第2話後編 見えなくていい過去
ノミュラスがタキアに魔法の稽古をつけた週末――から幾日か過ぎた晩に、ルティエは宿で図書館で借りた本を熟読していた。
「ただいま戻りました」
豚が大きな包みを抱えて来るのを見てルティエがテーブルから本を退かすと、空いたスペースにドサッと紙の束が乗せられる。
「過去3年分の“奴隷市場における競売の取引記録”です」
「競売……」
一番上に積まれていた冊子を開くと、購入年月日、出品者、購入者、奴隷の特徴等の情報が記されていた。
「裏奴隷取引は競売の形を取ることが多く、財務大臣自身もそこで個人的な愛玩奴隷を購入している模様です。突くとしたらその辺りかと思い、拝借してきました」
「……不愉快だな」
ルティエが露骨に嫌悪感を示したのは『個人的な愛玩奴隷』という一節だった。祖国に奴隷という概念がなかったこともあり、彼女は奴隷の所有自体に否定的な立場を取っている。
「ちなみに、直近で開催されるのは5日後のようですね」
「……」
「正規の奴隷取引と違って許可証を持たない業者や個人でも手続きさえ踏めば出品出来るので、潜入が容易そうなのは幸いですが……二度も続けて主を危険な場所へ送るのは不本意です」
「……」
「勿論、何があっても助けるので安心して下さい!」
「購入履歴、きちんと読んだ?」
主人が資料から視線を外さずにした質問に、豚は戸惑った。
「一通り目は通したつもりですが……」
「財務大臣が仕入れているのは“男の奴隷”だけだよ」
「っ!?」
言葉を失う豚に視線を移したルティエは、優しく微笑みかける。
「豚、出番だね」
「いっ……嫌ぁ〜〜ッ!! 売られるなんて嫌ですっ!」
「つべこべ言わないの」
ルティエは再び取引記録に目を落とし、凄まじい速さで財務大臣の購入履歴のみを拾っていく。その視界の外から、豚が必死に訴え続けていた。
「お忘れかも知れませんが、私、はじまりの神の血を引いてるんですよ! 神の子孫を奴隷に落とすなんて、神罰が下ります!」
「豚自身の行いで、とっくに愛想を尽かしてると思うよ、神様」
「……っ! 大体ですよ! 競りに掛けられたからと言って必ず財務大臣に競り落とされるとは限らないじゃないですか! どうするんです、私がよく知らない方のお宅で飼われることになったら!」
「……いや、豚ならイケる」
地の口調に変わった主人の力強い瞳に射抜かれ、豚は押し黙る。
「賭けても良い。もしも大臣の手に渡らなかったら、いくらだろうと私が競り落としてやる」
無論、そんな資金がどこにもないことは二人とも把握している。だからこそ“自信の表れ”として充分な言葉だった。
「私を信じろ」
「はい♡」
◇◇◇
競売が開催される日の夜更け。商会の地下にある薄暗い納品口に、ルティエとノミュラスの姿はあった。それぞれ奴隷商人風のローブと、奴隷風の簡素な服を着ており――豚に至っては手枷を装着され、すっかり出荷前のテンションに仕上がっていた。
「奴隷を出品したいのですが」
「見せてみろ」
ノミュラスの前に立った受付係の男が、ジロジロと顔を眺める。
「へぇ〜。上玉じゃねぇか。どこで拾ってきた」
「秘密です」
出どころの言えない奴隷など珍しくないので、受付係もそれ以上は問い詰めなかった。
「で、片目は何で隠してるんだ? 傷物か?」
節くれ立った指で銀色の前髪が掬われ、右目が露わになるのと同時に――受付係は目を剥く。
「こ……これは……っ! オイッ、大変だ! 急いで“あの方”に連絡しろ! とんでもないのを入荷したってな!」
慌てて詰め所にいる同僚に声を掛けた男に、ルティエは一つの確信を持って尋ねる。
「あの方とは?」
「上得意様だよ。少し待ってな。悪いようにはならねぇから」
予想以上に事が上手く運びそうな兆しに、主人と豚は目配せした。
◇
“あの方”が到着するまで、20分ほど待たされた。
「私を呼ぶからには、さぞや良い品なんだろうな」
