北部会戦 第二巻 『泥路 ― 輜重兵大隊輸送日誌』
一九四三年、オスト東方大陸北部。
第七機械化師団の補給線は、地図の上では一本の細い線だった。
参謀本部の作戦図では、鉛筆で引かれた淡い線に過ぎない。
だが実際には、それは延々と続く車列だった。
トラック、馬車、燃料車、整備車。
数百台の車両と数千人の運転兵と整備兵が作る、ひどく不格好な列。
そしてその列は、毎日どこかで壊れる。
エンジンが焼け、車軸が折れ、タイヤが裂ける。
馬匹が喘鳴し、泥濘を踏みしめながら息を荒くする。
補給線とは線ではない。
壊れながら進む生き物だ。
*
輜重兵第七輸送大隊は三個中隊で編成されていた。
第一中隊 三十七台
第二中隊 三十九台
第三中隊 三十五台
員数上は百十一台。
だがその日の稼働車両は六十四台だった。
残り四十七台。
整備中 十九台
重大故障 十一台
部品待ち 九台
泥濘放棄 八台
数字は冷静だった。
つまり、半分近くは走れない。
大隊長の佐倉少佐は輸送日誌を閉じた。
机の上には油の跡がついている。
誰かが整備用の手袋のまま触ったのだろう。
誰も気にしない。
「参謀部の要求は日量三百二十トン」
佐倉は言った。
整備長が笑った。
「紙の上ではな」
笑みは歪んでいた。
いや、オイルの染みで陰影ができ、歪んで見えただけだ。
*
軍用二・五トントラック。
仕様書ではこう書かれている。
積載量 二・五トン
整地路平均速度 時速四十キロ
燃費 リッター三キロ
だがこの北部戦線では違う。
道路は黒土。
雨が降れば粘土になる。
実際の数字はこうだ。
平均速度 二十二キロ
実積載 一・八トン
往復距離 三百八十キロ
そして最大の問題は停滞だった。
橋の前では必ず渋滞ができる。
小川を渡る仮設橋は一度に一台しか通れない。
一台が通過するのに三分。
百台通過すれば五時間。
そこに敵偵察機が来る。
兵站は目立つ。
弾薬車列は煙を上げ、泥を巻き上げ、
遠くからでも黒い帯のように見える。
輸送隊は、戦場で最も大きく、
最もゆっくり動く目標だった。
*
整備班は昼夜働いていた。
エンジン分解
キャブレター清掃
タイヤ補修
クラッチ交換
燃料ポンプ修理
整備壕には常にエンジン音が響く。
工具箱は油で黒い。
部品は慢性的に不足していた。
新品ピストンリング 十二個
必要数 四十
燃料ポンプ 残三
要求数 十一
タイヤ 残八
必要数 二十五
整備兵は壊れた車両から部品を外し、別の車両に移す。
共食い整備。
戦争では当たり前の方法だ。
整備長は言った。
「この戦争で一番働いてるのはスパナだな」
誰も笑わなかった。
整備兵の平均睡眠時間は三時間半。
指は常に油で黒く、爪の中に泥が詰まっている。
それでも彼らは車両を動かす。
トラックが一台動けば、一個小隊が撃てる。
そういう計算を、皆知っている。
*
雨が降った。
最初は細い雨だった。
二時間後、道路は変わった。
黒土は水を吸う。
粘土になる。
車輪が沈む。
最初は数センチ。
次に十センチ。
やがて車軸に届く。
アクセルを踏むほど深く沈む。
第三中隊はこの日、四台を失った。
爆発したわけではない。
ただ泥から出せなくなっただけだ。
車両は傾き、半分埋まる。
エンジンは回るが前には進まない。
牽引車両を呼べば一台は救える。
だが牽引車両は燃料を食う。
燃料は運ばなければならない。
つまり、輸送のために輸送する。
兵站の数学は、ときどき滑稽になる。
佐倉少佐は日誌に書いた。
本日の輸送達成率 六一%
泥濘停止車両 七
燃料追加消費 十二トン
*
参謀部は輸送効率を計算する。
トン数。
距離。
消費率。
だが現場にも計算がある。
例えば一台のトラックが泥に沈む。
救出には二台必要。
救出時間 三時間。
その三時間、二台は輸送できない。
結果。
その日、前線に届く弾薬は四トン減る。
四トン。
それは野砲一個中隊の一日分だ。
つまり遠くのどこかで、
砲撃が少し弱くなる。
その理由を、前線の歩兵は知らない。
*
道路脇に小さな村があった。
戦争の地図には載っていない。
木造の家が十数軒。
井戸が一つ。
住民は馬車を持っていた。
燃料はないが、馬は動く。
第三中隊長は村長と交渉した。
交換条件。
乾パン
石鹸
軍用毛布
馬車三台が補給線に加わった。
輸送量は小さい。
一台あたり五百キロ。
だが泥道では、馬はトラックより信頼できた。
馬は滑らない。
壊れない。
燃料も要らない。
ただし、餌を食う。
戦争はいつも、
違う種類の補給を要求する。
*
夜、仮設橋が崩れた。
原因は過積載。
輸送兵は規定を守らない。
守れない。
弾薬は重い。
一台でも多く運びたい。
弾薬箱を一段追加する。
それだけで二百キロ増える。
それが百台続く。
橋は沈む。
そして落ちる。
川幅は六メートル。
だが車列は止まった。
その夜の輸送は停止した。
工兵が来るまで八時間。
八時間で失われた輸送量。
約百トン。
それは師団の一日戦闘消費量の三分の一だった。
*
三日後、参謀部から命令が来た。
「全軍停止」
輸送大隊は静かだった。
驚く者はいない。
皆、知っていた。
このままでは輸送線は切れる。
トラックは壊れ、
燃料は減り、
整備兵は眠っていない。
停止命令は敗北ではない。
補給線の呼吸だ。
肺が空気を吸うための停止。
*
停止期間中、整備が進んだ。
泥に沈んでいた車両を掘り出す。
エンジンを分解する。
タイヤを修理する。
稼働車両
六十四台 → 八十一台
燃料備蓄 四日分
予備部品再配分
整備壕増設
整備兵は初めて四時間連続で眠った。
それだけで輸送能力は上がる。
人間も機械の一部だ。
ただし、交換部品はない。
*
再攻勢の日。
輸送車列は夜明け前に出発した。
空はまだ暗い。
エンジン音が低く響く。
前進距離は短い。
一日十五キロ。
だが列は途切れない。
トラック
馬車
燃料車
整備車
工兵車両
泥道の上に、細い流れができる。
それはゆっくり進む。
止まりそうになりながら、
それでも前へ行く。
それが戦争の本当の姿だった。
銃声より長く続く音。
エンジン音。
そして、スパナの音。




