第83景:『てのひらに残る名前』
日が沈む前の、わずかな余白。会議が終わったその足で、私はスルドツェの最上階へと戻った。
いつもと変わらぬ詰所。歯車は静かに回り、盤面裏の空は、薄曇りに滲む赤で染められていた。
空の色に、何か意味を見出すのは非論理的だ。
だが、雲が光を散らしている様は、まるで記憶を薄める濾過装置のようだ。――そんなふうに思った。
少女は、詰所の椅子に腰かけたまま、静かに座っていた。
私は、斜めの位置で壁に背を預ける。目を合わせるには、今はほんの少しだけ、覚悟が足りなかった。
……真実は、すべて話した。この街のこと。誕生と終わりの因果。夢が終われば、街もまた消えるということ。
少女は、黙って聞いていた。動揺もせず、拒絶もせず。
「……ねえ、せんせい」
ぽつりと、少女の声が空気に溶けた。
私は問いかける。それは、想像以上に掠れた声だった。
「驚かないのだな。キミは……既に知っていたのかね?」
少女は首を横に振った。
「ううん。はっきりとは、知らなかった。でも……心の底では、なんとなく……ずっと、そうなんじゃないかって……思ってた気がするの」
歯車の影が、床に長く揺れている。少女の指が、その線をなぞるように揺れていた。
「せんせいは……元の世界に戻ったら、この街のこと……忘れちゃうんだよね?」
……その言葉に、私はゆっくりと目を閉じた。
「……気づいていたのか」
私は誤魔化さなかった。
その問いに、どんな言葉を返しても、いずれ同じところに辿り着くと知っていたから。
「……生身の人間の“記憶”という機能は、肉体の脳に強く依存している。今の私は、魂だけの存在だ。だから、ここで過ごした時間は……夢のようなものだよ」
「……夢、かぁ」
「目覚めてしまえば、滑り落ちる。掌にすくった水のように。気づけば、なくなっている」
少女は、少しだけ顔を伏せた。その輪郭は、淡い光の中で柔らかく歪んで見えた。
「わたしは……どうなるのかな」
「霊質躯があるキミの記憶は、消えはしない。だが、この街のすべてがキミの中に統合される」
「統合……みんなが?」
「そうだ。ここにある感情、記憶、願い。この街の構成要素そのものが、キミの一部になる。……だから、どんな姿になるかは私にもわからない」
少女は、それをすぐには受け止めきれなかった。ただ、静かに呼吸を整える。
「それに……」
私は続ける。
「その後、キミがどこに生まれ落ちるか。目を覚ましたとき、側に誰かいるのか。……それも、私には知る方法がない」
沈黙。歯車の音が、時の代わりに鼓動を刻んでいた。
「せんせいには……もう会えないの?」
「……キミが私を覚えていてくれるのなら、私を見つけてくれれば良い。それで、また会える」
「……でも、せんせいは、わたしのこと……」
その言葉に、私はようやく、彼女の正面へと歩み出る。
少女と視線が合った。彼女の目は、不安でも希望でもなく、ただ真っ直ぐだった。
「……キミが、一言だけ言ってくれればいいさ」
私は、静かに口を開く。
「“娘になりたい”と、それだけでいい。その一言を、私の父性は全力で受け止めるだろう」
――いや、"だろう"などではないな
「これは、確信ではなく確定事項だ。間違いなくな」
そう告げると、私は息を整え、わざと少しだけ声を弾ませた。
「さらに言うと……」
言葉に、いつもの調子を混ぜてみせる。
「私は、キミの新時代のツッコミに再び直面し、その鋭い着眼点と詩的表現力に、また涙を流し感動する。……私のその姿をもう一度みれるのだ。楽しみだろう?」
少女の目がわずかに笑った。そして、しばらくの沈黙。私もまた、言葉を選びかねていた。
ふと、彼女の指が膝の上で重なり、揺れた。そのささやかな動作のあと、ぽつりと、音のない声が落ちた。