――仮面で顔を隠しているが、間違いない。今回の標的にして、この奴隷市場の元締めである財務大臣アイザヒトだ。
「こちらです!」
示された商品――ノミュラスを見た途端に、財務大臣の声色が数トーン上がる。
「銀髪か……美しい……っ!」
「でしょう!」
受付の男が何故か得意げなのを、ルティエは真顔で眺めていた。
「瞳も緑か……悪くはないな」
「フフ……隠している方の目をご覧ください」
財務大臣が言われた通りに顔を覆う髪を避けると――
「紫っ!?」
喉から、ひゅっと短い息が漏れた。仮面越しの双眸が限界まで見開かれ、食い入るようにノミュラスの顔を覗き込む。銀色の髪に触れる手は汗ばみ、震えていた。
「何ということだ……っ! かような奇跡がこの世に存在したとは……!」
隠されていたのは、銀髪よりも珍しい――左右で違う色の虹彩だった。
旅に出ると決めてからは「銀髪ってだけでも目立つのに、こんなものを見られたら珍獣扱いで有名になってしまうじゃないですかー」という理由で隠していた部位だ。
「これは素晴らしい……素晴らしいぞ……っ!」
「でしょう!」
だから何故お前が得意げなんだ。と、ルティエは心の中でツッコんだ。
「そなた、名はあるのか?」
邪魔になったらしい仮面を外した財務大臣に問われ、ノミュラスは首を横に振る。
「言葉が話せないのか」
銀の髪を揺らしながら頷くのを見て、大臣は深く嘆息した。
「何という奇跡……。私は、こんなに美しい人間を見たことがない。奴隷などではなく、我が伴侶として迎え入れたいくらいだ!」
伴侶とは飛躍したな。とルティエは思い、豚も似たような感想を頭に浮かべていた。
――これはこの場にいる全員にとって誤算だったのだが、いわゆる“外見至上主義”の財務大臣は、どうやら本気でノミュラスに惚れ込んだらしかった。
「よしっ! 言い値で買う! 共に屋敷に帰ろう!」
「……っ!」
グイッと手を引かれ、ノミュラスは全力で抵抗する素振りを見せる。
「〜〜っ!!」
「なっ、何だ!?」
「失礼します」
ルティエが家畜を宥めるように背を擦ると――豚は落ち着きを取り戻した。
「ご覧の通り、私なしでは暴れるので、引き渡し先までお供します。受領の確認もその時に」
◇◇◇
屋敷に向かう馬車に乗せられている間、ノミュラスは懸命に話し掛けてくる財務大臣に対し、首を縦横に振ったり傾げたりと忙しくしていた。
彼は後に「首がその場で筋肉痛になりました」と述懐している。
一方、ルティエは車両の外で運転手の横に座らされていた。街の灯りが後方へと流れ、狭い空には明るい星だけが浮かぶ。
馬車が夜風を切る感覚――それを心地良く思ったところで、取引書類が入った鞄を掴んでいた指先が、ぴくりと止まった。
「……」
ルティエは、視界が塞がるほどフードを深く被った。
◇◇◇
馬車は、貴族の邸宅が立ち並ぶ一帯でも一際目立つ豪邸の敷地に入り、建物の前まで付けた。
そのまま招かれた豪奢な屋敷の中では、財務大臣の“私的な愛玩奴隷たち”がずらりと整列して主人を出迎えた。王都では見掛けない色の髪や瞳――豚なら財務大臣の目に止まると確信した理由が、嫌というほど並んでいた。「お帰りなさいませ、旦那様」という抑揚のない声も、光のない瞳も、屈辱的な装いも、そこに心が存在しない証左だった。
ルティエは競売の取引記録から、財務大臣の購入した“商品”の“仕入れ先”を把握している。どれもここ10年の間に占領された地域だった。
――何の罪もない人間が、精神を蝕む魔法を掛けられて、尊厳を奪われている。
腹の底から込み上げる冷たい怒りを、ルティエは奥歯を噛んで押し戻した。
俯いて口元を覆う仕草は、傍目には豪奢さに気圧された田舎者のものに見えただろうが、それで構わなかった。
「……」
ノミュラスも何か思うところがあったのか、少しだけ眉をひそめていた。
◇
