影が立っていた。

 オルローグ。この街の終わりを告げるエモツェ。頭骨にはめ込まれた瞳代わりの懐中時計が、秒針を動かしながらこちらを見つめていた。


 「……先生」


 彼は、静かに頭を下げる。


 「お疲れ様でした。そして……心から感謝します」

 

 私は少しだけ眉を動かした。この街で、彼が私にそう言葉を向けたのは、これで二回目だ。


 「……礼を言われるようなことは、何ひとつしていないさ」


 「いいえ」


 オルローグは首を横に振った。


 「あなたは、“あの子が夢を終える”という選択を……支えてくれた。この街にとって、それは何よりも尊い行為でした」


 その言葉に、私は黙って頷いた。

 そして彼は、片手を広げる。私の手に、ネネの手の温もりがある。

 だが、ここから先は……私が先に行くべきなのだ。


 「……行こうか」


 私は、そっと頭を撫でた。

 彼女は、まだ何も言わなかった。ただ、しっかりと私の白衣の裾を握っていた片手を……少しずつ、ほどいていった。

 そして私は、オルローグと共に歩き出した。バードギールを降りた広場へ……夢と現の境界へと。


 ――広場には、五人のエモツェたち。それと、スヴェルカがやや控えめに待っていた。


 私は、歩を進めながら、一人ずつその姿を目に焼きつけていく。

 インスティナが、不意に口を開いた。


 「そういや……アンタの本体ちゅうのは、外にあるんやろ?」


 彼女はスーツのポケットに手を突っ込み、何気ない調子で、


 「……一カ月くらい、この街におったけど。大丈夫なん? 戻ったら死んどった……とかにはならんよな?」


 私は少しだけ笑って、答えた。


 「……ふふ、心配してくれるのか?」


 「いや、さすがに『一番の立役者が、外に出たら死んでました』っちゅうオチは、なんぼなんでも後味悪いやろ」

 

 「なるほど。確かに“感動の別れの直後に主人公のミイラ死体”では物語としても締まりが悪い。だが安心するといい。この街と外界の時間軸は一致していない。私がポータル越しに計測したところによれば……この街では、外の約六十倍の速度で時が流れていた」


 そう言いながら、私は一歩だけ歩みを止め、振り返る。


 「……つまり外では、まだ半日ほどしか経過していない計算だ。私にとっては、まさに“一夜の夢の街”というわけだよ」


 インスティナは肩をすくめて、小さく息を吐いた。


 「……ほな、ええか。……まぁ、最後に握手ぐらいしといたるわ」


 そう言って片手を伸ばす。


 「ほれ。こんな美人の手ぇなんか、どーせ一生握られへんやろ?」


 「ふっ、否定はすまい。我が娘たちは皆、いずれ劣らぬ傾国ぞろい。うち一人は文字どおり“蛾眉”の美貌だが……私へのスキンシップは、おおむね背中へのケリだ」


 「何やったらそんな追い詰められるんか、いっぺん聞きたかったけどな」


 そこへ、エモシュカが勢いよく割り込んできた。

 

 「せ、先生っ! わ、私も、わたしも……!」

 

 「……キミの劇を覚えていられないことは、残念だ。舞台芸術にあれほど胸を打たれたのは、私にしては珍しかった」


 「み、見に来てくださって……ありがとうございましたぁ!」


 「加えて言えば、胸パッドの記憶も消えるのだな」


 「……そ、それは……っ。あ、でもそれでも良いから、いっそ覚えていて欲しかったです……!」


 エモシュカはその場で顔を覆い、堪え切れずにしゃくり上げた。


 隣から、ルースカがさりげなく手を差し出す。


 「……病室でのこと、覚えてるでしょ? 私の勝ち逃げだからね?」


 「む……何をすれば、私の勝ちになるのかね?」


 「さあ? 知らないわ」


 にっと笑って、さっぱりと言い切る。


 ラスカヴァは静かに立ったまま、整った指先を差し出していた。


 「……あなたとネネを、最後まで私の部屋に招けなかったのは、ちょっとだけ心残りね。一応、一生懸命キレイにして待ってたのに」


 「その“一生懸命”は、何日持続したのかな?」

 

 「……3日、くらいかしら」


 不意に、小さな影が駆け寄ってきた。スヴェルカだ。


 「せ、せ先生っ……!」


 両手(というより浮いている手)をぎゅっと胸の前で組みながら、震える声で叫ぶ。

 