「……せんせいは、どうしたらいいと思う?」
私は、目を伏せず、まっすぐに答えた。
「……それを決めるのは、キミだよ」
「……でも……」
少女の声音が、少しだけ震えた。
「わたし……決められない。だって……なにを選んでも……。
だから……だから、せんせいが決めて……?」
その言葉に、私はゆっくりと首を横に振った。
「それは……できない」
「どうして……?」
彼女の問いに、私は静かに言葉を置く。
「私が……“パパ”だからだ」
その言葉に、少女の肩が微かに揺れた。
「“パパ”というのはな、娘の物語に全力で協力する生き物だ。必要なら身骨を砕き、論文を書き、代理交渉し、出版ルートも確保する。場合によっては原案・編集・演出・監修・グッズ展開も手がける」
少女は、不意に小さく笑った。だがその目元には、揺れるものが残っている。
「だが……」
私は続ける。
「娘の物語を、“代わりに決める”ことはしない。キミのシナリオは、キミ自身で描くものだ。……今の私にできることは、せいぜい助言程度だ」
「……じゃあ、助言でもいい……」
「……そうだな」
私は、そっと少女の隣に腰を下ろす。見上げる歯車の影が、ふたりのあいだをゆっくりと滑っていった。
「人生において、“後悔しない選択”など稀だ。とくに大きな決断では、どの道を選んでも、どこかに傷は残る。……だからこそ」
私は、少女の視線にそっと触れるように、言葉を落とす。
「“後悔してもいい”と思える道を、選びたまえ。泣いても傷ついても、それでもどこかで、“選んでよかった”と思える道を」
少女の横長の瞳孔が、少しだけ揺れた。その目には、まだ名のない何かが滲んでいる。
……再びの長い沈黙のあと、私は胸の奥にしまっていた言葉を取り出す。
「……そうだ、キミは……私に名前をつけて欲しいと言っていたな」
少女が、わずかに顔を上げる。
「だから、しっかり考えてきた」
そう口にしながらも、心のどこかで自分の鼓動を感じていた。
それは不思議な感覚だった。
――私は、これまで娘たちを名付けたことがない。彼女たちは、自ら名乗る名を選んだか、あるいは他者から名前を与えられた。
LC-03、器造型。LC-10、融合型。LC-12、ENtry ERased(登録抹消済)
私が与えたのは、記号と番号。存在を分類し、管理するための“ラベル”にすぎなかった。
だが今、私は初めて“誰か”に、名前を贈ろうとしている。それは単なる識別ではなく、この少女がここに生きていたという、存在の証明。
私は、父としてこの名を贈る。それは願いであり、祈りであり、未来への切符だ。
「……ネヴィーナ・オフチェルカ(Nevina Ovčelka)」
私は、言葉をゆっくりと空気に溶かすように発音した。
「“ネヴィーナ”は——“無垢なる者”、“罪なきもの”という意味。そして、“オフチェルカ”は仔羊。……仔羊はよく迷子になる。だが、親の声を聞き分けて、ちゃんと自分で戻ってくる」
少女の髪が、静かに揺れる。その巻き毛の奥に眠る羊角と、蹄の足先が思い浮かぶ。
「キミは、誰かの夢の残響を受け継ぎながら……それでも、自分自身になろうとしている。だからこの名は、他者の記憶に導かれながらも、それでも己の脚で進もうとする……そんな願いを込めた」
少女の瞳が、わずかに潤んで揺れる。私は、言葉を繋いだ。
「……だが、少し長すぎるかもしれないな。だから、愛称は“ネネ”。どうかな?」
少女は、手のひらでそっと胸を押さえるようにしながら、小さく笑った。
「……ありがとう、せんせい」
その言葉が、私の胸を貫いた。
「わたし、今日から“ネネ”になるね……」
空が、ゆっくりと赤から灰へと変わっていく。歯車の影が、ふたりの間をまたいで伸び、そして交わるように――静かに、重なっていった。
――第84景へ……