天蓋付きの大きなベッドのある部屋に案内されると、ノミュラスはベッドの上に座るよう促された。ルティエは適当に入口近くの机の前に控えてその様子を見守る。
「はぁ……まるで芸術品だ……」
隣に来た財務大臣から熱視線を送られ、ノミュラスが曖昧に微笑んだ――のを何かしらの合意と受け取ったのか、唐突に口付けがなされた。
「……っ!」
「すまない。驚いたか? あまりにも美しくてつい……」
事が始まりかねない雰囲気の中、ルティエは己の存在を示すため咳払いをする。
「ああ、もう帰って良いぞ。あとは何とかする」
「受領のサインを頂けますか?」
財務大臣は若干苛立った様子で書類の置かれた机へと歩き、サラサラと署名した。
「ほら、これで良いだろう」
「――確かに承りました」
「では帰ってくれ…………うっ!?」
サインをした直後、紙面を走ったインクがジリッと焼け焦げるような音を立てて怪しく発光した。
「な、何だ…!?」
身体から力が抜け、バランスを崩した大臣がたまらず手を付いた机上の書面――それは受領書などではない。ノミュラス制作の強力な魔法道具であった。
「名前って、単純なのにとんでもなく強力な制約を生み出せるんですよねー。駄目ですよ、中身も読まずに契約書にサインしたりしたら。学校で習いませんでしたか? 巧妙に偽装はしておきましたから、読んでも判別出来なかったでしょうけど」
外した手枷をガコンとベッドの下に落としながら、ノミュラスはくどくど言った。
「……っ!? 言葉が……」
「話せます。すみませんね、主が喋らない方が良いと助言してくださったので」
「豚は口を開くと浅ましさが滲み出るからな」と、彼をよく理解する主人は言う。
「そなた、ただの商人ではないな……私に何をした……っ」
奴隷商人風のローブを脱いだルティエは、財務大臣に冷たい視線を送る。
「魔法を封じさせて貰った。貴殿の職業柄、精神魔法に長けているのは予想が付いたからな」
「人の口に戸って立てられないんですよねぇ」
「……っ」
財務大臣は動揺のあまり、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
――財を成すまでには、本来なら奴隷の身に落ちる筈のない人間を自身の魔法を使って売り飛ばしてきた。しかし、それは当然公にしたことのない過去だ。もちろん、古い知己には知られているが、それはお互いに弱みを握り合った……ある意味信頼の置ける関係で……。
それに、購入を即決したくなるほど好みの奴隷を用意しての潜入……ここまで自分の人物像を調べ上げるとは、これが相当に練られた計画であることは間違いなかった。
「何が目的で、こんな手の込んだ真似を……」
「欲しい物がある」
「……金だな」
国一番の富豪でもある財務大臣は、自身最大の武器を“資金力”だと理解している。故に簡単にその結論を導き出した。
「ああ」と肯定したルティエは「金は金だが」と頭の中で前置きしてから言う。
「この国の全ての財源を」
「なっ!?」
想像よりも規模の大きい回答に、財務大臣は目を丸くした。
「ば、馬鹿じゃないのか! 私の権限で出来るのは、予算を振り分けるだけ……」
そこで真意に気付き、更なる驚愕の表情でルティエを見る。
「そういうことだ。貴殿の持つ権能が欲しい」
「ばっ……馬鹿げている。狙いは知らぬが、従うつもりはない!」
顔を赤くしてそっぽを向く財務大臣の――ベッドに控えるノミュラスに遣る目が「美しい……」と雄弁に語っていたのを、ルティエは見逃さなかった。
「貴殿はその奴隷が欲しくないのか?」
「……っ」
「それは私の豚でな。貴殿が条件を飲むというのなら交わらせてやっても良い」
――交わる。
財務大臣は生唾を飲み込み、頭の中の天秤を揺らす。
不遜な口振り。用意周到さ。魔法道具を作り上げる力量。
例え交渉に失敗したとしても、この屋敷から無事に逃げ果せる算段があるのだろう。