 「感謝しても仕切れません! ホントに、ホントに、ありがちょぶこ……!」


 それ以上は言葉にならず、顔を伏せた。小さな瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ、顔はもうぐしゃぐしゃだ。

 涙と鼻水でべたべたになった手を差し出してきたが、さすがに握手は遠慮した。


 「こちらこそ……だよ、スヴェルカ。キミのおかげで、ギャグの体裁が保たれた場面は数知れない」


 パムェトナが一歩前に出た。


 ――手に抱えていたのは、ひと束の花。

 メインは"白いアネモネ"。それと、スイートピーとカスミソウ。そのなかに"深紫のアネモネ"が一輪だけ、静かに差し込まれている。


 「……あなたに、住人を代表して」


 私は、その花束を両手で受け取った。

 

 「パムェトナ女史。この街にも、フロリオグラフィの文化はあるのかね?」


 彼女は微笑み、すっと眼鏡を上げる。


 「ええ、あるわ」

 

 白い髪が風に揺れ、大きな螺旋角の影が地面に落ちる。

 

 「白いアネモネの花言葉は、“真実”、そして“希望”。

それは、今のあなたに贈るにふさわしい」


 私は、ふと視線を下げた。胸の奥で、何かがふっとほどける音がした。


 私は、花束から紫のアネモネを引き抜き、ネネの方へと歩いた。

 彼女は、手を胸に当てて見つめていた。


 「ネネ。……この花は、キミに」

 

 私は膝を折り、彼女と同じ高さに視線を合わせる。その小さな手のひらに、そっと紫のアネモネを包ませた。


 「……紫色のアネモネの花言葉は、“あなたを信じて待つ”だ。……きっと、私と再び出会ってくれ」


 ネネは、何も言わなかった。ただ、ぎゅっと胸の前で花を握ったまま、じっと私を見つめ返してきた。


 ――そして、しばらくの沈黙のあと


 「せんせい……あのね?」

 

 ネネが、すこしだけ顔を寄せた。唇に指を当てて、ひそひそ声の仕草。

 私は、そっと耳を傾ける。

 ……すると、彼女の柔らかな唇が、私の頬にふれていた。ちいさな。けれど確かな、“内緒のキス”。

 ――これは伝承に語られる、“父と娘の仲良しイベント”だ。


 ……なるほど。これは確かに、記憶を失うには……惜しすぎる。

 いや、むしろ。こんな思い出は、私には、あまりにも相応しくないのだろう。だからこそ、きっと忘れてしまう運命にあるのだ。


 私は立ち上がると、最後にゆっくりと息を吐き、振り返った。

 その瞬間、空気の密度が変わった。街が、白く……淡く、薄れていく。

 ――いや、淡く消えているのは、私の身体の方か。どうやら私は、皆より少しだけ先に、街の外に出るらしい。

 波の音が……遠ざかっていく。バードギールの塔が、白い靄のなかに沈みはじめる。まるで一枚の絵が、誰かの手で静かに透かされていくように。


 足元から、空気の密度が変わっていくのがわかる。エモツェたちの姿が、一人ずつ、淡く滲み、霧の中へと溶けていった。


 「……じゃあ、さようなら。アナタは……元気でね」


 パムェトナの声が、柔らかな気配とともに届く。

 ……私はその言葉に……『私たちは消えてしまうけれど』という含みを感じ取る。

 ゆっくりと目を閉じる。そして、静かに口を開いた。

 

 「……いや。

 “さようなら”は、相応しくないな」


 白くなっていく世界のなかで、彼女たちの輪郭は、最後までそこにあった。


 「キミたちは……ネネの中で、眠るだけだ。

 そして、ネネはきっと……外の世界で、私を見つけ出す」


 言葉を結びながら、私はもう一度、目を閉じた。

 

 「だから“おやすみ”。……外の世界で、また会おう」


 その瞬間。風が、ふっと止んだ。

 ――そして、すべてが。白く、静かに、消えていった。

 それはまるで、夢の終わりを告げる合図のようだった。


 ……ああ、確かに。これは夢だったのだ。

 けれど私は、あの子と笑い合い、街を歩き、心を寄せて、そして名を贈った。


 誰かに、必要とされて。何かを、この手で残せたかもしれないと、ほんの少しだけ……信じてみたくなった。

 もし、この記憶のすべてが失われたとしても。この胸の奥に、たしかに何かが……。あたたかい“余白”として、残ってくれるのなら。


 ――それだけで、きっと充分だ。



――完……。

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