女の言う通り、彼を自分の物にしたいが――ここで去られてしまってはその前提にも立てない。だとすれば彼との関係を繋ぎ止めるのは悪くない手なのだろう。
だが……自分は王国の財務大臣である。立場を利用し私腹を肥やしてきたことは否定しないが、平民と大差ない下級貴族の身でここまで成り上がった矜持と、その手腕を見込んで任命してくれた王への恩義もあった。
「どうだ?」
「ぐっ……そんな条件は飲めない!」
「それは残念だ。――豚、帰るぞ」
「まっ、待て……っ」
ドアに向かうルティエの背に投げ掛けられた制止の言葉。頭より先に口が動いていたらしい財務大臣は、振り向いたルティエから目を逸らして口籠る。
「いや、だが……しかし……」
そんな財務大臣の煮え切らない態度を、ノミュラスはベッドから黙って見つめていた。
「アイザヒト様ぁ」
鼓膜を撫でるような甘ったるい声で姓を呼ばれた財務大臣は、ハッとして声の主を見た。
「お試しに、一度だけでもどうです? 自分で言うのも何ですが、なかなか具合が良いんですよ」
ノミュラスはシーツの上で身を捩りながら、上目遣いで蠱惑的な笑みを深めた。長い睫毛から覗く二色の瞳と、銀髪が擦れる微かな音が、大臣の理性を侵食していく。
「私とシて、その後でどうするか決めましょうよ」
唇から吐息と共に零れるノミュラスの言葉に、財務大臣はごくりと喉を鳴らす。
「……い……良いのか?」
「良いですよねぇ? 主ぃ」
「良いだろう」
「あ……あ、ありがとう」
アイザヒトは加害者であるはずの少女に礼を言う。理性は完全に決壊していた。下級貴族からの成り上がりの矜持も、王への恩義も、この圧倒的な美の暴力を前にしては価値がない。
「良かったですねぇ♡」
完全に二人のペースへ飲み込まれた財務大臣は、獣のように息を荒くして自らの服を乱暴に脱ぎ捨て始めた。
♡♡♡
どれほどの時間が過ぎただろうか。
ベッドの上では、初めての体験にすっかり夢中になった財務大臣が、惚けた顔で荒い息を吐いていた。その傍らで、ルティエは早々に興味を失い、持参した図書館の本へ視線を落としている。標的と豚が事に及ぶのを肴に読書をするという、字面だけは退屈極まりない時間が流れていた。
(……頃合いですかね)
ノミュラスは、まだ名残惜しそうな財務大臣に向かって妖艶に囁く。
「アイザヒト様ぁ」
「何だっ?」
「私たち……相性、良いですよねぇ?」
「ああっ! そうだなっ!」
「なのに……これっきりで、お別れなんですねぇ……」
二度とこの人間と関われない。そう思った途端、財務大臣の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「あ、あ……嫌だっ!」
「主」と、豚が吐息混じりに水を向ける。後を引き継いだルティエは、本から顔も上げずに問うた。
「貴殿も私の豚になるか? そうすれば豚同士、好きなだけ交尾させてやれるが」
「好きなだけ…っ?」
縋るような目を向けてくる財務大臣へ、ノミュラスがダメ押しとばかりに甘く煽る。
「豚に……なるんですかぁ?」
「――なる……豚になるからっ、交尾させてくれぇっ♡」
――『思考拘束』
これ以上ないタイミングで発動された魔法に応じ、部屋の隅々から赤い光が急速に集まって――財務大臣の身体を包んだ後、四方へ弾け飛ぶ。
「素晴らしい。平和的解決というヤツだな」
紙吹雪のごとく光の粒が舞う中。痛めつけることなく服従魔法を成立させたルティエは、大いに満足していた。目の前の新しい豚も、心身を満たす喜びに任せて無邪気に声を弾ませる。
「やったぁ♡ 交尾、交尾ぃっ♡」
「おめでとうございます♡」
◇◇◇
後始末が終わり――椅子に腰掛けたルティエは、足を組んで肘置きを使い頬杖をついた。
「お前に与える大きな指令は2つだ」
ルティエの足元に恭しく跪いた財務大臣は、主人の言葉の一つ一つに「はい」と返していく。
「まず財務大臣としてだが、急ぎ侵略に関連する予算を減らせ。外務省と軍部はやり過ぎるくらいで良い。……それと奴隷商として、奴隷取引を全面禁止する――のは無理だろうから、とりあえず裏取引の規模を限界まで縮小しろ」
「承知致しました」
奴隷取引の件を事前に聞かされていなかったノミュラスは、少し驚きつつも「主らしいな」などと思っていた。
ルティエは引き続き計画の支障にならないよう、いくつかの細かい命令を下す。
「と――命ずるのはこれくらいだが、いくつか質問がある」
「何でございましょう」
「予算の割り振りを変えることに、内務大臣は口を出すと思うか?」
主人の突拍子もない質問を当然のように受け入れたのは、財務大臣自身も“その名前”が出ても不思議に思わないだけの違和感を、日頃から覚えていたからだった。
「いいえ、何もしないと思います。あくまで王の名代を務めているだけといった様子で、あの方自身の思惑を感じたことはございません」
「そうか」
予想通りとも言える回答に、ルティエは頭を押さえて今後を案じる。
――内務大臣。王の縁戚で事実上の最高権力者。
ルティエの見立てでは、計画を実行するにあたり『最も警戒すべき人物』だ。
というのも――武力に頼らず国を落とすと決めた日から、ルティエは各閣僚の情報を集め続けてきた。
王国の土を踏まないと決めていた以上、不足する情報は分析と推測で補うしかない。
気の遠くなるような検証の末、彼女の仮説はほとんど情報と変わらない精度に達していた。
各閣僚の人格に限れば、本人以上に理解している自信さえある。
(……なのに)
――どんな人間にも基本的な行動原理があり、必ず読み取れる。だが、内務大臣からは“それ”が全く読み取れない。王と違い表に出て活動しているにも関わらず、だ。
内務大臣ことホージュ・シュラナムは内務省に入省後、異例の速度で副大臣、大臣に就任している。ルティエの能力を以てすれば、その特殊な経歴から人格を読み取ることは容易に思われた。しかし、情報が統制されている訳でも改竄されている訳でもないのに、何をどう調べても――今、財務大臣が言ったように『王の代わりに政を執り行っているだけ』という印象しか残らなかった。
――古今東西様々な権力者を調べてきたからこそ、権力を得ながらも王に成り代わろうという意思が微塵も感じられない内務大臣が、誰よりも不気味で仕方がない。
(財務大臣程度の付き合いじゃ不足か。もっと内側から探る必要があるな……)
ルティエは内務大臣のことを一先ず置いておくことにした。
「王には会ったことがあるか?」
「いいえ。私が任命された時には既にお体の具合が優れぬとのことで、内務大臣が全ての手続きを代理で行っておりました」
「2年半前か。すると内務大臣の他は着任順……外務大臣は会ったことがあるかも知れないな」
「はい」
――休み明けはクズ豚を問い質そう。と考えたところで、先日気にしていた“服従魔法の効果範囲”のことを思い出す。
「そうだ。明後日の朝イチで外務大臣に会って“私の豚になった件”を報告して来い。奴の反応が知りたい」
「外務大臣……ですか」
魔法を使って堕としたにも関わらず渋るような素振りを見せたので、ルティエは意外に思って聞く。
「何か問題でもあるのか?」
「あの方、私が高貴な身分じゃないからと言ってコケにしてくるので嫌いなんです」
外務大臣ガディールの過去の振る舞いを思い浮かべた財務大臣は、プイッとそっぽを向いた。
――クズ豚は同じ大臣同士でも上だ下だとやっているのか、始末に負えないな。と呆れるルティエは、足を大きく組み直す動作で自分への注目を促す。
「気持ちは分かるが命令だ。行って来い」
「承知致しました」
「他に何か聞いた方が良いことはあるか?」という問いに対し、豚が首を小さく横に振るのを確認してから、ルティエは新しい豚に最後の命令を下す。
「――帰る。馬車を出せ」
「早急にご用意させて頂きます」
そう言ってパッと立ち上がった財務大臣が――ピタリと止まり、モジモジと身体を揺すり始めた。
「あの、ご主人様。お願いがございます」
「何だ。言ってみろ」
命令より自身の欲求を優先するとは魔法が不完全だったのだろうか――と一抹の不安を覚えるルティエをよそに、財務大臣は何故かノミュラスの方へ向き直って口を開く。
「そなたの名を……教えて貰えないだろうか」
「私はただの豚です」
思うような答えを得られなかった大臣は、しょんぼりと通信魔法装置のところへ歩き出した。
◇◇◇
馬車の準備が完了すると言われた時間よりもずっと早く、二人は屋敷の外に出ていた。
財務大臣から「お飲み物を召し上がってお待ち下さい」と申し出があったが、奴隷に給仕させるつもりなのを察知したルティエが断った――という経緯がある。
「……この屋敷の奴隷は、解放出来ないだろうか」
星のなくなった空を見上げる主に尋ねられ、ノミュラスは答える。
「確認出来た分ですと、全員、完全に精神を壊されていましたね。アレでは普通の生活には戻れないでしょう」
それから「一度壊れた精神は元には戻りませんから」と、呟くように付け加えた。
「……なら仕方ないな。財務大臣が掛けた魔法で――か?」
「そうかも知れませんし、違うかも知れません。何にせよ、人を人と思わない酷い魔法です」
「……」
ルティエは何年か前、元の自国民が奴隷として使われているのを目の当たりにして取り乱したことがある。当時を彷彿させる主の雰囲気に――ノミュラスは『主人の精神の安定』を第一に考えて言葉を選ぶ。
「――主。人間の技術って日進月歩なんです。だから、壊れた精神を明日にでも治せるようになる可能性だってあります。彼らにも希望は残っているんですよ」
「極論すぎる」と、ルティエは少しだけ笑った。
「少し大袈裟かもしれませんが、真理です。身体が壊れようが精神が壊れようが、生きていることには変わりないんですから。――生きてさえいれば、どうとでもなります」
「……便利な慰めの言葉だな。覚えておこう」
「そうしてください」
豚の話を聞いて幾らか調子を取り戻したルティエは、腕を組み屋敷の外壁にもたれ掛かった。
「話は変わるが、色ボケ■■豚……色豚はクズ豚と違って私の前でも正気を保っていたな」
「色ボケ■■……財務大臣のことですか」
自分がオリジナルの豚なのは喜ばしいが、あんまりな差別化だな。と豚は思った。
「原因は何だ?」
「堕ちた時の精神状態と、魔法抵抗力の関係でしょうね。実用には問題ないと思いますが、他の方でも差が生じるかも知れません」
他――残りは3省と軍部。まだ折り返し地点にも到達していない。
「なるほど……何にせよ、穏便に堕とせて良かったよ。痛めつけるのは心が痛むからな」
敢えて心にもなさそうな調子で言う主人には触れず、豚は目を細めて外壁に背を預ける。
「競りを挟まずに懐に入れたのは良かったですねぇ」
「豚にいくらの値がつくのか見てみたかった気もするな」
「国が傾きますよ♡」
隣から飛んできた冗談を鼻で笑った後、間を置いてルティエは言う。
「今回は豚の力で籠絡したようなものだった。特別な褒美をやらないとな」
「わぁ、楽しみですぅ♡」と口元を緩ませた豚は、何かに気付いて慌てて言い直す。
「いえ……私を“立派な豚”に育ててくださった、主のお力です」
「出会った時から、これ以上ないくらい立派な豚だっただろう」
◇
時間になり、屋敷の前まで来た馬車に二人は乗り込む。車輪が回り始めた直後に「他人の前では我々との関係性を悟られないようにしろ」と事前に命令されていた財務大臣が、ひっそりと見送りに来た。
「あそこまで懐かれると可愛く思えてきますね」
名残惜しそうに熱視線を送ってくる大臣に向け、豚はひらひらと手を振っている。その横顔に、ルティエは茶化すように言った。
「豚も“アイザヒト様”に惚れたんじゃないのか?」
「あ、それはないです。私、男性にも興味がないので」
先程までの痴態を思い浮かべたルティエが忌々しげに「この淫売め……」と漏らすのを聞いて、ノミュラスは今まで隠していた一面を曝け出した、今日の選択は完璧だったと自賛した。
「あの、すみません。主、もう一度大きな声で……」
「……奴には魔法、使わなくても良かったのかもな」
屋敷の方向に目を遣る主人の後ろ向きな言葉に、豚は表情を改めた。
「何を仰るんですか。使った方が良いに決まっています。裏切る可能性――潰せる不確定要素は片っ端から潰すべきです」
「豚は精神魔法が嫌いだろう。それでも勧めるのか?」
不得手だ何だと言い訳するが、豚が精神魔法の使用自体を好まないことをルティエは知っていた。
だからこそ、自分のために服従魔法を作り――精神魔法を使って諜報活動を行う豚の忠誠に、疑う余地がないことも。
「嫌い……というのは少し違いますね。私の魔力だと、針に糸を通すよりも繊細な操作をしないと精神を壊してしまうんですよ。剣先で赤子を撫でるようなものです」
「つまり、神経が磨り減るんです」と締めた豚に「違わないじゃないか」と言うのをやめて、ルティエは代わりに意義のある言葉を放つ。
「壊したことがあるような口振りだな」
「“想定”ですよ」
そう言ってノミュラスは外を眺める。明かりがまばらな街道の風景は、ほとんど黒一色だった。
――恐らく、苦い思い出があるのだろう。
ルティエは、自発的に豚の過去を聞いたことが殆どない。興味もなければ知る必要もないと思っていたからだ。
けれど、王都に来て雪山とは違う一面を何度も目にする内に、好奇心が芽生えていた。
「……私は豚のことをペットか家畜だと思っている」
「はい。合っていますよ」
「だから……豚にも人生があったということを失念していた」
「……どうしたんですか、急に」
不穏な気配を感じ、ノミュラスは真顔になって主と目を合わせる。
「少しくらい道具に興味を持ってみても良いのかと思ってな」
「えー……やめてくださいよ。主らしくもない。10年間まったく気にしてなかったのに、ここに来て気にしますぅ?」
「何だ、話せないような過去でもあるのか?」
「そりゃ長く生きていたら色々とありますよ」
――てっきり有無をはぐらかすかと思ったら、有ることは認めた。
「なら」とルティエの口が動くより先に、ノミュラスは話を続ける。
「けれど、それらは主の復讐には関係のないことですし、知ったところで何の意味もありません。大体、役に立つならとっくの昔に話しています」
「役に立つ立たない以外の価値観を養いたいという話なんだがな」
言葉にしてから、ルティエは気付く。
――今思うと、自分の価値観は豚によって育まれたもので、豚の過去に関しても興味を持たないように誘導されていたのかもしれない。
「……気に食わないな」
「えー……じゃあ私が今までに酒で失敗した話でも聞きますぅ?」
豚があまりにも呑気に言うので、毒気を抜かれたルティエは話を取り合ってやることにした。
「どれくらい掛かる」
「通しで17時間くらいですかね」
豚が話し始めようとするのを「いや、いい」と言って止め――今度はルティエが窓から暗闇を見つめる。
――豚の言いたいことも分かる。過去……内面を深く知るのは良いことばかりではない。知らない方が上手くやれる状況の方が多いだろう。
ならば豚の「話すつもりはない」という意思を尊重することは、利益に繋がる。
「……悪かったな、豚。さっきまでの話は忘れろ。気の迷いだった」
空が白むまでには時間があるが、月にかかった雲が風に流されて消え、差し込んだ淡い光が車内に濃い影を落とす。
「――主は今と未来だけ見ていれば良いんですよ」
その言葉を最後に、車内には再び心地よい静寂が訪れた。ルティエは小さく息を吐き、静かに目を閉じる。
やがて馬車が大きな十字路を曲がり、王宮を背に宿へ向かう大通りへと消えていった。




